佐倉美佳 7月(2)

 そして、7月23日。

 チケットに書かれていた、発表会の当日。

 とりあえずあたしは椎名のピアノの演奏を聴きに高校からほど近い市民ホールに来ていた。

 椎名の出番は真ん中より少し後ろくらい。こういう会の慣習はよくわからないけれど少なくとも五十音順ではないようだった。

 今まで聞いてきた音楽と言えばポップスとアニソンを少しくらいで、クラシック(そもそもピアノで弾く曲がクラシックっで合ってるのも分からない)なんて運命とかお正月の奴くらいしか分からないあたしは、椎名の出番がくるまでは退屈するかと思っていた。

 けれど実際には時間は飛ぶように過ぎて───そして、椎名が壇上へ登ってきた。


 みんなの前に立つ椎名は、いつもの若干崩した制服姿とは何もかも違っていた。

 抑えた青色のドレス姿。肌の露出は決して多くないけれど、それでもノースリーブから覗く褐色の肩に視線を奪われる。強いライトに照らされた椎名の肌の煌めきに、あたしは体育祭の時に見た椎名の胸元を思い出して少しどきりとした。その胸元には何かきらきらとしたものが輝いていて、恐らくネックレスやロケットのようなものが提げられているのが分かった。化粧っ気のない椎名らしくもなく唇にはルージュが引かれていて、でもそれがとても綺麗に思えた。

 細く長い手をお腹に添えて、椎名はゆっくりと礼をする。ピアノの前の椅子へ移動する時に、履いているヒールがこつこつと硬い音を立てる。黒く四角い椅子に腰を下ろし、位置を整える衣擦れの音にまで、あたしは耳を傾けていた。


 一瞬の沈黙。椎名は俯いたままだ。

 微かに椎名の肩が動いているのが見えた。深呼吸をしている。緊張しているのかもしれない。

 膝に置かれていた手がゆっくりと持ち上がって、鍵盤に触れる。

 顔が上がり、その目線が譜面に落ちる。

 そして、椎名が演奏を始めた。

 

 椎名の演奏曲、「野ばら」というらしいけれど、あたしは聞き覚えのない曲だった。激しい曲でもないし、しっとりと聞かせるような曲でもない。むしろ軽快でテンポのよい楽曲で、繰り返されていくフレーズが、耳によく残る。

 どこか、椎名らしいと思った。

 椎名の演奏は穏やかものだった。一つ前の奏者は荒れ狂うような激しい楽曲で、腕と同時に上半身を上下させていたが、それとは正反対と言ってもいい。

 ゆったりと背筋を伸ばして、軽やかなテンポで指が鍵盤の上を踊る。それに合わせて、椎名の上半身も舞うように動いた。どこか小さな子供をあやすような、緩やかで、けれど楽しげに躍動する。あたしもいつの間にか釣られて身体を動かしていた。

 弾き始める前の緊張はどこヘやら、演奏する椎名の表情はどこか楽しげだ。愛おしいものを眺めているかのように唇に小さな笑みを浮かべているのが、観客席にいるあたしからも見て取れた。

