冥婚弁護士 クロスオーバー

夏原エヰジ/小説 野性時代

第1話

プロローグ


 あまさきむらが死んだ。

 この訃報が流れた時、俺はまだたったの十二歳だった。

 ある日曜の朝だ。近所の野良猫がけんする声を聞いて、俺は薄ぼんやりと目を開けた。

「うるっさいなあ、もう……」

 せっかくの休日なのだ、二度寝をしようと試みたものの、一階の方がやけに騒がしい。おかげで妙に目がえてしまった。

 ──父さんと母さん、朝から何をわあわあしやべっとれんろ。もう少し寝たいんに。

 明日からまた一週間が始まるのか。ゆううつだなあ、なんてサラリーマンじみたことを考えながら布団の中で寝返りを打っていると、そのうち階段を上がる足音がして、部屋に母が入ってきた。

ゆういち、起きんさい」

 ノックくらいしてよ。そう抗議しようとしたが、ドアの方を見て言葉を引っこめた。

 母は普段から明るい人だ。この時もうすぐ四十になる歳だったけれど、仕事に精を出したり、地域の活動にも積極的に参加したりと、いきいきした雰囲気がはだつやにもよく表れていた。何度となく小学校の担任教師やクラスメイトから「づまくんのお母さんってすごく若いよね」と言われて、そのたび俺は気恥ずかしさを感じながらも自慢に思ったものだ。

 そんな母の顔に、見たことないほど暗い影が差していた。

「今すぐ起きて支度して」

「支度って、何の? どっか行くがん?」

「……祐一。落ち着いて聞くんよ。ぐちさんのお宅から連絡があってね、ことちゃんが、昨日の夜、亡くなったって」

「え?」

 一瞬、俺は意味がわからなくて固まった。

 亡くなった。

 琴子ねえちゃんが、死んだ?

 そんな馬鹿な──それが最初に抱いた感想だった。琴子とは昨日の夕方にも会ったばかりだったのだ。俺は公園でのサッカー帰り、琴子は高校の部活動から帰る途中で、手には夕飯の買い出しをしたんだろう、スーパーのレジ袋を提げていた。いつもの調子で「今晩はマーボー豆腐にするの」とか「祐一もちゃんと親の手伝いしなさいよ」とか他愛ない話をして、いつものように家の前で別れた。体調が悪い様子なんて少しもなかったし、本当に、いつもと何も変わらなかった。

 それなのに、何で。

 ぼうぜんとする俺に向かって、母は声を詰まらせながら続けた。

「近くの県道、ほら、あのカーブがきつい道。あそこのコンビニに行く途中で、車にはねられたんやって。犯人はまだ捕まってないみたいで」

「ひき逃げ、ってこと?」

「うん……とにかく下におりてきて。今日はあんたのお数珠とか礼服を買いに行かんと。いつもの礼服、もうサイズが小さくて着られないでしょ」

 言いつつ母は部屋のカーテンを開けた。秋晴れの陽光がさっと顔に差してきて、俺は思わず目を細める。

 ──夢でも見とるんかな、俺。

 さわやかな天気と、人の死。二つが同じ世界線にあるなんてどうにも信じられなかった。琴子はだいぶ自由奔放な性格だったから、「神さま」が彼女にふさわしい晴天で、その死を弔っているんだろうか。神さまなんて存在が本当にいるのかはわからないけど。

 まだ状況を受け止めきれない俺はまぶしい光を浴びながら頭の隅でそんなことを考えていた。哀しいという気持ちは、なぜだか湧いてこなかった。

 琴子ねえちゃんとは、あんなに仲がよかったのに。

「それと」

 部屋を出ていく寸前、母はもう一度こちらを振り向いた。

「悪いけど、しばらくは遊びに行くのを控えてちょうだい。お通夜と葬儀が終わった後は村の集まりがあるさけね。琴子ちゃんはまだ高校生の巫女さまやったから、あの世に行かれる以上はうちらで〝めいこん〟をさせてあげんと」


 斎場へ向かうべく父の運転する車に乗りこんだ俺は、手持ちに窓の外を眺める。

 すっかり秋めいた村の景色。たわわに揺れる黄金の稲穂に、赤やオレンジに色づいた木々の葉。種々の彩りがある中で、とりわけ目を引くのは白色だ。

 純白に輝くまんじゆしやが、村のあちこちに咲いていた。

 北陸にあるここ天咲村には、室町時代から続く巫女の家系がある。それが琴子の生まれた井ノ口家。はつもうでにお守りを販売したり甘酒を配ったりするアルバイトではなく、本物の巫女、いわゆるシャーマンと呼ばれる存在である。琴子は三十三代目の巫女だった。

 村の外れには古びた神社があり、その敷地内には「ショクダラさま」という土地神の祠がある。何でも六百年前、村の中間を流れる川が大雨ではんらんした時、初代の巫女が天に祈りを捧げたところ、ショクダラさまがこの地に降り立って氾濫を鎮めてくれたんだとか。そうして水の引いた地面には、この地域に珍しい白色の曼珠沙華が咲いていたという。

