第6話 放課後の教室

 放課後の図書室は、人がまばらに座っている。本を借りる人も、大きな机で宿題をしていた人もいたが、帰り支度を始める時間だった。

 その中で鈴花は広げていた本を閉じる。

 視線が文字を追おうとしても、本の内容は頭に入ってこなかった。

 一緒に帰ろうと誘ってくれた麻貴ちゃんには一人で勉強したいのだと断った。一緒に残ろうとしてくれたが、塾の日の麻貴ちゃんは早く帰らなくてはならない。だからこの日を選んだ。

 

 図書室で時間をつぶした後、鈴花は人が少なくなった廊下に出た。

 途中で水道の水を、水筒のふちまで入れる。

 これで準備が出来た。

 廊下を歩くと、まだ居残りをしている声がどこからかする。これから起こすことを思うと、心臓がどきどきした。

 誰も居ませんように。

 その鈴花の願いは叶う。6年2組の教室に人影はなく、誰も残っていなかった。

 

 後ろのドアを静かに開ける。

 夏休みの思い出の絵は、教室の後ろの壁に昨日から貼りだされていた。

 葉っぱの一枚一枚が丁寧な森の絵、黒い夜の中にある花火、さまざまな青と白で描かれた水族館の魚。

 絵を見れば、夏休みにクラスメイト達が何をしていたのかわかる。


 鈴花は水筒のフタを取った。

 この水をかけて、誰かの絵を破く。

 そんなひどい頭のおかしな行動をして、だから福永鈴花は自分の絵も破ることもあり得ると思われよう。

 あの日、目撃したクラスメイトが判断に迷うように。


 机の上には、いくつかランドセルが残っている。

 水泳の特設部が、放課後に練習をしているためだ。窓から確認するとプールに人影はない。着替えをしてもうそろそろ戻って来る時間だろう。

 そのクラスメイト達に、絵を破くところを目撃してもらう。

 事前に一枚は破いておこう。ぐずぐずして、決心がゆらがないよう。今のうちに、後戻り出来ないように。


 どの絵にしよう、誰でもいい。

 誰か通りかかる前に。緊張と、自分がこれからする、クラスメイトを悲しませる行動に心臓が早くなる。

 早く、どの絵だっていい。


 水筒を持つ手を何度か持ち上げた。けれど、結局動けなかった。

「福永さん」

 呼びかけられ振り返る。開いたドアの前に有村君と、須能君がいた。

 鈴花にはとても長い時間、絵の前に居たように思えた。


 


 放課後ちょっと残ってよと渉に言われ、この時間まで6年2組の周辺をうろついていた。そして人気のない教室に入る、クラスメイトの姿をみつけた。 

 ドアを開けるとこわばった顔の福永さんがいて、その手には水筒がにぎられていた。

「福永さん」

 渉が呼びかける。

 彼女の手には水筒、その前に貼りだされた絵。

「そんなことしなくていいよ」

 何をしようとしていたのか、渉はわかっていたような呼びかけだった。そしてどこか安堵した様子で近づく。福永さんが、ゆるゆると僕らと向き合った。

「誰かの絵を汚したり、破らなくていいよ」


 福永さんは目を大きくする。どうしてわかったのと言う。

「絵を破ったのは、私ってことにしないといけないのに」

 思いつめた様子の一言で、何をしようとしていたのか、僕にもわかった気がした。

「前川くんがしたことは、いたずらや意地悪じゃなくて、別の意味があったということだね」

 泣いてしまいそうな福永さんに渉が呼びかける。

 

「いろいろおかしかった。まずあきらかに前川くんが破ったのに、破られた福永さんが違うと言ったこと」

 福永さんは動きを止め、固い表情をしている。 

「破られた絵に、福永さんがまったく未練がないところ。あれは自分で書いた絵じゃないんだね」

「え?」

 驚いたのは、僕だけだった。

「書いたのはお姉さん?」

 渉が言葉を続けると、福永さんは口を結んだまま、ゆっくりとうなづいた。

「自分で書いた絵じゃなかったの」

 小さな声が告げて、長いため息をつく。

 

