第4話 都入り
エル・オーラムは、言わずと知れた、アジルバート帝国の帝都であり、帝国一の大都市である。
その歴史は数千年もの昔まで遡ると言われており、都市内の随所に、大昔の痕跡を見つけることができる。ただし、新陳代謝もまた恐ろしく早いのがこの帝都の特徴で、目に止まるものはどれも最近の建造物ばかりだ。故に、そこに暮らす普通の帝国臣民にとっては、どこまでいっても、帝都は現代文明の塊であり、今自分たちが生活を営む、現実の拠り所に過ぎない。
では、彼らにとっては一体どうなのか? ここに本拠を構える商人と、かつてここから追い出されたお姫様と、そのお姫様に随伴した従者。そして極め付けは、宇宙からの来訪者。
あまりに立場が違いすぎて当然一括りにすることはできず、かつ一言でまとめるには、あまりに複雑怪奇。
故に残念ながら、ここではすべての人間の想いを遺すことはできない。だがしかし、この物語の趣旨からして、『新一が何を感じたか』については言及しておく必要があるだろう。
と言ってもそのためには、エル・オーラムを目前にして起こったあの事件から、話を始めなければいけない。
***
「今日が、この日だから……良かった。無事、期日までにラインシュタイン城に辿り着けそうですね」
今日の日付を指折り数えていたリリアーヌが、安堵の表情で微笑む。折々に確認してきたことではあったが、この段階まで本当の意味で安心できなかったのだろう。
「ラインシュタイン城……想像していたより巨大だな。周囲の壁だって相当高いはずなのに、ここからでもよく見える」
対し、新一は目の前に聳える巨大建造物を前に、感嘆の息を漏らしていた。
まだエル・オーラムまでは十キロほど距離があるはずだったが、それでも充分な威圧感を持って前方に鎮座しているその姿は、新一の予想を超えたものだった。実のところ、これほどの建築技術がこの惑星にあるとは、新一はこれっぽっちも思っていなかったのだ。
「喜んでください。あの城が、もうすぐ貴方の家になるんです」
珍しく驚く新一を見て、リリアーヌも嬉しそうにはしゃぐ。だがその隣では例の如く、リリアーヌのその発言に驚愕している騎士が一人。
「お嬢様……まさかと思うのですが、新一をラインシュタイン城に住まわすのですか?」
「当然でしょう? 逆に聞きますが、住まわせない理由なんて何かありますか?」
「五万とあります。そもそも、ラインシュタイン城には、皇族の身の回りの世話をする下働きを除けば、皇族とそれを支える公爵家、そして近衛兵団のみが住むことを許されています。新一はそのどれにも当てはまりません」
「そんなルール、いくらでも何とかなります。近衛兵団に入ってもらうのが一番簡単ですが、場合によっては公爵位を与えても良い」
「公爵位って……」
アーデルハイトが慄いている。ちなみに、アーデルハイトのボーデンシャッツ家は辺境伯(公爵よりも二つほど地位が低い)であり、今のままではラインシュタイン城に住む権利はない。
「もう一つの手としては……」
そこで、リリアーヌの目が妖しく光る。
「皇族になってしまう――なんて方法もあります。皇族の誰かを妻にしなければいけませんから、中々難易度は高いですけれど」
新一の腕に寄りかかるように身を添わせ、上目遣いでそんなことを言ってくるリリアーヌを前にして、新一の胸も流石に高鳴る。
相手は次期皇帝。変な誤解はしないように心掛けているが、あの日以来、人目が無いところで度々発生するこの心臓に悪いアプローチが、ゴリゴリと新一の理性を削る。
だから、その都度全力で二人を引き剥がしにかかってくるアーデルハイトの存在は、新一にとっては有り難い存在だった。たとえそれが、毎回少なくないダメージを新一に残していくものだったとしても……
「お嬢様。あまり変な冗談は言わないでください」
新一を蹴り飛ばし、素早くリリアーヌから引き剥がしたアーデルハイトが声を荒げる。
「……痛いな」
馬車の端では、蹴り飛ばされた新一が顔をしかめている。今日はいつもより、三割り増しでキツイ蹴りだった。
そんな光景を作り出した当の本人は、しかし少しだけ不満げな表情で、今の騒動で乱れた服を整えている。
「分かってます。流石に最後のは冗談ですよ」
そして、あらかた服を整え終えたリリアーヌが、険しい顔をしたアーデルハイトに答える。
「現実的な路線としては、新一様にはまず近衛に入って頂いて、時期を見て公爵に叙すのが妥当でしょう」
「……公爵にする必要はありますか?」
アーデルハイトがそう指摘する。確かに、城に住むためであれば、近衛であれば事足りる。
「だって近衛は終身ではありませんもの。公爵になったらずっとそのままですし……それに……」
リリアーヌが少しだけ早口で付け足す。
「公爵になったら、三つ目の案も不可能ではなくなるでしょう? 選択肢は、多いに越したことはありませんから」
そう言うリリアーヌの言葉に、アーデルハイトはあくまで不満げだ。
「そうでしょうか? 私に言わせれば、新一ごときが皇族に連なる姫君のお眼鏡に敵うとは思えませんが」
「そんなことありませんよ。新一様は素敵な方ですもの」
リリアーヌの確信したような口振りが、新一には何とも面映い。信用してくれるのは有り難いが、その信用は一体どこから来るのか、新一には未だによく分からなかった。
新一は話を変える。
「ところで……そろそろなんだろ?」
「え? あぁ……そうですね。その筈です。私も来たことはないので、詳しい場所は分からないのですが――」
そこまでリリアーヌが答えたところで、突如馬車が動きを止めた。どうやらピッタリのタイミングだったらしい。
「あいつらに会うのも久し振りだな」
アーデルハイトが少しだけ嬉しそうな顔をする。
『あいつら』というのは、リリアーヌの親衛隊のことだ。元々今回の上洛にあたって、親衛隊の半数はリリアーヌに同行し、残りの半数はエル・オーラムの近くに拠点を構えるために先行していた。それは、リリアーヌ一行の装いを帝都間近で整えるという目的のためだ。
煌びやかな装いは目立つため、上洛の道程では避けたいが、クラウン=プリンセスとして見窄らしい格好で帝都に入るわけにはいかない。そのための策だった。
(ふぅ……これで上洛も無事成功だな)
新一は、思ったほどの苦労もなく、この難事を乗り越えられたことに安堵する。結局、リリアーヌたちと出会ったあの日以来、一度も襲撃されることはなかった。新一の策が功を奏したと言って良いだろう。
トントン――
その時、不意にドアのノック音が馬車の中に響いた。恐らく、拠点に着いたことへの報告だろう。
「どうぞ」
リリアーヌが短く返事をする。その返事を待って、ドアはすぐに開かれた。
「嬢ちゃん。良いニュースと悪いニュースがある。どっちから聞きたい?」
入ってくるなり、顔を覗かせたミヒャエルが表情を強ばらせながらそう言い放つ。明らかに、普通ではなかった。
(何か、起きたのか?)