《この曼珠沙華を神そのものと思い、祈りと感謝の心を忘れぬように》

 巫女はショクダラ神の御心をこのように村人に伝えた。

 神々のいる天上を思わせるように、美しく咲きあふれる曼珠沙華。以来、この地は天咲村と称され、村人はショクダラ神と純白の曼珠沙華を大切にあがめ奉るようになった──村に生まれた子どもは耳にタコができるほど聞かされる話だ。

 いかにも伝説めいた内容だが、実際、巫女は代々ショクダラさまの力を借りて吉凶や天候を占い、時には託宣をして村を守ってきたそうだ。昔は稲作が主な収入源だったそうだから、天気の移り変わりを事前に知ることは村の存亡に直結していたのかもしれない。村人は不思議な力を持つ巫女を、神と同一視して崇めた。

 しかし一方、かつての巫女には様々な制約が課せられていた。食べるものから着るものに至るまで事細かに定められ、日々の神事を怠らないよう暗に強いられる。十八になればすぐにでも村の青年と結婚し、子どもを産むよう求められる。奇妙なことに生まれてくるのは女の子ばかりだったそうで、彼女たちは次代の巫女として育てられた。

 そうして巫女は、生まれてから死ぬまでの一生を村で過ごす。崇められていたと言ってもその実、村の中に閉じこめられていたも同然だろう。人並みの自由なんて望めなかった。

 が、それはあくまでも遠い昔の話。

 時代とともに天咲村は変わった。

 広大な田畑に囲まれぽつんと孤立していた集落は、やがて周りに新しい家が建ち、新しい人が越してきて、変わらざるを得なくなっていったそうだ。いきおい村に根付いていた土着信仰は疑問視されるようになり、明治の頃からは巫女にも「人権」が認められるべきという声が上がり始めた。数百年もの時を経て、巫女はようやく自由を獲得したのだ。今だったら大学に進学してもいいし、何なら他県での就職だって許される。

 ただし残された制約もある。

 一つ、十八歳で結婚すること。

 二つ、次の巫女を育てること。

 三つ、「しらはなまつり」というさいを年に一度行うこと。

 これら三つの制約だけは時代遅れとわかりつつも外せなかったらしい。村の人間にとってはそれだけ、巫女がなくてはならない存在だったということだ。それは、琴子に関しても同じで──。

「祐一、ご焼香を上げに行くぞ。端っこを歩きなさい」

「……うん」

 父に言われて斎場の端を進みながら、俺はちらりと場内を見渡す。

 琴子の葬儀には大勢の人が参列していた。参列者のほとんどはセーラー服や学ラン姿だ。琴子が通う市内の高校の同級生や先輩後輩だろう。この中に村の出身者はおらず、琴子が巫女であったことを知る者も一人としていない。彼らは琴子を巫女としてではなく、友人として悼んでいた。中にはハンカチを目に押し当て、えつらし泣きじゃくる人もいた。

「どうしてよ琴子……一緒の大学に行こうって、約束したのに……」

 ああ、琴子ねえちゃんは、これだけ多くの人に好かれていたんだ。大切にされていたんだ。琴子ねえちゃんも、人を大切に思っていたから。

 そう思うと胸の辺りが鋭く痛んで、俺はたまらず視線を前に戻した。

 祭壇の真ん中には遺影と、菊の花に囲まれた白いひつぎが置かれていた。

 ──変なの。この棺の中に、琴子ねえちゃんが寝てるなんて。

 たぶん今年の夏に撮ったばかりのものだろう、遺影となった琴子は日本海を背景に天真爛漫な笑みを広げていた。白い肌に、くっきりとした目鼻立ち。耳には高校に入ってから開けたピアス。ウェーブのかかった長い髪は本人いわく「ピンクとアッシュのグラデーションカラー」で染められていて、夏休み限定なのだと嬉しそうに語っていた。

 遺影の中にあったのは、物心ついた頃から何度も目にしてきた笑顔だった。見ている人間の心まで照らすような、ひまわりみたいな笑顔。

 不意に、琴子の自慢げな声が耳によみがえった。


 ──ねえねえ聞いて、今度、パパと一緒にのお高めな旅館に泊まるんだ。夜は豪華な海鮮づくしよ。はまをドライブして、海の見える露天に入って。ふふん、うらやましいでしょ祐一?

 ──琴子ねえちゃんてファザコンやんな。

 ──うわ出た、すぐ何とかコンって言いたがるやつ。家族を大事にするのは当たり前でしょ? ていうかあんた、小学生のくせにどこでそんな言葉覚えたわけ?


「う……っ」

 突然、ぼろっと涙がこぼれ出た。別に我慢していたわけじゃない。今になってようやく、実感したんだ。

 ──琴子ねえちゃんが死んだ。

 俺が赤ん坊の頃から一緒に遊んでくれた琴子ねえちゃん。一人っ子の俺にとっては姉のような存在だった。近くにいるのが当たり前の存在だった。

 ──もうあんな風にからかいあったり、何でもない話で笑いあったりもできないんや。この先、ずっと、ずっと。

「琴子ねえちゃ……」

 涙はとめどなくあふれてきて、自分ではどうすることもできなかった。

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