第2話 出会い

新一しんいち……ねぇ、新一。起きて」

 声が――聞こえる。

 同時に、優しく揺り動かされる身体。

 ここしばらく繰り返されている儀式。よく知った、声と感覚。

 新一は、ゆっくりと目を開いた。

「唯……おはよう」

「うん、おはよう」

 彼女――東雲唯しののめ ゆいが笑顔を向けてくる。ここ数年、ほぼ毎日見続けてきた笑顔。だが、その目元に浮かんだ隈の存在が、そんな平穏な日々はとうに終わってしまったことを教えてくれる。

「何か……見つかったか?」

 答えはわかっていたが、聞かないではいられなかった。案の定、唯は首を横に振る。

「変わらないよ。あるのは、荒廃した惑星ばかり」

「そうか……」

 新一は思わず嘆息する。この漂流が始まってから既に三ヶ月。そろそろ、合成食の材料も尽きかけていた。

「もって……あとどれくらいだ?」

 この質問は三日前にも聞いていた。

「あと二日。切り詰めても……四日が限界かな」

「……そうか」

 新一の同じ質問に対しても、嫌な顔一つせず答えてくれる唯。本当に強い女性だと、新一は改めて思う。

 親友を――いや、もしかしたら想いを寄せていたかもしれない相手を失っても尚、彼女は涙すら見せなかった。

智之ともゆき……)

 新一は、かつての親友に思いを馳せる。

 物心つく前から一緒だった。新一と智之――彼らは二人でワンセット。入学最難関のティーガーデン=スペースサイエンスアカデミーにも二人揃って合格し、そこで唯に出会った。二人でワンセットは、三人でワンセットになった。

 それは卒業してからも、ティーガーデン級正式宇宙航空母艦キルギスへの配属が決まり、惑星探査船トライアドを充てがわれた後も、もはや奇跡的と言って良い確率で変わらなかった。つい三ヶ月前、あの事件が起こるまでは……

「……賭けに出るか」

 新一は頭を支配しかけていた感傷を振り払い、現実的な問題に対して、一つの結論を出す。

 それは、ずっと見送ってきた考え。失敗すれば、もう彼らに待つのは、死のみだ。

 だが、どのみちこのまま四日が経てば同じこと。どうせ死ぬなら……大地の上で。

「……良いの?」

 唯が新一の目を覗き込む。

 唯は以前からこの案に比較的前向きだった。物理学者である新一に比べ、化学者であり、生物学者でもある唯の方が、この案ではできることが多い。対し、新一は己の命を全托するようなものだったから、それに消極的になるのも当然で、唯もそのことを十分理解していた。だからこそ、今まではこの案をあまり強く推したりもしなかったのだ。

 もっとも、どのみち生き残る可能性が非常に低いのは変わらない――という理由もあったが。

「もうこうなった以上、他に手はないだろう? なら、少しでも動けるうちにどこかの惑星に降りた方が良い。惑星に降りてもその段階で身動きが取れなくなってしまえば、そこで終わりだ」

 もっともな意見だった。だからこそ、そこが最終妥協ラインだったのだろう。

 生命探査レーダーによる生存可能な惑星の捜索を断念し、荒廃した惑星で必要な資源を入手できる可能性に一縷の望みを託す――それが、この賭けの内容だった。

「めぼしい惑星はあるか?」

 新一は唯に尋ねる。唯の返答は早かった。

「約八千万キロメートル離れたところに、小粒だけど着陸できそうな星があるみたい。水もなくて、一面に酸化鉄が広がっているだけの荒廃した惑星だけど」

「そうか……地下に有用な資源が眠っていることを祈ろう。距離も八千万キロなら……地球から火星くらいの距離だな……なんとかいけそうか」

「多分ね。それでも一日はかかると思うけど」

「燃料もそこで尽きるだろうから……俺たちの命運は、掛け値なくその星次第ってことだな」

「不安?」

 唯が首を傾ける。新一は、静かに笑った。

「もう決めたことだ。今できる最良の選択をした。なら、不安を感じるだけ無意味だ」

 それは、唯に向けて発しながらも、他ならぬ自分に向けた言葉でもあった。

 迷いと不安が発生するのはギリギリの局面。そしてその局面でこそ、それは人を殺すのだと、痛いほど知った後なのだから。


***


 高速航行に切り替えてから、一日と三時間後、新一たちは目的の惑星近くまで到達していた。

「何だ、これは……」

 スペクトルセンサの焦点をその惑星に合わせた新一は、その値が示す意味に気づいて、思わず呻き声を漏らす。そこに示されていたのは、最悪のスペクトル波形だった。

「このスペクトルって……もしかして濃硫酸?」

 光学には疎い唯も、さすがに気がつく。着陸を断念する理由の筆頭候補に挙げられるそれは、探査船に乗る者なら、その専門に限らず誰でも暗記させられるからだ。

 しかしその反面、このような性質を示す惑星に遭遇することは滅多にない。それにも関わらず、それほどまで重点的に教えられるのは、ひとえにそれだけ危険だからだ。濃硫酸の濃度によっては、地表に降り立つまでに船の装甲が溶かされることもあり得る。

「さっきまでは出ていなかったのに……いきなり惑星全体が濃硫酸の雲で覆われた」

 信じられなかった。新一の僅かな経験と、そしてその豊富な知識の中には、このようなケースは一つとして見当たらなかった。

 その惑星の地質と環境に依存して発生する濃硫酸は、決して簡単に消えたり、現れたりするようなものではない。

「着陸は……難しいかな?」

 唯は新一に尋ねる。彼女の知識では、濃硫酸のスペクトルは識別できても、その濃度までを判断することはできなかった。

「ギリギリ……大丈夫だと思う。ただ……地表がどうなっているか。仮に地表の黄鉄鉱が燃えているとすると、四百度以上になっている可能性がある」

 それを聞いた唯は押し黙る。新一も、なんの慰めの言葉も持っていなかった。

 思っていた以上に、この惑星の環境は過酷だった。生存どころか、僅かな滞在すらも危険だと思われるほどに……

(諦めるしかないか……)

 新一は顔を伏せる。ここに来るまでに、ほぼすべての燃料を使ってしまっていた。ここが駄目なら、もう彼らが助かる可能性はない。

 完全に――詰んだと言って良かった。だが……

「降りましょう」

 俯く新一に向かって、唯がそう小さく呟いた。

「……本気か?」

 新一は耳を疑う。あまりに危険な――いや、勝算の薄い賭けだと、言わざるを得なかった。

 確かに、ここにいれば餓死するだろう。だが逆に言えば、それだけで済むのだ。この探査船には睡眠装置もある。それを使えば、少なくとも苦しむことはないだろう。

 対し、この惑星に降りた場合は、何が起こるか予測できない。生きていることを後悔するような事態に直面する可能性も決して低くない。

 しかし、唯の意志は固かった。

「新一も言ったでしょ? 他に生きる手はないって。生きるか死ぬか……なら、少しでも生きる可能性がある方に賭けましょう。それが、生き残った人間の義務だと思うから」

 力強い唯の言葉。その瞳に宿る光も、まったく陰っていない。

 それを見た新一は、ようやく悟る。彼女は既に覚悟を決めている。それは、死んだ者の分も……智之の分まで、生きようとする覚悟だ。

「……参ったな」

 思わず、苦笑する。彼女はどちらかと言うとおっとりした女性だった。いつもは新一や智之の後ろを付いてくることが多かったのに……いまや、新一が手を引かれている気分だった。

「そうだな。諦めるのは、まだ早いな」

 だから、新一は自己の軟弱さを恥じた。こんな時だからこそ、手を引くべきは自分だと、改めて決意する。そして同時に、心の底から思う。

 ――この女性を助けたい、と。

 それは、亡き親友の願いでもあった。彼女を愛した彼は、彼女を守るために死を選んだ。なら、その意志を引き継いだ新一が為すべきことなど、最初から決まっている。

(彼女を……こんな所で死なせる訳にはいかない)


「新一! 計器を見て!」

 思考の淵に沈んでいた新一を突如呼び戻したのは、興奮を隠しきれない様子の唯の声だった。

 意識を戻した新一は、目の前でかじりつくように観測データを凝視している唯の姿を捉える。

(もしかして、少しは硫酸濃度が低下したのだろうか?)