「だから始業式の日、学校に来る道で前川くんに会った時、どうしようって。先生に出したくないって話をして」

 だったら出さなくても良かったのにと、僕は思う。

 先生に宿題ができなかったと言えばよかったのにと。真面目で、宿題を忘れるなんてことがない福永さんはそれも言えなかったのか。

 いや、そもそも、

「福永さん絵が描けないわけじゃなでしょ?」

 どちらかといえば、クラスの中でも絵が得意な印象があった。僕の問いかけに、彼女が目をふせてから、ゆっくりと口を開く。

「……忘れて、最後の日に、ほとんど手伝って描いてもらった」

  

「ほとんどっていっても、自分でも描いた所があるなら、自分の絵って言えば良かったのに」

 それも嫌だったのかな。

 沈黙が変に重たい。

「……そうだったかも。先生に出すの迷って、でもやっぱり良くないから。あの日、前川くんに止めてもらえてよかった」

 気付かないぐらいの弱々しさで福永さんが微笑んだ。

「僕も付き添うから。先生に自分の絵じゃなかったこと、前川くんが悪くないこと言いに行こう」

 淡々と渉が言う。

「先生はわかってくれるよ」


 

 

 渉が一人で職員室に入り、涼子先生を呼んでくる。

 それから僕らは理科室に移動して話をした。

 福永さんが「自分で書いた絵ではなかった」「提出しようか迷って、その悩みを打ち明けたら、前川くんが止めてくれた」と伝えると、先生はわかったと頷いた。

 先生は驚かなかった。

 あまりにもすんなりと終わってしまったので、僕の方がもやっとする。

 先生は頭をかくようにして「まあ、この状態で電話する気はなかったんだけど」となぜか黒板をじっと見つめる渉に顔を向けた。

「自分で描いていない絵を、嘘ついて出すのはいけない。でも出す前だった。人の絵を破るのも良くない。でも、まあ、やり方は乱暴だったけど、前川の思いやりだろうし、当人同士が納得してるなら」

 福永さんが大きく何度もうなづく。

「じゃあ、解決」

 と先生は立ち上がる。

「先生、どっちの家にも電話はしませんよね」

 渉が確認すると、先生はちょっと呆れたような顔で渉をまじまじと見た。

「しない」

  


 理科室を出てから、福永さんは悩みが解決し区切りがついてたことで安心したのか、表情に柔らかさがあった。

「須能くん、有村くんありがとう。明日から、クラスのみんなに前川くんが悪くないって、ちゃんとわかって貰えるように話してみる」

 と、新しい決意の発言をする。

 けれどそれを聞いた渉は晴れない顔をした。

「今日のこと、そのまま言うとさ。福永さんと前川くんが、あの怒れる女子たちの知らないところで、勝手に仲直りしてたら、面白くないってなるよ。きっと」

 面倒そうな口調をする。


「福永さんのために怒ってたのに、いつの間にか仲直りしてた。騒いでいた自分たちが馬鹿みたいって。そのもやもやが福永さんにくる」

「そうかな。でも、そうなっても、私のせいだからそれは仕方ないと思う」

 意外と強い。声は小さくなるが、福永さんの意思は固そうだ。


「喧嘩してなかったとか、仲直りしたとは言わないでさ。仲直りしたいけどどうしたらいいって、牧村さんとか、前川を怒ってる感じの女子たちに相談するのがいいと思うよ」

「相談?」

「心配してる女の人は頼られると悪い気がしない。……間違った心配されててもそれに合わせたほうが、けっきょく面倒じゃない」

 始業式休んだ件か。

「そっか、須能くんありがとう」

 僕らは、福永さんと校庭のはしで「じゃあね」と別れた。


 僕は違和感に気づかなかった。

 この時は、福永さんの優しいお姉さんが絵を描いてくれたから。だから妹として、姉を悲しませたくなくて断れなかったのだと、僕は思っていた。

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