7章 望みが叶う。でも……?

第45話 ロジャーと王女の仲睦まじい様子を目撃するキャロル

 まだ日が昇り切らない前に、キャロルは目が覚めた。

 

 起き上がるとすぐに離婚届が消えていないか、書き物机に駆け寄る。前夜の記憶にあるとおりペーパーウェイトの下に紙は置いてあった。手に取り、サインを確かめた。キャロルの名前の隣にある文字。ロジャー・ウィンウッド。三度読む。指で一字一字たどった。誤字はない。


 なんだか落ち着かなくて、キャロルは、カーテンを開けて少しでも光を入れようとした。そして離婚届に目を凝らしていると、手に洗面具を持ったサラが入ってきた。


「まあ、もう起きられたんですか?」


 ちら、とサラの視線が離婚届に動いのをキャロルは見逃さなかった。手を下ろして窓辺に背を向ける。


「さっそく提出しなくちゃね。明日にはここを出発しましょう」


 キャロルはベッドに戻ると腰かける。


「書類上で離婚が成立しても、まだ決めないといけないことはたくさんあるから忙しくなるわね。城に戻って使用人たちにも知らせないと。そうだ、わたしって確か自分の土地を持てるのよね?」


「そのように聞いてます」とサラ。手際よく洗面の準備をする。


「皇室の領土から頂けるようですが、きっとウィンウッド家からもいくらかぶんどれますよ。だってキャロル様に何の非もないんですから」


「そうよね。きっとダニエルと交渉することになるでしょう。あの人とは」

 サイドの髪を耳にかけ、キャロルは顔を洗おうと身を屈めた。

「閣下と会うのも今日で最後かしら?」


 小さなつぶやきは、サラの返事を待つでもなく。

 キャロルは、洗面の水を救って顔を濡らした。


 そうして祝杯の気分よくたくさんの朝食をいただこうと思ったのだが、いざ食べてみると、トーストを一口かじっただけで満腹になってしまった。


 ミルクティーを飲み、イチゴを二粒食べて終わりにすると、サラに荷造りするよう指示したキャロルは、離婚届を手に、さっそく総司令官の執務室に向かうことにした。


 階段を下りると、賑やかな笑い声を聞こえてきた。すぐに誰のものかわかる。コーデリア王女だ。歩を止めたキャロルは、つい聞き耳を立ててしまった。食堂から聞こえてくるらしい。


「ロジャー、わたしたちの結婚式はものすごく派手にしたいの。妖精とドラゴンは絶対に必要だし、半魚人のチャーリーには、パパと一緒にダンスを披露してもらうわ」


「君の好きにしたらいいさ」

「優しいのね、ロジャー。わたし、とっても幸せよ」


 ぶちゅっ、と音がした。まさかキスした?

 キャロルはさっき食べたイチゴが胃から飛び出そうだった。


「キャロル様?」


 振り返ると衣類を腕に何枚もかけたサラがいた。ランドリーから洗濯ものを受け取ってきたのかもしれない。


「何でもないわ」


 キャロルは笑顔を返すと、迷いなく食堂へ向かう。サラが後を付いて来る様子はなかった。キャロルが戸口まで来ると、また笑い声をあがる。コーデリアの華やかで若々しい声に、ロジャーの皮肉ったような短い笑いが混ざっている。


「嫌だわ、ロジャー。新婚旅行にジャルディネイラを選ぶなんて。わたしを誰だと思ってるの。新婚早々に里帰りしてどうするのよ、おバカさんね」


 戸口から首を伸ばして見てみると、コーデリアがくすくす笑いながら、ロジャーの腕を指で軽く叩いている。ロジャーは背を向けているので表情はわからなかった。でも大人しく座っているところを見ると、二人の時間を楽しんでいるようだ。


 開いた白枠の窓から、すっかり昇った強い陽射しが食堂全体を照らしていた。窓辺に腰かけるようにして立っているのは、美形の護衛官だ。退屈そうに王女を見守っているが、プラチナブロンドが陽射しを反射して眩しく輝いている。


 あれは悪魔の変身だとわかっているけれど、モデルにしている人物はよほど美しい人なのだろうと感心する。キャロルは噂しか聞いたことがなかったが、クロヴィス・マルシャン卿の異名「天使」はその通りだと思う——ただし「ジャルディネイラの邪悪な天使」と呼ばれているのだが。


 と、ふいに悪魔の視線がキャロルに向く。目が合うと笑いかけられ、ウインクまでされた。キャロルは慌てて首を引っ込めた。顔が熱くなる。あの悪魔は盗み聞きしていたと、ロジャーに告げ口するだろうか?