新一は聴覚の感度を上げる。すると、外の話し声が耳に飛び込んできた。
「では、良い方のニュースから聞かせてください」
リリアーヌは顔に笑みを浮かべながら、そう答える。良くないことが起きたのは間違いなかったが、リリアーヌは意識して、平静を装う。
「はいよ。良いニュースの方は、無事に目的地に辿り着いたってことだ。ついでに言えば、そこには打ち合わせの通り、俺たち全員を収納できるだけの規模の家屋がちゃんと立ってるよ。中々良い家だな」
「そうですか。それは重畳」
答えながら、リリアーヌはミヒャエルの話す内容の不自然さに気がつき、おおよその状況を察する。
「……それで? 悪い方のニュースは?」
「その家に居るはずのお前さん方の家来の姿がとんと見えないことだね。家屋の中は今捜索しているが、恐らくもぬけの殻だ」
(やっぱり……)
「それは……どういうことでしょう? 中で争った形跡は?」
「それがまったく。隅々まで綺麗なもんさ。ついでに言えば、話に聞いていた上洛用の装備なんかもごっそりと消えている」
「……私も見てこよう」
話を聞いてきたアーデルハイトが険しい顔をして立ち上がる。そこにいたのは、アーデルハイトの部下ばかり。居ても立っても居られなくなったのだろう。
馬車から二人が出て行くのを見送ったリリアーヌは、新一の方を向く。
「新一様は、どう考えられますか?」
その視線は、先程までの態度が嘘のように不安に揺れている。
「……居るはずの人間がいない。必要な武装も一色無くなっている。リリアを巡る状況を考えれば、襲撃されたことを真っ先に疑うが……」
「はい。だから中の様子を聞きました。そして……襲撃された様子はなかった」
「そうなると、次に浮上するのは裏切りの可能性だな」
「……考えたくない話です。ここに居たのは、私の親衛隊。私が最も信任を置く騎士の方々です」
リリアーヌの顔が曇る。
「それでも……その可能性が一番高いのは事実です。そしてその場合、私たちはすぐに動かねばなりません」
ここの所在とその機能がバレている。それは取りも直さず、リリアーヌ上洛計画の真の意図が露見しているということであった。そして、かの襲撃以降、その上洛計画に沿わない行動を取り続けていたリリアーヌ一行が、この地で再びその計画の軌道に合流したのである。これ以上の襲撃タイミングは、他にないだろう。
「そうだな……今すぐここを離れて――」
その時、世界が震えた。
新一の言葉は突然の爆音によって遮られ、直後襲ってきた衝撃波が馬車を左右に大きく揺らす。
「ハイジ!」
馬車の揺れも治らないうちに、リリアーヌはそう小さく叫ぶと、馬車から外に飛び出そうとする。
「馬鹿! 今外に出るな!」
その新一の一喝で、ドアを開き掛けていたリリアーヌの動きが止まる。そして、ゆっくりとその場を離れた。
「新一様」
そして、追い詰められた顔で新一を仰ぎ見る。
「任せろ」
新一は、すぐに馬車の外に飛び出した。
馬車から出た新一は、まずは安堵した。恐らく、ミヒャエルの用心深さのお陰だろう。商団の馬車は爆心地――目的地の家屋からは随分離れたところに止められており、被害は非常に限定的だった。先頭の馬車が一台横転しているが、その程度で済んでいる。
だが、安心できる要素はそこまでだった。
二十人。ざっと確認してそれだけの人数が、この商団の周囲を囲っていた。
そして最も懸念されるのは爆心地。既に、件の家屋はその外見を留めていなかった。何人中に入っていたのかは分からないが、恐らく、あの規模の爆発に巻き込まれて助かることは不可能だろう。
脳裏に、アーデルハイトのしかめ面がよぎる。だが新一は、頭を振ってその無用な感傷を霧散させる。今考えるべきは、生が確定している仲間の生命と、リリアーヌの安全だ。
新一は、体内の生体ナノマシンを活性化させる。と同時に、隠し持っていたコイルガンを取り出す。初めての防衛戦。流石に素手だけで皆を守り切る自信がなかった。
(撃つ時は一瞬で。誰にも見られないように……)
新一はそう自分に言い聞かせると、リリアーヌが乗っている馬車にアニマを放とうとしている敵に向けて、第一弾を放った。
ミヒャエルは、唐突に吹き飛ばされた。
それは、アーデルハイトに外で待っているように言われたミヒャエルが、手持ち無沙汰を和らげようと葉巻に手を伸ばした瞬間だった。
だから、吹き飛ばされてまず第一に思ったことは、葉巻のことだった。
(くそっ! あの葉巻、いくらすると思っていやがる!)
砂煙の中に倒れながら、ミヒャエルは声にならない叫びを上げる。そのお陰で、意識を手放したりせず、次の瞬間には、現実を認識することができた。
五メートルは吹き飛ばされ、固い地面に強かに全身を打ちつけたとは思えないほどの俊敏さでミヒャエルは立ち上がると、すぐに自分の仲間がいる馬車へと目を向ける。
ミヒャエルは自身の用心深さに感謝した。万が一を考えて、自分の生命よりも大事な仲間と、自分の生命の次に大事な積荷は家屋には近付けなかった。それが功を奏したようだった。
次にミヒャエルは振り返って、問題の『家屋だったもの』を見る。
中に入っていたのは、傭兵四人とアーデルハイト。その姿は見えない。当然だ。五体満足で見つかること自体、奇跡のように思う。
(だが……たとえ死体でも、そのまま置き捨てれるわきゃないだろう)
ミヒャエルはそう決意する。そして、仲間の手を借りようと、馬車に向けて一歩を踏み出した時だった。一筋の閃光が、仲間が乗った馬車に直撃した。
「おい!」
何が起こったのか理解できず、ミヒャエルは意味もなく、叫ぶ。叫びながら必死で走り、馬車に駆け寄る。アレはどう見てもアニマによる雷撃。避雷処理を施していない馬車の中の人間がどうなるか、想像するだけで吐き気がした。
つんのめりながら、転がるように、なんとか馬車の所に戻ってくる。もうその頃には、雷撃の光は消え去った後だった。
絶望的な気分になりながら、被弾していた側へと回り込む。そして、そこで見た光景に、ミヒャエルは言葉を失った。
「……新一?」
何故か、そこには新一が立っていた。馬車の前で、まるで馬車を庇うように、そこに立っている。そして馬車には焦げ一つない。
何も知らない者が見れば、あたかも新一が馬車を守ったように見えただろう。だがそれはあり得ないということを、ミヒャエルは知っていた。
なぜなら、新一は無属性アニマ――それも薄弱なそれしか使うことができないのだから。
無論、ミヒャエルは新一の強さを知っている。片手で暴れる馬を押し止めたその姿は、今もはっきりと脳裏に焼き付いている。
しかし、これはそういう問題ではなかった。アニマによる雷撃を迎撃することができるのは、それと同等以上の雷撃のみ。それは、少しでもアニマによる戦闘を経験したことがあるものなら、当たり前すぎる自明の
例えるなら――そう。
格闘技に精通した達人がいるとしよう。彼は向かってくる剣を弾き、突き出される槍をいなし、飛んでくる弓を落とすことができる。彼に敵うものは一人もいない。
だがそんな達人であっても、落ちてくる落雷を防ぐことは絶対的に不可能である。圧倒的なる自然の猛威の前では、赤ん坊も、その達人も等しく無力であるに違いなく、その差異はもはや無いに等しい。
そして、今回もそれと同様だった。新一は確かに強い。だがしかし、アニマによる雷撃の前では、その力が発揮される術がない。
故に、だからこそ……今の状況が理解できない。
(先程の雷撃はどこに消えた? 何故、馬車には傷一つ付いていない? 何故新一は、あたかも雷撃を防いだかのような位置に立っている?)