 そんな希望的観測を頭に浮かべながら、新一も計器を覗き込む。そしてそのまま、固まった。

「……どういうことだ?」

 ようやく搾り出した声は、新一の心中を如実に表している。濃硫酸の雲を確認した時以上に、新一は動揺していた。

「雲から……濃硫酸の反応が消えている?」

 そうとしか思えなかった。計器に示されているのは、水を示すスペクトル波形のみ。濃硫酸の影も形もない。

「私はあまり詳しくないんだけど……こういうことってあり得るの?」

「……あり得ない」

 そう――あり得ない。あり得ないことが、今目の前に展開している。

「センサが……故障したか?」

 最も考えられる原因はそれだった。しかし、そうなると厄介だ。センサは、どの段階で壊れたのだろう?

「一応、自己点検プログラムは走らせたんだけど……」

 すると、新一の言葉に反応した唯がそう答える。

 その答えは、結局途中で尻すぼみになり、結論まで行き着くことはなかったが、口調から、その続きは十分に察せられた。

 異常が見つからない――そんな異常な事態が、今尚、進行している。

「どうする? 降りる?」

 先程は、惑星への着陸を主張した唯は、改めて新一の判断を確認する。その言葉を聞いた新一は、胸の中に渦巻く様々な不安に別れを告げた。

「降りよう」

 新一の答えを聞いた唯が小さく頷き、コンピュータを操作する。惑星に向け、ゆっくりと進み始める機体。目まぐるしく、様々な情報が計器に表示させる。

 新一はすべての意識を集中させ、それらの情報の意味を探ることに全力を尽くす。どんな僅かな兆候も見逃すつもりはなかった。

 やがて、艦が大きく揺れ始める。大気圏に突入した合図だった。


 大気圏を抜けた直後、異常に気がついた。

 まず真っ先に光学センサの類が復活し、地表面の情報を画面に映し出していく。

「新一……これって……」

 隣で、唯が絶句している。新一も同じ気持ちだったが、もう意識が逸れることはない。表示される情報を冷静に分析していく。

「森だな。地表物体すべてから葉緑素クロロフィル反応が返ってきている。肉眼でも視認できた以上、間違いないだろう」

「そんな……だって宇宙からはそんなものはまったく……」

「……」

 唯のその疑問への答えは、新一も持っていない。

 宇宙空間から見たこの惑星は、最初は赤茶色の化粧をまとった姿を彼らに晒し、近づくと、今度は濃硫酸のドレスを身につけ、彼らを威嚇してみせた。

 だがその実は、かつての母なる地球を思い起こさせるほどの豊かな自然を、そこに隠していたのだ。

 狐に化かされた気分とは、恐らく今のような状態を指すのだろう。

「やっばりセンサ類が……イカれてたのかな?」

 唯がそう推測する。降下前の出来事から考えても、一見説得力がありそうな意見だったが、しかしその推測には無理があった。新一も唯も、何もセンサの計測結果だけを見ていた訳ではないのだ。

 探査船の窓越しに、不自然に輝く雲で覆われる惑星の姿も見えていたし、その隙間から僅かに覗く赤茶色の大地も目に入っていた。

 それとも、実は見えていなかっただけで、一部には緑の大地が隠されていたのだろうか?

「もう一度外から確認したいけど……もう宇宙空間には出られないもんね……」

 新一の考えを聞いた唯は、燃料計に記された値を確認しつつ、首を振る。分かっていたことだが、もうこの惑星を出るだけの燃料は、この船には残っていなかった。

 科学者として、事の真偽を確認できないことは残念であったが、しかし既にこの惑星に降り立った以上は、もっと他に、重要な事がある。

「知的生命体……いるかな?」

 新一の内心を代弁するかのように、唯が呟く。

 そう。これだけの広大な自然が存在する惑星なのだ。生物がいるのは当然として、一定以上の知能を備えた存在がいても、まったく不思議はなかった。

 その発見は、任務に従事していた頃であれば、大変な朗報であったに違いないが、今の状況――資源も充分になく、宇宙空間への脱出の目処も立たず、更には中央政府からの支援も期待できない状況においては、手放しに喜べることではなかった。

 もし、先住民が攻撃的性質を有しており、かつ新一たちに比肩し得る科学技術を持っていた場合、彼らの安全は即座に脅かされることになる。

 だが一方で、もしこの惑星に文明があれば、効率的にエネルギー補給ができる可能性も、また事実だった。

 なにぶん、現状では資源が不足している。植物から生命エネルギーを抽出するためのバイオプラントを建設するにしても、どうしても小規模にならざるを得ない。そうなれば、日常生活は賄えるにしても、トライアドを再び飛ばすなど、夢のまた夢だった。

 だからこそ、今重要なのはこの惑星についての情報を、可能な限り早く集めることだ。

 後手に回らないこと、そして、ここの環境で自分たちに有利な状況を構築すること。それが、今の新一に求められているすべてだった。

「取り敢えず、この辺りに降りてみよう」

 森林の中で、僅かに木々が薄くなっている土地を発見し、そこに着陸ポイントを定める。既に手遅れかもしれないが、いつまでも空中に漂って、先住民に捕捉されるリスクを高めたくはなかった。

 新一の言葉を聞いた唯は軽く頷き、コンピュータを操作する。

 数分後、辺りの木々を薙ぎ倒しながらも、トライアドは無事着陸した。


「大気は……理想的だな。これならマスク無しで外を出歩いても問題無さそうだ」

 地表に降り立った新一たちは、念のため、外の大気成分を調べることから始めた。といっても、これだけ環境が良いのだ。最初からほとんど不安視はしていなかった。

「じゃあ……外、出ても良いかな? 早く、ここの生態系を調べてみたいんだ」

 唯が控えめに、しかしワクワクを抑えられないといった様子で新一を覗き見る。彼女はもともと植物が大好きで、それが高じて研究者になったような口だ。早く調べたくて堪らないのだろう。

 新一は内心で苦笑しつつ、彼女にその任を一任する。新一は自然物にはあまり興味がない。むしろこの惑星の文明レベルを、早急に調べたかった。

「分かった。楽しみにしててね。すぐに居住環境整えちゃうから。それと――生体ナノマシンの素材供給も……色々考えてみるから」

「……ホントか?」

 知らず、新一の声が大きくなる。唯にとって興味の対象が植物なら、新一にとってのそれは生体ナノマシンだった。

「うん。詳しくは調べてみないと分からないけど、多分何とかなると思う。タンパク質で良いんだよね?」

「あぁ。機能改変や構造設計は俺がやるから。ありがたい……助かる」

 新一は一気に心が軽くなったのを感じた。生体ナノマシンの供給が可能になるならば、できることがまったく変わってくる。更にはここの環境に合わせて、新機能を付与した新しい生体ナノマシンも作れるかもしれない。科学者として、ワクワクせずにはいられない。

「もう……新一は」

 そんな新一を、苦笑を浮かべつつも少し嬉しそうな顔をした唯が眺めている。その様子は、人こそ入れ替わっているものの、先程の二人のやり取りの焼き直しのようだった。


 新一がトライアドを出発したのは、それから約三十分後のことだった。

 足には、ホバーバイクを使うことにした。

 空中を浮遊しながら走行するこの小型バイクは、ほとんど音を発しない。また、どんな悪路だろうと関係ない。搭載された高精度センサとそれを統括するAIによって、操縦の必要性は最小限で、何かと衝突する危険も少ない。巡航速度が時速五十キロという制限はあるものの、それを差し引いても、この状況では最適な乗り物だった。

 新一は辺りに注意を払いながら、木々の間を縫うようにして進んでいく。途中、何度も動物に遭遇した。

 木の上で羽を休めるオオルリ――に似た鳥。

 木から木へと飛び移るモモンガ――に似た小動物。

 新一のバイクに驚いて、藪から飛び出してきたイノシシのような動物もいた。

 生態系は、驚くほど豊かだった。

 もし新一が唯だったら、その都度立ち止まり、一向に先へと進むことはできなかったろう。だが幸い(?)、新一は動物へも大した関心は持っていない。通り過ぎざまに、食用になり得るかどうかを観察する程度だ。

 そのため、二時間ほど進んだあたりで、新一は新しい景色に遭遇した。

「谷か……」

 新一の目の前に立ち塞がったのは、巨大な峡谷だった。恐らく幅は五十メートル、深さは百メートルほど。このバイクで超えられるギリギリの大きさだった。

 そしてそれを超えた先には、またひたすらに森が続いている。残念ながら、まだしばらくは、森と縁を切ることはできそうになかった。


「……何だ?」

 その時だった。溜息をついた新一の耳が、思いがけない音を拾う。

「……」

 突然の事態に緊張しながらも、耳を澄ます。だが、聞こえてくるのは水が流れる音ばかり。

 そのため新一は、耳に埋め込んでいる生体ナノマシンの感度を上げる。専用の機械に比べれば能力は控え目だが、これを使えば、百メートル離れた場所の囁き声程度なら、聞き取ることができる。

