ハリボテの仮面

無銘

ハリボテの仮面

 朝、目覚まし時計の音で私は目覚める。

「おはよう」

 ベッドの傍にはなぜか、クラスメイトで友人のくるみが居て、朝の挨拶を当然のように告げる。

「おはよう、くるみ」

 私も彼女に挨拶を返す。

 寝ぼけた頭は反射でしか動いてくれない。けれども、体を起こして伸びをして瞬きをして目をこすって、そんな動作をするうちに頭の中の靄が少しずつ晴れてきて、至極真っ当な疑問にかち合った。私は、私をじっと見つめる彼女に尋ねる。

「どうしてくるみがこの部屋にいるの?」

「どうしてって。私があなたに会いたかったから。それだけだけど」

 答えになってるようでなってない。そんな返答。

 なんだかいつものくるみとは少し違っている。取り繕っていないというか大胆というか。枷を外されたように、ただ真っ直ぐに、私に向かってきている。そんな風に感じる。

「ストレートに言われると何か照れるね」

 私の回答も少し要領を得ていない気がする。

なんだか、噛み合ってないのに整合性だけが取れているような、気味の悪い違和感があった。

 ただ、少なくとも彼女はそう感じてはいないようだ。どことなく嬉しそうに私の返答を聞く彼女。彼女の視線も意識も表情も、その全てが私にだけ向けられている。

 この状況。要領を得ない会話。彼女の態度。周囲は違和感で埋め尽くされているけれど、それ以上の何かが。些細な違和感によって大きな何かが隠されているような、そんな気がする。

 私は彼女から目線を外して目覚まし時計の秒針に目を向ける。そこには、そろそろ朝の支度をして家から出なければいけないくらいの時間が刻まれていた。

「早く起きなきゃね」

 そう言って私はベッドから出て、自分の部屋からも出て一階に向かった。彼女は当たり前のように私の後ろをついて来た。階段を二人で降りると、ギシギシと輪唱のように階段を踏み抜く音が大きく響いた。不吉な胸騒ぎが私の心臓を震わした。穏やかな朝に見合わぬ鼓動を抱えたまま一階に降りて朝食が用意されているはずの食卓に行くと、そこには奇妙としか言いようのない風景が広がっていた。

 まずはキッチン。まな板と包丁とレタスの芯。コンロにはフライパンが置かれている。中では丸焦げの目玉焼きが禍々しい音を立てている。私は急いで駆け寄って火を止める。足に何かが絡みつく。私はそれを手に取る。それは、お母さんがいつも着ているエプロンで、まだ仄かにお母さんの体温が残っていた。

 私は呆然とエプロンを腕にかかえて、それから、料理が置かれた食卓に目を向ける。食パン。牛乳。サラダ。それらがお父さんと妹の分用意されている。

 いつもとなんら変わらぬ、朝の食卓。

 けれども明らかに違和感が残るのはまるで食べかけみたいに食パンには歯型が残っていて、フォークにはレタスが刺さっているのに、お父さんも妹も、まるですっぱ抜かれたように、どこにも居ないことだった。

