第48話 東屋でばったり
ウィンウッド家の高級馬車は、魔石で衝撃を和らげているとはいえ、移動には数日かかるし、体にも負担だ。魔法で作り出したゲートなら、潜り抜けるだけで目的の場所に到着する。トランク数個くらいなら一緒に運べるのだから、利用しない手はない。
だらだらとリンゴに滞在していても気持ちが塞いでくるだけだったので、キャロルは準備が整い次第、出発しようと決めた。
「ではトレス侯爵に声をかけてきますね。部屋にいらっしゃるといいんですけど」
「お願いね。わたしがなるべく早く帰りたがってると伝えて」
もちろんです、と気合たっぷりの返事をして小走りに向かうサラを見送り、キャロルは自室に戻ることにした。建物の中だけの移動でも部屋まで廊下は続いていたのだが、庭の様子が見たくてポーチに出、レンガ敷の歩道に下りる。
両脇に並ぶ低木では、赤や黄などのはっきりした色味の花がたくさん咲いていた。葉も緑が濃く、艶々している。比較的冷涼なウィンウッド領ではもちろん、大陸の北西に位置するルビイ大公国でも見かけない植物が。リンゴではむせ返るように茂っている。
南方特有の湿度を含んだ暑さも新鮮だ。常に汗ばんでいるような気分にさせ、陽光の強さはキャロルの肌には刺激が強すぎてすぐ赤らんでいく。でも現地の使用人の話では、ここ数日は涼しいほうなのだとか。
長く滞在すればすっかり参ってしまうだろう、と名残なく離れる気分でいたのだが、実際に明日にはもうここにいないのだ、いや一生、このような場所に戻ってくることはないかもしれない、などと脳裏にかすめてしまうと、一歩一歩がとても貴重なようなものに思えてくる。
そんなわけで、キャロルの歩みは自然にのろくなった。吸う空気の熱、湿気に混ざる主張の強い花の香り、肌を焼く陽射しと木蔭で感じる音を消すような涼しさ。遠回りしても良いだろうと、レンガ敷から砂利の歩道へと変えて横道に入った。
道幅は狭くなり、迷い込みそうな気分になったキャロルは引き返そうかと立ち止まったが、鮮やかなピンク色の花を咲かせたキョウチクトウの裏に、白い建物が透けて見えたのでもう少し進んでみることにした。
あったのは白色の東屋だった。鉄製だろうか、網細工のような華奢な造りで奥の片側は茂ったジャスミンの葉で覆われている。誰かいる様子はない。
キャロルは中に入り、ベンチに軽く腰かけた。あまり人気のないところなのか、ほどほどにしか手入れされておらず、少し寂しさを感じる場所だった。
ほとんど無意識にクラッチバッグを開けて、ハンカチを取り出そうとしたキャロルは、はたと手を止めた。コンパクトミラーとレモンのキャンディ。それから……、虫でもつまみ出すみたいにしてキャロルは取り出す。折り畳んだ紙片だ。広げると最初に目に飛び込んできたのは、自分のサインした名前。離婚届である。
総司令官に提出しようと執務室まで出向いたのだが、あいにく不在でそのままクラッチバッグにしまい、外に出てしまっていたのだ。忘れていた、いや忘れてなどいるはずがない、なくしてはならないものなのだから、頭に常にあったはずだ、きっと。キャロルはため息のあと、ロジャーのサインを指先で触った。この人が書く文字を見るのもこれで最後だ。そして再び折りたたみ、蓋をするように手の中で持つ。
だめだ、と思った。どうしても、くよくよしてしまう。
何が不満なんだろう。キャロルは自分でもよくわからなかった。
望んでいたものを手にした。それなのに、ぽっかり空虚な気分が埋まらないのはなぜなのだろう。
ここは現実じゃないからかもしれない、と思った。旅先、非日常の中だ。帰城したら気分は変わる。あの荘厳なウィンウッド城。冷徹な印象を和らげたくて、自分好みになるよう手を加えた、わたしのお城。
ホールや玄関のあちこちに花を飾り、カーテンは黒みを帯びた色から温かみのある暖色にした。家具の装飾も、花や動物のモチーフのものを次々増やした。整列した木々が中心だった庭園は草木がそよぐ花園に変え、テラスを広げて天気の良い日は必ずそこでお茶をした。
それでも孤独がちょっとした物陰から顔を出してはキャロルをなじる、それがウィンウッド城だ。どれだけ手を入れても、どれだけ尽くしても。あの城はキャロルを疎外して止まない。