「……聞こえた」

 やはり聞き間違いではなかった。新一の耳は、人の声と思しき音紋を拾っていた。

「話している内容は……当然わからないか」

 初めて聞く言語だった。だかその口調から、極めて理性的に話しているような印象を受ける。

「文明人がいる……か。高度文明による排撃のリスクも高まったかな」

 と、口では言ってみるものの、しかし新一は、この惑星に降り立った時に感じた危機感を、もうあまり持っていなかった。

 新一たち人類も経験してきた道だが、人は科学の発展に比例して自然を破壊する。人類の多くが地球を離れ、ティーガーデン星系に移り住んだ後の世代である新一は当然見たことがないが、かつての地球にもこういった自然は存在したらしい。だが、人類の進歩に合わせてそれらも消えていった。

 とすれば、逆説的に考えれば、これだけの自然が残っているこの惑星の文明レベルは大したことがないということだ。

 そのため新一は、少し大胆な行動を取っても問題ないだろうと考えるに至っていた。仮に見つかっても、逃げることは容易だろうし、もし戦闘になっても、速やかに相手を無力化することも可能だろう。

 故に、新一はホバーバイクのエンジンを起動させる。

 今はまだ音でしか、人の存在を感知できていない。次は、実際にその目で確かめてみるつもりだった。


 結論として、この星の科学技術は大したことはないという新一の見立ては、間違っていなかった。目の前で狩を繰り広げる人の装備、そしてその様子を見る限り、それは明らかだった。

 にも関わらず、新一は自己の見立ての甘さを後悔した。まったく未知の惑星で、自分が持つ尺度だけで相手の脅威度を測ろうとすることの危うさを実感したからだ。

 狩では、武器は使われなかった。狩猟者の二人組はその手にボウガンらしき物を持ってはいたが、そんなものは使わずに、ただ片手を前に掲げていた。その結果、驚くべき光景が目の前で展開している。

 ――宙に、浮いていた。

 大型のイノシシらしき動物が、四本の足を必死にバタつかせながら、空中に浮かんでいる。どう見ても、イノシシの重力を狩猟者が制御しているようにしか見えない。

 すると、今度は隣の男が掲げた手から、閃光が迸った。それはまっすぐイノシシに向かって直進し、その体に直撃する。

「……」

 魔法でも見ているようだった。高電圧の電流が、指向性を持って空気中を直進する。それだけでも驚きなのに、それを為しているのは人の手なのだ。さすがにここからは掌の状態は見えないが、少なくとも電源装置を抱えているようには見えない。

 もし彼らが、その手に木製のボウガンなどを持っていなければ、彼らは魔法のような科学技術を有しているのだと新一は即座に判断し、撤退を決めていただろう。

 だが現実はそうではない。彼らが持つのは科学ではない。もっと他の……別の力だ。

 ならば、調べる必要がある。彼らの力は一体何なのか。それは自分たちの脅威になるのか。逆に、何らかのメリットをもたらしてくれる可能性はあるのか。

 それを調べるためには、彼らを追跡するしかない。だが、力の正体が分からない以上、彼らに不用意に近づくのは危険すぎる。

 なら、どうするか――

 新一は、腰のホルダーから一丁の拳銃を取り出した。

 この拳銃は、特別製だった。

 火薬は使わずに電磁気力によって銃弾を発射する――それだけであれば、何の変哲もないただのコイルガンだが、その秘密は、銃弾にあった。

 この銃弾の中には、新一お手製の生体ナノマシンが組み込まれているのだ。

 効果も実に様々で、敵の殺傷を目的としたものから、あくまでも無力化を想定したものまで。その中でも、一際特殊な銃弾が、今新一が拳銃に装填したものだった。

 その目的は、攻撃ではなく情報収集にある。様々なセンサ機能を有した大量の生体ナノマシン。それがこの銃弾には込められている。

 この生体ナノマシンには現在地を知らせる発信機も組み込まれているため、対象の追跡にも適している。追跡と調査――今回の目的にピッタリな代物だった。

 新一は装填を終えた拳銃を、対象の狩猟者に向けて構える。銃弾サイズはミリオーダーであるため、当たってもまず気づかれないだろうが、万が一もあり得る。新一はすぐにこの場を離れられるようにホバーバイクのエンジンを起動させた。

 準備は整った。後は撃つだけ。

 新一は慎重に狙いを定め――引き金を絞った。


 思いの外、あっけなかった。

 二人とも、自分の身体に銃弾を撃ち込まれたことにまったく気づいた様子はなく、ゆっくりとした歩調で歩いていく。

 新一は、手元の端末に目を落とす。そこには、二人の座標がリアルタイムで表示されており、刻々と彼らの生体情報が収集されている。

 どうやら生体ナノマシンも、その電波通信も、問題なく動作しているようだった。

 新一は自らの端末を中継地として、トライアドへとデータを飛ばす。その通信状態も良好。分かってはいたことだが、大気中に電波を遮断、もしくは大きく減衰させるような成分は含まれていないようだ。

 新一は、再度二人の人影に視線を戻す。相変わらず、こちらに気づいた様子はない。

「良し……追おう」

 新一はホバーバイクをInvisual《不可視》モードで待機させると、徒歩で二人の後を追った。


***


「あ! お帰りなさい!」

 新一がトライアドに戻ったのは、翌日の夕方だった。

 体内の生体ナノマシンを多少使ったせいで、カロリー消費が予想より大きく、手持ちの食料ではそこまでが限界だった。

「ただいま」

 唯に挨拶をしながら、周囲を観察する。

「唯ならある程度キャンプとして整えてくれると思っていたが、まさかもうロッジが建っているとは思わなかったな」

 ロッジだけではない。その横には畑らしきものが開墾され、既に葉を青々と繁らせている。

「居住環境は大切だから。新一も、そろそろ船住まいは飽きたでしょ?」

 悪戯っぽい笑顔を浮かべた唯が、ポーチから水筒を取り出しながら近づいてくる。

「どうぞ。飲んでみて」

 差し出された水筒を受け取り、そのまま口へと運ぶ。芳醇な香りが口一杯に広がり、その香りを湛えたまま、胃の中へと流れていく。

 身体の芯から温まっていくのを感じた。

「どう? 美味しい?」

 唯が上目遣いで、そんな新一の顔を覗き見る。

「あぁ。流石は唯だな。こんな美味いスープは数ヶ月ぶりだ」

「ふふっ。ありがと」

 唯が嬉しそうに笑う。久しく見ていなかった笑顔だ。その笑顔を見ていると、新一の中で張り詰めていた何かが緩んでいくのを感じる。

「こちらも成果があった。これから、それを話そう」

 だが新一は、意識してその衝動を心の奥に仕舞い込み、必要な作業に集中する。

 まだ事態を楽観するには、早すぎる段階だった。


「そう……それじゃあこの星には、私たちと同じ人形生物がいるのね」

 新一の話と記録映像を見た唯が微妙な顔のまま呟く。この事実をどう受け止めて良いのか、判断しかねているのだろう。

「彼らの村にも接近したんだが、やはり文明が進んでいるようには見えない。彼らがどの程度我々の脅威になるのか……正直図りかねている。だからこれからしばらくは、彼らに埋め込んだ生体ナノマシンの情報解析に集中する。数日で言語解析も終わるだろうから、彼らの文化的背景や社会状況も分かってくるだろう」

「そうね。私もそれが良いと思う」

 そう言った唯が、「それにしても」と微笑む。

「新一の専門が生体ナノマシンで本当に良かった。岩石相手じゃ役に立たない技術だから今まで隅に追いやられてたけど、こういう状況になると本当に頼もしいよ。新一はそっちの第一人者だったし」