「これは......」

私は思わず呟く。

「お母さんもお父さんも妹さんも、もう居ないよ」

いつのまにか私の後ろに立っていたくるみが淡々と呟く。

私はビックリして、腕にかかえていたエプロンを思わず手放した。エプロンはひらひらと頼りなく地面に落ちた。

「何で、居ないの?」

 言葉足らずな私の問い。

 彼女は世界の平和や秩序を凝縮したような優しげな微笑みを浮かべて、私にこう告げた。

「だって私が全員、消しちゃったから。あなた以外の人は、全員」

 カラスが遠くで鳴いた。

 その音が鮮明に聞こえるほど、世界は静かだった。




          ▽





「とりあえずさ、学校行こうよ」

 彼女の一言にノロノロと従って、制服に着替え、学校へ向かう道を彼女と二人で歩いていた。

 道には制服とカバンが散乱としていて、日常のフィルムが突然に断ち切られた痕跡が生々しく残っていた。

 電柱に突き刺さった車、制御を失って頭を振り回すクレーン車、横たわる自転車、落とされたブロック、横たわる靴や衣服に反応して開きっぱなしのコンビニの自動ドア。

 私は夢のようなその風景の中をやけにふわふわとした足取りで進んでいった。

「どう?この風景にはもう慣れた?」

「慣れるわけないじゃん。逆にくるみはこれを観て何も思わないの」

「いやいや。私も人の子だからね。あなたのお母さんもお父さんも妹さんも消えて、こんな風に色んな人の残骸だけが置き去りにされて、そういうの見ると、申し訳ないなとは思うよ。けれどさ、それ以上に嬉しいの。あなたと二人きりになれたのが」

 彼女はそう言っておもむろに私の手を取った。彼女のひんやりとした細長い指に私の指は絡め取られた。その指と指の交わり方は俗に言う恋人繋ぎと言うやつだった。私がどれだけ抵抗しても解けなさそうなその指の感触を確かめながら私は思う。

 何故、私なのか。私にそこまで執着する理由は?

 世界の全員と私一人を天秤にかけて、私を選んだ彼女の執着心の正体が私には分からなかった。不気味ですらあった。

 彼女の心の内が、この街のどんな風景よりも私の目には奇妙に映った。

「ていうかそもそも消したって何。どうやってこんな意味のわからないこと......」

「んとね。まず朝起きるじゃん。ベッドから出るじゃん。そしたらさ、寝る前に終わらそうと思って、結局放っぽり出しちゃった課題のノートの上に何か置いてあるわけよ。何だろうなと思って近寄ってみたら、赤いボタンが置いてあったの。なんていえばいいのかな......早押しクイズに使われる感じの真っ赤なボタン。それで課題のノートには明らかに私の文字じゃない、棘々しい文字でこう書いてあったの。このボタンを押せばあなたが本当に愛してる人、一人を除いて全人類が地球から消滅しますって。意味がわからないよね。私もびっくりした。けれども不思議と恐怖は無かったの。だって、私が本当に愛してる人が一人だけ残るって聞いて、あなたの顔が真っ先に思い浮かんだから。あなたさえいるなら、何にも怖いものなんてなくて、私は特に迷わずにボタンを押した。衝動に任せて押しちゃった。そしたら本当に人が忽然と消えちゃって。世界にはあなたと私の二人だけ」

 まるで舞台役者のように、スラスラと言葉を並べる彼女。私は圧倒されて、ろくに返事を返すこともできなかった。彼女の並び立てた言葉は脳の中を無秩序に彷徨っていた。

 彼女が、私の家族を消した張本人で、世界中の人を消した張本人で、彼女は私のことを愛していて、世界で一番愛していて、私と彼女は二人だけで。

 私は訳が分からなくなって、そのまま頭を抱えてうずくまった。

「どうしたの!大丈夫?」

 何故だかこんな時だけは彼女は心底慌てた様子で私の元へ駆け寄ってくる。

分からない。 私には分からない。彼女の心も、世界の状態も、なにも理解できない。今でもあの風景が、お母さんのエプロンの微かに残った体温が、私の頭からこびりついて離れない。

「大丈夫な訳ないでしょ。だって誰もいないんだよ。みんな消えたんだよ。お母さんもお父さんも妹も。例えば友達だとか。先生とか。見知らぬ誰かも。みんなごっそり消えたんだよ。何でくるみはそんなに平気そうな顔してるの?私には分からないよ。くるみも世界も何もかも」

 彼女は私の激情を聞いてもなお穏やかに笑ってこう答える。

「それは簡単なことだよ。私ね、こんな事になる前からずっとそう。疲れる事とかしんどい事は考えないようにしてきたんだ。例えば、あなたを想う気持ちとか、私の性を爪弾きにする社会とか、誰かも分からない男に抱かれる母親とか、誰かも分からない女を抱く父親とか、そういう嫌な物は全部見ないようにしてた。それと同じだよ。今はあなたと二人きりで、私の想いを邪魔する障害物は何も無くて、あなたも結局は私の愛を受け入れるしか無くて、私にはその事しか見えてないしそれが最高に嬉しくて楽しい事だよ」