ミヒャエルの頭を、いくつもの疑問が駆け巡る。そしてその答えは、すぐに明らかとなった。
雷撃の第二撃。一瞬で人を黒焦げにするほどの電流が一分の慈悲もなく、まっすぐに新一に向かって飛んできたのだ。そして新一は、その電流を――片手で受け止めた。
(……嘘だろ?)
ミヒャエルは自分の目を疑う。それは、到底信じられる光景ではなかった。一体どこの世界に、電流を手で受け止める人間がいるだろうか。それも、充分な殺傷力を伴った一撃を。
(新一……一体おまえは何者なんだ?)
初めて会った時、暴れる馬を片手で止めた時から、違和感はあったのだ。この旅の途中、突如新一にアニマを見せろと迫ったリリアーヌの剣幕を見て、何かおかしいと思っていたのだ。
それらの疑問が、頭の片隅で忘れられていたそれらの疑惑が、今目の前で確かな形を結ぶ。
ミヒャエルが持つ先天的な野生の勘と後天的な商人の勘が、彼に一つの信じがたい事実を告げる。
(新一、お前は……俺たちと、同じ人間じゃないのか?)
(やはり、アニマとまともにやり合うのはヤバいな……)
二撃続けて右手で受け止めた新一は、焼け爛れた掌を握り締めながら、改めてその威力の高さを実感する。
掌に集中させたナノマシンを陽イオンに電荷させることで電流を引き寄せ、しかる後に生成した陽電子を使って電流を対消滅させる。理屈上は何とかなるだろうと思いつつ、頭の片隅では無茶だろうと勘づきつつ、結果としては、やはり無茶だった。
内臓への感電は防いだものの、抑えきれなかった電流によって発生したジュール熱が、容赦なく、 新一の皮膚にダメージを与えている。治癒用のナノマシンを総動員しても、回復には数分の時間を要するだろう。
(やはり、アニマの発動を阻止するか、避けるしか手はないな)
新一は冷静にそう結論づけるが、そうなると今回のような純粋な防衛戦では分が悪い。さっきのように、味方に向かって攻撃を撃ち込まれれば、守ることは流石に厳しい。どんなに新一が人より早く動けたとしても、それは精々、常人の五倍程度。すべてを守るには、些か以上に心もとなかった。
(打開策は後で考えよう)
一先ずはそう自分に言い聞かせ、目の前の敵にコイルガンを向けようとする――
が、しかしその時になって初めて気がつく。自分のすぐ横にミヒャエルが立っていることに。彼は驚愕故か、その目を大きく見開き、呆けたようにこちらを見つめている。
(流石に、この距離でコイルガンはまずいか……)
格闘技なら言い訳のしようもあるが、電磁装置ではそうはいかない。オーバーテクノロジーにも程がある。
(仕方ない……)
新一は以前のエルピス騎士団戦と同様に、素手での戦闘に切り替える。幸い、敵の数はもう随分減らしたし、先程の雷撃封じのせいで、ヘイトは新一一人に集まっている。味方の守りに気を使う必要はほとんど無くなっていた。
新一は大地を蹴る。目の前の敵までは約二十メートル。一秒はかからない。
リリアーヌは一人、馬車の中で座していた。
優雅に椅子に腰掛け、静かに目を瞑るその姿は、誰が見ても文句の付け所がないほどに美しい。まるで、この非常時にあって、この空間だけが隔絶した世界であるかのようだった。
もし帝国近衛が今の彼女の姿を見れば、それだけでその胆力の非凡なるところを認めて、一片の迷いも浮かべずに、彼女の前で膝を折ったことだろう。
だから、そんな彼女の心中を察することができる者は一人もいない。彼女は目を瞑ることで、走り出しそうになる足を必死で押し止めていた。
あの時と同じだった。既に三十日近くも前の話。ボーデンシャッツ領を抜けた日の夜のことだった。リシュアーナ神聖国から充分に離れ、しかしエル・オーラムはまだ遥かに遠く、襲撃を受けるとは夢にも思っていなかったあの瞬間。
仲間が倒れた。アーデルハイトが外に出た。それでも、聞こえてくる仲間たちの叫び声と呻き声。あの日のことは、今でも時々夢に見る。
あの時も、外に飛び出そうとする足を必死で押し留めていた。投降し、仲間の生命を助けて貰った方が良いのではないか? そんな考えが頭をよぎったのも、一度や二度ではない。
だが結局、彼女は動かなかった。外の守りがアーデルハイト一人になっても、それでも動かなかった。今の彼女のように、内心の動揺を微塵も外に出すことはなく、ただただ一人で、優雅にそこに座っていた――
「おい!」
その時、外から声が聞こえた。ミヒャエルの声だった。切羽詰まった余裕のない声。いつもは飄々としている彼らしくない声だった。それだけで、外の状況は察せられる。
『主天使? どうなっていますか?』
彼女は、彼女の顕現体に問いかける。
『新一が、良くやっている』
ほんのひと言、それだけが彼女の心の内に響く。その答えは、前回の襲撃時に聞いた答えとよく似ていた。ただ決定的に異なるのは……主語が別人になっているということ。
『ハイジは……アーデルハイトはどうなっていますか?』
リリアーヌは遂に尋ねた。尋ねざるを得なかった。アーデルハイトが巻き込まれたかもしれない爆発。そして、以前の襲撃の際は『アーデルハイト』だった部分が『新一』へと変わっている事実。それらは、堪え切れない焦燥を彼女に与える。
『……』
しかし、もう答えは返ってこなかった。主天使は黙して、それ以上話さない。
リリアーヌは唇を噛み締める。気づくと、両手で自分の身体を抱きしめていた。そうしていないと、自分の衝動を抑えられそうになかった。リリアーヌは必死になって目を瞑る。皆の……アーデルハイトの無事を何度も心の中で呟きながら――
その時、不意に馬車の扉が叩かれた。誰かがノックをしている。
リリアーヌはゆっくりと体勢を元に戻し、一度深呼吸をすると、その音に向かって返事を返した。
「入って構いませんよ」
リリアーヌの声が聞こえて、ミヒャエルは馬車の扉を開く。
「皇女殿下、襲撃犯の掃討が完了しました」
ミヒャエルは頭を僅かに下げ、状況を報告する。
「大儀です。こちらの損害は?」
上からはいつも通り、乱れのない言葉が返ってくる。ミヒャエルは内心で、リリアーヌの胆力に改めて舌を巻きながら、返答する。
「現在、新一が確認中のため断言はできませんが、幸いそれほど多くはありません。最初の爆破以外による死者はゼロ。数人が軽傷を負っているのみです」
「……それは、重畳です。して……爆破の方の被害者は?」
「私が雇っていた傭兵が四名、あとは……アーデルハイトが」
一瞬だけ、沈黙が馬車の中を支配する。だが、次の瞬間に降ってきた言葉は、相変わらず冷徹そのものだった。
「分かりました。私も状況を検分します。案内しなさい」
リリアーヌが立ち上がった気配を察し、ミヒャエルは顔を上げる。そこにはいつも通り――次期皇帝の顔をしたリリアーヌが立っていた。
「分かりました。こちらへ」
ミヒャエルは一歩後ろに引き、降りるリリアーヌに手を貸す。その手をリリアーヌがそっと掴んだ。
(おや?)