「認められてはいなかったけどな。将来性の低い研究に傾倒する若造――それが俺への評価だよ。それに……」

 そこで、新一は言葉を切った。

 本当は「智之の方が優れた技術を持っていた」と続けるつもりだった。だが、折角明るくなっている唯に、あいつの話をするのは躊躇われた。

「それに?」

 唯が大きな目をくりくりさせながら、こちらを見つめてくる。新一は、思わず目を逸らした。

「それに……実際大した技術じゃないよ。一番求められていた生体細胞の蘇生技術は未完成だった」

 咄嗟の言葉だったが、思いの外それっぽい言葉が出てきた。恐らく、これも新一の本音の一つだったからだろう。

「高望みしすぎだよ。それは神の領域だって、智之にもよく言われてたじゃない」

 思わず、新一は頭を抱えたくなった。

 よく考えれば、この話から智之に繋がることは予想できたはずだったのだ。

 しかし……では改めて智之に繋がらない話を探そうとしても、今度は何も思いつかない。どんな話題も、どこかしらで智之に繋がっている。それくらい、彼らは近い関係にあった。

「……ごめんね」

 黙ってしまった新一を見て、唯が哀しそうな顔でそう呟く。

 (それは、俺のセリフだ)

 新一はそう言おうとして、結局何も言わずに首を振った。何を言っても、唯がその表情を変えることはないだろうし、むしろ益々、自分を責めてしまうような気がしたからだ。

「……それよりも、どうだ? バイオプラントは作れそうか?」

 だから新一は話題を変える。

 正直、バイオプラントについては唯からは特に聞いていなかったが、自然豊かな土地に降り立った唯が、それを作らない訳がないと思っていた。案の定、唯はすぐに嬉しそうな顔に変わる。

「うん。建材が足りないから本格的なのは無理だけど、小規模なものなら。トライアドは飛ばせないけど、二人が生きる分には問題ない程度のエネルギーならすぐに作れると思う。あと……生体ナノマシンの材料もね」

 思わず顔が綻びそうになる。人が存在していることが分かった以上、これからはその需要は益々大きくなるだろう。できる限り再利用したいとは考えているが、どうしても生物由来の素材は痛みやすい。その代替品の早期入手は、新一にとっては何よりも有り難かった。

「引き続き、頼む。ここの生物の脅威度が分からない以上、こちらの手札は多い方が良い」

「了解しました」

 唯が戯けた様子で敬礼する。それを見た新一は顔に笑みを浮かべると、得られた情報の分析のため、研究室に入って行った。


***


 それから一週間、新一は研究室に篭っていた。

 生体ナノマシンによって得られた情報は膨大だった。

 その中でも、音声レコーダーによって収集された情報は、彼らのことを文化的に理解する上で非常に重要だったが、それを解読するためには彼らの言語を理解する必要がある。その言語の解析に三日を要した。

 研究室に篭って四日後、ついに自動翻訳アプリのベータ版が出来上がり、彼らの言語を多少なりとも理解することができるようになった。

 結果、驚くべきことが分かった。

 まず、彼らの科学技術は驚くほど低い水準で止まっていた。かつての地球で言うところの、第一次産業革命以前と言っても差し支えないだろう。いや、それよりも古いかもしれない。なにせ、どうやら銃火器すら、まだないようなのだ。

 にもかかわらず、なぜ先日見たような芸当が可能であったのか。それは、彼らに宿っている特殊な力が原因のようだった。

 彼らはその力を『アニマ』と呼んでいた。どうやら成人の折、教会のようなところで洗礼を受ける。すると、各人に憑いている守護霊ガーディアンなるものが目覚め、特別な力を与えるらしい。

 まったくもって、非科学的な話だった。

 だが、最初は誤訳じゃないかと勘違いしたほどの、こんな訳の分からない話でも、彼らの血液データを解析することで、仮説を立てることは可能になった。

 まず、一つの事実を述べるとすると、彼らの人体構造は新一たちとほとんど違いはなかった。いや、ほぼ完全に同一だったと言って良い。

 一点――血液内に含まれる未知の細胞を除いては。

 この細胞の数は、人によってまちまちだった。今回、生体ナノマシンを植え付けたのは十八名。その中の最小値は八千個。最大値は十二万個。個体差として片付けられないレベルで差異が大きかった。故に、この細胞が生命活動に直接に関係しているものではないと推論を立て、その細胞の活性化傾向をモニタリングした。すると、興味深いことが明らかになった。

 この細胞は、彼らがアニマを使う時、決まって高い活性値を示したのだ。原理はさっぱりわからない。だが、無関係とも思えない。

 そこで立てた一つの仮説――

 この未知の細胞は、生まれた時は休眠状態で活動を停止しているが、何か特殊な薬品を投与することで、休眠状態から目覚めて活動を開始する。そしてその薬品を管理しているのが教会で、それを摂取する機会が成人の儀式――というものだった。

 かなり想像が入り込んだ仮説ではあったが、不可能な話ではない。事実、生体ナノマシンの分野では、その活動を制御するために、そのようなギミックを使用することもある。

 新一の感覚から言えば、『突拍子もない』と言えるほど、奇抜な仮説ではなかった。

 もちろん、「この惑星の科学技術では不可能だ」と言われてしまえば、それまでなのだが――

 いずれにせよ、この未知の細胞とアニマとの関係性については、更に研究をする必要がある。

 そのため、それ以降の時間のほぼすべては、この細胞の研究に費やし、そしてその結果、一つの結論に至った。

 これ以上の成果を得るには、細胞のサンプルが必要不可欠だ――と。


 一週間ぶりに研究室から出てきた新一を、唯が目を丸くして見つめた。

「アレ? 意外に早かったね」

 一週間ぶりに部屋から出てきた人間への反応としては些か異常であったが、アカデミア時代から新一と一緒にいる唯にとっては、ごく当たり前の反応だった。

「あぁ。ちょっと追加でサンプルが必要になって。ついでに、生体ナノマシンも一度回収してこようかと思ってる」

「そうなんだ。もう十分なデータは取れたの?」

「十分というほどではないが、彼らから新規に得られる情報はもうあまり無さそうだから。それより、次に備えてメンテナンスしておきたい」

「なるほど……慎重で几帳面な新一らしいね」

 そう言って、唯は頷く。

「分かった。こっちのことは心配しないで行って来て。ただ、このカードは持っていてね」

 唯が青色のカードを手渡してくる。

「認証キーか?」

「そう。このロッジ周辺にセキュリティシステムを構築したから。蓄電量がまだ少ないから大したことはできなかったけど……」

 その言葉を聞いて、新一は少し考える。

「セキュリティ範囲は?」

「ロッジから半径三十メートル」

「その範囲に入ったら?」

「認証がない場合は、異常を検知した場所の周辺に電流が流れる。威力は……死なない程度?」

「それなら……問題ないか」

 最後のクエスチョンが気になったが、ここを防衛する能力は充分ありそうだと、新一は判断した。

「じゃあ、ここは任せるぞ?」

「うん。気をつけて行ってらっしゃい」

 唯の笑顔に見送られ、新一は再びトライアドの外に出る。一週間前と変わらず、外は良い天気だった。


 ただ生体ナノマシンを撃ち込むだけで良かった前回と違い、今回は一定量の血液サンプルを取ってこなければいけない。したがって、新一は夜に行動を起こすことに決めた。

 使用するのは蜂によく似た自律飛行型生体マシン。設定一つで、吸収と注入のどちらにも対応する優れもの。但し、サイズはかなり大きい。直径十センチ以上はある。活動している人から血を抜くのは極めて困難だった。

 そのため、新一は村の外縁に待機し、皆が寝静まるのをじっと待つ。その間に、既に植え付けていた生体ナノマシンの回収を進めることも忘れない。一つくらい回収漏れがあるかもしれないと危惧していたが、幸いそんなことはなく、夕方になる頃には、すべての生体ナノマシンが手元に戻ってきた。

 欲を言えば、作成した自動翻訳アプリの性能チェックもできれば言うことはなかっただろう。だが新一は、それは時期尚早だと自重する。まだ、この村で調べることがあるうちは、ここの住人に不信感を与えるような行動は避けておきたかった。

 今後、もしかしたら長い間、最悪の場合は死ぬまで、この星で生活しなければいけなくなるかもしれないのだ。そう考えると、僅か数週間や数ヶ月を惜しんで、早々に行動を起こす必要はない。

 むしろ大事なことは、この星で生じる可能性のあるリスクを、極力排除することだ。軽々しい行動は厳に慎まなければいけない。

 いずれ時がきたら、旅人でも装って近づけば良い。


「そろそろ良いか……」

 夜空に浮かぶ一際大きな星(『月』と言えばイメージが湧くだろうか?)が天頂に昇ったタイミングで、新一はようやく動き出す。

 と言っても、作業するのは新一ではない。彼の意思はすべて生体マシンが代行してくれる。新一はただそれを起動させるだけ。あとは、無事作業が終わるのを心静かに待つばかりだった。

