第58話 ロジャーはアンリくんがお気に入り
皇太子アンリは、ゆっくり視線をめぐらせ威圧すると、周囲を黙らせた。
頭の片隅ではこういう態度が名前も出したくないあの男に似ていると揶揄されるとわかっている。でも今さら引くに引けない。
というわけで、部屋が静まり返っていると、部屋の外、廊下側から、こちらへ近づいて来る声が聞こえてきた。
「なんでこっちへ来るんだよ。おれの部屋は向こうの棟なのに」
「ジェイに会いに行くんです」
「エーッ、堂々と魔法使いちゃんに会いに行くつもりかよ。不倫だ、不倫ぅ」
「ロジャー!」
「なあに?」
ツカツカ鳴っていた足音が止まる。
「どうしてわたしがジェイに会いに行くかわからないの? あなたがコーデリア王女に毒を盛ったからでしょう! 魔法で助けてもらわないでどうするのよ。また戦争になったら、あなたのせいですからね!」
「毒じゃなくて睡眠薬だっていってるじゃないか、ぐっすり眠って……あっれー!」
ノックもなく、無遠慮にドアが開く。しかめっ面のキャロルと、そんな彼女の態度がおかしいといわんばかりにニヤニヤしているロジャーがいたのだが、
「アンリくんじゃないですかー」
見るなり、嬉しげにロジャーが皇太子に近づいていく。急なウィンウッド夫妻の登場に、すぐには動けずにいる面々を無視し、ロジャーは皇太子の肩を陽気に叩いた。
「どーしたのー。ひとりぃ?」
「うるさい、無礼だぞ」
肩に乗る手を振り落とすアンリ皇太子。ロジャーはヘラヘラ笑っている。
「まあ!」とキャロルは驚いていて、
「帝国の星にキャロル・ウィンウッドがご挨拶申し上げます」
遅れて相手が皇太子だとわかり、ともかく急ぎお辞儀する。皇太子は「うん」だか「ふん」だかと、唸るような返事をした。
「なーに、アンリくん、モゴモゴして。またパンツ濡らしちゃった?」
「貴様ぁっ!」
ロジャーに掴みかかろうとするアンリ皇太子。だが、ひょいとかわされ、逆に羽交い絞めにされてしまった。
「ロジャー!」
咎めるキャロルにもかまわず、
「あらあらアンリくん、本物かなー? 悪魔の変身ですかー?」
ロジャーは、コチョコチョとアンリの腹をくすぐる。
「放せっ、だからお前には会いたくなかったんだ。無礼だぞ、公爵! ひっ、やめろっ、こらっ、シャツをめくるな」
「悪魔めぇ、帝国の皇太子に化けるたぁ、良い度胸だ。お仕置きしちゃうぞ」
コチョコチョコチョ。
「ケスティならここですよ」
美形護衛官姿の悪魔は、戯れている二人に冷めた目だ。
「あひゃひゃ、いーひひっ」
「アンリくーん、太った? お腹、たるんたるんだよぅ」
「嘘つけっ、わたしの腹筋はバッキバキだぞ」
「えー、どれどれ?」
「やーめーろー」
「キャロル様」
静かに近づき、そっと声をかけるサラ。
「どうしてこちらに? あっ、お待たせしてすみません」
戻りが遅い自分を気にして、こちらまで来たのか、と思ったのだが。
「でもなぜ閣下まで?」
いらぬオマケがついて来ている。
「それがね」
キャロルは苦笑した。離婚し、今日中に城に帰ったら、今度は実家に戻る準備で忙しくするつもりだったのだが、そうはいかなくなってしまった。誰かさんの暴挙のせいで。
「あひゃー、やめろやめろ」
「アンリくんったら、そんな泣いて喜ばなくても。イケナイ子ねぇ」
「誰がっ。おいっ、君たちはどうして黙って見てるんだっ。ここには忠臣がひとりもいないのか!」
皇太子にそういわれたら、とダニエルとトレス侯爵が行動に出てみたが、「まあまあ落ちついて、動くと余計にくすぐったくなるのでは?」や、「どうしたらいいんです、どうしましょう?」ときゃっきゃしている二人の周りでうろうろするのが限度である。
「魔法でこいつを引き離せっ」
「えっと」まごつくトレス侯爵。その理由は、
「殿下、残念なお知らせです」
ダニエルが重々しく伝える。
「閣下に魔法はほとんど効きません。やるなら閣下だけでなく殿下ごと同時に爆破するくらい強力な魔法をかけないといけません。そうですよね、教授?」
「その通りなのです、殿下。もしそれでも良いのなら……」
「良くないに決まってるだろ!!」
「ロジャー」キャロルが大声で呼ぶ。
「おやめなさいよ、殿下が困ってるわ」
「困ってるの、アンリくん?」
「困ってる、困ってるぞ!!」
「ロジャー」
キャロルが眉をしかめると、ロジャーはパッと両手を上げて皇太子を解放した。
「なんて奴だ、父上にも、このことは報告するからな!!」
「アンリくんたら、いつもそればっかり。まだ成人してなかったかな? パパパパって、お子ちゃまでちゅか?」
「ロジャー、良くないわ、そんな言い方」
「うん、良くないね、良くない。はいはい、わたしが良くない言い方をしました、すみませんね」
と、キャロルの一声で皇太子から離れていくロジャー。アンリは、乱れた服を直しながら、皇太子の威厳をとりつくろうとするが、ピシッと整髪していた金髪は、片側はへこみ、もう片側は跳ね散らかっている。
「殿下、お怪我はありませんよね?」
心配するキャロル。
「なんてことありませんよ、公爵夫人」
髪を整えつつ、笑顔を作る皇太子なのだが、