ミヒャエルは内心で首を傾ける。自分に触れたリリアーヌの手。それはまるで氷のように冷たく、まるで体温などないかのように、すっかり冷え切ってしまっていたからだ。
リリアーヌを連れて、ミヒャエルは爆心地へと向かう。
二人が到着した時、丁度新一が瓦礫の山から出てくるところだった。
その様子を見て、爆心地の周辺に集まった仲間たちから、感嘆とも、溜息ともつかないような声が上がる。皆の視線が一様に、新一が抱えている人影に集中していた。
それは、アーデルハイトだった。
正直、ミヒャエルは驚いた。それくらい、彼女の身体はよく形を保っていた。あの爆発だ。手足の一本くらいは無くなっていても不思議はないのに、見たところ、五体はすべて揃っているように見える。
それでも、その身体の傷は酷く痛々しい。致命傷なのは明らかだった。
ミヒャエルは急いで新一に駆け寄る。
「新一! アーデルハイトは大丈夫なのか?」
その声を聞いた新一がミヒャエルに顔を向け、そしてそのまま、その後方へと視線を流した。
「リリア……来たのか」
「えぇ。状況を確かめに」
少し離れて立っていた筈のリリアーヌが、いつの間にか真後ろにいた。そしてそのままミヒャエルの横をすり抜け、新一の前に立つ。
「アーデルハイトは?」
新一はその質問には答えず、瓦礫がなく平坦になっている空間を見つけて、そこに静かにアーデルハイトを横たえた。
「幸い、今は生きている」
そしてやっと、新一がそう答える。そしてその言葉に反応するかのように、アーデルハイトの瞼がピクリと動いた。
「う……新一……か?」
「あぁ、リリアもいる」
すると、アーデルハイトの顔が僅かに歪んだ。
「そうか…………お嬢様、不甲斐ないところをお見せして……申し訳ありません」
謝るアーデルハイトに、リリアーヌが微笑む。
「いえ……良くやってくれました」
リリアーヌはそう言って、その場で膝をつき、そっとアーデルハイトの手を取った。
「……他の……者たちは?」
アーデルハイトは少しだけ目を開き、新一の方を見つめる。新一は僅かに首を振った。
「駄目だった。お前以外は、ほとんど原型を止めていない。お前も……良く生きていたな。流石は、リリアの親衛隊長だ」
新一がそう労うが、アーデルハイトは口角を少し上げただけでそれ以上の反応は見せず、再度リリアーヌへと向き直った。そして、口を開く。声にはいつものような張りはなく、所々咳き込みながらではあったが……しかし、はっきりと。
「お嬢様……残念ですが、ここで……ゲホッ……お別れを」
そう別れの言葉を口にする。言葉と共に、幾重もの血の滴が、彼女の口から零れ落ちた。
「……ハイジ」
ゆっくりと手を伸ばしたリリアーヌが、そんなアーデルハイトの頬を撫でる。そして――
「ここで……本当にお別れですか?」
リリアーヌの口から出た言葉は、その一言。
アーデルハイトは、ただ小さく頷いた。
「そう……ですか……」
リリアーヌが俯く。
後ろから見ているミヒャエルには、その表情は見えない。ただ、今にも泣き出しそうなほどに震えた声が、ひどく痛ましい。
それでも――リリアーヌは顔を上げた。
「ハイジ……これまで、ありがとうございました。必ず……必ず、貴女の分まで……」
しかし、そこで言葉は途切れてしまう。
そんなリリアーヌを見つめていたアーデルハイトが、自分の頬に当てがわれた彼女の手に、そっと掌を重ねた。
「はい、お嬢様。草葉の影から……いつまでも、お守り申し上げております」
そして最後に、アーデルハイトの視線が流れ、リリアーヌの隣に立つ男の前で止まる。
「新一、お嬢様を……任せた……」
直後、アーデルハイトの身体から力が抜けた。意思を失った右手が、音もなく地面に落ちる。
「…………」
それでも、リリアーヌはじっと動かない。ただ静かに、アーデルハイトの顔を見つめている。
その肩を小刻みに震わせながら。口を引き結び、必死に何かを堪えながら。彼女は、リリアーヌ・フォン・アジルバートであり続けようとする。だが――
「リリア、もう我慢しなくて良い」
それは、突然だった。
自分の中で荒れ狂う感情を、必死で抑え込んでいたリリアーヌに向けられた唐突な言葉。その言葉は、リリアーヌの覚悟をいとも簡単に揺るがした。
「……新一様?」
リリアーヌはその声の主に目を向ける。そこに立つのは、この旅の道中で出会った一人の男性。何から何まで不可思議で、でも何故か信頼できる、とても変わった男の人。
そんな彼が、リリアーヌを真っ直ぐに見つめている。
「俺の前では、もう我慢するな。我慢しなくて良い。俺が……そんな必要すら無くしてやる」
「……新一……様?」
「だから……泣くな」
その言葉で、初めてリリアーヌは、自分の目から一雫の涙が流れていることを知る。その頬を伝った涙を、新一がそっと手で拭った。
「アーデルハイトは、俺が必ず連れて帰ってきてやる。だから――俺を信じろ」
リリアーヌの目が、驚きで大きく見開かれた。その言葉を口にした男性から、目が離せなくなる。
『俺を信じろ』
それは、リリアーヌが子供の頃夢中で読んだ、お伽噺に出てくる聖騎士の言葉。絶望の淵にいるお姫様の前に現れた聖騎士が、最初に言い放つ魔法の言葉。その言葉の通り、その聖騎士はあらゆる不可能を可能にし、お姫様をどんな困難からも救い出す。
そしてそんな魔法の言葉に、お姫様はこう返すのだ。
「……はい、信じます」
気づくと、その言葉が口から飛び出していた。まるで本当に、お伽噺に出てきたお姫様みたいに……いつの間にか、そのお姫様とリリアーヌの姿がぴったり重なっていた。
だから彼女は、もう一度口を開く。飽きるほど読んだお伽噺だ。一言一句、覚えている。
「私は貴方を……新一様を信じます」
リリアーヌは、お伽噺の中のお姫様のように、泣きながら微笑む。
「あぁ」
すると新一は、お伽噺の中の聖騎士のように、彼女の頭をクシャッと撫でる。そして微笑むリリアーヌの目元から、溢れる涙を優しく拭うと、そのまま立ち上がった。
新一はくるりとリリアーヌに背を向けて、横になるアーデルハイトを見下ろす。そしてゆっくりとその場で膝をつき、まるでキスをするかのようにアーデルハイトの顔に自分の顔を近づけた。
新一はそこで一度静止すると、何かを確かめるように露わになった首筋をじっと見つめて――
そして次の瞬間、その首筋に噛み付いた。
爆破された家からアーデルハイトを運び出し、地面に横たえた新一は、網膜に植え付けた生体ナノマシンに指令を与え、スペクトルセンシングを開始する。服の上からであるため、得られる情報は限定的だったが、それでも凡その容体は掴めた。
(……厳しいか)
リリアーヌに話しかけるアーデルハイトの声を聞きながら、新一はそう判断する。アーデルハイトが受けた傷は、人間の治癒能力の限界を少しばかし超えていた。
やがで、アーデルハイトの声が聞こえなくなり、沈黙が世界を満たす。
その中で、一人静かに肩を震わすリリアーヌの姿はあまりに悲壮的で、彼女の普段の快活さと、王として振る舞おうとしている日常の姿を見ているが故に、余計にそれを痛々しく感じる。
だからこそ、その光景は、新一の中に宿る感情に一つの火を灯した。
理性的に考えれば、間違っている。
いくら生体ナノマシンが自己増殖できると言っても、そこには時間的、数量的制約がある。特に、何が起きるか分からないこの状況下においては、この治癒用の生体ナノマシンは新一の生命線と言っても過言ではない。事実、今日もその恩恵には痛いほど
更に言えば、この生体ナノマシンはまだ人体実験の最中であり、しかも、既に深刻な副作用が明らかになっていた。だから、この生体ナノマシンは唯にすら打っていない。そんな危険な物質を、何も知らない人間の体内に投与しようなど、研究者倫理に反する。
