第20話 事故

 旅館を後にした雪緒は着物の女の助言の通りに臍の緒を探す。


 臍の緒と言うくらいだから、きっと抱いている赤子から伸びているだろうと思い、よく目を凝らして見やる。そうすれば、確かに薄っすらと肉感的な長い紐が見える。


 それは物体を貫通して伸びており、真っ直ぐにキヨへの道を示してくれる。


 ただ、本当に真っ直ぐなので道は自分で選ばなければいけない。キヨまで辿り着くには数多くの異形と遭遇する事になるだろう。現に、旅館から出て直ぐの道にもわんさかと異形が存在している。


 キヨの元へ向かうのであれば遭遇は避けられない。だが、馬鹿正直に全部相手をする必要も無い。


 キヨが何処に居るのか分からない。けれど、辿り着くまで全速力で駆け続ける。


「よし」


 一つ気合を入れ、雪緒は駈け出す。


 道中、雪緒は異形の蔓延る道を選ばなければいけなかったり、不意を突かれて異形に襲われたりもした。


 その都度、仄から借りた短剣で迎撃をしたり、魔の手から逃れるように身を翻した。


 異形に吹き飛ばされて地面を転がり、身体中無様に打ち付けながらも、即座に身体を起こして走りだした。


 正直言えば、やはり異形は恐ろしかった。


 目に見えた明確な脅威。雪緒を殺す事の出来る存在。そんな存在達が闊歩する中を走るなど、正気の沙汰では無い。


 脚を止めなかったのは、怖かったからだ。脚を止めてしまえば自分は直ぐにでも殺されてしまう。そんな簡単な事が分からない程、現実を見ていない訳では無い。


 それでも、雪緒は進まなくてはいけない。痛くたって、怖くたって、進まなければいけないのだ。それ以外に道は無い。


 そうして走り続けて、何度も死ぬかもしれないと思って、何度も道を間違えながらも、ようやく雪緒は目的地だと思しき場所に辿り着いた。


「はぁ、はぁ……っ。なんだ、これ……っ」


 息を切らしながら、交差点の中央に屹立する肉塊を見やる。


「来ちゃったのね、雪緒くん」


 雪緒が荒れた息を整えていると、肉塊の向こうからキヨが姿を現す。


 キヨは雪緒の持つ風呂敷を見て顔を顰める。赤子が母を分かるように、母であるキヨもまた風呂敷の中に赤子が居る事を即座に理解したのだ。


「どうして来たの?」


 淡々としたキヨの問いに、雪緒は無理矢理に呼吸を整えて答える。


「この子を返しに。それと、雛ちゃんを返して貰いに」


「いらないわ、そんな子。それに、この子は渡さないわ。私の子供は、この子だけだもの」


 言って、肉塊に頬を寄せるキヨ。


 最初、キヨが何を言っているのか理解できなかった。けれど、徐々に言葉の意味を理解すれば、困惑は驚愕へと変貌する。


「この子って……まさか……」


「ええ。この中に、あの子が居るの。もうすぐ産まれるわ。丈夫で強い、私の子供」


 嬉しそうに微笑むキヨ。


 対照的に、雪緒の顔からは血の気が引いていた。


 助けようとした子供が訳の分からない肉塊の中に居ると言うのだ。もう直ぐ生まれると言っても、真っ当な存在として産まれ直す訳では無い事は火を見るよりも明らかだ。


 焦燥や使命感、覚悟といった雪緒を突き動かしていた感情の全てが喪失へと変わる。


 身体中から力が抜け、その場に膝を突く。


「そんな……」


 喪失感に打ちのめされる雪緒を、キヨは哀れみの目で見やる。


「雪緒くんがそんなに落ち込む事は無いわよ。雪緒くんが来た時点で、この子はもう手遅れだったもの」


 さすりと肉塊を優しく撫でる。それはまるで、自身のお腹に宿る子を撫でるような優しさ。


「雪緒くんは黄泉戸喫よもつへぐいって知ってる? 黄泉の国の穢れた食べ物を口にすると、現世には帰れないの。此処に来たと言う事は、このきさらぎ駅の事も聞いたのでしょう? そう、此処は黄泉路にある産女わたしを主軸とした異界擬き。それでも、黄泉は黄泉だからね。この場所の食べ物を口にすれば、もう元には戻れない」


 あの時、雪緒が雛と出会った時には雛は駄菓子屋のお菓子を口にしていた。いや、きっとそれ以前から口にしていたのだろう。だからこそ、多腕という異形化が起こっていたのだ。


