第2話
「……さあ、ご
母に促されるまま、俺はろくに焼香を上げることもできずその場を後にした。
祭壇の横では喪主である琴子の父親、井ノ口
琴子の母、つまり先代の巫女は、琴子が中学に入学したと同時に他界している。それからというもの琴子は父親と二人暮らしだった。
「吾妻さん、いらしてくださったんですね」
「はい。このたびは急なことで、何と言うたらええんか」
「琴子ちゃんはまだ十七やったんにね……」
うちの両親が語尾を細らせるのを察し、井ノ口のおじさんも目を伏せた。
「わたしもあまりに突然のことで、正直、気持ちが追いついていません。妻を亡くしてからずっと、あの子には苦労のかけどおしで申し訳ないことをしてしまった。来年には東京の大学を受験して都会暮らしを楽しむんだって、方言を抜く練習をしたいから協力してよって、あんなに嬉しそうにしとったんに。人生これからって時に、こんな……」
黙りこくる両親の横で、俺はずっとしゃくり上げていた。
井ノ口のおじさんはそれに気づいたらしく、つとこちらへ顔を向けた。
「祐一くんも、来てくれてありがとう。琴子のために泣いてくれてありがとうな。あの子はどこか君のことを弟みたいに見とる節があったさけ、きっと喜んどるよ」
琴子にも兄弟姉妹がいなかった。だからだろうか、近所に住む五つ下の俺を構いたがり、何かと世話を焼きたがった。年上の琴子にあれこれ言われているのを友だちに見られるのが嫌で、小学生になってからはそっけない態度ばかり取っていたことを、俺はひどく後悔した。
「村の皆さんにお伝えしとるんですが」
そう言って、おじさんはうちの両親へと目を戻した。
「本来であれば、巫女の死に際して昔ながらの葬送の儀を行うべきでしょう。けれど……それができる巫女は、もういません」
なぜなら琴子は、天咲村で「最後の巫女」になってしまったのだから。
「巫女の血筋が途絶えるのはわたしにとっても哀しいことです。ですがこの先、他の誰かを巫女に仕立て上げることはしないでおきませんか。昔と違って巫女に課せられるしがらみは減りましたし、琴子自身も巫女として生きることに不満を抱いとる様子はありませんでした。けれど、古い因習というものは、時代の変化に伴ってなくなっていくべきだ」
琴子は天咲村の因習とともに、この世を去ったのかもしれない。ショクダラさまも必ずや理解してくださるだろう──最愛の一人娘を喪った彼の言葉には、これ以上ない重みが込められていた。
とはいえ、とおじさんは周囲を気にしつつ声を落とす。
「琴子が死んだからといって因習をばっさり捨ててしまうわけにもいかんでしょう。一週間後、村の集会所にいらしてください。そこで琴子の〝遺書〟を開きます」
俺の両親が
「……わかりました。また、一週間後に」
それからしばらくして他の弔問客もみな着席し、
北陸で主に信仰されるのは
配られた紙を見ながら、参列者全員で
──遺書、か。
なぜ高校生の琴子が遺書なんてものを残していたのか、村の外に暮らす人であれば誰もが疑問に思うことだろう。
未婚の巫女が死去した際、天咲村には特殊な
それが「冥婚」。
死者となった巫女の魂を慰めるべく、生者と
未婚の巫女は冥婚を取りこぼしなく行えるよう、自身に万が一のことがあった時を見越して遺書をしたためておく。そこには「誰と結婚したいか」が書かれるらしい。昔であれば婿に指名された村人に拒否権はなかったそうだが、今はそうとも限らないのだとか。
ともあれ、琴子も例によって中学一年生の時、すなわち母親が亡くなって巫女の座を継いだ時に遺書を書いてあったのだろう。
──遺書。自分が死んだ時のための手紙……それが琴子ねえちゃんの、最後の言葉になるんや。
読経とすすり泣きの声が満ちる中、俺はぼんやりと視線をさまよわせた。弔問客の大半は高校生だが、間にちらほら村の人々がまじっている。僧侶の声にあわせ正信偈をつぶやく彼らの顔には深い哀しみと戸惑いが
共同体ってものは中の人数が少なければ少ないほど結束が強まっていく。先祖の代から天咲村で暮らす住人は今や二十世帯ほどにまで減っていた。県外に越していった人たちも少なくなかった。だからなおいっそう、皆で琴子のことを大切にしてきたのだ。
巫女として、そして何より、村の一員として。
「うう……ぐっ」
ふと、斜め前方に見知った顔があるのを見つけた。人目も
残った村人の中で若者と呼べるのは輝明と琴子、俺の三人だけだった。そのため琴子の婚約者には最も歳が近い輝明が選ばれていたのだが、うちの両親から聞いた話によればフィアンセになったのは強制ではなく、むしろ輝明の熱烈なアピールがあったかららしい。小さな頃から美人だった琴子に、同じく幼かった輝明が「ぼくのお嫁さんになって」と顔を見るたび言い募り、当の琴子もまんざらではない様子だったそうだ。そうして二人は将来を誓いあう仲になった。
ずっと前に一度だけ、輝明に尋ねてみたことがある。
──琴子ねえちゃんの何がそんなにいいの? やっぱり美人だから?
──くっく、祐一くんは見た目どおりのお子ちゃまだね。外見で美醜を判断するなんてさ。
──びしゅーって何?