だが、そんな当たり前の理屈も、どうしてか今の新一の前ではさしたる制約力を持たなかった。その理由を新一は知りたいと思ったが、今はそんな安穏な思索が許される状況ではないことは明白だった。
だから新一は、リリアーヌに向き合う。
口からは、勝手に言葉が出た。
目の前で、新一がアーデルハイトに噛み付いた。
「あっ……」
アーデルハイトの口から小さく息が漏れる。
それだけで、リリアーヌは少しだけ安心した。それは、まだ彼女が生きている証だったから。
リリアーヌはじっと二人の様子を見つめる。両手を胸の前で合わせて、アーデルハイトに駆け寄りたい衝動をじっと堪える。
新一が何をやっているのか分からない。噛み付くことに、一体どんな意味があるのか、リリアーヌには分からない。
だから……まだ不安はある。恐怖は少しも消えていない。泣き出したい衝動は、確かにそこに残っている。
しかし――新一は言ったのだ。
『信じろ』と。
そして――自分は答えたのだ。
『信じます』と。
リリアーヌにとっては、それが全てだった。
「アーデルハイト。調子はどうだ?」
いつの間にか、新一がアーデルハイトから離れていた。離れて、まるで普段の挨拶のように、横になったままのアーデルハイトに問いかける。
すると――奇跡は起きた。
「……とんでもない目覚めのキスもあったものだな……もしお嬢様にそれをやったら、本当に容赦しないぞ?」
と、アーデルハイトが言葉を発したのだ。まだ弱々しくはあったが、確かな口調で言葉を紡ぎ、そしてゆっくりと目を開けて、その目が、リリアーヌを捉える。
「お嬢様……恥ずかしながら、再び戻ってきてしまいました」
「ハイジ!」
もう、我慢できなかった。リリアーヌは周囲の目も忘れてアーデルハイトに抱きつく。
一瞬驚いた顔でそんなリリアーヌを見つめたアーデルハイトも、しかしすぐに相好を崩した。
「お嬢様、皆の前ですよ。お控えください」
そう優しく語りかけたアーデルハイトは、視線を天へと向けた。
「生命を助けられました。主よ、感謝いたします」
そして、新一へと視線を移す。
「新一、ありがとう。お陰で、まだお嬢様のために働けるみたいだ」
「気にするな。というよりも、それはお前の仕事だ。勝手に人に押し付けるな」
「フッ……それは悪かったよ」
アーデルハイトが苦笑する。そんなアーデルハイトをリリアーヌが心配そうに見つめる。
「ハイジ? もう身体は大丈夫なの? 痛いところはない?」
「はい、お嬢様。ありがとうございます。ですが、少しだけ……少しだけで良いので、休ませてください」
そう言うと、アーデルハイトは目を閉じる。やがて、規則正しい寝息が聞こえてきた。
(良かった……)
その寝息を聞いて、ようやく実感が湧いてくる。
(本当に……良かった)
すべては新一のお陰だと思った。
彼は、本当にお伽噺に出てくる聖騎士様のように颯爽と現れて、自分を――アーデルハイトを助けてくれた。それが本当に嬉しくて……幸せで……彼女の心は、際限なく熱くなる。
その熱い感情は、彼女の心から滲み出し、あっという間に身体全体に行き渡って――
(あぁ……好きだなぁ)
自然と、その言葉が湧き上がる。
(私……新一様のこと、好きだ)
それは、今まで知らなかった感情。生まれて初めて自覚した想い。まるで熱いマグマのように、一瞬で身体全体に広がって……あっさりと、抑えが効かなくなる。
(好き……好き……大好き……本当に、大好き……)
狂おしいほどに、愛おしい。
こんな感情の奔流を、リリアーヌは知らない。知らないけれど……でも全然悪い気はしなくて、むしろ泣きたいくらいに幸せで……それは思ってもみないほどに、幸福な瞬間だった。
リリアーヌは束の間、その幸福に酔いしれる。
「……新一様」
だからリリアーヌは立ち上がり、新一と向き合う。
愛を告げたいと思った。この溢れんばかりの感情を、新一に知ってもらいたいと思った。それが女としての幸せなんだと、心から、素直にそう思えた。
だから……だから……
「新一様。本当にありがとうございました。貴方に、心よりの感謝を」
そうしてリリアーヌは、深々と頭を下げる。彼に、今の自分の顔を見られることがないように――
この瞬間、彼女は自らの恋を自覚し、そしてそれを……隠すと決めた。
***
一夜明け、一行は遂に帝都の中に入った。
(それにしても、思い掛けない展開になったな)
新一はエル・オーラムの玄関口になっている大正門をくぐりながら、そんな感慨に浸る。
予定であれば、リリアーヌを前面に押し出し、次期皇帝――クラウン=プリンセス十年ぶりの帰都を市井の民に印象付ける予定だった。しかし、そのために待機していた別働隊が全滅し、その装備も失った今、その予定は変更せざる得ず、かといってエル・オーラムに向かっているはずの大名行列(という名の陽動隊)と合流しようにもその所在も分からず、更には、負傷しているアーデルハイトには安静な寝所を用意しなければならず、その結果、今までの検問と同じ戦法を取ることにした。
簡単に言えば、リリアーヌを『密輸』することにした。
だから今、新一の横にはリリアーヌはいない。リリアーヌは今度もまた、例の密輸スペースだ。
対し、新一はリリアーヌの奨めに甘えて、御者の横に座り、都内の見学と洒落込ませて貰っている。
「外から見ても凄かったが……中に入るともっと凄いな、この都は」
見渡す限り、建造物がひしめいている。大正門から帝都中央部まで、一直線に走る幅百メートルはありそうな巨大な幹線道路を中心にして、縦横無尽に道路が張り巡らされ、その周りを所狭しと家々が立ち並ぶ。そしてそのまま視線を上へと上げていくと、三百六十度、すべての方向に巨大な城壁が見えるのだ。高さは推定五十メートル。この帝都の中で最も高い建造物になるだろう。たった一つ、帝都の中央でどっしりと構える、異様な存在感を放つ建物を除いて。
ラインシュタイン城――幹線道路の行き着く先。他の建物が軒並み小粒となり、かの城壁すらも、恐らくその高さの中程くらいにしか達していない。外から見た時も思ったものだが、やはりこの城の建築レベルは異常だった。
「初めてエル・オーラムに入った奴はみんな同じ反応をする。口をあんぐり大きく開けて、右と左、そして上へと視線を散らすばっかりだ。まぁその点、新一の反応は面白味に欠けるな。もっと落ち着きなくキョロキョロしても良いんだぞ?」
隣に座った御者――ミヒャエルが期待のこもった目で新一を見つめる。
「遠慮しよう。そもそも、ハルトマン商団の馬車に乗っている人間がキョロキョロしていれば、怪しんでくださいと言っているようなものだろ?」
「ハッ。違いないね」
ミヒャエルがつまらなそうに、新一の発言に頷く。その様子をしばらく横目で眺めていた新一は、やがて目を再び街並みに向けた。そして、視線はそのままに、ミヒャエルに問いかける。
「それで? まさか俺の反応をわざわざ見るために、この馬車の御者を買って出た訳じゃないだろ?」
出発前、新一が御者台に座っていると、後からミヒャエルがやってきた。『今日はこの馬車は俺が操縦する』と言って。無論、彼は普段こんなことはしない。
「何だ。気付いてたのか」
ミヒャエルが苦笑する。
「気付かない方がおかしいだろ……それで? リリアたちには聞かれたくない話か?」
「さぁ? それは分からない」
なんとも要領の得ないことを言う。新一は僅かに眉をひそめた。
「何を聞きたい?」
「何を、か……そうだな……一言で言えば、お前の正体を聞きたい」
その言葉で、新一の目がスッと細くなる。
「正体?」
