第2話
「一ツ森さん。ちょっといい?」
息の詰まりそうなオフィス。マネージャの声が背中越しにわたしに突き刺さる。この声の感じ、いい予感しないなあ……
「はい」
ここ数日、先輩でプロジェクトマネージャの田村さんはかなりピリピリしている。無理もない、プロジェクトの進捗が思わしくないからだ。それに、進捗が悪いのはわたしのせいでもある。書きかけになっているシステムの設計書は入力のカーソルが点滅し、わたしが書き上げるのを急かすかのようだ。
「設計書、いつできるの?」
マネージャがパソコンに向かって作業を続けたまま、わたしに尋ねる。本来のスケジュールなら、設計書は3週間前にできあがっているはずだった。
「はい、今日中には……」
キーボードを打つ手が止まり、その切れ長の目でわたしの目をじっと見た。
「今日中って何時?」
穏やかな口調を装ってはいるものの、田村さんのその目は笑っていない。その視線はわたしの心を突き刺している感じがして息が苦しくなる。田村さんからの指摘はいつも、わたしが答えにくいことを的確に突いてくる。
「え、えっと……」
その一言を口にしただけで、口の中がカラカラに乾くのを感じる。後ろの壁に掛けられたデジタル時計が22:43を表示しているのが見えた。
「23時半には……」
「明日の定例会議には間に合うってことでいいのね?」
明日は朝からお客さんとの定例会議がある。お客さんの要件がきちんと設計に反映されているか、要望と設計に認識のずれが無いかをチェックする事になっている大事な会議だ。設計書ができていないと、会議どころかプロジェクトが前に進まない。
「はい、必ず間に合わせます」
「あ、そう」
そう言うと、田村さんはまた視線を戻し、止まっていた作業を始めた。それを見たわたしは重い足取りで自分の席に戻り、深く腰を掛ける。いつからだろう、頭の中に
大きなため息が出た。肺に溜まっていた淀んだ空気を吐き、オフィスの淀んだ空気をまた胸いっぱいに吸い込む。
お気に入りのマグに入れた飲みかけのコーヒーもすっかり冷めてしまった。わたしはそれを一気に飲み干す。空っぽのお腹にコーヒーが溜まっていくのがわかる。喉の奥になにか引っかかるような、つっかえるような感覚があってうまく飲み込めなかった。
気がつくとオフィスに居るのはわたしと田村さんだけみたい。こじんまりとしたこのオフィスの静寂が苦手だ、窓も締め切っているからか息苦しい。東京の梅雨はまだあけないらしい。5日も連続で雨が続いているせいか、オフィスに漂う淀んだ空気が湿り気を帯びているような気がする。
専門学校でWebデザインを勉強してきたが、実際就いた仕事はそれをあまり活かせない仕事だった。Web制作部は人が足りていたらしく、希望者がいなかったシステム開発部に配属された。
なんとかなるだろうと考えていたが甘かった。配属されて1ヶ月ほどの研修をしても、先輩の話していることが理解できなかった。学校を卒業しても毎日のように勉強している。でも何もかも足りない。専門知識も努力もコミュニケーション力も、何もかも。
***
23時半ギリギリに田村さんに設計書を提出できた。内容に目を通してもらっている間は生きた心地がしない。
「……それじゃあ、とりあえず明日はこれで」
「はい、ありがとうございました」
なんとかOKだったみたい。よかった……。でも、田村さんの目は何か言いたげだった。何かを指摘されても、もうそれを直す気力がない。自分が書いた文章をうまく読めないくらい、わたしは疲れ切っていた。それを察してくれたのだろうか。チェックの時に何も言われないのは珍しかった。
とにかく、やるべきことはなんとか終えることができた。今日は終電間に合いそう。自分のデスクを簡単に整理し、帰り支度をする。
「お疲れ様でした。お先に失礼します」
「お疲れ様」
無機質な田村さんの返事。
少しカビ臭いエレベーターでビルのエントランスに降り、目と鼻の先にある地下鉄の入り口を目指す。もう駅の構内を歩いている人は少なかった。重い足取りで改札を通ると、終電が駅に入ってきた。
座席に腰を下ろすと、一気に疲労感が出てきた。
車内のジメッとした空気がまとわりつく。身体も頭もずしりと重く感じる。アパートにつくのは1時近くかな。そう考えるとメイク落としてお風呂に入るのも面倒臭い。
早く寝たいな。
そう言えば会社のマグカップを洗うのを忘れてきた。あ、明日は燃えるゴミの日だっけ、今度こそ出さなきゃ。あぁ、何もかも面倒。何も考えたくない……。
鈍く回転する頭で考え事をしているうちに、ゆっくりと電車が動き出す。
思えばここ1年くらいずっとこんな感じだ。毎日のように終電で、22時に帰ることができれば早い方だ。一緒に入社した同期の美波と仕事帰りによくご飯に行ってたっけ。でも最後に行ったのはいつだったのか全然思い出せない。その美波も先月会社を辞めてしまった。Web制作部の先輩と揉めていたらしい。
気が強かったからなあ、美波は。
わたしも転職を考えたけど、会社を辞めることを話すのは勇気がいるし、なかなか決心がつかない。それに会社に残る後輩にも迷惑がかかる。ぐるぐると考えが浮かんでは消えていく。答えの出ないことを考えていると電車がスピードを落とし始めた。
「…駅。お出口は右側です」
聞き取りにくい車内のアナウンス。ぼんやりと窓の外を見ると、見覚えのある看板が流れていくのが見えた。もう直ぐ駅に到着するようだ。
電車のドアが開くと、まばらに乗客が降りだした。こんな時間まで仕事をしているのはわたしだけじゃないんだ。
改札を出ると人の気配がなく静まり返っている。こちらとは反対側の出口は再開発が進んで賑わいを見せている。
こちら側の出口は昔ながらの街並みが今もそこにあり、静かさを感じる。この世界にわたしだけ。一人ぼっちになってしまった気がする。
近くの住宅地はすっかり寝静まっていて、コンビニの煌々とした明かりがかろうじて人の気配を感じさせる。
アパートまでの一本道。果てしない距離を歩いている気がする。歩いているだけなのに胸が押さえつけられているように息苦しい。静まり返っているアパートで物音を立てないようにそっと郵便受けを確認する。
息を殺して階段を上がり、静かに部屋に入ると踏み場のない床を強引に突き進み、バッグを床に放り投げ、ベッドに身体をなげうった。
投げ打った勢いで身体がサイドテーブルにぶつかり、目覚まし時計が床に落ちる。落ちた衝撃でベルの派手な音がリンとなり、電池が散らばる。
その瞬間、堰を切ったように、涙が溢れてきた。何が悲しいとか、何が辛いとか、よくわからない。だけど今この瞬間がたまらなく苦しい。
仕事も、田村さんの視線も言動も、周りに迷惑かけていることも、電車に乗るのも怖い。後輩のほうが仕事ができるし、わからないことだらけだし、休日は疲れ切ってしまい、夕方まで寝ているのが当たり前になっている。
わたし、なんの為に生きているんだろう。枕に顔を押し付け、嗚咽がもれないようにした。そして、わたしの
気づくと、帰ってきた格好のまま朝になっていた。
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