 深刻そうな話の内容とは対照的に彼女は終始ニコニコとした表情を貫いていた。そんな表情のまま、爛々と光る瞳で私を覗き込んでいた。その瞳にだけ純粋な心配の表情が浮かんでいた。そんな彼女のチグハグな様相を見て私は思った。

 私はその狂気的な愛を受け入れるほかに無いのだろうなと。世界も彼女も依然としてなにも分からないままだったけれど、なぜかそれだけは漠然と理解することができた。理解してしまった。この世界では彼女の愛を受け入れるしか無いのだ、と。

 彼女はうずくまったままの私に手を差し伸べる。私はその手を掴んで、再び指を絡めていつもの通学路を歩く。

 彼女の異様なほどに生々しい体温が無機質な世界の輪郭を浮かび上がらせるようで、私は心に緊張を抱えたまま彼女と高校への道を歩いた。通学路に転がる様々な人生の残骸には目を背けて。

遠くからチャイムの音が聞こえる。

「ほら、遅刻しちゃうよ!」

 駆け出す彼女に引っ張られて私も走る。

 少しだけ、爽快だった。

 爽快だと思う自分が、嫌いだと思った。こんな世界でも受け入れてしまえそうな自分が嫌いだと、そう思った。




          ▽





 授業の開始を告げるチャイムの音が響く。

「ねぇ、キスしようよ」

 私達の教室で開口一番、彼女が呟いた言葉。

「偉く急だね」

「だってそのためにここまで来たんだもん」

「なんでここなの?」

「なんでって、なんでだろうね。けれど私、昔から夢だったの、授業中に好きな人とキスをするのが」

「ユニークな夢だね」

「だってさ、なんか良くない?皆がいるはずの時間に皆がいるはずの場所で堂々とキスするって。世界から肯定されてるって感じで」

 私は曖昧に頷く。

 規則正しく並べられた机と椅子に、規則正しい静寂。カーテンの隙間から漏れる陽光。

 彼女はここでキスをしたいという。この二人きりの世界の、二人きりの教室で。

 非日常に非日常が上乗せされるみたいで、彼女の熱に私は流されていく。

 夢の中みたいな傍若無人さで、まるで断られることをハナから想定してないみたいに彼女は堂々と私に唇を近づける。私は彼女の唇を拒めない。拒むことができない。

 柔らかな体温が私の唇に落ちた。私は押し付けられた体温を咀嚼する。気持ちいいなと思った。されるがままで拒みもしない自分の事が気持ち悪いなと思った。けれどやっぱりキスは気持ち良かった。

 長いまつげも私に落ちる涙も微かに触れる彼女の肌の柔らかな感触も匂いも、全部が気持ち良かった。

 やがてそれらが静かに、離れていった。

「ねぇ、気持ち良かった?」

 彼女は上気した顔で、真っ赤に染めた頰でそう尋ねる。こんな時だけ素直に女の子らしい表情を浮かべる彼女を、少しだけかわいいなと思った。

「うん、気持ち良かったよ」

 嘘偽りなくそうだった。そう思っていた。けれども何故か彼女は少しだけ悲しそうな顔をして、それから優しく微笑んだ。八十億人あまりを消し去ったとは到底思えない純粋さをその笑みは湛えていた。

「ねえ。私、何であなたの事が好きなのか分かった気がする。何でスイッチを押すときあなたの顔が真っ先に浮かんだのか、分かった」

 彼女の言葉を理解した瞬間。私はこれから彼女に何を言われるのかも同時に理解した。軽くて確かな絶望が私を包んだ。

 やめて、聞きたくない。漠然とした好意のままにして。あなたの気持ちに理由をつけないで。だってそれは私を肯定しながら否定するから。

けれども私は

「なんで?」

 そう尋ねる。彼女の指やキスを拒まないように私は彼女を拒まない。

「あなたなら受け止めてくれると思ったから。私の性も変わった世界も教室でのキスも、とにかく全部。だから私はあなたを好きになったんだ」

 純粋な彼女の目が痛い。

 違う、私はそうじゃない。私はそんな大層な人間じゃない。叫びは喉に引っかかって不格好な呻き声が漏れる。彼女の勘違いがより一層私の心を深く突き刺す。彼女の純粋な好意に理由がついて、彼女から見た私の姿と本当の私の姿にギャップが生じて、私の不純で汚い本質が露わになっていく。私は醜い私から目を背けることができない。