「そう、正体。昨日の襲撃の後すぐ聞けると思ったんだが、特に何の説明もない。嬢ちゃんだって、あんな芸当を見せられて何も感じていない筈はないのに、一向に聞こうとしない。だから一日待って、自分から聞くことにした」
そこで、初めてミヒャエルの視線が新一を射抜く。
「それで? 新一、お前は何者だ?」
新一は肩をすくめる。
「お前なら知っていると思っていたが。俺は南方出身者だ。そっちで色々と特殊な技能を学んでいる。帝国臣民でないと差別があるだろうからって、リリアの判断で他には言っていない。だから他の商団の面々には一応内緒だ。これで良いか?」
新一はそう答える。アーデルハイトを治した芸当も、南方の限られた地域での秘技。そう言われれば、否定はできないだろう。
しかし、ミヒャエルは困ったように頭を掻いた。
「あぁ……いや、そういう答えを期待してるんじゃなくてな。俺が聞いてるのは、『お前はこの世界の人間じゃないだろう?』ってことだ」
新一の動きが止まる。
「……言っている意味がよく分からないが」
「お前、雷撃を止めただろう?」
新一の言葉を無視して、ミヒャエルが続ける。
「アーデルハイトの件は、まだ良い。直接血液に流し込む特殊な薬があって、それを首筋から口を使って注入したっていうお前の説明は、突拍子もなかったが、あり得ない話ではないと思った。別に死人が生き返った訳じゃないし、傷が一瞬ですべて綺麗さっぱり無くなった訳でもないしな。だがな――」
ミヒャエルが続ける。
「雷撃を止める――あれは無理だ。説明が付かない。人間には構造的に不可能だ。それこそ、新種のアニマでも使わない限りはな……」
ミヒャエルが更に言い募る。
「そう、新種のアニマだ。新種のアニマだと思えば、まだ可能性はあったんだよ。もしかしたら、新一は知らないのかもしれないが、特殊なアニマというのはそれ程珍しい話でもない。一万人に一人くらいはいるもんだ。商人なんて仕事をしてると、思った以上によく出くわす。だから、俺の仲間たちは不思議には思っても、そうやって無理やり自分を納得させることができた……だがな」
そこで、ミヒャエルが心なしか声を落とす。
「お前はそんなもの使えない。お前が使えるのは下手っくそな無属性アニマだけだ。それは、この間のデモンストレーションでよ〜く分かった」
(成程……特殊なアニマなんてあるのか)
問い詰められていることを一瞬忘れて、その耳よりな情報に興味を示す。やはり、自分にはまだ知らないことがたくさんあるな――という、自戒の思いと共に。
「……あの時は、隠していたんだよ」
そんな内心の思考を隠し、新一は顔と声を作る。
「何のために?」
だがミヒャエルは、誤魔化されない。執拗に食いついてくる。
「あのデモンストレーションの後、アーデルハイトから新一は南方出身者だって聞いた。それで、あのデモンストレーションの意味も分かった。成程、あのただならない雰囲気にも納得だ。あの場で、新一が闇属性以外のアニマを使えることが証明されなけりゃ、下手するとそのまま戦争だったんだからな。だからな……だからこそ、あの場で、新一がアニマを隠す理由が見つからない」
(……やはり、ミヒャエルは頭の回転が速いな)
「必要がないと考えた。無属性アニマを見せれば、それで充分だからだ」
「だが一言くらいあっても良いだろう? 別に隠すようなことでもない。その証拠に、昨日の戦闘では、あっさり使ってるしな」
ミヒャエルが続ける。
「では何故か? 隠してもいないのに、生死を分けるデモンストレーションの場で、あの力を発表しなかった理由は何か……その疑問に、俺ならこう答えを出す。『あの力――雷撃を素手で食い止めたあの力は……アニマではなかった』とな。そしてそうなると、最初の疑問に辿り着く。お前は一体……何者だ?」
改めて、その質問。その確信したような物言いに、そして論理だった推測に、上手い言い訳が思いつかない。
(まさか……最初にこいつにバレるとは思わなかった)
新一は天を仰ぐ。どうやら、観念するしかなさそうだ。
「……お前と同じ結論に行き着く人間は、どれくらいいると思う?」
「現段階では嬢ちゃん。意識を取り戻して、事情を聞けば、アーデルハイトも気付くかもしれないな」
「そうか……リリアは気付いているか……」
それ程、致命的なことなのだろう。確かに、普通の人間の身体は電流を通すようにできている。本来、体術でどうこうてきる話ではない。ナノマシンに慣れすぎたせいで、思ったよりも感覚がズレてしまっていたようだ。
「こんなこと俺が言うのもアレだが……」
ショックを隠せない新一の様子を見て、ミヒャエルが付言する。
「嬢ちゃんのことは多分心配しないでも大丈夫だぞ。どうやら、嬢ちゃんからはそのことを掘り返すつもりは無いみたいだからな」
と、ミヒャエルは肩をすくめる。
そんなミヒャエルに、新一はこう言わずにいられない。
「それなら、ミヒャエルにも掘り返して欲しくなかったな」
すると、ミヒャエルは大袈裟に仰け反る。
「おいおい、俺はそこまでお前さんに惚れ込んでないさ。それに俺は、不確定要素は潰しておく主義なんだ。商売の失敗は、情報の不足から起こると相場が決まっているからな。さぁ、じゃあ話してくれ。早くしないと、俺の商館に着いちまう」
それっきり、ミヒャエルは口を閉ざした。それ以上、話すよう促したりはしない。
それを見た新一は、最後に一つ大きく溜息をついて、仕方なく、その重い口を開いた。自分の軽挙妄動を、深く後悔しながら。
「最初に言わせてくれ。今からする話はかなり突拍子がない。恐らく信じられる類の話にはならない。そのつもりで聞いてくれ」
そんな前置きから始まった新一の話は、確かに突拍子のないものだった。
「宇宙? お前それは……まだ『異世界から転生して来た』とかの方が信憑性があるぞ? てか、てっきりそうだと思ってた」
「小説の読み過ぎだ、それは」
新一が鼻で笑う。
「異世界って……そんな世界がある訳ないだろう?」
「いや、宇宙から来たとか言い出す奴に言われてもな……」
戸惑いの表情を浮かべたミヒャエルが首を振る。
「……それで? 何でわざわざ宇宙からこんな所に? 空を飛ぶことすら想像できない人間の所に来たって、別段得られるものはないだろう? それともアレか? オーバーテクノロジーでも披露して、悦に浸りたかったのか?」
「そんな幸せな理由だったら、良かったんだがな」
と、新一が苦笑いする。
「残念ながらそうじゃない……遭難したんだ。航行するだけの燃料も枯渇し、食糧も無くなった。そんな時にこの星を見つけたんだ。藁にもすがる気持ちだったよ」
その時のことを思い出したのか、新一の顔から笑顔が消え、苦味だけが残った。
「なんだか……大変だったみたいだな」
その様子を見て、ミヒャエルもそれ以上の追求は控える。どうやら、あまり思い出したい記憶ではないようだ。
「いや……まぁ、結果的には悪くなかった。この星は信じられないほど環境が良いからな。こんな星は、滅多に無い。というか、他に知らない」
「へぇ……そんなもんか」
ミヒャエルは驚く。夜空を見上げて目に映る星々の数を考えれば、同じような環境の星だっていくつもあると思ったが。
「そんなもんだ。奇跡のような確率なんだよ。恒星との距離関係なんかも関係してくるし……」
「恒星って何だ?」
「ん? あぁ、昼間に空に見える大きな火球があるだろ? アレのことだよ。アレも実は立派な星なんだ。ここみたいに、固形化した地面はないがな」
そこまで話した新一は、不思議そうにミヒャエルを見る。
「というか、さっきは『信じられない』みたいなこと言ってた癖に、随分真面目に聞いてくるじゃないか」
