第5話
鉛色の重苦しい空が覆い被さり、道路のアスファルトがあちこち剥がれ、その隙間から黄土色の土が見えていた。草木も見えない荒涼とした風景が目の前に広がっている。
遥か向こうまで続く道の先に何があるのかわからないが、夜よりも暗い闇がカーテンのように地平線を覆い、道路の脇には見たこともない大きなケモノの死体がいくつも横たわっている。
昨日と同じ悪夢。もっと前にも見たことがある気がする。いつだったかは覚えていないが、この光景は初めて見る光景ではなかった。夢とわかっているがまるで現実であるかのように感じる。全身に力を込め「起きろ、起きろ!」と何度も念じるが、目が覚めることはない。
千夏が後ろを振り返ると誰かが立っている。
ボロボロの白かったであろうワンピース。所々に飛び散っている赤茶色と黒のシミが嫌な想像をふくらませる。酷く傷んでボサボサの長い髪を前に垂らし表情を伺うことができないが、こちらを見ていることを本能的に察した。靴やサンダルは履いていない。足の爪は剥がれ、擦り傷だらけの裸足をずるりずるりと引き摺るようにそれは近づいてくる。ゴツゴツと端くれだった手には、錆びたナタのようなものを持っているかに見えた。
それが放つ恐怖に押しつぶされうまく息ができない。叫び声すら出せない。逃げなければ。それとは逆の方向に千夏は走り出そうとするが、脚が重くうまく動かせない。腰までプールに浸かっているかのように、走ろうとしても前に踏み出す動きが緩慢になってしまう。
ずるり、ずるりと足を引き摺り、腕や肩をぎこちなく上下させて、それはゆっくりと千夏に向かって歩いてくる。距離が徐々に近くなる。
ずるり……ずるり……
千夏は必死に走ろうとするが、その場で足踏みをしているかのように、一向に前に進むことができない。
どんどんと距離が縮まり、それの息遣いが聞こえてくる。
ずるり……
それが手を伸ばし千夏の肩をグッと掴む。腰まで長さのあるボサボサの髪の隙間から、それの顔があるはずの場所が、底の見えない真っ暗な穴の様になっているのが見えた。
***
———千夏は静かに目を覚ました。
その瞬間、全身の力が抜けていくのを感じた。
(生きてる……)
顎が痛い。ものすごい力で歯を食いしばっていたようだ。脂汗が全身を伝い、シーツまで湿っているのがわかる。ぐっしょりと湿ったパジャマが気持ち悪い。今が朝なのか夕方なのかもわからない。シャワーを浴びて着替えたいが、腕に力が入らず身体を起こせない。
ここ数日は何度も悪夢を見ている。今日見たような得体の知れない動物の死体の夢や、なにかに追われ死ぬことを実感する夢、どの悪夢も現実と区別がつかなかった。寝ることはおろか、目をつむるのですら怖くなっていた。
枕元のスマホに手を伸ばし、画面を点けると 3月11日の 23:58 だった。
(わたし、寝たのって今朝の4時だったっけ……)
ぼんやりとした記憶を辿ると、寝る前に時間を見ていたのを覚えている。すでに一日が終わろうとしていることが千夏には信じられなかった。意識を失うように眠りに落ちることもあれば、いつまで経っても眠れないときもあり、昼夜のサイクルと生活のリズムが、壊れてしまった機械のように噛み合わずにいた。
実家に帰ってきてすでに半年。はじめの頃よりも体を動かせる時間が増えてきてはいるが、動悸や胸の苦しさ、毎日のように見る悪夢など、回復の兆しの見えないことに対して苛立ちや不安が入り混じっていた。
眠りに沈めば死を実感するほどの悪夢が、目を覚ませば消えてしまいたい衝動や一向に良くならない体調への不安で心が休まる時間はなかった。
画面を見ると SNS の通知が来ていることに気がついた。しばらく更新していない SNS。通知はほとんど無視していたが、通知には見覚えのある名前が表示されていた。
「えっ、真希ちゃん?」
幼馴染の桜庭真希からの通知だった。生まれて初めての友だちだったし、勝ち気な性格の真希を、兄弟姉妹のいない千夏は姉のように慕っていた。
中学時代に疎遠になってからは、学校帰りの姿を見ても声をかけることができなかった。千夏には別の高校に進んだ真希が輝いて見えた。何人かの友だちといつも一緒で、仲が良さそうだった。友だち同士で遊びに行ったり、カラオケしたり、ショッピングをしたり、恋をしたり、青春を謳歌しているんだなと思った。
そうした姿を見る度に、いつも一人の自分が惨めに思えた。疎遠になった理由は千夏に心当たりはなかったが、きっと自分が悪いんだろう、そう考えていた。
真希からの友だち申請も、きっとなにかの間違いだと思った。
いつも輝いていた真希が、社会との繋がりが途絶え生きる意味を見失ってしまった自分に連絡を取ろうとするはずがない。それに、真希が間違って申請したことに気がつけば、そのうち申請を取り消すだろう。きっとそうに違いない。
いつも自分を惨めな人間だと思っていたし、自分を卑下してきた。自分ひとりでは何もできない。迷惑をかけてばかり。そう考えていた。
しかし、この申請が真希の意志によって送られたことを期待している自分がいることに千夏は気づいた。今でこそ疎遠になってしまった。でも姉妹のように育ち、いつも一緒だった。
真希の考えていることは手に取るように分かったし、自分が考えていることも真希にはしっかりと伝わっていた。真希が感じた心の痛みは自分の痛みのように感じたし、自分の心の痛みや悲しみは真希が一緒に泣いて癒やしてくれた。
今、真っ暗な部屋の隅で、膝を抱えて小さくなって座っているような自分を、元の世界に引き戻すために差し伸ばされた手のように思えた。ずっと前、子どもの頃に手を繋いだときのような温かく柔らかな真希の手。
あの頃の記憶を巡ったせいか、気がつけば涙が溢れ、頬を伝っていた。
もう一度、真希と話がしたい。
この申請が何かの間違いだったとしてもいい。また惨めに思えてもいい。初めて自分の気持ちに素直になれた気がした。
千夏は震える手で『承認』をタップした。
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