 何も知らない子供がこんなところに一人で放り込まれて、空腹を我慢できる訳が無い。黄泉戸喫なんて知りもしないだろう。きっと、大人でも同じ事になる。


 いや、同じ事になったのだろう。


「じゃあ、この世界に居る異形は……」


「元は人間。黄泉戸喫で異形化してしまったのよ」


 雪緒に襲い掛かって来た異形達は全て、このきさらぎ駅に紛れ込んだ人間達の成れの果てだった。


 異形達がキヨの言う事を聞くのは、キヨがこの世界の支配者であり、キヨから力を分け与えられたからに他ならない。


 元とは言え人間を斬り付けて此処までやって来た事実に、雪緒はどうしようもない罪悪感を覚える。


「どうして……どうして、こんな事」


「どうして、か……うん、雪緒くんには話してあげるね。この場所、この交差点。此処で起こった悲劇を」


 そう言ったキヨの視線の先には、追突したであろう全面の潰れた自動車と、追突されたであろう側面のひしゃげた自動車が在った。


「当時、その子を身籠っててね。この先の病院に定期検診に行く最中だったわ。速度を出し過ぎた車と衝突。運悪く、私は直撃だったわ」


 昔の車であれば最高速度は高が知れている。けれど、事故に対応した造りをしていない車で事故を起こせば、その被害は甚大だろう。


「直ぐに病院に運ばれて私は一命をとりとめたけど、お腹のその子は助からなかったわ。その時に、私は子供を産めない身体になった。昔はね、跡取りとかとても重要だったのよ。私の旅館もそこそこ長い歴史が在ったから、跡取りを重要視されたわ」


 子を残せない女に価値は無い。そういう時代だった。


「そこからは全部駄目だったわ。私に居場所なんて無かった。だから……」


 その先をキヨは言わなかった。言わなくても雪緒には分かった。


「だから、今度こそちゃんと産むの。健やかで丈夫な子を。何が何でも、絶対に」


 しっかりとした目で、キヨは雪緒を見据える。


 もうすでに覚悟を決めた者の目。


 雪緒は間に合わなかった。雪緒が此処に来た時には既に、雛は怪異に成る事が決まっていた。


 後悔ばかりが雪緒の胸中を占める。自分が早く何とかしていれば、こんな事に巻き込まれずに済んだかもしれないのだ。


 もうああなってしまえば、雪緒に助け方など分からない。どうすれば助けられるのか、本当に助けられるのか、まったく分からない。


 事ここに至って、晴明の叱責の意味を理解する。


 助けられないのが怖いから人を助けているだけに過ぎないと、晴明は言った。


 覚悟の決め方が前後が逆だとも言われた。


 あの時は二人の考え方が平行線であるからこそ、晴明に言う事は無いと思っていた。けれど、実際のところは違った。いや、全部分かっていた。分かった上でそれらしい言葉で自分を誤魔化していたのだ。

全部、晴明の言う通りだった。図星だったのだ。


 誰かを助けられないのは怖い。けれど、自分に助けられる状況なんて高が知れている。その高を超える状況になった時、雪緒は巻き込まれるのを待つだけだ。踏み込むだけの勇気は無い。


 それで、助けた気にでもなれれば少しは気持ちも軽くなるから。


 雛の時だってそうだった。家に帰りたく無くて公園で時間を潰していたら、後から来た雛が声をかけてきたのだ。だから仲良くなった。


 必死になって雛を探したのは、少しでも自分を許せる理由を作るためだった。


 自分なりに頑張った。不出来なわりによくやった。そう自分を納得させるだけの理由が欲しかった。


 きさらぎ駅に入ってからは、確かに覚悟を決めた。でもそれは、きさらぎ駅に入ってしまったからだ。本当に入れるだなんて思っていなかった。


 それでも、雛を見付けて帰れば、少しは自分を許せるような気がしていたのだ。


「もう良いじゃない、雪緒くん。その子を連れて、此処を離れて。このきさらぎ駅も用が済めば崩壊する。雪緒くんは現実世界に帰れるのよ。なら、このままで良いじゃない」


 膝を突く雪緒を諭すように言う。


 事態はもう雪緒に収拾できる範疇を超えている。いや、始まりからその範疇を超えていた。


 雪緒はこんな事態になる前に雛の問題を解決すべきだったのだ。例えそれが、難しい事だと分かっていたとしても。


 全てが手遅れになった今、雪緒に出来る事なんて無い。いや、最初からこのきさらぎ駅で出来る事など、今の雪緒には何一つだってありはしなかったのだ。


 雪緒が全てを諦めかけた、その時――


「……っ」


 ――雪緒の胸元に抱かれた赤子がもそりと動く。


「……そうだよな。全部終わった訳じゃ無いよな……」


 そうだ。諦めている場合ではない。まだ、何一つだって解決していないのだ。


 雛を助けられなかった事実をいきなり突きつけられて意気消沈したけれど、まだ何も終わってない。この子はキヨを求めており、キヨは今なお間違いを犯し続けている。


 まだ終わりじゃない。何一つだって、終わってない。


 雪緒はゆっくりと立ちあがる。


 全て手遅れだ。それは分かっている。


 雪緒に収拾できる範疇を超えている。それでも、雪緒はキヨに伝えなければいけない事が在る。


 それに、例え怪異になったとしても、まだ何かしらの方法が在るかもしれない。


 悪あがきでも良い、希望的観測でも良い。このまま何もしないで終わりを待つよりずっと良い。


 例え後付けの理由だとしても、自分で選んだ事の責任は自分で取れ。

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道明寺雪緒ノ怪異蒐集録 -新訳- 槻白倫 @tukisiro

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