「別に信じられないとは言ってないだろ? 異世界転生だと思ったって言っただけだ。今更お前がそんな突拍子もない嘘をつくとは思ってないからな。嘘っぽい話だが、きっと本当なんだろう」
「俺が変な妄想に取り憑かれてるって線もあるぞ?」
新一がそう言って、悪戯っぽく笑う。ミヒャエルも笑い返した。
「馬鹿を言うな。理性の塊のようなお前が、妄想なんてするわけないだろ。それこそが、妄想だ。いや、空想かな? まぁそれに何より――」
ミヒャエルはウインクする。
「狂人の妄想なんかで片付けるより、そっちの方が余程ロマンがあるだろ?」
***
結局ミヒャエルは、本当に情報が欲しかっただけのようだった。その情報を元に、新一を脅すようなこともせず、またあっさりと、誰にも漏らさないことを約束してくれた。
だがこの結果は、ミヒャエルがかなり進歩的な考え方を持っている人間だからこそだろう。他の人間も同じような反応をするなどと考えるのは、あまりに楽観が過ぎるというものだった。
だからこそ、もう同じミスは二度としないと、気を引き締めてかからなければならない。
しかし、そうやって考えると、新一の事情を知っている先住民の存在は、かなり貴重でもあった。特にそれが、情報に長けた者なら尚更だ。今回のミスも、前回のミスも、結局この惑星に対する情報不足が原因になっている。ミヒャエルなら、きっと力を貸してくれるだろう。
「新一さん」
そんな風に物思いに耽っていたところで、誰かが自分を呼ぶ声が聞こえた。新一は振り返る。
「あなたは……確か……」
「クラウディアです。この商館の管理人。先程、ミヒャエルから紹介があったと思いますが?」
そうだった。クラウディア・シュミット――ミヒャエルがエル・オーラムに持つ商館の管理を一手に担っているその責任者。平たく言えば、ハルトマン商団のナンバーツーに当たる人物。
「はい、覚えていますよ。少し、ボーとしていたもので」
「そうですか」
クラウディアはややそっけない。これが彼女の素の姿なのか、新一に対してのみなのか、まだ新一には判断できない。
「それで? 何か用ですか?」
彼女がわざわざ来たのだから、気紛れということはないだろう。案の定、彼女は頷く。
「はい、アーデルハイト様がお目覚めになられました」
「! そうか……」
思わず、腰が浮きかける。随分と長い間目覚めないから、心配していたところだったのだ。目立った免疫反応は見られなかったが、なにぶん、あの生体ナノマシンはまだ治験の域を出ていない。この惑星の住人の血中内での動態も確認していない。不足の事態は充分にあり得た。
「それは良かった」
「はい、良かったです」
クラウディアが無表情で頷く。そして――
「では、新一さん。同行を願います」
と、そんなことを言ってきた。
「同行って……どこに?」
新一は眉をひそめるが、そんな新一を無視して、クラウディアは踵を返し、歩き出す。
そして、歩きながら、肩越しに一言。
「言わずと知れます。アーデルハイト様の病室です」
「新一、遅いぞ」
あの後、クラウディアに言われるがままに一直線にこの病室に向かったのだが、どうやらアーデルハイトにとってはまだ不満なようだった。正直、責めるならクラウディアを責めてほしい。
だが、そんなことをいちいち釈明するほど、新一も若くもなく、無茶でもない。
甘んじてアーデルハイトの責めを受けつつ、ベッドの脇に置かれた椅子に腰掛ける。
「そう言えば、リリアは?」
確か、リリアーヌはずっとアーデルハイトの側についていたはずだった。
「さっきまで、そこに居てくださっていたよ。ご自身も疲れているのにな。だから、強く言ってお引き取り願った。これから、ラインシュタイン城に入城するにあたって、お嬢様が疲れていたら元も子もない。それに……お前と二人で話したいこともあったしな」
そして、アーデルハイトはじっと新一を見つめる。
「まずは、礼を言わせてもらおう。お前に生命を救われたのは、これで二度目だ」
思いの外、真っ直ぐな言葉だった。少し、調子が狂う。
「……構わないよ。たまたま、俺がそういう立ち回りになっただけだ」
そう――たまたまだ。あり得ないような偶然がいくつも重なった結果に過ぎない。その結果が功績だと言うのなら、そのような偶然を引き寄せた彼女にこそ、それは与えられるべきだろう。
「謙虚な奴だな、お前は」
アーデルハイトはそう言って、苦笑する。
「だけどまぁ、それが新一らしさなんだろう。私は少々気に入らないが、それを受け入れても良いと思えるくらいには、お前のことを認めようかな、という気分にはなっている」
「それは、どうも」
今度は新一が苦笑する。まったく、はっきりしない奴だ。
「さて、じゃあ本題に入るとしよう」
どうやら、礼を言うのは本題ではなかったらしい。
「まず、私の身体はどれくらいで治る?」
それは、少し意外な質問だった。
「自分の身体のことは、自分が一番良く知っているってタイプだと思っていたが、そうでもないのか?」
「いや、お前の言う通りだ。だが、なにぶんこんな経験は初めてだからな。自分の感覚が正しいのか、一応確かめておきたい」
「成程」
新一は頷く。自分の感覚が信じられない――その気持ちはよく理解できた。なにせ、彼女の身体は既に、昨日までのそれとは違うのだ。
新一は素早くアーデルハイトの身体をセンシングする。
「個人差があるから何とも言えないが……動けるようになるまで、あと数時間、問題なく戦闘できるようになるまで、あと三日……と言ったところかな」
アーデルハイトのことだから、もう少し早いかもとは思ったが、それは言わないでおく。
「そうか……では、私の目算とそう大きな違いは無さそうだな……それにしても、自分でも不思議な感覚だ。一応、致死レベルの傷を負った自覚はあったのだが……」
そこで一旦言葉を止めたアーデルハイトは、自分の首筋に触れる。そこは、昨日新一が噛み付いた場所。既に傷口はすっかり塞がれ、何の痕跡も残っていない。
しかしアーデルハイトは、まるでそこにまだ傷が残っているかのように、そしてその感触を確かめるように指を動かす。
「新一……」
そして、アーデルハイトが口を開いた。
「新一、本当のことを教えて欲しい。お前は、一体私に何をした?」
これが本題。リリアーヌを下がらせてまで聞きたかったこと――
(だが……丁度良い)と、新一は思った。
どのみち、話さないわけにはいかないと考えていたから。人の身体を作り替えておいて、知らぬフリは決め込めない。
(さて、問題はどこまで話すか……だが)
いくら話すつもりはあったと言っても、全て――具体的には宇宙どうこうの
なら、必然的に話し方はこういう形になる。
「俺の村に伝わる秘術でね。南方のとある霊山のみで取れる妙薬がある。それを水に浸しつつ人肌に温めて、最後に細かくすり潰したものを血管から体内に入れるんだ。そうすると、全身にその薬が回ることになる」
「あぁ……その説明は何となくだがお嬢様からも聞いた。尤も、そんなに具体的ではなかったが」
(そうか。治療の後、みんなに説明した内容をそのままリリアが伝えたのか……)
それなら、アーデルハイトが知りたいのは、行為の意味ではなく、その結果の方なのだろう。まさに、新一が話さなければと思っていたことだった。
「そうか。じゃあそれはもう良いな。それで……その効果なんだが……恐らく、お前が考えている通りだ。その薬はお前のエネルギーを消費して、半永久的に活動し続ける」
(正確には宿主が死ぬまでだが……まぁそれは良いだろう)
「だからお前の身体は、基本的にはずっとそのままだ。その薬が切れるまで、超回復は維持される」
こうして改めて口に出して説明すると、随分と反則的な内容だった。いくつかのデメリットを除けば、人類の希望そのものではないだろうか?
