第5話

3

 

弁護士の仕事は激務だ。

 司法試験に合格し、司法修習を終えたからといって、仕事ができるようになると思ったら大間違い。法律は毎年変わる。裁判例も増えていく。読むべき法律雑誌や論文も多い。それらを確認しつつ、知識のアップデートを逐一やっていかなきゃならない。裁判官の心情に訴える表現力、資料をまとめ上げる文章力の修練も必須だし、時には一日で一万字の大作を書き上げることも。文筆家もかくやと思える文量だ。

 加えてフットワークの軽さも弁護士として欠かせない要素の一つだろう。裁判所に赴き、刑事事件の場合は警察署ないし拘置所に赴き、依頼人を訪ねて郊外に通い詰めることだってざらにある。時間との勝負になることも少なくないから、いかに身軽でいられるかが肝だ。

 東京という人がひしめきあう大都市では、日々何かしらの事件が起こる。そうして弁護士のもとへ依頼が舞いこんでくる。面倒だな、なんて一瞬でも考えてしまったらその時点でアウト。止まったが最後、きっとそこから動けなくなるだろう。

 まるで終わりのないマラソン──言ってみれば弁護士の仕事は過酷で、ある意味、つまらないものかもしれない。

 少なくとも俺はドラマチックな裁判劇なんて一度も体験したことがなかった。裁判はおおかたが単調で、さらりと進んでいくもの。でなければ裁判所も時々刻々と増えていく事件すべてを捌き切れないだろう。毎度どんでん返しをはらんだ展開や手に汗握る法廷バトルが繰り広げられた日には、さすがの裁判官だってへきえきするに違いない。というか俺なら絶対、嫌になる。

 詰まるところ弁護士という仕事は地味かつ途方もない量の仕事をどれだけ真面目に、こつこつやり続けられるか、というのが一番大事なのだ。

 そして忘れてはならないスキルがもう一つ──。

「もしもし? ああどうもお世話になっております、丸綜合法律事務所の吾妻です。相続の件でお電話したのですが……いやですからお祖父じいさまの相続を……ちょ、何ですか? おっしゃっている意味がよく……」

 弁護士に必要不可欠なもの。

 それは対人スキルである。

「落ち着いてください。他の相続人の方々とめて感情的になってしまう気持ちはよくわかりますが、はい……ええそうです、こちらにも相続の権利があるということを私が代わって主張しますから、どうか早まらず……はっ? 殴りこみ⁉」

 依頼人の気質は十人十色。呑みこみが早く一を言えば十を理解してくれる人もまれにいるが、こっちの話を理解しようとしているかすら怪しい人間や、感情任せに泣いたりわめいたり、何を言っているかまったく不明な人間も少なくない。

 それら話の通じない人たちにも根気強く法律を説き、親身に寄り添うことが求められるのだから、弁護士は精神的にもタフでないとやっていけない。

「……はい、ええ、ではそういうことで、またご連絡しますね。失礼いたします」

 受話器を置いた途端、どっと疲れが押し寄せた。

「はああぁ」

「ねえねえ祐一、これ見てよ。めっちゃ可愛くない?」

 半目で後ろを振り返る。

 執務スペースの隅には琴子の姿があった。

 物置にしている椅子の上に足を組んで座り、タブレットとタッチペンを器用に操って雑誌を読んでいる。霊感がない人の目にはタブレットが宙に浮いているように映るだろう。

 執務スペースが区切られていてよかったと、今日ほど強く思ったことはない。もっと欲を言えばドアが欲しいところだけれども。

「ほらっ、このワンピース。こういうロング丈も大人っぽくていいなあ。でもちょっと体のラインが出すぎかも……どう祐一? あたしでもいけると思う?」

 俺はうんうんと適当に頷いてみせる。まともに会話したら隣の執務スペースにいる兄弁に頭がおかしくなったと思われるだろう。幽霊の声は聞こえないのが普通なんだから。

 琴子が事務所までついてきたのは、今日が初めてのことだった。弁護士の仕事には少しも興味がないはずの彼女だが、

 ──あの恋愛リアリティーショー、だいたい見尽くしちゃって暇なんだよね。

 ──じゃあいつもみたいに映画館とか行けばいいだろ。何だって俺の仕事場に……。

 ──幽霊だってたまには新しい世界を見て刺激を得たいもんなの!