「……なんだ?」

 だが、生体マシンを送り出してから大して時間も経たないうちに、新一の聴覚センサが異音を感じ取る。

「約一キロ……剣戟……か?」

 金属同士がぶつかり合う音。新一自身は聞いたことがない音だったが、彼が備えるデータアーカイブの中に合致する音紋データが見つかる。

 直後、地響きと共に、地面が振動した。

「……派手だな。どうも只事では無さそうだが」

 どこかで戦闘行為が行われているのは間違いないだろう。

「これは……良い機会かもしれない」

 新一は一人呟く。新一にとっての、現状における大きな関心事は、この惑星の先住民の脅威レベルだ。

 どうやら、彼らの科学技術は発達していない。それはわかった。

 だが、ここの人間にはもう一つの力『アニマ』がある。この力が、実際どの程度優れたものなのか……それは是非とも把握しておきたいところだった。

 そして今、目と鼻の距離で戦闘が行われている。そして今は夜だ。昼よりも隠密行動が取り易いのは言うまでもない。絶好の機会であるように思われた。

 新一は決断する。現在仕事中の生体マシンは別の地点で回収すれば良いだろう。数キロ程度であれば、バッテリーは充分もつ。

(さて……後は行動あるのみだ。戦闘が終結しないうちに、現場に到着しなければ)


 現場に着いた頃には、既に大勢が決まっているように見えた。

 開けた空き地のような場所の中央に鎮座するのは、大型の乗り物。光電子増倍管フォトマルによって視感度を千倍程度に高めているため、外装までよく見える。

 極めて質素な屋根付きの荷台のような乗り物。それを引くのは、四本足の動物が二頭。もしかしたら、馬車という乗り物なのかもしれない。

 その馬車の周囲を守るように立っている人数は三名。その周りに死体が……七名分。残存兵力、三割。

 対し、それを囲む人数は……二十四名もいる。ただ、こちらにも相応の死傷者が出ているように見えた。そこかしこに死体が散乱している。

 どうやら馬車の側――守り手の陣営も、良く健闘しているようだった。だが、やはり数の力は強い。

 しかも、襲撃者側も良く統率が取れていた。見ていると、実に無駄のない攻撃を展開している。

 まず、後衛が一斉に雷撃を放つ。それら雷撃の束が一直線に突き進み、守り手の防御を食い破ろうと荒れ狂う。それが一本や二本なら、まだ対応も可能かもしれないが……彼らの人数差はそんな甘えを許してくれない。

 更には、その隙を見て前衛が襲い掛かる。その動きは実に多彩。彼らの多くは長刀を手に持ち、あらゆる方向から斬撃を放つ。雷撃に比べて当然速度はないが、予測できない動きは守り手のペースを徐々に乱していく。そして――

 ついに均衡が崩れた。左翼側で戦っていた騎士が前衛の剣を受けきれず、肩口に斬り込まれる。それでも咄嗟に反撃し、その相手を斬り倒したのは見事だったが、その隙は大きかった。三方向から雷撃が飛来し、そのうちの一つが胸に直撃する。それが致命傷になった。

 一人が倒れると、今度は右翼側の騎士が崩れた。僅かな動揺だったかもしれないが、この局面ではそれが命取りになる。

 しかも、先程まで左翼側の騎士に攻撃の矛先を向けていた後衛が、一斉に目標をそちらに定めたのだ。そこから先は、瞬きする程度の時間しか、かからなかった。

 三人のうち二人が倒れた。残るは一人。

 新一は残る一人――この場でただ一人の女性に目を向ける。

 彼女は、この状況下にあって、唯一互角以上に善戦していた騎士だった。動きやすいように軽武装、武器も速攻性に優れたレイピアを装備している。

 そしてその戦闘スタイルも、見た目通りのものだった。

 とにかく早い。後衛からの雷撃は左手から発した雷撃で相殺しているが、一度のモーションで五本の雷撃を放っているが故に、この物量差にも難なく対応している。そして右手に構えたレイピアが、縦横無尽に舞い踊る。まさに雷の中における剣の舞。見事という他はなかった。

「だが……もう無理だな」

 仲間の二人が倒れたことで、すべての攻撃が彼女に集中し始める。単純に三倍の攻撃だ。捌き切れるはずもない。

「……」

 もうこれ以上見ていても意味はない。彼らの戦闘データは十分取れた。

 決着がつく前に――襲撃者の注意が逸れている間に、ここを離れるべきだ。時間的にも、そろそろ生体マシンが仕事を終える頃でもある。だが……

「……」

 視線の先では、ついに雷撃が女性の身体を捉えていた。体勢が崩れ、その隙に前衛の誰かが放った火炎が彼女に襲い掛かる。彼女は何とか体を捻り、それを回避しようとするが……タイミングが絶妙だった。いくら彼女でもよけられない。

 直撃は避けていたが、確実に足に火傷を負っただろう。その証拠に、目に見えて動きが悪くなった。もう本当に、長くはもたないだろう。

「…… 馬鹿なことを……考えているな」

 新一は自分の性格を自覚していた。彼はスポーツを見ていると、負けているチームを応援したくなるタイプだった。圧倒的強者よりも、その重圧に真っ向から立ち向かい、果敢に向かって行こうとする挑戦者の方が好きだった。更に言えば、女性が傷つくのを見るのは生理的に我慢ならなかった。

 それでも、新一は合理主義者だった。今この争いに参入してどんなメリットが得られるのか、それがはっきりしない限り、自分の一時の感情で動くことは彼自身が許さない。

「戦闘データ……か」

 踵を返そうとした新一の脳裏に、突如その単語が浮かび上がる。先程は十分にデータが取れたと考えたが、果たして本当にそうだろうか?

 なにせ得られたのは、ここの先住民同士で戦う時の戦闘パターンだけだ。見ている限り、大きな脅威になるようには思えなかったが、本当のところは実際に戦ってみないとわからない。

(なら……そこまでして初めて、有用なデータと言えるのではないか?)

 新一は、もう一度目の前の戦闘に目を向ける。敵の数は十六名。自分の実力を知る上では、丁度良い数かもしれない。


 最初に異変を感じ取ったのは、エルピス騎士団の副団長を務めていたフォルン・エドワードだった。

 エドワード公爵家の次男として生まれたフォルンは、成人と同時に、栄誉あるエルピス騎士団の門をくぐった。それがエドワード家の伝統であり、特に疑問を持ったこともない。それに何より、彼は騎士として優秀だった。

 でなければ、いくらエドワード家の出自だと言っても、僅か三十才でエルピス騎士団の副団長になれるわけがない。エルピス騎士団は、リュシアーナ神聖国の中でも序列第二位の騎士団だ。構成員も三百名を超える。

 だがそんな彼であっても、目の前の戦闘に気を取られ、しかも一面暗闇という状況では、高速に接近してくる影に気付きようがなかった。

 故に、彼の指導霊デュミナスからインスピレーションが降りてきたときは、一体何のことだかわからなかった。

『何かがこちらに高速に接近してくる。八時の方向』

 それでも、フォルンの動きは俊敏だった。混乱しながらも、素早くそちらの方向に目を凝らし、接近してくる影の正体を見た。

 それは人間だった。見たこともないような不思議な格好で身を包んだ、年若い男性。

 それだけなら別に良いのだが、問題は、その速度だった。

 とても人間が出せる速度ではない。ここまで、まだ百メートル近くあるが、恐らく五秒とかからず接触してしまうだろう。

 すぐさま対処する必要があった。

 フォルンはこの異常事態に自らで対処することを決めると、周囲を固めていた四人の親衛隊に指示を飛ばし、迎撃態勢を整える。

 ここまでにかかった時間は三秒。もう影は、目の前だった。


 疾駆しながら、新一は驚いていた。

 正直、気付かれない自信があった。身をかがめ、ほとんど音も出していなかったはずだ。

 新一が彼らの姿をはっきりと目視できていたのは、目に埋め込んだ生体ナノマシンが、赤外線映像を脳に送ってくれていたからに他ならない。対して、彼らの桿体細胞は、可視光線にしか反応しないはずだった。

 にも関わらず、目の前の彼は気がついた。しかも戦闘に意識を集中させた状態で……

(どうやら、アニマにはまだまだ未知の力があるのかもしれないな)