(まぁ、そのデメリット故に、今のところそんな大層なものになる予定はないのだが)
「今のが効果。何か質問は?」
「『半永久的に活動』と言ったが、『薬が切れるまで』とも言った。それはどういうことだ?」
尤もな質問だった。分かりにくい説明だったことを、新一は反省する。
「あぁ……紛らわしい言い方だったな。単純な話だよ。この薬品は永遠に活動し続けられるけれど、消費されると無くなるんだ。だから、あまり怪我を負い過ぎると、体内の全ての薬が無くなって、効果が消える」
本当のことを言えば、ゆっくりではあるが自己増殖をするタイプの生体ナノマシンなので、たまに傷を負う程度だったら、簡単には無くならない。ただ、アーデルハイトの場合は高い頻度で怪我をするだろうし、何より、本来の半分の量しか注入していないため、無くなりやすい。そのため、敢えて薬が自己増殖するなんて訳の分からない説明はしなくても良いだろうと、新一は判断した。
「成程、そういうことか……では後もう一つ、エネルギーを消費すると言ったが、具体的にはどういうことだ?」
「あぁ……これはそれほど気にしなくて良い。お前が普段の生活で摂取するエネルギーの一部がそちらに回るだけだ。だから、別段特別なことはしなくても良い。今までよりも、多少は大食いになるかもしれないがな」
「ふむ……分かった。まぁそれなら別に気にしなくて良いだろう」
アーデルハイトは、新一の説明に納得したようで、一人頷いている。
さて、ここからが本番だった。
「じゃあアーデルハイト。ここまでが効果の話だ。次は……副作用の話もしておかないといけない」
「副作用……そうだな、話してくれ」
あっさりと受け入れる。恐らく、覚悟していたのだろう。だから、新一は言葉を選ばずに、真実を告げる。
「副作用はいくつかあるが……一番は、寿命を縮めることだ」
「寿命を?」
アーデルハイトが首をかしげる。
「何故傷が早く治るのに、寿命が縮むんだ?」
厄介な質問だった。どう説明すれば、この文明レベルの人間にもイメージできるだろうか?
「……人の身体は、『細胞』という小さい生命体の塊なんだが……」
新一は、考えながら話す。
「怪我をすると、この細胞が分裂……新しいものに生まれ変わることで傷が修復するんだ。でも、この細胞分裂には限りがある。一定以上分裂すると、もうその細胞は分裂できなくなる」
チラリとアーデルハイトの顔を見る。その表情からは、理解できてるのかどうなのか、よく分からなかった。
「その分裂できなくなった細胞を『老化細胞』と言うんだが、これが身体に色々な悪影響を及ぼす」
「悪影響?」
「簡単に言うと、病気になり易くなる。あと身体の機能が低下する。最終的には、死に至る」
「成程……おおよそ分かった。この薬はその細胞分裂を促して傷を治すから、老化細胞がその分早く増えて、身体が早く駄目になるということか」
「……あぁ、その通りだ」
新一は目を見張る。人体構造など知る由もないこの惑星の住人にしては、いやに理解が早かった。それもリリアーヌ辺りなら納得できるが、相手はアーデルハイトだ。結局分からず仕舞いで終わる可能性も決して低くないと、新一は考えていた。
「お前……ひょっとして私を馬鹿にしてないか?」
新一の驚愕の表情から、何を考えているか察したのだろう。アーデルハイトが新一を睨みつける。
「私は確かに武闘派だが、別に頭を使うのが苦手なわけではない。証拠に、読み書き算盤すべて滞りなくできる。当然、学校などには通わずに……だ」
新一の口がポカンと開く。
「……家庭教師が付いてた、とかではなく?」
「当たり前だ。というか、私は幼い頃からお嬢様の従者をやっていたから、そんな暇は無かった」
確かに信憑性のある話だった。しかしだとすると、アーデルハイトは実はかなり頭が良いということになる。教育も受けずに、しかも常に他の仕事に従事しながらそのレベルに達するのは、凡人にはいささか厳しいだろう。
どうやら、アーデルハイトのことを少し見誤っていたらしい。
(どうも最近は、反省させられることが多いな)と、新一は少し気分が落ち込んだ。
「確かに……そうだな。悪かったよ。今度からお前の見方を改める。それと……身体のことも申し訳なかった」
新一は頭を下げる。結局、新一がアーデルハイトに言いたかったことは、それだった。他に手はなかったとは言え、本人の了解を取っていない以上、これは新一のエゴ以外の何物でもないのだから。
「謝る必要など、何も無いと私は思うのだがな」
困ったように、アーデルハイトが頬を掻く。
「あの場で死ぬか、将来早く死ぬかの選択だ。誰であろうと、後者を選ぶだろう?」
その言葉に、新一は頷く。
「あぁ、その通りだ。誰であろうと後者を選ぶ――だが俺は……その選択の権利をお前に与えなかった」
「でもそれは……分かりきってる選択だろう?」
「関係ない。選択とは、その機会があって初めて意味をなす。それが無いのなら、それは本人以外の、誰かのエゴだ」
「真面目だなぁ……お前は。まったく生きにくい性格をしている。でもまぁ……そうだな。折角謝ってくれるなら貰っておくとしようか。ちなみに……」
そこでアーデルハイトは、不意に悪戯っぽい顔になる。
「その謝罪には、どんな特典が付いてくるんだ?」
「特典? あぁ……」
新一は考える。確かに、謝罪だけして終わりでは、そもそもそれこそが新一のエゴだ。何か相応の代償を負わなくては。
「そうだな……じゃあ何でも一つ、俺に命令できる権利を付けよう。もちろん、俺が俺個人の責任と判断で、できることに限られるが」
「なんだ、やけに太っ腹だな。良いのか? そんな約束をして」
「良いよ。他人の身体を勝手に作り替えた代償にしては、安過ぎるくらいだ」
それを聞いたアーデルハイトは少しだけ考える素振りを見せると――
「そうか、分かった。じゃあ遠慮なく使わせて貰おう」
そう言ったアーデルハイトは、一度だけ深呼吸をすると、その『お願い』を口にした。
新一は呆気に取られる。
そのお願いの意外さもさることながら、それを口にしたアーデルハイトの恥ずかしそうな表情が、驚くほど可愛らしかったから。
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