09 ベンチで休憩してたら、彼女に「甘えていい?」と言われまして

「あはは、外でこんなに走ったの、小学生の時以来かもっ」

「俺も。なんか子供の頃に戻ったみたいだ」


 俺とルイはふざけて公園のなかをしばらく駆けまわっていた。

 だけどさすがに疲れてきて、もとのベンチに戻ってきた。


 ベンチに深く腰掛け、今度こそジュースのプルタブを開ける。


「いただきます」

「どうぞどうぞ」


 同時にジュースの缶を傾けた。

 やや温くはなっていたけど、汗をかいたからすごく美味しい。


「はぁ……」

「美味しいね」


「うん。彼氏が買ってくれたジュースだからかしら?」

「それはもういいって」


 また頬っぺたジュースでイジられそうなので、笑ってルイの言葉を流す。

 

 一息つくと、彼女はジュースを横に置き、夕焼け空を見上げた。

 赤く染まった空にいくつもの雲が流れている。

 とても穏やかな空気が流れていた。


「あーあ、このままずっと涼介りょうすけといたいなぁ。どうせ家に帰っても一人だし」

「あれ? 家族の人は?」


「ウチ、共働きだから。どっちも朝は早いし、夜は遅いしで、毎日ちょこっと顔を合わせるだけなの」

「そっか……」


 それはちょっと淋しいかもしれないな。

 

 と思っていたら、隣からルイが流し目を送ってきた。

 美しい黒髪の間から宝石のような瞳が見つめてくる。


「涼介、今、『ってことはいつでも家に入り浸れるな』って思ったでしょ?」

「はいっ!? 思ってない、さすがにそれは思ってないから!」


「本当かなぁ。あたしの彼氏はエッチだからなぁ」

「いや俺ほど真摯な彼氏もなかなかいないと思うんだけどなっ」


「へえ、そうなの?」

「そうなの!」

「ふーん」


 からかうようにニヤニヤ笑う、彼女さん。

 ルイは黒髪を耳に掛けると、またジュースを一口飲んだ。


「まあ、そういうわけだから、涼介とこうしてるのは本当に楽しいんだ」

「ルイは兄弟とかいないんだっけ?」


「一人っ子。だから子供の頃もだいたい一人でご飯食べてかも。よく言う、鍵っ子ってやつ?」


 そう言い、ふとルイは思案顔になる。


「ああ、だからなのかな……人にすぐキツいこと言っちゃったり、あんまり人が近寄ってこないのは。根本的に人との距離感が分かってないのかも」


「そんなことないさ。少なくとも俺は今、ルイの隣にいて楽しいよ」

「…………」


 ルイは二、三度、虚を突かれたように瞬きをした。

 そして俺の二の腕を肘で小突いてくる。


「こいつめ」

「あいてっ。え、なに? なになに?」


「こいつめ、こいつめ」

「や、ちょ、本当になに!?」

「べっつにー」


 後頭部に手を当て、ルイは伸びをするようにベンチに深く背中を預ける。


「あたし、良い彼氏見つけたなー、と思って」

「えーと……褒められてる?」

「うん、すごく」


 よく分からないけど、ルイが嬉しそうなので良かった。


「涼介は?」

「俺?」

「家族とか」

「あー」


 一つ頷き、答える。


「ウチは普通かな。父さんは会社勤めで、母さんは専業主婦」

「兄弟は? 谷崎たにさきも言ってた気がするけど、涼介、なんかお兄ちゃんっぽいし」


「んー、っぽいかどうかは分からないけど、妹はいるよ。三人」

「さんにんっ!?」


 ルイが目を丸くする。

 ただ、俺からすると見慣れたリアクションだ。

 妹が三人いるというと、結構驚かれることが多いから。


「そう。中3と中1と小3」


 俺は腕を組み、家での生活を思い浮かべて、やや困った顔になる。


「中3は思春期真っ盛りで最近、俺に当たりがキツくてさ。中1は要領が良くて、よくお小遣いをねだられることが多いかな? 小3は甘えたい盛りだから、いつもくっついてくるよ」