 新一は改めて身を引き締め直し、意識を戦闘に集中させた。


「止まれ! 止まらなければ攻撃する!」

 フォルンは、疾駆する人影に向かって警告の言葉を発した。まだ攻撃を受けていない以上、いくら不審な行動を取っているとは言え、問答無用で攻撃するのは躊躇われたからだ。

 だが、返事はない。既に人影は、目の前十五メートルまで迫っている。これ以上の接近を許してはならない。

 フォルンは雷撃を撃ち込んだ。殺さず、けれど意識は刈り取る程度の電流を意識して、かつ、この速度で動く存在にもかわせないほどの速さで、撃ち込む。

 フォルンの雷撃は綺麗な火花を撒き散らせながら、狙いから寸分離れない地点に飛んでいく。

(片付いた)

 フォルンは息を吐いた。思わぬ出来事に、意外と緊張していたようだった。剣を持つ手が震えているのを、今頃になって自覚する。どうやら、まだまだ修行が足りて――

「副団長!」

 その叫びを聞いて、フォルンはやっと気がついた。いつの間にか、人影が消えていた。彼が放った雷撃は、草葉の上で虚しく光を撒き散らす。

 慌てて周囲を見渡す。すると、隣に立つ仲間の目の前に、その人影はあった。

「この……ぐあっ!」

 一瞬だった。フォルンが見ている目の前で、仲間が呆気なく倒れる。それは、悪夢のような光景だった。

 なぜなら、敵は素手だったのだ。何も武器を持たず、ただ顎に向けて掌底を打ち込む。それだけだった。それだけで、武装した聖騎士が忽ち無力化されたのだ。

 しかし、そのような光景を前にして尚、フォルンは冷静だった。直線的な攻撃は相手によけられることを知った彼は、直径一メートルほどの炎の障壁を作り出し、それを敵に向けて放つ。これならば、あのスピードをもってしても避けるのは不可能だと考えた。

 だが、そんな目論見はあっけなく瓦解する。

 突如、敵は横に飛んだ。まるで空中を滑空するように、真横に向けて一直線に。信じられない動きだった。

 次の瞬間、別の叫び声がこだまする。もう、その瞬間を目にすることもできなかった。

(一体……何が起こっている?)

 次々と倒れていく仲間たちの中で、フォルンはただ立ちすくむ。狩人だったはずの彼らは、今やはっきりと狩られる側の存在だった。

(何故……こうなった?)

 フォルンは立ちすくむ。ここまでは、すべて上手く言っていたのだ。

 騎士団に入ってから数々の武功を挙げた。隊を率いた特殊任務も何度も成功させた。ボーデンシャッツ領の食糧貯蔵庫を割り出し、その破壊に成功したのも、フォルンの功績あってこそだった。

 そして、今回――神聖アジルバート帝国の皇女襲撃。幾重にも張り巡らされた偽情報と、影武者の存在に皆が撹乱される中で、彼だけが正解を引き当てた。

 確かに、十分な準備はできなかった。チャンスを掴むために、無茶な強行軍も展開した。しかしそれでも、勝算はあったのだ。事実、勝っていたのだ。つい、さっきまでは……

(奴は……一体何者なのだ?)

 視界の隅で最後の仲間が倒れるのを見て、初めて彼の思考はそこに至った。

 明らかに味方ではない。では、アジルバート帝国の手の者か? だが、先だって集めた情報が正しければ、かの皇女を本気で守ろうと考えているのは、ボーデンシャッツの関係者だけだ。そして、祖国リシュアーナ神聖国は十年近くボーデンシャッツと戦争を続けている。その中で、こんな男の情報は一切なかった。

(なら……何なのだ? この男は……すべてを滅茶苦茶にしたこの男は……)

 フォルンが思考できたのは、そこまでだった。

 首元に鋭い痛みを感じ、直後、フワッとした奇妙な感覚がフォルンを襲う。そしてそれは一瞬のうちにフォルンの全身を包み込み……

 もう彼の意識は、闇の中に落ちていた。


 リリアーヌが最初にそれに気付いたのは、『音』が止んだからだった。

 周りから聞こえる絶え間ない雷撃の音、打ち鳴らされる剣戟、そして仲間たちから発せられる呻き声。それが、綺麗に止んでしまったのだ。

 彼女――リリアーヌ・フォン・アジルバートは覚悟した。

(みんな……死んでしまった……)

 リリアーヌはそっと自らの身体を抱く。

「ハイジ……」

 既に殺されているだろう幼馴染の名を呟く。この名前を口にするのも、もうこれが最後になるだろう。

「私も、すぐにそちらに向かいます」

 そして、リリアーヌはゆっくりと立ち上がる。最後は、堂々と威厳を持って。アジルバートの名に相応しい死に様を――

 リリアーヌは、馬車のドアを押し開いた。


「お嬢様!?」

 幼馴染の驚く声が聞こえる。突然外に出てきた主人の姿に困惑しているのだ。

 だが、リリアーヌはその声に返事をすることができなかった。目の前で展開している光景に、目を奪われていたからだ。

 今の今まで散々彼女を苦しめ、そして彼女たちを殺していた敵兵が、蹂躙されていた。

 月明かりのもとで、良くは見えない。全貌は分からない。ただ不思議と、その円の中心で舞っている人影は、はっきりと視認することができた。

 そう――舞っていた。まるで閃光のように、まるで流星のように、そしてまるで旋風のように、それは舞っていた。

主天使ドミニオン、あの方はどなたですか?」

 心の中で問いかける。幸い、答えはすぐに返ってきた。

「そう……あのお方が……」

 目の前では、ついにその人影が、最後の一人を仕留めたところだった。動きを止めたその背格好から、その人影が男性であることがわかる。

(まさか、彼が私にとっての無敵の聖騎士様かしら?)

 ふと、そんな考えが脳裏を過ぎる。昔飽きるほど読んだお伽噺に出てきた、素敵な聖騎士。彼は、主人公のお姫様が泣いているとやって来て、その魔法のようなアニマの力で、お姫様を助けてくれるのだ。

(フフッ……なんてね)

 年甲斐もなく、そんな馬鹿げたことを考えてしまった自分が可笑しくなって、ついつい堪え切れずに笑ってしまう。

(やっぱり、相当動揺しているのね)

 死を覚悟したが故に、その反動は大きい。遥か昔の、すっかり忘れていたような幼い願望を思い出してしまったのが、その良い証拠だった。

(さて……では挨拶に向かいましょう)

 リリアーヌは自分の中の甘い考えを振り払い、リリアーヌ・フォン・アジルバートの仮面を被る。

「ハイジ、ついてきなさい」

 そして、一人戦場で佇む男性に向かって、足を踏み出した。


 戦ってみて分かったことだが、最初に新一に気付いた男が、最も高い戦闘力を有した騎士だった。アニマの威力、そして攻撃速度。他の騎士と比べても、頭一つ抜けていた。故に、この騎士からは、血液サンプルを採取することに決めた。

 そのため、彼のことは後回しにして、他の騎士を先に片付ける。どの騎士もアニマを使い、その強さは先の村人の比ではなかったが、いかんせん、動きが鈍かった。

 このことから分かったのは、彼らは基本夜目が効かず、そして身体能力もさほど高くない、ということだった。もちろん、標準的な人間のそれに比べれば大分優れている。だが、新一の身体能力は標準のそれを遥かに凌駕していた。

 生体ナノマシン研究における新一の最高傑作――それが、彼自身の身体なのだ。

 それは、サイボーグなどと言う野蛮な代物とは一線を画する。

 人間に元来与えられているのは、紛れもなくこのタンパク質の肉体であり、それを脱ぎ捨てることは人間であることを捨てるに等しい――それが新一の基本思想であり、その上で、宇宙という過酷な環境で生き抜く強靭さを肉体に付与するというのが、彼の研究目標だった。

 そのため、その手段として彼は生体ナノマシンに着目し、その可能性を開花させ、自らの身体でその正しさを証明した。

 いまや彼の感覚器官は、機械の如き優秀さを誇り、その筋肉は瞬間的に膨張、かつ生理的・心理的限界を超えての活動を可能とし、また彼の神経系を巡る電気信号は、最大で常人の五倍の速度で身体中を行き交うことができる。