 噛み合わない歯車が私の脳内で火花を散らす。

「私はそんなんじゃないよ。そんな人間じゃ」

「ううん。私にとってあなたはそういう人。だからさ、」

 その続きを聞く前に私は彼女の口を唇で塞いだ。

 私はくるみを受け入れたんじゃないんだよ。

 私は今、くるみに依存してるの。世界であなたと私しかいない世界で、私はあなたに依存している。

 自分を殺して周りに求められる自分を演じて、けれども演技を演技と割り切るだけの器用さは自分にはなくて、やがてどれが自分なのか分からなくなって。そうやって私は生きてきた。流されて、依存して生きてきた。

 そして学校も家族も友達も、依存先の全てが消失した今、私はそれらを消した張本人である彼女の愛情に縋っている。

 私は死ぬまで私になれない。私として生きることはできない。ただ色々なハリボテの仮面を付け替えることでしか生きることができない。

 私が始めたキスなのにいつのまにか私の唇は、舌は、彼女にされるがままになっていた。

 さっきよりも濃い彼女の体温に、匂いに、感触に脳が加速度的に彼女で染まっていく。快楽に流されるキスはどうしようもないくらいに気持ちが良かった。それがどうしようもないくらいに悲しかった。

 結局のところ私は私だ。醜いハリボテの仮面のままの私だ。快感と自己嫌悪に板挟みにされて私の心が軋んでいく。そうして私は心も身体も彼女に分解された。それは酷く心地が良くて、無性に死にたくなった。





          ▽





 私とくるみは教室で、汗だくのまま寝転んでいた。

 体の芯にはまだ微かに彼女の体温が残っている。

「ねえ」

 熱と優しさに溢れた瞳で彼女は私を見つめていた。

「どうしたの?」

 私はやはり優しく尋ねる。

「私、死にたい。あなたとこのまま心中したい」

 何でとも、どうしてとも思わなかった。

「いいよ」

 反射的に出た肯定の言葉に後悔がよぎることもなかった。

「私は、今が一番幸せ」

 彼女の瞳には私しか映っていなかった。私の瞳には何が映っているのだろう。

「私も、今が一番幸せだよ」

 その言葉に偽りはなかった。死へと向かう喜びが私を満たしていた。全てが終わることへの喜びが。

 私から解放されることへの喜びが。





         ▽





 コンコンコン。

 金属の音が響く。絞首刑を行うための処刑台の階段の数は十三段って聞いた事があるけれど、ここの階段は何段あるんだろう?少なくとも十三よりも遥かに多いことだけは確実だった。

私が、彼女が一歩階段を踏みしめるたびに死が一歩ずつ近づいてくる。頭上に伸びる螺旋階段はそのまま私達の寿命を表していた。

 私達はそれを理解していてなお躊躇せずに階段を大きな音を立てて踏みしめていく。まるで輪唱みたいにそれは響いた。

「ねえ」

「なに?」

「世界中の人を殺しても、死んじゃえば全部無くなっちゃうんだから世界って馬鹿馬鹿しいね」

「そうだね」

「けれど、私達が心中することで、私達の愛が永遠になるって考えると、世界ってとても綺麗だね」

「そうだね」

 カンカンカン。

 彼女は駆け出す。私も彼女を追いかけて走る。

 彼女は笑っていた。気づけば私も笑っていた。私達は寿命を蹴っ飛ばしてボロボロにして、笑う。意味なんてないんだ、全部。それは私にとってこれ以上ないほど大きな救いだった。