だから、あの場所に帰れば、きっと今感じているこの虚ろで心もとない焦燥は贅沢となってキャロルを勇気づけるだろう。笑い飛ばせる。願っていた解放の喜びをかみしめるのは、きっとあの場所に帰ってからだ。
決心したように折りたたんだ離婚届をクラッチバッグにしまって蓋を閉じると、スタートを切ったつもりで立ち上がった。が、東屋に出る前に再びベンチに腰かけてしまった。
「ひとりか?」
「わたしはね」
頭上にかかるジャスミンの葉を押し上げるようにしてくぐってきた彼の後ろをうかがうように、キャロルは体を傾けた。コーデリア王女がいるかと思ったのだ。でも東屋に入り隣に腰かけたのは、ロジャーだけだった。
「何しに来たの」
「特に何も。歩いてたら見つけて、近づいたら君がいた。だから声をかけた、以上」
「あなた、暇なの?」
「ダニエルの監視がなくなったんだ」
ロジャーは背筋をそらして伸びをした。
「あいつ、昼から全然見てないぞ。だから執務室で一人真面目腐って椅子に座っててもアホらしくて。うん、そうだ。おれって基本、暇なのかも?」
軽く笑うので、つられて笑いそうになったキャロルだが、相手とのあいだに立つ実体のないドアをぴしゃりと閉めたくなって、口元を引き締めた。ロジャーはそんなキャロルの反応がつまらなかったのか、顔をのぞき込んでくる。
「どうしてそんなに不機嫌なんだ」
「まったく不機嫌じゃないわ。嬉しくて踊りそうよ」
「じゃあ踊りたまえよ。見ててやる」
さあさあ、と手を前に振って促すので、キャロルはロジャーをにらんだ。
「あなた、暇なら王女殿下とお過ごしになったら?」
「オーディン、いやサーディン?」
「はい?」
「あの姫さん、『オーディンだかサーディンって呼んでちょうだい、ロジャー』だって」
「コーディじゃないかしら?」
「よくわかるな! そんな気がしてきた」
「コーデリアがサーディンになるほうが驚くわ」
「ずっとしゃべってる姫さんなんだ」
「可愛らしいわね」
「ずっとしゃべってる。ほんとずっとしゃべってる」
「あなたと話したいことがたくさんあるのよ」
ロジャーは腐りかけのオレンジでも食べた顔をした。
「わたし、夕方にはここを
「夜に馬車を走らすのか?」
「いいえ、ジェイにゲートを開いてもらうの」
「ああ」
今度のロジャーは貰ったプレゼントが辞書だった子どもの表情である。
「ひと月ほどしたら出て行くわ」
「何が?」
「お城よ、ウィンウッド城。書類だけ提出してもまだ他に決めることがあるでしょう? 財産分与もそうだし、慰謝料だって貰うつもりなんですから」
「おれが慰謝料欲しいくらいだよ」
「よくいうわ。わたしに何の非があって? 大丈夫よ、あなたが破産するほど奪っていくつもりなんてないから。ほとんど何もいらないわ。そうね、わたしが選んだ家具は、持って行ったほうがよくて? それともそちらでお捨てになる?」
「さあ」
「植物を抜いていくのは大変よね、いくつか貴重なものがあるの、種から育てたバラもあるのよ。ねえ枯らすくらいなら、時期を見て移植しようかしら。でもやっぱり鬱陶しいわね?」
「何が?」
「わたしがたびたび出入りするようじゃ鬱陶しいでしょ?」
「べつに」
「嫌だと思うわ」
「誰が?」
「コーデリア王女よ」
「ああ」とロジャーはいって、「ゴルデンね、へへ」と投げやりに笑う。
「コーディよ」とキャロルは今後の彼のために訂正する。
「直接出向かないにしても、わたしの話が出るのも嫌だと思うの。そうね、やっぱりすぐ持ち出せるもの以外はそちらで処分して。あとはすっぱり諦めるわ」
「何を掘り出していきたいんだ」
「いいの」
「名残惜しいんだろ、掘ってけよ」
「冬でなくちゃ。それに移植する土地もいるし。わたし、帝国からもらえるのよね?」
「土地? さあ、そうなのか?」
「頂けないのかしら。ひとつも? じゃあ、あなた端っこのほうで良いから領地を分けてよ。ううん、やっぱりダメね。いらないわ」
「遠慮するな。好きなだけ持ってけ」
「嫌よ。よく考えて。王女からしたら領地の端っこに元奥さんが持つ家があって庭から掘り出した果樹やバラが移植してあるのよ、不快だわ、きっと」
「そういうものか」
「わたしだったら嫌だわ」
ふーん、と他人事の返事をするロジャーに、キャロルは「ねえ、あなた」と真剣に詰め寄る。
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