 生体ナノマシンの恩恵をこれだけ受けている新一に対して、生身の人間が敵う道理はなかった。

 唯一の脅威であるアニマも、使い手が新一に追いつけない状態ではそもそも当たらない。

 結局、この惑星の先住民は大した脅威にはならない可能性が高い――というのが、新一が今回の件から導き出した結論だった。

 もちろん、今戦った者たちの強さが、この惑星基準でどのレベルになるかわからない以上は、過度な楽観は禁物ではあったが。

 だが何にせよ、新一は目的を果たした。

 最後に残した男にも今しがた麻酔薬を注入し、速やかに、かつ穏便に血液も採取している。もうこの場に留まる必要もなくなった……

 が……最後に、今後ろから近づいてくる問題に対処しなければいけない。

「そこのお方」

 新一の背後から声が投げかけられる。先程からゆっくりと近づいてきていた人影が、すぐそこに立っていた。

「どうも助けていただき、ありがとうございました」

 新一は対応の仕方を逡巡しつつ、とりあえず振り返る。

 先住民と少し話をしてみたい――そんな好奇心が働いたのかもしれない。話しかけてきた声が、鈴を転がすような美しい響きを湛えていたのも、きっと関係していたのだろう。

 とにかく新一は、彼女たちに向かい合った。


 振り返った先にいた人物は、案の定、その声の美しさに相応しい容姿を持った女性だった。その身を豪奢なドレスで包んだ姿は、まるで一国の王女のような煌びやかさを誇っている。だが同時に、まだその顔には幼さも僅かに残り、人形のような可愛らしさも宿していた。

 そして、その横に立つ人物。彼女のことは先程から何度も見ていた。ただ一人生き残り、戦い続けていた女性。ある意味で、新一がこの戦いに干渉した原因となった人物。

 近くで見てみると、この女性も随分美しい。ドレスの女性とはまた違った方向性を持った美しさだ。

 凛とした美しさ――とでも言うのだろうか。無駄のないしなやかや肢体に鋭い目つき。引き結んだ口元が、その気の強さを表しているようにも思える。

 だが、新一にとっては、彼女たちの容姿は今はそれほど重要ではなかった。大事なのは、どこまで彼女たちと会話をし、そしてどこで引くのか。その兼ね合いだった。面倒ごとは、避けなければならない。

(お気になさらず。それよりもどうして、夜中にこんな所に?)

 新一はそう口にしようとする。だが、なにぶん初めてだったからだろう。この惑星の言語に慣れていない口が、一瞬だけ駄々を捏ねる。

 その僅かな時間と、ここまでの逡巡に要した時間が相まって、どうやら女騎士の我慢の限界を超えてしまったようだった。

 苛立った声が、新一に投げかけられる。

「……皇女殿下が話しかけています。返事くらいしたらどうですか?」

「ちょっと! ハイジ!」

 女騎士の刺々しい言葉を聞いて、慌ててそれをドレス姿の女性が諌める。そんなやり取りを見ながらも、新一は別のこと――先程ハイジと呼ばれた女騎士が発した言葉に気を取られていた。

 『皇女殿下』――

 彼女は確かに、そう言った。それは、帝政にある国家の最高権力者の娘に対する呼称だ。当然、名乗れる人は限られる。

 新一は、まず誤訳を疑った。それはそうだろう。こんな、小さな村以外は森と川と谷しかないような場所に、そのような地位の人間がいると考える方が無理がある。それに……あまりに馴れ馴れしすぎる。そして、無警戒すぎる。

「……皇女……殿下?」

 知らずに、そんな言葉が口から漏れていた。

 先程は駄々をこねた口が改心して、今度は主人の命令が降りる前に働いてみせたのかもしれない。

 そしてその一言は、事態を思わぬ方向に持っていく上でこれ以上ない働きを示した。

「……しまった」

 まず、そんな言葉が女騎士の口から発せられた。

 対して新一は、初めて発した慣れぬ言語の余韻に、一瞬だけ気を取られていた。

 そして気づいた時には、無念そうに唇を噛んだ女騎士が目の前にいた。

「皇女殿下と知られたからには、生かしてはおけません……残念です」

 新一は目を見開く。考えもしていなかった展開に、それ以上の反応はできなかった。いや、それ以上の反応をする前に、女騎士の手からは雷撃が放たれていた。

 距離にして、一メートルも離れていない。完全に不意をつかれた形になった新一は、それでもコンマ一秒にも満たないその僅かな時間で、何とか絶縁性の生体ナノマシンを被弾箇所に集めようとする……が、それも間に合わず。

 雷撃が容赦なく新一に襲いかかり……

 呆気なく、彼の意識は闇に落ちていった。


***


「もう! 命の恩人に何をしているの!」

「……申し訳ありません」

 新一は、すぐ真上で繰り広げられる喧騒によって目を覚ました。周りを見渡すと、見知らぬ調度品や綺麗な壁や天井。

 一瞬、どこかの建物の中かと思ったが、地面から伝わる振動から、すぐにそれが間違いであることに気がつく。

 どうやら、ここは馬車の中だ。

「あ! 気が付かれましたか?」

 先にこちらに気付いたのは、ドレスの女性の方だった。心配そうにこちらを覗き込んでくる。

「先程は、本当に申し訳ありませんでした。ほら! ハイジも早く謝って!」

 すると、渋々といった様子で、しかし表面上は神妙な面持ちで――

「本当に申し訳ありませんでした。いくら『不審者』だからと言って、いきなり致死攻撃をするのはやり過ぎました。以後気をつけます」

 言葉に棘があると感じたのは、先程殺されかけたからだけではないだろう。どうやら、この女騎士は新一に対して、あまり良い印象は持っていないようだった。

 そんな彼女に対して、何故か新一の加虐心が頭をもたげる。

「いえ、お気になさらず。大した威力ではありませんでしたから」

 不思議だった。新一は、自分で話しながら内心で首をかしげる。こんな風に皮肉を言うことは、彼にとっては滅多に無いことだし、またどんな種類の皮肉が彼女に最も効果的なのかも、何故か手に取るようにわかったからだ。

 証拠に、彼女のこめかみにわかりやすく青筋がたつ。

「……お嬢様。やはり処分しませんか?」

「しません」

 しかし、ドレスの方の女性はあくまで新一に好意的だった。刀へと伸びていく女騎士の手をペシっと叩き、改めて新一に頭を下げる。

「私の従者が酷いご無礼を。お許しください」

「お嬢様!」

 女騎士が抗議の声を上げるが、再びドレスの女性の手が動き、女騎士を黙らせる。そのやり取りを少しだけ面白く感じていた新一だが、今はそんなことよりも重要な事があるのを思い出し、話を切り替える。

「いえ、それは本当にお気になさらず。それよりも、今の状況を説明していただけませんか?」

 事ここに至って、ドレスの女性が新一に危害を加えようとしているとは思えないが、それでも知らぬまま何処かに連れて行かれているという今の状況は看過できなかった。

「わかりました」

 ドレスの女性は神妙な様子で頷くと、

「まず私のことからお話しましょう。私の名前はリリアーヌ・フォン・アジルバート。神聖アジルバート帝国のクラウン=プリンセスとなる者です。以後、お見知り置きを」

 そう言って、恭しく一礼した。


「神聖アジルバート帝国……」

 その国の名前は、村人から得た情報の中にあった。有志以来、この大陸に君臨し続けている超大国。最近ではやや国力が衰え、周辺諸国がいくつか興隆してきてはいるものの、依然として最大の力を持つ。

 そんな超大国の皇位継承者が、帝国領でも特に辺境に位置するこの地域に何故いるのか。しかも大した警備も付けずに、お世辞にも豪華とは言えない馬車に揺られて――理由がさっぱりわからない。

 そんな新一の心中の疑念を察したのだろう。リリアーヌはクスリと小さく微笑むと、

「疑念、ごもっともです。私だって、未だに信じられないくらいなのですから」

 そう言うと、少し考え込む仕草を見せる。

「……私の事情をお話しするに当たって」

 やがて、リリアーヌが再び口を開いた。

「できれば貴方様のことも、お聞かせ願えませんか?」

「私の……ことですか」

 新一は咄嗟に言葉に詰まる。

 当然、本当のことは言えない。しかし、経歴を捏造するにしても、この国のことをあまりに知らなすぎる。中途半端な嘘はすぐに見破られるだろう。

「私は……南方の出身なのです。広い世界を一目見てみたいと思い、中央を目指して旅をしておりました」

 故に新一は、村人から得た知識の中で、最も情報が少ない地域を持ち出した。

 『南方の印蛮族』

 ここ、アジルバート帝国最南端から更に南方、南の大山脈を超えた先にある未開の地。そこで生活している者を印蛮族というらしい。

 以上――情報すべて。

 驚くべきことに、それ以外の情報は一切ない。彼我を隔てる山脈のため、ほとんど交流がないのが原因なのだそうだ。

 長年南端の村に住んでいる住人からしてこのレベルなのだ。もしかしたら、クラウン=プリンセスと言えどもあまり詳しくないかもしれない。少なくとも、帝国領内や国交のある国よりは、よほど情報は少ないだろう。

