第4話

2

 

夜中の一時を過ぎた頃。

 ようやっと西にしおぎくぼにあるマンションに帰った俺を迎えたのは、若い女の憤慨した声だった。

「何この男、女の子みんなにいい顔してっ。起業家だか何だか知らないけど調子に乗ってるんじゃない? イライラするわぁ」

「……ただいま」

 恋愛リアリティーショーを見ながらひとり声を荒らげていた琴子が、ぱっとこちらに顔を向ける。

「あ、祐一。おっかえりー」

 一転して上機嫌な顔になった彼女はソファから立ち上がるや、俺の方へと小走りで駆けてきた。ふわふわのパーカーにショートパンツという、女子に人気らしいパジャマ姿だ。もっともこれは、店で購入した代物じゃあないんだが。

「今日はいつも以上に遅かったじゃん。ご飯は?」

「コンビニで買ってきた」

「どれどれ……え! また冷凍パスタっ?」

「最近の冷凍ものはうまいんだよ」

 レジ袋をのぞきこんでいた琴子はあわれむような目つきで俺を見た。

「あんたさあ、こんなんばっか食べてたらいつか体壊すよ? お昼は? 何食べた?」

「ラーメン」

「昨日のお昼は?」

「牛丼」

「オジサンなの……?」

「うるさいな、何も食べないよりいいだろ」

 俺は早々とめんたいパスタの袋を取り出し、電子レンジのスイッチを押した。

 そこではたと違和感に気づく。

「あれっ。冷蔵庫に貼ってあったお札は?」

 京都へ出張に行った際、立ち寄った寺で買った護符がないのだ。朝マンションを出る時は間違いなく貼ってあるのを確認したのに。

 すると琴子はおちょくるように下顎を突き出し、目でキッチンの隅を差した。

「捨てましたぁ」

「な、お、お前、バチ当たりなっ。あれはつのだいっていう偉いお坊さんの姿を描いた護符だって言ったろ? 出張に行く時わざわざ調べて買ってきたんだぞ」

 俺は慌ててごみ箱の方に走り、蓋を開ける。

 ところが。

「何がバチ当たりよ。失礼しちゃうわね」

 ばんっと音を立てて、開けたそばから蓋が独りでに閉まった。手を挟まれそうになった俺は反射的に身を引く。

 小刻みに揺れるごみ箱。

 見れば琴子もぷるぷると、怒りに身を震わせていた。

「お札って言うけどあんた、あれはけじゃんか! 鬼とか疫病を寄せつけないようにするやつ! どうせあたしをはらうために買ってきたんでしょ」

「うん、そうだよ」

「そうだよじゃないわよ! 何、あたしは鬼なの? 魔物なの? ウイルスか何かなのっ!?」

 ひどいっ、と叫ぶなり琴子は両手で顔を覆った。

「こんなに清廉潔白で美人なぴちぴちギャルをつかまえて、鬼扱いするなんて」

「だからってごみ箱に捨てなくても」

「何て可哀相なあたし。ああショクダラさま、巫女はとっても哀しいです。祐一なんか若ハゲになっちゃえばいいんだ……うっうっ」

 ピーッ。

 電子レンジの音が鳴ったので、俺は食事の準備に戻ることにした。

「ちょっと! 無視しないでよ!」

「やっぱ泣いてねえじゃん」

「そっ、それはその、そう、心で泣いてるんだから。本当だもん」

 パスタを取り出すと黙ってソファの方に向かう。琴子はなお歯切れ悪く文句を言いながら、両腕を広げて通せんぼをしてきた。

 こんな時はいつも苦笑してしまう。

 負けん気の強いところは昔から変わらないな、と。

 俺はため息をつきつつ足を進め──、すっと通り抜けた。

「あっ、ずるい! まだ話は終わってないのにッ」

 井ノ口琴子は十五年前に事故で死んだ。

 だから今の彼女は、生きた人間じゃない。

 死後、幽霊になって、俺に取り憑いているのだ。

 冥婚相手に当時十二歳だった俺を指名した琴子は、冥婚の儀式が終わって以降なぜかずっと、俺の「妻」としてこの世にとどまっている。死去した十七歳の姿のまま、だ。

 冥婚は形だけのものと、俺はそう聞かされていた。独り身のまま死んでしまった巫女の魂を慰め、成仏させてやる儀式なのだと。冥婚相手となる婿には何の影響もないはずだと。

 なのに実際はどうだ。

 成仏どころか琴子は今もこうして俺のマンションに居座り、生きた人間さながらにテレビを見て、着替えをして、俺の食べるものにまでケチをつけてくるじゃないか。とはいえそこはやはり幽霊なので、生者とまったく同じというわけにはいかなかったが。

「祐一のボケナスっ。あんな護符、二度と買ってこないでよねっ」

 琴子は俺の隣に座り、こちらをぽかぽかと殴りつけてくる。しかしそのこぶしは俺に当たらない。

 立っている時も座っている時も、よく見ると彼女の霊体は常に数センチ浮いている。生きていた頃の癖が抜けないのか、歩く素振りはまるきり生者のそれだが、しかし琴子の足裏が床につくことは当然ないのだった。