「へ、へえ……」


 ルイは一人っ子ということなので、人数の多い兄妹のことは想像しづらいのかもしれない。


 呆気に取られたような顔で見られ、俺は苦笑してしまう。


「驚いた?」

「うん、ちょっとは……ああ、でもなんか分かった気がする」


「ん? なにが?」

「涼介が妙に面倒見よかったり、妙にキツいことに耐性あったり、妙に押しが強い時がある理由。つまり妹ちゃんたちで慣れてたのね」


 何か納得したようにルイは何度も頷く。

 一方、俺はあんまりピンとこない。


 そんなふうに妹たちから影響を受けてるとは思えないけどなぁ。


 などと思っていたら、唐突にルイが唇を尖らせた。


「でもそっかぁ。涼介は普段から可愛い女の子たちに囲まれてるのね」

「え、可愛い女の子たちって……妹だよ?」


「でも女の子でしょ? なーんか面白くない」

「ええー……」


 まさか妹たち相手にヤキモチを妬かれるとは。

 予想外にも程がある話だった。


 ルイは指先でくるくると髪を手いじりしながら、ジト目を向けてくる。


「あたしと妹ちゃんたち、どっちがいい?」

「比べられることじゃないって」


「強いてどっちかと言えば?」

「そりゃもちろんルイだよ」


「強いて言わないと、あたしじゃないんだ……」

「ええっ、なにそのトラップ!?」


 どっちに行っても落とし穴だった。

 このダンジョン、難し過ぎる。


 俺は困り果てて頭をかく。

 ルイはまだ唇を尖らせている。

 ご機嫌を直してもらうにはどうすればいいのだろう。


 少し考え、結局、素直に言うしかないと思った。


「ルイ」


 さすがに恥ずかしいけど、これしかない。

 軽く咳払いし、隣のルイにだけ聞こえる声で囁く。


「俺が好きなのは……ルイだけだよ」

「――っ」


 ボオッと燃えるように彼女の頬が染まった。

 きれいな瞳が右に左にさ迷う。


 かと思えば、顔を手のひらで覆い、ルイは体を縮こまらせた。

 まるで生まれたての小鹿のようだ。


 そして吹けば消えるような声でつぶやく。


「…………許す」


 許された。

 いやむしろ俺の感覚としては『勝った』という感じかもしれない。


 夕暮れ空を見上げ、彼氏としての勝利の余韻に浸る。

 そうしていると、ふいに制服の袖を引っ張られた。


 見れば、ルイが俯き、俺の袖を摘まんでいる。


「……ごめん。変なヤキモチ妬いて」

「いいよ。ぜんぜん気にしてない」


「そういう優しいところもお兄ちゃんっぽいのかも」

「うーん、そうかな」

「そうよ」


 まだルイは俯いてる。


「さっきも言ったけど……あたし、いっつも一人だったから、妹ちゃんたちが羨ましかったのかも」

「羨ましい?」


「そう……キツいこと言っても許してもらえたり、お小遣いねだったり、普通にくっついたり……そういう誰かに甘えること、ってあたし、得意じゃないから」


 ああ、とちょっと納得してしまった。


 ルイには気高い黒猫のような雰囲気がある。

 誰にも寄りつかず、誰も寄せつけず、孤高に生きてるようなイメージがずっとあった。


 それは誰かに甘えることとは対極な在り方だ。


「俺には甘えていいんだよ?」

「――っ」


 優しい口調で告げると、彼女は小さく息を飲んだ。

 顔を上げ、窺うような表情で見つめてくる。


「ほ、ほんとに……?」

「本当さ。だって俺、彼氏だし」


 手を伸ばし、袖を摘まんでいる彼女の手をそっと握る。


「甘えてほしいよ。もちろん妹たちに対する気持ちとはぜんぜん違う。彼氏として、彼女のルイをめいっぱい甘やかしてあげたい」


「め、めいっぱい……」


 かぁーっとルイの頬がさらに赤くなる。

 触れている指先までなんだか熱くなり始めたような気がした。

 それくらい、ルイのなかでは大きいことなのかもしれない。


 彼女はゆっくりと俺に向き直る。

 そして震える唇で言った。


「じゃ、じゃあ、あたし……」


 潤んだ瞳で。

 まるですがるように。

 彼女は告げる。



「あなたにいっぱい……甘えていい?」



 ものすごく庇護欲をそそられる表情だった。

 胸が高鳴り過ぎて、クラクラしてくる。

 俺は大きく頷いた。


 愛情に飢えているこの子を、思いっきり甘やかしてあげたい。


 心の底からそう思った。

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