第5話 鈴花の後悔

 須能渉すのうあゆむは悪い奴ではないが、親切丁寧で優しい性格とも言えない。

 そんなことを考えながら下駄箱で靴をはきかえようとしたとき、ばたばたと誰かが階段を降りて来る足音がした。


 凄い速さで下駄箱を開けると走り出す。誰かは前川だった。

 渉とついさっきまで噂をしていた前川。

 そんなに急いで何だと、同じく靴を履いて玄関を出る。見ると前川が走る先に、福永さんが歩いていた。

 何となく、友希も追いかける。

 校庭から歩道に出る辺りで、先を歩いていた福永さんが振り返るところがみえた。何事か言って、そのまま二人は並んで道を折れる。

 走って追いつこうとすると、建物の影で姿が隠れた。

 もう少しという所で、声が聞こえた。

 

「何で俺がやったって言わないんだよ」

 怒っているというよりは、戸惑った声だった。

「だって、前川くんは何も悪くない」

 そこで追いついたことで二人が足音に気づいた。目が合う。


「追いかけてこないで」

 福永さんが言って駆け出す。僕をちらっと見た前川が何も言わずに、ゆっくり歩きだす。

 僕はと言うと、これ以上追いかけ話しかけるのも決まりが悪く、足が動かなかった。

 どういう意味だ? 何でやったって言わない?

 前川は自分のせいにしてほしいのか。 

 庇わなくていいという意味か。

 立ち聞きした気まずい空気を引きずりながら、二人の声が頭で繰り返された。

 

 

 誤解されたまま、日々が過ぎてしまう。

 福永鈴花は嘘をついている罪悪感ともどかしさに、教室に入るだけで息苦しくなっていた。

 前川くんは普段通り過ごしているが、遠巻きに私たちを見ているクラスの雰囲気はどこか冷ややかで重く感じる。

 鈴花をかばってくれるクラスメイトは多く、そうなると自然に前川くんが犯人として悪いようになってしまう。

 麻貴ちゃんも心配している。けれど、本当のことが言えない鈴花は気持ちが沈む一方だった。

 

 鈴花が涼子先生に呼び出されたのは、二時間目の授業の終わりだった。

「ちょっといい?」

 と、職員室の手前まで一緒に歩く。鈴花が呼び出される理由なんて、今は一つしかない。

「前川がやってないって本当?」

「……はい」

 嘘は苦手だ。しかもみんな前川くんが破ったところを見ているのだから、明らかに嘘でしかない。

「一応ね、前川の家に電話しておかないといけないと思ってね」

「え?」

 腕組みしている涼子先生の顔が、本気なのか知りたくて、鈴花はすがるようにじっと見つめた。先生お願い、それだけはしないで。

「今日、ですか?」

「いや、そんなすぐじゃない。今日明日ではないけど。その前に、福永から何か聞けたらなって思って」

「何かって、……前原くんは悪くないです」

 鈴花はまたそう言って、ただわかって欲しいと願うしかなかった。


  



 

 涼子先生から前川くんの家に電話をしなければ、という言葉を聞いてから、鈴花はさらに後ろ暗い気持ちになった。

 先生と前川くんの様子から、まだ電話はしていないようだ。

 

 夏休み前、前川くんが禁止されているのにサッカーボールを教室の中でけり、それが時計にあたって、落ちて割れたことがあった。

 その時に先生は電話をし、前川くん自身が、家で「すっごく怒られた」と言っていた。

 先生としては、今回の絵が破られたのも同じなのだ。

 鈴花が、前川くんはやっていないといくら言ったって、見ていた人が何人もいたのだから。信じて貰えなくて当たり前だ。前川くんが破いたのは本当である。

 けれど、彼は悪くない。

 

 確かに乱暴なやり方ではあったが、彼は悩んでいた鈴花を助けてくれた。

 悪者にしてはいけない。

 それなのに、まだ本当のことを言えない。

 あの日、鈴花はしてはいけないとわかっていることをしようとした。

 そのまま絵を提出し、黙っていれば、誰にもわからなかったかもしれない。そうなれば、こんな騒ぎにならなかっただろう。

 あの絵が教室の後ろに貼られて、鈴花だけが気まずい嫌な気持ちになって。誰かにばれたらどうしようと悩んでも思っても、一人で我慢していれば良かったのだ。


 みんなの提出した絵は、教室の後ろにある掲示スペースに貼られる。その中から選ばれた絵が、県のコンクールに送られる。

 背中にずっと見張られるようにあの絵があり、しかも万が一コンクールに選ばれてしまったら。この先ずっとあの絵が自分について回る。その恐ろしさ。

 想像だけでも耐えられそうにない。

 だから始業式の朝、通学路で前川くんに会った時、すべて言ってしまった。


 保育園から一緒だった前川くんは、鈴花の家にも何度か来たことがある。

 昔はよく一緒に遊んでいた。彼ならこの気持ちを、わかってもらえそうだと思ったのだ。

 そして実際に、前川くんは鈴花の悩んでいることを理解し、何とかしてくれた。

 前川くんが絵を破き、あの絵は無くなった。

 鈴花が黙っていたら、みんなが見ていた通りの内容で、これでお終いになる。


 前川くんがどうして絵を破ったのか。

 全部、本当のことを言ったらどうなるだろう。

 知られれば、まず先生に叱られ、クラスの皆もそんなことをした鈴花と距離をおくだろう。それだけなら、がんばって耐えてれば、少しずつ日常が戻って来るかも知れない。でも、悩んでいるのはそれだけじゃない。


 先生が、家に電話をしたら。

 お父さんとお母さんが知ったら、怒るだろうか。それよりも困惑し、悩むのではないか。家の中はどうなってしまうのか。そうなった後の家で過ごすことが怖い。

 説明をして、それを先生にわかってもらえるか自信が無い。理解されないという思いの方が大きい。

 

 では、鈴花が自分で自分の絵を汚して、破ったことにしてはどうかと思いついた。

 前川くんは悪くなくなる。鈴花の絵も、無くなる。

 

 涼子先生には、職員室前に呼び出されたあの日、気に入らなかったから自分で絵を破りましたと言ってみた。

 それを信じてもらうのは難しい。

 実際、先生は「でも、前川が破いていたのを何人も見てる。それはどうしてだろう」と首を傾げた。

 みんな勘違いしてるのだと言ったが、先生は口をへの字に曲げて、そのまま気まずい空気になった。


 実際、起こったことを無しにするのは難しい。

 自分で自分の絵を破くわけがないと思われている。 

 それなら福永鈴花はとてもおかしな人間となってしまおう。自分で自分の絵を破ってしまうような、頭が変な人なんだと思われよう。

 前川くんの家に電話をされてしまう。その前に。

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