第3話

 カーテンの隙間から差し込む陽の光が眩しい。もう朝。わたし寝てたんだ……

でも、起きているような寝ているような感覚であまりスッキリしない。


メイク落としてシャワー浴びないと……


 あれ?腕が動かない。あ、脚も。か、金縛り?うつ伏せになっている身体。鉛になったみたいにすごく重い。腕も脚も力が入らないせいでピクリとも動かない。自分の身体じゃないみたい……。


 何度も何度も身体を起こそうと腕に力を込めるけど、ぜんぜん身体が言うことを聞かない。ものすごい力で上から押さえつけられているみたい。

 心と身体がバラバラになってしまったかのように、わたしの気持ちに身体がついてこない。カラダと言う牢獄にココロが閉じ込められてしまっているようだ。


 枕元のスマホに目をやると、普段乗っている電車が駅を出る時間だ。完全に遅刻。本当に最悪。会議もあるのに。わたし、なんのために生きてるんだろう。今こうして起きることもままならない事がすごく情けない。何もかも全部辛い。


 涙がとめどなく流れてくる。声を上げて泣く力も湧かない。横たわるわたしのこめかみを辺りを涙が流れ、枕が湿っていく。自分の心の温度とは裏腹に、顔を伝う涙は熱を帯びていた。


***


「はい、わかりました。ではお薬で調子を整えながら様子を見ましょう」


 どこか事務的に、そしてあっけなく診察が終わった。


 心が限界だったわたしは、誰かに助けてほしかった。この症状は何なのか、同じ経験をしている人がいないか、ネットで調べると、わたしの体調が鬱の症状と重なっていて、ああわたしは鬱なんだと思った。


 そして今日、ようやく駅に近い心療内科に行くことができた。予約を取ってから3週間が経っていた。


 医師から『あなたは鬱です』と言われて、まさか本当に鬱になってしまったんだと言う驚き、失望感があった。と同時に、『やっぱり』と少し安心している自分がいることに気がついた。驚きと失望の安心が入り混じった複雑な感情が沸き起こった。


 そして、これから先どうなっていくんだろうという不安が心に影を落としていた。

毎日言いようのない苦しさを感じるし、一日中、微睡まどろみが続き、おぞましいほど現実的な悪夢と不安の消えない現実とを行き来する日が続いた。わたしの心が安らげる時間はどこにもなかった。



 会計を済ませ、薬を受け取る。すでに昼を過ぎているが食欲がない。最後に食べたのは昨日の深夜、冷蔵庫にあったヨーグルト。賞味期限は前日だったが、コンビニに食べるものを買いに行くのが億劫で仕方なかった。


 アパートまでの一本道を重く感じる脚で身体を引きずるように歩いていると、電話が鳴った。スマホすらも重く感じて、ポケットから取り出すのも一苦労だ。


(お母さんだ)


 平日の昼間に電話に出たら心配掛けちゃうかな。でも……

藁にもすがるような気持ちで電話に出る。いつもの透明感のあるはつらつとした声だ。


『千夏、元気?』

「え、う…うん。元気、だよ……」

『……そう。でもお母さん、そんなふうに聞こえないな』

(お母さん……)

「そう……かな……?」

『あのね、千夏。辛くなったらこっちに帰ってきてもいいんだよ』

「えっ」


 もやのかかったわたしの頭でも、この会話だけは忘れない。お母さんの声を聞いて安心したこと、もう一人で苦しまなくていいんだ、って思えて救われたこと。道端でボロボロに泣いていたわたしは、きっと周りから変な目で見られていただろう。


***


 数日後にお母さんが上京してきた。


 初めて東京に来たらしい。わたしの住んでいるところは郊外なのに、すごく都会ね、なんて言って目をキョロキョロさせていた。それが少し可笑しくて、ぎこちなく口角を上げフフッと笑うことができた。最後に笑ったのはいつだろう。笑い方も忘れていたみたいだ。


 お母さんは掃除やご飯を作ってくれたり、引っ越しの準備や諸々の手続きをしてくれた。わたしの部屋は足の踏み場も無いくらいに荒れていた。いつ脱いだのかわからない着替えや、飲みかけのペットボトル、郵便受けに無造作に突っ込まれていたチラシが乱雑に散らばり、わたしの荒んでいる心を映し出しているかのようだった。

 こんな部屋を見せたくはなかった。この有様を見た時、お母さんはどんな気持ちだったかを考えると心が痛む。


 わたしをあざ笑うかのうような久しぶりの晴天。梅雨が明けてから一気に気温が高くなった。お母さんが窓を開けると『気持ちいいねえ』と太陽のように微笑む。海の底のように重く鬱屈とした部屋に、乾いた風が入り込んでくる。


 子どもの頃に嗅いだ、草の青々としたような懐かしい匂い。時折勢いよく風が流れ込んでは、ときに優しく撫でるようにわたしを包みこみ、慰めているように感じた。


 数日一緒にいてくれたことで、少し元気が湧いたわたしは退職願を出すことができた。会社の方が配慮してくれて、即日受理された。もうこのカビ臭いエレベーターに乗ることも、この地下鉄の駅に降り立つこともないんだなと思うと、心の重荷が少し軽くなった気がするし、少し寂しくもあった。


 専門学校を卒業し、上京した頃は希望と夢に満ちていた。自分の仕事でお客さんを感動させるんだって。でも、そんなものはただの夢でしかなかった。現実に夢と希望を打ち砕かれ、わたしの東京での生活は彩りと心を失って幕を閉じた。

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