 だ、そうだ。

 まったくいいよなあ、幽霊ってのは。何のしがらみもなくて、自由でさ。

 そうして琴子は嫌がる俺と一緒に電車に乗り──幽霊はポルターガイスト現象を起こせても瞬間移動テレポーションはできないらしい、微妙に不便だ──書類だらけの事務所で今、悠々とくつろいでいるのだった。

 本来、弁護士には守秘義務があるから事務所の人間以外を執務スペースに入れるのはご法度である。その点、琴子に関しては余計な心配をせずに済む。だから、極めて不本意だが、よしとしておこう。どうせ帰れと言ったところで聞かないんだろうし。

 それにしても人があくせく仕事をしている最中にファッション雑誌とは。

 刺激が欲しいだの言ってたくせに、お気楽というか、何というか。

「これが新色のアイシャドウかあ。いいなあ、可愛いなあ。ほら、あたしってメイクも念じればできちゃうけど、なかなかこんな風にはいかないんだよね。どうしてモデルさんって睫毛がうまくセパレートするんだろ。やっぱ生まれつき? それとも使ってる道具がすごいのかな?」

 なあ琴子さんよ。こちとら、仕事中なんですが。

 返事のできない俺は近くにあった紙をひっつかむとペンで大きく「静かにしてくれ」と書きなぐる。それを琴子に見せようと体をひねった時だ。

「失礼します吾妻先生、第一会議室に佐々木さんがお見えに──」

 秘書の沖原さんが、執務スペースの入り口に立っていた。

 振り返った俺はタイミング悪く彼女と向かいあう格好で停止する。

 沖原さんの目が俺の持つ紙へと動いていき、書かれてある文字を読み取るや、あっという間にしかめっ面ができあがった。

「……ごめんなさい。集中を切らしてしまいましたね?」

「や、ちが、これは」

「今度から気をつけます。静かに、そぉっと、声をかけますから」

 含みのある声で言い置くと、沖原さんは勢いよくそっぽを向いて立ち去ってしまった。

 何事かと琴子が俺の正面にまわりこんで来る。

「〝静かにしてくれ〟……? ちょっと、ひどいじゃん祐一! 言いたいことがあるなら口で言えばいいのに。あの人、絶対傷ついてるよ」

 お前へのメッセージだっつうの。

 そう反論するのもおつくうになって、俺は紙を乱暴に丸めた。


「お待たせしてすみません佐々木さん。砂糖かミルクはいりますか?」

「ああブラックで結構です。このコーヒー、吾妻先生が淹れてくれたんですか」

「いえ、うちの秘書が淹れたんですけど……」

 佐々木の前にカップを置きながら、ひっそりと肩を落とす。

 あのあと弁明をしなければと大慌てで給湯室に向かったのだが、沖原さんは俯き加減でほとんどこちらの話を聞いていなかった。せめてものびにコーヒーは自分で持っていくと告げたところ、

 ──わたしって、吾妻先生の足手まといなんですかね?

 と、ちようするような答えが返ってきたものだから困った。

 秘書は弁護士業務をする上で欠かせない存在だ。自分ひとりでは手がまわらない事務処理を引き受けてくれるし、スケジュール管理や面倒な書類整理をやってもらうこともある。相棒とは言いすぎかもしれないが、縁の下の力持ちであることは間違いない。

 そんな秘書との仕事を円滑にするべく、俺は今まで可能な限り感謝を伝えてきたつもりだった。出張先で買った土産はいの一番に渡し、年齢や立場はさておき丁寧な言葉づかいを心掛けてきた。そうやってお互いに気持ちよく仕事ができるようにと苦心してきたのに、それなのに!

 俺はテーブルの端をじろりと見やる。

 会議室にまでついてきた琴子は俺の心境も何のその、テーブルに腰かけて両足をぷらぷら遊ばせ、窓の外から見える景色を眺めていた。

「先生? どうかしたんですか」

 佐々木が不思議そうな顔で俺の視線を辿る。

「ああいや、何でもありません。それでは裁判の打ち合わせをしていきましょう」

 よほどの霊感の持ち主でない限り琴子を見ることはできない。佐々木も例にもれず霊感がないようなので安心だが、肝心の琴子には、仕事の邪魔だけはしないようにと願うばかりであった。

「とうとう裁判の日まで残すところ十日になりましたね。依頼していただいた当初は協議離婚の予定でしたから、まさか裁判にまでもつれこむとは思っていませんでしたが」

「申し訳ないです先生。色々と、お手数をおかけして」

 今日の佐々木はやけに大人しい。裁判が近くなって緊張しているんだろうか。

「いえ、双方が納得できるよう調整するのが我々の仕事ですから。ところで向こうの弁護士から聞きましたが、奥様の意思は今も変わっていないとか」

「そう、みたいです」

「まあ和解するにも難しい段階ですけどね……しかしこれだけの証拠があるというのに、なぜ奥様はあれほど頑として離婚に応じなかったんでしょう。裁判にもつれこんだところで勝ち目はないでしょうに」

「……さあ」

 言って、佐々木はコーヒーへと目を落とした。


※この続きは、書籍『冥婚弁護士 クロスオーバー』でお楽しみください。

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冥婚弁護士 クロスオーバー 夏原エヰジ/小説 野性時代 @yasei-jidai

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