──
喩えなんぞ何でもいいが、とにかくそれほどまでに大好きな女性がある日、唐突に亡くなったのだ。俺はそれまで恋なんてものをしたことがなかった。早くから県外の学校に進学した輝明と関わる機会もほとんどなかったけれど、号泣する彼を見ると琴子が死んだという事実が胸の奥深くまで染みていくようで、居たたまれなくなった。
遺書をしたためる時、琴子はどんな気持ちだったのだろう。決まり事とはいえ若くして遺書を書かねばならない状況にきっと苦笑していたはずだ。誰と結婚したいかなんてことを書くのは恥ずかしすぎる、とひとり
冥婚ができたなら、琴子はあの世で心穏やかに過ごせるんだろうか。そうならいい。そうであってほしい。
──琴子ねえちゃん。今まで本当に、ありがとう。
俺は遺影の中で笑う彼女を見つめながら、心の中でさよならを言った。
一週間後。
心地よい秋はあっという間に去っていくもので、きっともうすぐ冬がやってくる。北陸ならではの、長くて暗い冬が。
両親とともに井ノ口家の隣にある集会所に着くと、そこにはすでに村人が勢揃いしていた。
「巫女がおらんくなってどうするいねっ? 今さら
「ちょっとあんた! 琴子ちゃんが亡くなったゆうんにそんな言い方してからっ」
「そやけど天咲村の平和は巫女ありきのもの。それはここにいる皆わかっとるやろ? 巫女がおらなんだら、ショクダラさまの加護も
どうやら巫女が不在となった今後のことで
「いいや。ショクダラさまは残った者が、心を込めてお祀りすればええ」
「そのとおり。元はと言えばあたしらやご先祖の身勝手で巫女さまを縛ってきたんや。感謝こそすれ、文句を言うなんてお門違いやないんけ?」
「そらそうかもしれんけど……」
「白花祭も、わたしらが続けていきましょう。巫女さまのような力がなくとも、きっと想いはショクダラさまに伝わるんやから」
村人の大多数は歴代の巫女へ少なからず同情を寄せていたようで、自分たちの手で土地神を守っていくという方向で、議論は
「ほら祐一、こっちに座っときんさい」
パイプ椅子が並べられた集会所の一番後ろに向かい、俺は両親に挟まれる格好で腰を下ろした。
すると目の前に座っていた男が振り返り、
「吾妻のおじさん、おばさん、お久しぶりです」
「まあ輝明くん……あれからどう、少しは落ち着いたけ?」
「婚約者を亡くしたんやさけ、すぐ元どおりってわけにゃいかんよな」
輝明は暗い顔でゆっくり首を振った。
「毎日が、闇に沈んでしまったように鬱々としているんです。琴子さんを……ぼくの愛する琴子さんを、もうこの腕に抱きしめられないなんて、
「そ、そう、よね」
この男はいつだってこんな調子だ。自分だけの世界ってやつがあるらしい。うちの母親なんかは普段であれば「相変わらずナルシシストやねえ」とツッコんでやるところなのだが、状況が状況なだけに、言葉を
「祐一くんも、久しぶりだね」
「うん。東京の大学はどんな感じ?」
「ハイセンスで刺激的さ。君もいずれ来たらいい。確か将来は弁護士になりたいんだろう? 都心での学びは地方よりも断然レベルが──」
その時、奥の扉が開いて井ノ口のおじさんが顔を出した。
「どうもお待たせしてしまって、皆さん全員お揃いですかね。先日はご多忙の中、琴子の通夜、葬儀にご参列いただき誠にありがとうございました」
当たり障りのない挨拶を述べたあと、彼はジャケットの懐から一通の手紙を取り出した。ピンクのパステルカラーが可愛らしい
村人の中に微かなざわめきが起こった。
「さて皆さんをお呼び立てしたのは他でもない、この遺書を公開するためです。琴子には昔の形式にのっとって縦書きの
くすくすと笑い声が上がり、重い空気がほんの少し和んだ。
「信さんはもう中を読んだが? そこに冥婚の相手が指定されとるんやろ?」
すると問われたおじさんは、なぜか表情を硬くした。
「……はい。今しがた、奥の部屋で読んできました」
んんっ、と俺の前で輝明が咳払いをし、これ見よがしに姿勢を正す。他の皆も哀しさと微笑ましさの入りまじった顔で彼を見やる。
「それではさっそく、遺書を読み上げます。琴子のプライベートな感情も書かれてあったので、この場では重要な部分のみ抜粋することをご承知おきください」
井ノ口のおじさんは小さく息をつくと、再び口を開いた。
「わたくし、井ノ口琴子は、ショクダラ神を守り奉る第三十三代の巫女として、有事の折に婿となる者を指名せん。冥婚の儀が
代々受け継がれてきた文言なのだろう、堅苦しい言葉が続いた。
決まり事なんてつくづく面倒だと思う。中身はわかりきっているんだから、本当なら遺書を公開するまでもないのに。俺は誰にも聞こえないようにため息をついた。
「さればここに、婿殿の名を書き記さん。わたくしの婿となる者は──」
当然、英輝明だ。彼こそ琴子のフィアンセだったのだから。その場にいる全員がそう思っていた。
が、しかし。
「わたくしの婿となる者は……吾妻祐一。願わくは
「え」
全員が一斉にこちらを振り返る。大人たちの視線を痛いくらい浴びながら、俺の頭は、見る見るうちに真っ白になっていった。
──は……?
この時の俺は、まだたったの十二歳だった。
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