第4話 Agent file 《黎明》
オレは、あのスラム街で生まれた。
スラム街というだけあって、住む人たちは所得が低く、仕事も安定しないような人たちばかりだった。中には犯罪に手を染めて、その金で暮らしているような人もいた。
そんな環境だったからか、叫び声も妙な物音も、銃声でさえももう驚かなくなっていた。
オレの父親は失業した後薬物中毒になり、そんな中オレを作った。精神はいつも狂っていて、人を殺そうとしたり自分を傷つけたり自殺しようとしたり……と困った父親だった。オレも死にかけたことがある。
母親は風俗嬢をしていたらしい。だが、オレが寝た後に帰ってきて、一日一食分あるかないかくらいの金を置いて起きる前に出ていく生活をしていたので、顔も覚えていない。
そんな両親のもとに生まれたオレは、教育を受けずに成長して急に放り出され、仕事もないまま都会に出たはいいものの、餓死するのを待っているようなものだった。
それまで犯罪に手を出す奴らの考えが理解できなかったが、その時はそいつらの気持ちも理解できた。
ただ生きることに必死で、生きるために仕方なかった。
そしてオレも、一度は犯罪に手を出した。万引きだ。犯罪だということはわかっている。でもやらないと死ぬ。どうしようもないのに、死にたくないと思った。おかしな話だが、人間はそういう風にできている。
街の奴らを見ていたおかげか、初めてでも気付かれることなく我ながら上手くできたと思った。
なのに……
「なあ、そこの君」
そう声を掛けられ、気付かれた。
声からして、若さではオレの方が勝っていると思った。しかもオレは同年代と比べてかなり運動神経がよかったので、逃げ切れると思って走った。
さすがに追いつけないだろうと思っていた。でも、その男はいつまでも追いかけてきていて、むしろ近づいて来ていた。
なんとか巻こうと入り組んだ路地裏に入ったが、どこへ行ってもついてくる。
――どうなってんだよ……!
そしてついに、オレはその男に腕を掴まれてしまう。
「っ……!」
「何で逃げるんだよ!」
オレは何も言わずに男に一発拳を食らわせようかと思ったが、さすがに見えすぎていたのか右手首をがっしりと掴まれてそれは叶わなかった。
せめてどうにか逃げようと腕を振り解こうとし、オレは体をひねって力を込めて無理やり逃れる。
だがそれによって背中を向けるリスクというものも発生したので、オレは気付かれないように左手でナイフを構え、そのまま男の首にナイフを突き付けた。
「はぁ……はぁ……はぁ……」
息が上がった状態で振り返って男のことを見ると、男はなぜか笑っていた。
「な……」
――何でだよ……!
そう言おうとしたが、そこで急に力が抜け、オレはその場に倒れこんだ。
次に目を覚ますと、そこは病院だった。きっとあの男に何かされたのだと思ったが、全くそのようなことは感じられなかったし、何が起きたのか自分でもわからなかった。
「お、目が覚めたか」
そう言って覗き込んできたのは、あの男だった。
オレは驚きか何かを理解するよりも前に体が動き、ベッドから起き上がっていた。
「急に動くな。倒れたんだぞ」
「倒れたって……お前が何かしたんだろ?」
「何言ってんだ。勝手に倒れたのはお前だぞ」
「えっ?」
辺りを見回すが、部屋に人はいない。嘘をつく理由もない。
……ん?
誰もいない部屋……?
個室ってことか……!?
「な、オレ、こんなとこ……」
「まあ落ち着け。今は安静にしないとダメだ。費用は俺が出すから」
「えぇ……」
見ず知らずの人がそんなことをしてくるなんて、怪しすぎるだろ……
「何であんなことしたんだ?」
「生きるために」
「生きるため、ねぇ……なんか、もったいないよ」
「もったいない?」
「ビビったよ。俺にあれだけ迫れるなんてさ」
おそらく、あの路地裏での出来事を言っているのだろうが、普通の人間がそんなことを言うわけがない。
「何者?」
「君が仲間になるっていうなら教えてあげる」
「仲間?」
「仲間になってくれたら、今回の件はもみ消してあげるし、君の生活も保障する」
もみ消す? 生活の保障? 何なんだ、この男……
「仲間になって、何すんだ?」
「殺しの仕事だよ」
「こ、殺し……!?」
あまりにも平然と言うので本当のことなのだろうとは思うが、とても信じられない。本当だとしても、そう軽々と仲間になるわけがない。
「勘違いするなよ? 悪いことをしているわけじゃない」
「殺しは悪って、法律に……」
「俺たちは国にそれを認められた組織だ」
「認められた……?」
「信じられないかもしれないが、事実だ」
「でも、そんなの矛盾してる。国が決めた法律を、国が破るなんて……」
「それを裁くのも国だ」
国は正義であってほしいが、できないことではない。
「この国は治安の良さが売りだ。それを維持しているのは俺たちだ。その組織で新しい班を作ることになったが人手不足で。こんな仕事だからさ、大々的に人を集められないし、誰でもいいわけでもない」
そりゃそうだろうよ。表には出せないし、センスも必要だと思う。
「俺は君だから誘ってるんだよ」
「でも……」
自分が向いているとはとても思えなかった。
「倒れた理由、栄養失調だってよ。そのやせ細った体からするに、ほとんど食べて無かったんだろ? 少なくともこっちに来てからは。それとも、スラム街にいた時からか?」
「何でそれを……」
「調べさせてもらった。こういうのは得意なんでね」
「そう……ですか」
もう情報は握られている。今断ったとしても、国が認めた暗殺組織という極秘事項を知っている人間として殺されてしまうだろう。
「今のまま生き続けて、幸せか? 君は」
今までの人生、幸せだと思ったことは一度もない。だからと言って、死んでやろうと思ったこともない。でも、このまま生きていても仕方ないとも思う。だったら人生どうなろうが別にいい。
「……わかった。オレを仲間にしてくれ」
「いいのか?」
「脅してきたのはそっちだろ?」
「それもそうだな」
この男が、《慧眼》だった。
それからオレは養成所で訓練を受け、《黎明》として組織に所属することになった。
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