 キャロルはなるべく足音を立てないようにして急いで廊下を戻った。総司令官の執務室に行くには角を右に曲がるべきなのはわかっていたが、キャロルは真っすぐ進む。そのまま回廊に出て熱帯樹が密集している庭園に入っていった。


 そうして見つけた石のベンチに座ると、やっと自由に呼吸ができる気がした。大きく育った常緑樹の下で日陰になるベンチは冷たくひやりとしていた。どこからか甘い香りがするが、その花の名前をキャロルは思い出せなかった。もともと知らないのかもしれない。まだ残る動悸を鎮めようと、深呼吸して落ち着くのを待つ。


 と、落ちつく間もなく、石畳を踏む軍靴の足音がした。ハッとして顔をあげると、ブーゲンビリアの下をくぐってあの護衛官姿の悪魔が近づいて来る。


「おやー、その顔は違う人を想像してましたか?」

「いいえ、誰も想像してないわ」


 キャロルは突っぱねるように言い放ったが、悪魔は「そーですかぁ?」と間延びした返事をして、キャロルの隣に座る。ちょっと背を向けるようにして、キャロルは悪魔をにらみつけた。


「何か御用かしら」

「離婚届にサインしたそうですね」

「ロジャーがね。わたしはもうずっと前から何枚もサインしてきたわ」


 これで終わり、というように横を向くが、悪魔はキャロルの顔を覗き見ようと乗り出してくる。


「何なの、王女様は食堂にいらっしゃるんでしょう。お戻りになったら?」

「どうして食堂に来たんです?」

「わたし、盗み聞きなんてしてないわ!」


 勢いよく立ち上がったキャロルの袖を、悪魔がちょちょっと引っ張る。


「まあまあ落ちついて。咎めに来たんじゃありませんから」

「何なのよ、あっちへ行ってちょうだい」

「どうして食堂に? 王女の声がしたから? それとも閣下の様子が気になったから?」

「お水を頂きたかったのよ、でも先客がいらしたからやめたの。それだけよ、悪い?」


「ふーん」


 悪魔の視線が下に動く。キャロルは自分が離婚届を握り締めているのに気づいた。慌ててくしゃくしゃになったそれを広げて伸ばす。


「問題ないわ、全然。文字は読めるもの」

「そーですか」

「そうよ。これくらいなんてことない」

「いります?」

「何が……、いいえ、結構よ」


 悪魔が手にしていたのは水が入ったグラスだった。さっきは手ぶらだったから、きっと今の瞬間に悪魔の力で作り出したのだろう。「喉乾いたんでしょ?」と悪魔は笑ったが、ごくごくと自分で水を飲みほしていく。


「ぷはっ、あー、おいしい」

「それは良かったわね」


 キャロルがまた立ち上がると、再び袖を引かれる。


「何?」

「閣下の心変わりを喜んでおいでですか?」

「もちろん」

「あの人、良い夫になりますか?」


 悪魔の形の良い眉が、気づかわしげに寄る。憤然としていたキャロルだが、その表情に、少しだけ怒りの熱が冷めた。この悪魔はコーデリア王女の今後が心配なのだ。きっと小さいころから見守り世話してきた王女なのだろう。


「大丈夫だと思うわ。さっき見た様子では」とキャロルは厳しい目をして付け加えた。「もちろん、見るつもりはなかったわ。目に入っただけよ」


「そうでしょうね、はい、そうでしょうとも」


 調子よくうなずく悪魔。愁いを帯びていた表情が、すっかりいたずらっ子の好奇心に満ちたものに変わっている。キャロルは腹立たしくなってきたが、そのまま言葉を続けた。


「わたしとああいう風に朝食をとることはなかったの。いつも一人だったから。ロジャーは、いえ、閣下は、よほどコーデリア王女を気に入ったのね。わたしにもそうはっきりおっしゃったわ」


「どうおっしゃったんです?」


「若くて可愛くて、えっと、面白い?」

「若くて可愛くて面白い、ですか」

「ええ。わたしは年寄りでブスでつまらないみたいね!」


 キャロルが言い放つと、悪魔は目を丸くした。それから、ぷっ、と吹き出し、足をばたつかせて笑う。


「本当に閣下がそうおっしゃったのなら、目が腐っているとしか思えませんです。あなたはこんなに可愛らしいんですよ?」


 と、悪魔はパッと変身する。美形の護衛官からピンク色の髪が波打つ若い女性に。


「可愛らしいなんて言葉が似合う年齢じゃなくなったわ」


 キャロルは自分を見るのが嫌になって顔をそむける。


「何をいいます、ケスティを何歳だとお思いですか。ケスティの主人なんて、百歳どころじゃないですよ。それでも若くてピチピチだとよく豪語してます」

「魔術師や悪魔と比べられてもね」

「この姿、気に入りました。ちょくちょく変身させてもらいますね」


 グーの手をあごにやって、目をパチパチする悪魔に、キャロルは軽いげんこつを与える。


「二度と変身しないで。悪い子ね、わたし、そんな風にねだりませんからね」


 けれども悪魔ケスティは目をパチパチさせ、キャロルが吹き出すまで見つめるのをやめなかった。

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