「大丈夫? 替えのパンツは持ってきてるの?」
「てめぇ、この野郎!!」
ロジャーの一声で、第二ラウンドが始まろうとした。が、そこへサラが立ちはだかる。ロジャーをかばったわけではない。正したいことがあったからだ。
「皇太子殿下、不躾ながらお間違いを指摘させていただきます。キャロル様はウィンウッド公爵と離婚なさいましたので、公爵夫人と呼ばないで頂きたい。大公女キャロル様でございます」
堂々と言い放ち、満足げにキャロルを振り返るサラ。でも侍女の期待も虚しく、キャロルは訂正を褒めるどころか、気まずげに目をそらしてしまった。
「キャロル様?」
「あー、その話だけどね」
ロジャーが殴ってやりたくなるほど上機嫌で笑う。彼はキャロルの肩を抱き寄せると前屈みになり、サラに見せつけるようにしていった。
「おれたち離婚してないから、仲良し夫婦だから」
サラは硬直した。表情ひとつ、呼吸すら止まっているようなので、近くにいた悪魔が心配して、「もしもーし」と顔の前で手を振り気づかう。
「仲良しは余計だわ」とキャロル。頬を寄せてくるロジャーを押しのけようとするが、手を捕まれて甲にキスされる。
「恥ずかしがるなって」
「羞恥と屈辱で狂いそうよ」
「照れるなって」
「誰が照れてるの、青ざめてるのよ」
そんな会話中も、衝撃を受けたサラは微動だにしないので。
「もしもーし、お嬢さあん。ねえ、ちょっと息してないみたいですけど?」
悪魔の心配は募る。
「ええっ、サラさんっ、ぼくのサラ!」
ダニエルが駆け寄り、抱きつく。それでもサラは電柱のように立ったままだ。
「まあどうしたの、大変! サラ、しっかりして。んもーっ、ロジャー、離れてよ、邪魔だわ」
「侍女なんかほっとけよ。あいつはダニエルと良い仲なんだから、おれたちが出る幕はないの」
「違うでしょう。ダニエルとは結婚できないって、サラはしっかり断ったのよ?」
「バカだなあ、二人は結婚前に軽く喧嘩しただけさ。あいつら、やることやってんだから」
「やることって?」
ヒソヒソ。耳打ちに赤面するキャロル。
「まあ……まあ、そうなの?」
「そうなのよ、キャロルちゃん。知らなかった?」
「わたし、ちっとも知らなくて……、その、ダニエルが責任取って欲しいって?」
「あいつ、泣いてた。かわいそうだったなあ」
「……そうなの。サラはどうするのかしら?」
「どうするもこうするも。あいつらは心配ないんだ、ほら」
ロジャーはあごを振り、
「見ろよ、今だって熱い抱擁をしてくれちゃって、まあまあ大胆なことですこと、ねー、見てよ、あのくっつきようたら、恥ずかしいのぉー」
と裏声交じりで囃し立てるので、キャロルは見た。
ダニエルが「サラぁぁ!」と直立不動のサラに抱きついている。サラの表情は、キャロルの方向からでは見えなくて、彼女の感情は読めなかった——読んだら「無」を読み取れたのだろうが。
「サラったら嫌がってないわね?」
「ああ、まったく嫌がってない。あれは感激してるんだな、うん」
「あら……、まあ、そうだったのね。祝福しなくちゃね、きっと仲直りしたのね?」
「そうだよ。おれたちのように」と、ロジャーは耳元でささやくと、
「ちょっ、きゃっ、やだっ、ひどい、バカッ!!」
頬にチュッとしてきたので、キャロルは真っ赤になって憤慨する。
そんな光景に、
「トレス侯爵」
皇太子アンリは静かに魔法使いを呼んだ。この騒がしい場所からの脱出を願うつもりだったのだが、しかし横を超特急で駆けていくトレス侯爵に煽られてよろめく。
「ぼくのキャロルだぞっ、いやらしい真似をするんじゃない!」
トレス侯爵はロジャーめがけて、思いっきり腕を振りかぶる。
でも。
「ぐっ」
キャロルを背後から抱きしめたままのロジャーに、腹を蹴られて吹っ飛んだ。
「こ、こんな奴、ぼ、ぼくの魔法で」
「やってみろ、魔法使いちゃん。がんばってぇ、ほーらほら、どうしたのー?」
ロジャーはますますキャロルに抱きつく。トレスは手をわなわなさせるだけで攻撃魔法が使えないでいる。一方でこちらのカップルは、
「サラさん、サラ、ぼくですよ、ダニエルです、しっかりして。ぼくがわかりますか?」
「嘘よ嘘よキャロル様は離婚したんでしょそうよね離婚したんでしょ」
「サラさん、焦点が合ってないです。戻って来て、ほら、指は何本に見えます?」
「離婚したのよだって見たものサインしてたものどうしてなぜ仲良し夫婦ですってどういうことなの信じたくないわだってサイン見たもの見たんだもの」
「サラさーーん、しっかりするんです、深呼吸してください!」
壊れた機械人形のようにガタガタしているサラと、そんな彼女にしがみつき、正気に戻そうと必死のダニエル。
「もう嫌だ、もう完全に嫌になったぞ」
皇太子が顔を両手で覆う。と、ぽん、と肩を叩く手が。
「アンリ皇太子殿下、わたくしケスティです。我が国のぅ、大切な大切なコーデリア王女に会いに行きましょ、ね、そうしましょう」
満面の笑みの悪魔が、皇太子アンリをさらに追い詰めていく。
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