第4話 西暦2029年11月1日午前7時30分


 俺はコーヒーを買ってコンビニを出た。

 11月1日。

 俺が藤森高校でキャプテンに就任した日。

 内定ゼロの状態が続いているから、なおのこと憂鬱さは募る。最悪な記念日だ。

「もう、やり直せないんだよ」

 つぶやいて、コーヒーをあおるように飲む。

 熱いコーヒーに、舌をやけどしそうになった。俺はコーヒーを吐き出しそうになるのをかろうじてこたえる。

 そして、赤信号の交差点で俺は足を止めた。

 さっきのコンビニで少しぼんやりしてしまった。電車は大丈夫だろうか、と俺は鞄をいったん地面に置き、中からスマホを取り出す。

 ――2029年11月1日午前7時30分

 よかった。思ったよりも時間はたっていなかった。

 俺はそのまま、スマホを鞄にしまう。

「……コーヒー、いいにおい。おっとなの香り、ふんふんふ~ん」

 声が聞こえた。見ると、俺の隣にランドセルを背負った女の子がいた。前を見たままうっとりと目を細め、楽しそうにかかとを上げ下げしている。

 ――ひとりごと、か。

 背は、俺の腹くらい。長い髪をツインテールにしている。

 そして、近かった。手を伸ばしたら触れられるくらい。

 無防備に近づいてきた、不思議な子。

 だが俺は気にしないことにする。

 信号が変わった。

 隣にいた女の子は、軽い足取りで走り出す。

「おーい、おはよー」

 女の子は手を大きく上げた。ちょうど横断歩道の向こうには、小学生のグループが歩いている。友達、らしい。

 だが俺は、こちらに左折してくるトラックを見ていた。子供が横断しているのに、止まろうとする気配がない。よく見ると、運転手は片手でスマホをいじっていた。

 これ、やばい。

 俺はコーヒーと鞄を放り投げて走り出していた。

 5年前に負傷した右膝が痛い。だが構っていられない。

 俺はそのまま、女の子を抱えた。路面を蹴って前に跳ぶ。

 靴の裏を、トラックのどこかの部分がかすめた。

 俺は路面に倒れ込む。

「いつつ……大丈夫か? 痛いところはない?」

 背中を打ちつけたし、負荷をかけた右膝はもっと痛むが、大事なのは女の子が無事かどうかだ。

「う、うん。ちょっとびっくりしてもうたけど、大丈夫や」

 関西弁なのは、大阪あたりから引っ越してきたからだろうか。

 俺は女の子を放す。

 女の子は立ち上がると、ぱんぱんと自分の服をはたいた。そして、くるりと俺のほうを振り返る。

 女の子の笑顔が俺に向けられた。

「助けてくれて、どうもありがとう」

 ぺこりと頭を下げてくる。ツインテールがひらりと揺れた。

「ああ。道路を渡るときは車が来ないかよく見ないと」

「えへへ、私、おっちょこちょいやから」

 はにかんでいる。初対面の俺に、まったく怖がる様子もない。

「でも怪我とかなくてよかった」

 俺も言いながら立ち上がる。右膝がずきずき痛むが、我慢した。

 とりあえず、放り投げた鞄とコーヒーカップを回収しないと。

 路上にコーヒーをぶちまけてしまったが、どう処理しよう。他の通行人にかかったりしていないだろうか……。

「きよぴーって、やっぱりかっこいいんやね」

「えっ……?」

 女の子から発せられた言葉に、俺は思わず食いついた。

 きよぴー、それは、藤森高校男子バスケ部での俺のあだ名だ。清隆と俺のポジションであったポイントガード(PG)のPからきよぴー。監督からもたまにそう呼ばれた。

 なんで、この子がその名を知っている?

 俺は改めて、女の子の顔を見つめる。やっぱり知らない子だ。親戚にも知り合いにも、こんな子はいない。

 この女の子がきよぴーと呼ぶ知り合いに、たまたま俺がそっくりで、人違いしているとか……?

「本当にすごいんやねー。右膝怪我したなんて、嘘みたいや」

「は?」

「京都から逃げ出して、こんなところでぼんやり過ごしてきたんやね、きよぴーは」

「……お前、何だよ」

 不気味さが極まって、子供相手なのに声が低くなった。

 この女の子は、俺の右膝の怪我のことを知っている。

 俺が京都にいたことまで。

「なんで、俺のことを知っている?」

「ずーっと、後悔してきたんやろ、5年前のこと」

 女の子は問いに答えず、口角を上げる。

「だからなんで俺のことを知っているんだよ」

「さあ、なんでやろね」

 女の子はとぼけてみせる。そして、両手を後ろにまわして、にこっと笑ってきた。

「でも私、きよぴーと会いたかったんや。話しかけるタイミング、見分けるの難しかったー」

 俺と会いたかった?

「俺に近づいて、何のつもりだ?」

「お願いをかなえてあげようと思って」

「お願い、だと?」

「河北友と、本当はもう一度試合したかったんやろ」

 今度はその小さな口から、俺がライバル視していた男の名前が出た。

 動揺する俺をよそに、女の子は勝手にしゃべり続ける。

「だからきよぴーには、今から5年前に行ってもらうよ」

「5年前、だと?」

 藤森高校男子バスケ部キャプテンに就任し、打倒河北友を掲げて粋がって、くだらない地獄を見たあの日々に?

「うん。めーわくかもしれないけど、いいでしょ。そんな後悔しっぱなしになるくらいなら」

 小さい手を出して、俺の片手を掴む。

「おい、わけのわからないことを言うなよ」

「もー、きよぴーって、ゆーずうきかないの?」

 女の子は口を尖らせて、そして握っている俺の手を引っ張ってきた。

「ねえ、やり直してみせてよ」

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