 身体が揺れると、それに合わせて椎名の短い髪も揺れる。

 何かきらきら輝いているものが舞っている。

 それが椎名の汗なのか、それとも別の何かなのか。

 それとも、きらきらしたものが見えていること自体があたしの錯覚なのか。


 少なくとも壇上で、間違いなく椎名は輝いていた。


 あたしにピアノの演奏の良し悪しは分からない。それは改めて振り返るまでもなく純然たる事実で、だからあたしに椎名の演奏を評論できるとは思えない。

 素人だから、何でもすごく見えてしまうのかもしれない。

 仲がいいから、身内を贔屓目ひいきめに見てしまっているのかもしれない。

 それでも。

 この演奏が素晴らしいと思ったことに変わりはなかった。

 ずっと聞いていたいと思ったこの気持ちに偽りはなかった。


 椎名に対する、様々な感情が走馬燈のようにあたしの中に浮かんで消える。

 出会ったときに綺麗な子だと思ったこと。

 体育祭の時に親しくなったこと。

 大雨の日に発表会へ誘って貰ったこと。

 思い返せば、椎名との思い出はかなり少ない。

 一緒にどこかへ遊びに行ったことはない。

 一緒に放課後帰ったこともない。

 一緒に試験勉強をしたこともない。

 思い返せば、椎名との距離感は、友達と考えるにしてもやや遠かった。

 それでも、あたしは椎名と近しくなりたいと思った。

 もっと近くにいたいと思った。

 胸が高鳴る。

 演奏が盛り上がるに従って、あたしの気持ちも膨れ上がる。

 急激に早くなる。

 急速に早くなる。

 それは。



 そして、椎名の演奏が終わった。




 椎名の後の奏者たちの演奏は、どれもぼんやりとした頭のまま聞いてしまった。

 最後の演奏が終わって、ドレスの少女がカーテンの奥に消える。

 簡易的な発表会なのか、奏者たちがもう一度壇上に並ぶようなことはないようだった。

 ゆっくりと壇上のカーテンが閉まり、その向こうへピアノが消えてゆく。

 『本日は暑い中お越しいただき、誠にありがとうございました』

 これまでも奏者の紹介をしていた歯切れのいい男声の司会者が、声だけで発表会の終了を告げる。巻き起こった拍手に合わせるように、あたしもまた惚けた頭で拍手をしていた。

 その拍手も徐々にやんで、少しずつ観客たちが席を立ち始める。発表会はこれでお開きのようだけど、このままふらりと帰ればいいのだろうか。

 とりあえず荷物を纏めて、あたしも席を立った。何を着ていけば分からないからとりあえず着ていった制服のスカートの裾を伸ばして、市民ホールの出口に歩みを進める。


 防音のための分厚い扉を開いてホールの外へ出ても、あたしの頭はぼんやりとしたままだった。

 椎名の演奏がまだ頭の中でこだましている。

 学校は昨日から夏休みだ。

 明日学校へ行くことも、椎名に会うこともない。そのことをどこか寂しく思う自分と、椎名に今の顔を見られなくて安堵する自分の二人がいた。

 それでも、流石に今日このまま無言で去るのは失礼だろう。

 とりあえず心を落ち着けて、頭をしゃっきりさせてから帰る旨をLINEで伝えよう。そう思ったときだった。


 「佐倉ー!」


 聞き覚えのある声が聞こえて。

 振り返った先で、椎名が大きく手を振っていた。

 壇上に立った時と同じ、綺麗な青いドレス。

 でもその表情は、学校でいつも見慣れた椎名の笑顔で。



 だからこそ、だったのか。



 急に胸が締め付けられるように苦しくなった。

 激しくなった拍動が苦しい。

 爆ぜるような拍動の一拍一拍が苦しい。

 なんで、今なのか。

 普通はこういうのって、壇上で椎名の演奏に感動したときに来るものじゃないのか。

 なんで、煌びやかな発表をしている時じゃなくて、普段通りの椎名を見たときなのか。

 でも、少なくとも気がついたのは今なのだ。

 名前を呼ばれて、いつもの笑顔を見て。

 綺麗な衣装に身を包んでいるのに、呑気に手を振って。

 そんな椎名を見て。




 あたしはただ、好きだ、と思ったんだ。




 苦しい。苦しい。苦しいよ椎名。

 椎名を見ると苦しいよ。

 いつから?

 具体的にはいつから好きだった?

 さっきの演奏を見て?

 一緒にお昼を食べるようになってから?

 体育祭の時に助けてから?

 入学式の時に一目惚れしてた?

 分からない。分からないけれど。

 少なくとも、それを自覚したのは今だった。


 椎名が駆け寄ってくる。

 あたしは動けない。

 椎名はそのままあたしに抱きついてきた。何かコロンでもかけているのか、爽やかな柑橘の香りが鼻腔に広がる。

 椎名の香り。

 その事実に、更に胸が苦しくなる。

 嵐のように感情が荒れ狂うあたしに気づいたような素振りも見せずに、椎名が話しかけてきた。顔が近い。

 「すっげぇ! すっげぇ上手く行ったよ今日! こんな調子よかったの初めて!」

 「よ、良かったね」

 そう言うことしか、今のあたしにはできない。

 「佐倉が来てくれてたからかな、なんて。いひひっ」

 椎名が悪戯っぽく笑う。

 その笑顔に、あたしの心臓が口から飛び出しそうになった。

 抱きつかれたままで、こんなに心臓が高鳴っていて。この拍動が、椎名に伝わっていないだろうか。

 そんなことを心配していると、椎名の持っていた鞄からシンプルな音楽が流れてきた。

 「おっと、ごめん」

 我に返ったように椎名が離れる。

 でも、柑橘の香りは鼻腔に残ったままだ。残り香、という奴だろうか。

 椎名は鞄からスマホを取り出して、何事か喋っている。口調や話の内容的に、恐らく電話の相手はピアノの先生だろうか。

 まだ心臓は激しく打っている。

 椎名が近くにいる時点で、収まる気がしない。

 「ごめん、先生に呼ばれちゃったわ。この後まだ少しかかるから、帰って大丈夫よ」

 そのまま椎名が走り出す。まるで嵐のようだけど、いつもマイペースな椎名だから、今はそのペースが速いだけだ。

 こんな椎名だって、いつも通りの椎名だ。

 あたしはただ立ち尽くすことしか出来ていないけれど。

 「来てくれてありがとね、佐倉」

 途中で椎名が振り返って、にっこりと笑う。

 ここまできて、ようやくあたしの硬直は少しマシになった。

 「あ、あたしも楽しかった!」

 何とか返事を返す。

 それと、これだけは伝えないと。

 「また、呼んで欲しい!」

 「もちー!」

 現れたときのように椎名が手を振りながら去っていく。

 その姿は、すぐに人混みの中に紛れて消えていった。




 そこまでしてようやく、あたしはその場にしゃがみ込んだ。




 好き。

 あたしは、椎名が好き。

 佐倉美佳みかは、椎名有紗が好き。

 頭の中で反芻して、顔から火が出そうになる。




 この日。

 あたしは、クラスの女の子に恋をしているのだと、初めて気がついたのだ。

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