 気がつけば、か細い光が私達を照らしていた。彼女はハッチをこじ開ける。私達の街の、私達の暮らす世界で一番高いビルの上。

 真横には空から落っこちたような夕焼けがあって、茜色の光で私達を照らしていた。これから遥か下へと落っこちる、私達を照らしていた。風は不思議なほどに凪いでいた。

「ねえ」

「なに?」

 今日だけで何度こんなやり取りを繰り返しただろう。

 彼女は無言で私の手をとったままビルの端っこまで歩いて行って、太陽に覆いかぶさるように手を広げた。

 彼女の後ろに世界が広がっている。彼女が壊した世界が広がっている。

「最後にもう一度、キスさせて」

 私の返事も聞かずに彼女は私の唇を奪う。瞬く間に私は彼女に染まる。彼女の感触に体温に匂いに、柔らかに包まれて死んでいく。私が固執していた何かが死んでいく。それがなんだかとても素晴らしいことに思えた。生きてきて初めて、心の底から嬉しいと思えた。

 初めて、彼女を愛しいと思えた。彼女の愛にみっともなく縋り付く私自信を始めて愛しいと思えた。死が私を私に変えていく。私の輪郭を彩っていく。彼女の体温が離れていく瞬間の名残惜しさですら、純粋な愛の反証のように思えて幸福を感じた。

 私は心の底から思う。

 早く死にたい。私が私でいられる今死にたい。

「ねぇ、くるみ」

「なに?」

「私死にたい。とってもとっても死にたいよ。だから、私、くるみのことが好き」

 それは彼女の好きとは順序が逆で、到底釣り合いの取れない好きだった。それなのに彼女は、それが世界の全てだとでも言うように、頬を真っ赤に染めて顔を綻ばせた。

「私も死にたい。あなたとの愛を抱えて死にたい。あなたの好きを感じたまま、私は死にたい。あなたと心中することで、永遠にこの瞬間を、今日という日を世界に閉じこめたい」

 私達は手を繋ぐ。絶対に解けないように五本の指を重ね合わせる。唇で感じるよりも微かで、唇よりもはっきりとした体温が私達を繋ぐ。

 真下を見下ろす。壊れた世界が私達に向かって優しく手を広げている。彼女と見つめ合う。最後にもう一度だけ、どちらからともなくキスをする。彼女の唇が離れた瞬間、私も彼女も笑っていた。

 笑ったまま、一緒に世界に飛び込んだ。





         ◇





 朝、目覚まし時計の音で私は目覚める。ベッドの傍には誰もいない。

 すぐに、深い絶望に襲われる。目の前には等身大の現実が横たわっていた。

 机の上には寝る前に終わらそうと思って、結局放っぽり出した課題のノートがそのままの状態で広げてある。

 私は自分の性を、女の子を好きな自分を誰にも打ち明けることができていないまま、普通の女子高生を演じている。

 お父さんもお母さんも愛人がいてお互いにそれに気づいているのに気づかないふりをしている。私も妹もそれをわかっていて、見て見ぬ振りをしている。みんな、幸せで普通な家族を演じている。

 そして、彼女の名前を思い出すことができなかった。それが私を現実の奈落の底へと叩き落とした。私を愛してくれた、私と一緒に心中しようとしてくれた、彼女の名前を。

 しかし、心中は失敗した。私はまだ生きていた。彼女と死ぬことができなかった。それが何よりも悲しかった。死だけなのだ。死だけが私を私たらしめる。私に愛を与えてくれる。私の事を肯定してくれる。それを、彼女は教えてくれた。

 私は部屋を飛び出して階段を駆け下りる。一人ぼっちの足音が響く。私はそのままキッチンに入る。

「おはよう」

「おはようお母さん」

 エプロンを着たお母さんが私を出迎えた。

 コンロのフライパンには綺麗な目玉焼きが載せられている。食卓にはお父さんと妹が座っていて、食パンや牛乳やサラダが目の前に並べてある。

 いつも通りの光景。だから当然にまな板の上にはレタスの芯と、包丁が置かれている。

私は包丁を手に取った。

「どうしたの?」

「お母さん、彼女が、彼女がどこにも居ないんだよ」

 私は包丁を自分の顔に突き刺した。ハリボテの仮面に。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ハリボテの仮面 無銘 @caferatetoicigo

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