「幽霊って、足あるんだよな……」

「何よ今さら?」

「生きてる人間からすりゃ、いつ見てもしみじみするもんなんだよ。お前さ、そんなに足出して肌寒くないの」

「そりゃあ高校に通ってた頃は真冬でも関係なく生足だったし、慣れっこっていうか?」

「そういうことじゃなくてさ」

「……幽霊なんだから寒さなんて感じるわけないじゃん。わかってるくせに」

 琴子には実体がない。だから触れようとしたところですり抜けてしまうだけだし、霊感がない人には認識さえされない。幽霊になるとは、そういうことなんだろう。

 しかしながら、巫女であった琴子は「そこらの幽霊」とは一線を画していた。

 よくイメージして念じれば好きな服装に着替えることができる。今まで何度となく見てきたが、ぱっと服が変わる瞬間はまるで手品だ。

 その他、物に直接触れることはできないけれど、動かすことならできる。テレビのリモコンを操るくらいはお手のもの、本を読んだり掃除機をかけたりも可能である──これはポルターガイスト現象、と言ったらわかりやすいだろうか。昔どれだけの重量まで動かせるか二人で実験してみたのだが、どうやら五キロまでならいけるらしかった。

 こうした能力を発揮して、琴子は忙しい俺の代わりに掃除や洗濯をこなしてくれていた。さらには映画館に行ったり好きなバンドのライブや美術展に行ったりと、東京の暮らしを自由気ままに満喫してきた。もちろんどこに行っても無料、いつでも特等席で娯楽を楽しめる。見えないのだから誰に咎められることもない。壁をすり抜けられるのは、俺も時々、羨ましくなる。

 幽霊になっても琴子が誰かを呪ったり祟ったりすることは決してなかった。極めて無害な霊と言えるだろう。

 とはいえ、だ。

 これじゃ冥婚をした意味がないじゃないか。

「うっわ、あんな思わせぶりな態度しといて結局フるの? この男やっぱり最悪だわ」

 明太子パスタを呑みこみながら俺は横目で琴子を見やる。当の琴子は恋愛リアリティーショーに夢中のようで、テレビに向かってああだこうだと息巻いている。

 魂を慰めるための冥婚なのに、琴子はいつまで経っても成仏する気配がなかった。そうして今まで十五年も幽霊をやっているのだ。

 そりゃあ家事をしてもらえるのはありがたいが、幽霊との同居生活なんてどう考えても普通じゃない。いくら幼い頃から気心の知れた相手であろうと、死んだ人間が、妻として隣にいるなんて。

 だから俺は今まで散々調べてきた。どうすれば琴子を成仏させられるかと試行錯誤してきた。色んな神社や寺でとうしてもらったし、霊験あらたかとされるお守りやお札を片っ端から入手した。

 だが結論、琴子の機嫌を損ねるだけで、効果を発揮したものはゼロだった。

 遅い夕飯を食べ終えた俺はタバコを一本くわえ、百円ライターをつけようとする。

 すると突然、

「きゃあっ」

 琴子がはじかれたように立ち上がったものだから、驚いた。

「祐一、やめてよ近いっ」

「あ……そっか。ごめん」

 俺は急いでライターのやすりから親指を離した。

 気ままな幽霊ライフを楽しんできた琴子だが、ただ一つ死んでから苦手になったものがある。火だ。コンロを使うなんてもってのほかで、生前は得意だった料理ができなくなったと常々ぼやいていた。俺は考え事をしていたせいでそのことを失念していたのだった。

 ならベランダに出ようと立ち上がるや、琴子はあからさまに嫌な顔をする。

「そろそろタバコはやめたら? 税金だってどんどん上がってるんでしょ」

「千円を超えたら考えるよ」

「それっていつの話? まったく、もっと野菜を食べなよって言っても聞かないし、仕事から帰ってくるのだって前以上に遅くなってるし。いつか本当に倒れちゃうんじゃないかってこっちは心配なんだけど」

「何で琴子が心配するんだよ」

「何でって……祐一の奥さんだもん、当たり前じゃん」

 奥さん、ね。

 思わず鼻で笑いそうになった。

 俺にしてみれば、琴子との生活はルームシェア程度の感覚でしかなかった。幼い頃は美人ではきはきとした物言いをする年上の琴子にあこがれを抱いたものだが、それも恋愛感情ではなかったように思う。実年齢が十歳上になってしまった今でも、彼女は同郷のおさなじみであり、それ以上でも以下でもない。

 一方で琴子は事あるごとに俺の「奥さん」を称したがる。が、果たして本気なのかと言えば絶対に違うだろう。琴子にとっても俺は弟のような存在でしかないはずなのだから。

 本音を言おう。

 俺は口うるさい琴子がたまに、うっとうしく思えるんだ。

「最近は終電も間に合わないみたいだけど、弁護士ってそんなに忙しいもんなの? あっ、もしかしてあんた、浮気してるんじゃないでしょうね?」

「ベランダ行ってくる」

「待ってよ祐一っ。あのさ……今年のお盆も、実家に帰らないつもり?」

 お決まりの質問だった。

 俺はあいまいに頷いてベランダに出ると、後ろ手に窓を閉めた。

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