第11話 島村キヨ
振り返る事も無く、ただひたすらに走り続けた。息が上がっても恐怖から脚を止める事が出来ず、自分が何処に向かっているのかも分からぬままに走り続けた。
「はぁ、はぁ、はぁ……っ。此処まで来れば、もう安心……よね?」
息切れをしながら言葉を紡ぐその人は、ゆっくりと走る速度を緩め、やがてその脚を止める。
つられて雪緒もゆっくりと脚を止める。
膝に片手を付いて、乱れた息を整える。
息を切らしながら、ゆっくりと雪緒の手を放す。
「大丈夫? なにかされなかった?」
静かで優しい声音。
雪緒は乱れた息のまま、顔を上げて声の方を見やる。
雪緒の手を引いていたのは、二十代半ば程の女性だった。
クロッシュ帽子に、ウェーブのかかった耳隠し。目尻の下がった優しい顔は、走り回ったせいかほんのりと上気している。
服装は膝下丈のワンピースだ。色は寒色系であり、クロッシュ帽子と揃えてある。
女性の恰好に違和感を覚えながらも、雪緒はゆっくりと息を整えてから女性と向き合う。
「大丈夫です。助けていただいて、ありがとうございました」
頭を下げてお礼を言えば、女性はふふっと優しく微笑む。
「どういたしまして。とはいえ、完全に助けられた訳では無いのよね……」
一時逃げる事が出来たけれど、この異界から逃げられた訳では無い。
「でも、ひとまずは安心ね。ちょっと、休みましょうか」
「あ、はい……」
雪緒が顔を上げれば、女性は路地裏に置かれた箱の上に座っていた。
そこで、雪緒はようやく自分が路地裏にたどり着いたのだと理解した。
逃げ道が二方向しか無いので挟まれたらひとたまりも無い。
しきりにその二方向を気にしつつ、雪緒も近くに落ちていた箱に座る。
雪緒が座って一息ついたところで、女性が口を開く。
「私、島村キヨ。貴方は?」
「俺は、道明寺雪緒です」
「そう、道明寺くんね。君はどうしてこんな場所に?」
「人探しです。女の子を探してて。と言っても、この場所にいる確証も無いんですけど……」
「という事は、自分の意志で此処に来たって事かしら?」
「はい」
なんて頷くけれど、この場所に来られたのはあの着物の女の仕業だ。来ようとはしていたけれど、自分で来られた訳では無い。
「そうなのね……。見つかると良いわね、その子」
「ですね……。まぁ、一番はこの場所に居ない事なんですけどね。あんなのがうろちょろしてる訳ですし」
今までに感じた事の無い程の威圧感を持ったナニカ。
得体の知れない存在としては着物の女の方が恐ろしいとは思うけれど、あのナニカだって十分に恐ろしい。
「その子、どういう子なの? 私、此処に居て結構長いから何処かで見た事あるかも」
「えっと、小学六年生の女の子で、背丈は百三十くらいです。元気でほんわかしてて……あと、いつも赤いリボンを付けてます」
「赤いリボンの女の子……」
キヨは考えるように頬に手を当てる。
「……覚えは無いわね。ごめんなさい」
「いえ、大丈夫です……」
ということは、一からこの異界を探し回らなければいけないという事だ。
落胆が無いと言えば嘘になるけれど、そう都合よくいかない事は最初から分かっていた。
「島村さんはどうして此処に?」
雪緒が訊ねれば、キヨは少しだけ憂いを帯びた顔で返す。
「娘を探してるのよ。道明寺くんと同じで、人探しね」
「そうなんですね……」
自分の子供がこんな訳も分からないところに居るかもしれないだなんて、きっと心配という言葉では言い表せない程に胸中は不安で一杯だろう。
他人を助けている余裕も無い中で自分の事を助けてくれたことに、感謝の念と共に尊敬の念を覚える雪緒。
「あの、改めてありがとうございます。島村さんも、大変なのに……」
雪緒がもう一度頭を下げれば、キヨは驚いたような表情をした後、優しい笑みを浮かべた。
「良いのよ。こういう時はお互い助け合わないと。それと、私の事はキヨって呼んでもらえると嬉しいわ。苗字、あまり好きじゃないの」
「じゃあ、キヨさんで。俺の事も、雪緒で大丈夫です」
「分かったわ、雪緒くん。雪緒くんって、礼儀正しいのね」
「命を助けて貰ったんだから当たり前ですよ」
命を助けて貰っておいて偉そうにふんぞり返るなんて無礼な真似が出来るはずも無い。
事、雪緒に関して言えば、その気持ちは人一倍持っている。
「暫く休んだら、私は娘を探しに行くつもりよ。雪緒くんはどうする?」
「もし良かったら、俺も一緒に行って良いですか? 一人より、二人の方が良いと思いますし」
「……そう、ね。うん、じゃあ一緒に行きましょうか」
「はい。よろしくお願いします」
「いえいえ、こちらこそよ」
にっこりと人好きのする笑みを浮かべるキヨ。
そうして、二人は少しだけ身体を休めた後、路地裏から出て互いの探し人を探しに出た。
「っと、ちょっと止まってください」
「どうしたの?」
街を歩いている中、感じ取った少しの違和。
この街は泥のように空気が重い。この空気のせいで、出会い頭に異形と遭遇してしまった。重い空気が異形の気配を隠してしまっているのだ。
そんな空気に少しだけ慣れたのか、重い空気の中にある更に異質な気配を感じとる。
「……いったん、隠れてください」
「え?」
「速く!」
キヨの手を引いて、雪緒は建物の陰に隠れる。
そして、そろっと建物の陰から顔を出す。
暫くして、曲がり角から不定形のナニカが姿を現した。
雪緒に倣ってキヨもそろっと建物の陰から様子を窺う。
「……出てくるって分かったの?」
「はい。……あんまり、こういう事は口外しないんですけど、俺霊感在るんです。あいつらの気配が少しだけ分かって来たので出て来るかなって思って……」
確証は無かった。けれど、嫌な予感はしていた。
「へぇ、幽霊とか見えるのね。凄いわ」
「……別に、凄くは無いですよ」
霊感なんて、生きていくのに必要不可欠ではない。在ったところで大した力では無い。
不定形のナニカが通り過ぎた後、二人は建物の陰から出る。
隠れている間にも、不定形のナニカ以外の気配を幾つか感じ取る事が出来た。
雪緒が感知出来る距離にも限界が在る。雪緒が感知出来た数だけが全てでは無いだろう。
「もしかして、街中あんなのだらけですか?」
「そうね。少し歩いただけで直ぐにばったり出会っちゃうわ」
「じゃあ、なるべく慎重に行った方が良いですね」
いつ、どこでばったり出くわすかも分からない。
二人は先程よりも慎重な足取りで街を歩いた。
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