(それでももしバレたら……その時は潔く逃げるとしよう)

「南方……まさか印の国の方でしたか」

 しかし、そんな心配は杞憂だったようだ。呆気なく、リリアーヌは新一の言葉を信じる。

(それにしても……印の国か)

 新一は一人安堵の息を漏らす。どうやらこちらの方が正式呼称で、印蛮族というのは蔑称に当たるようだ。さっきの自己紹介で安易にその名称を使っていたら危なかった。一体誰が、自分を蔑称で呼ぶというのか。

「それで? お名前は?」

 女騎士が厳しい顔のまま、尋ねてくる。

(印の国の名前? ……いや、わからん)

 新一は一瞬考えるも、そんなこと分かるはずもない。相手もそんなことは知らないことを祈りつつ、素直に本名を告げることにした。

「へぇ〜、そちらの国のお名前は初めて聞きました。奇妙な響きを持ったお名前なんですね」

 リリアーヌが感心したように頷いている。どうやら、まったく疑われていないようだった。新一は変に追求されるのを避けるため、早々に話題を変える。

「それで? そちらのあなたのお名前は?」

 この場で唯一名乗っていないのは、女騎士だけだった。先程から新一に対する敵対心を隠そうともしないが、自分の主人が名乗った手前、まさか断れないだろう。

「あなたに名乗る名前はありません」

「……」

 その『まさか』が起こってしまった。もはや怒りなんていう感情は出てこない。ただただ感心してしまう。

「この子の名前はアーデルハイト・ボーデンシャッツです。私の親衛隊長を務めてもらっています。ハイジと呼んであげてください。ちょっと頑固なところがありますが、根は素直な良い子なんですよ」

 そっぽを向いた臣下の代わりに、主人が自己紹介を代弁した。間違いなく、新一の人生史上、最も奇妙な自己紹介になるだろう。

(……いや、ていうかむしろもう自己紹介じゃないな……うん? なら……逆にありなのか?)

 自分の依って立つ常識が揺らぎ出した新一を置き去りにして、話は進む。

「さて、では新一様の身元も分かったところで、話を本題に戻しましょう」

「お嬢様。この男のことで分かったのは、名前と出身地の方向だけです。流石に情報が少なすぎるのでは?」

「そうかしら? 私は別に構いませんよ。元々、新一様の個人情報を根掘り葉掘り聞く気なんて、私にはなかったんだもの」

「またそんなことを……お嬢様はもう少し他人に対して警戒心を持つべきです。もうお嬢様は『忘れられた姫君』などではないのですよ?」

(忘れられた姫君?)

 それは村人のデータベースには無い言葉だった。単語の意味から推測するに、褒め言葉とも思えない。案の定リリアーヌも、その言葉を聞いてやや不快そうに顔を顰めた。

「当然、そんなことは分かっています。むしろあの日以来、それを忘れた日などありません」

 そうピシャリと言って、リリアーヌはこちらに向き直る。

「では新一様。今の単語のことも含めて、そろそろ私の事情をお話しすることに致しましょう。そうすれば、今の貴方の疑問の大部分は氷解すると思いますから」

 そしてリリアーヌが話し始める。この国の現状と彼女たちの目的について。


「新一様は南方から来られたばかりのようですから、御存知ないかもしれませんが、この国ではつい数ヶ月前、帝都エル・オーラムで大きなクーデターが発生したのです」

「クーデター?」

 初耳だった。村人の会話の中には、そのような情報は含まれていなかった。

「はい。幸いにして、そのクーデターは失敗に終わりましたが、その被害と影響は甚大でした。なぜなら、このクーデターの首謀者は当時の皇位継承権第一位だった第一皇子であり、そしてその共犯としてクーデターを支援したのが、第一皇女と第二皇女だったからです。当然、彼らの派閥勢力の多くもそのクーデターに参加し、一時はラインシュタイン城が囲まれる事態となりました。……あっ」

 と、そこでリリアーヌが思い出したように補足する。

「ラインシュタイン城というのは、アジルバート帝国の帝城のことです。私も、もう随分見ていませんが、それは立派なお城なんですよ」

 その情報は知っていた。このアジルバート帝国のシンボルにもなっているらしい。

「それで、ラインシュタイン城が囲まれてしまった訳ですが、遠征に出掛けていた第二皇子と第三皇女の軍勢が突如帝都に現れ、帝城に立て篭っていた近衛軍と共に、反乱軍を挟撃したんです。反乱軍にとって、それは予想外の事態だったのでしょう。そのまま一気に形勢は逆転し、クーデターは失敗に終わったのです」

 そこまで聞くと、「めでたし、めでたし」なんて言葉が続きそうな内容だったが、そう上手くいかないのが現実だ。リリアーヌは話を続ける。

「ですが悲劇だったのは、反乱軍を鎮圧した第二皇子が、その戦の最中に戦死してしまったことでした。クーデターに参加した第一皇子と第一、第二皇女は当然ながら処刑。そうなると……なんと皇帝の子供で残ったのは第三皇女だけになってしまったのです」

(成程……話が読めた)

 すべてを理解した新一が、納得したように頷く。

「それで……その第三皇女が貴女と言うわけですね」

「いえ、全然違います」

「……」

 キャラに似合わず、大声でツッコミそうになるのを必死で堪える。すぐ横に見える、アーデルハイトの嘲笑顔が目に痛い。

「でも、第三皇女と間違えられるのは嫌ではありません。彼女はとても優しい女性でしたから……でも彼女は、幼い頃から大変病弱だったんです。子供を産むのが不可能なくらいに」

「成程……では第三皇女が跡を継ぐと血が途絶えるわけですね」

 気を取り直した新一が相槌を打つ。

「でもそれなら他に親戚は? 今の皇帝にもきょうだいくらいはいるでしょう?」

「一人だけいます。ですから、一度は彼を次期皇帝に――という話もありました。事実、彼――時の宰相ゲープハルト・ジ・アジルバートは優秀な人物だと聞いています。ただそれは、この帝国では前例が無いほどに異例なこと。帝国の伝統を重視する人間からすれば最後の手段です。ですので……かつて帝族から追い落とされた第四皇女に白羽の矢が立ったのです」

(成程……第三皇女ではなくて、第四皇女ときたか……)

 そんなの分かるはずもない。先程の話では、その存在を匂わせてもいなかったのだから。

「それで『忘れられた姫君』ですか……しかし、その言葉の意味は分かりましたが、追い落とされた理由が分かりませんね。権力争いにでも負けましたか?」

 すると、「そんなところです」と、リリアーヌは微笑む。そして、自身の身の上を話し始めた。


「フィーネ・ハンクシュタインという女性がいました。彼女は一介の庶民の出でしたが、それでも、その類稀なるアニマの技量で帝国近衛としてのし上がり、ついにはその美貌で時の皇帝の心を捉えました。そうして生まれたのが、私です」

 物語のような話だと思った。新一はあまり小説というものを読まない質だったが、それでも、その後の展開は何となく予想できた。

「私の母は優秀な女性でした。当時は、リシュアーナ独立戦争が始まったばかりの頃で、軍人として――しかも司令官としても優れた資質を持っていた母は大変重宝されました。結果、次第に皇族内における母の発言力が高まっていきました。それは、多くの貴族にとっては面白くない事態だったのでしょう。様々な嫌がらせじみた出来事が起こるようになりました。それでも……母は実直な性格でした。そして政争というものを心底嫌っていました。皇族にとって唯一重要なことは、帝国内部の権力闘争ではなく、帝国臣民の幸福と安定である、と常々語っていたことを覚えています」

「根っからの庶民だったんです」と、リリアーヌは笑う。

「しかし、事件が起きてしまいました。反乱軍――現リシュアーナ神聖国との局地戦に勝利し、帝都に凱旋するその帰り道。母が渡河中の橋が爆破されたのです」

 ここに来て、初めてリリアーヌの顔から微笑が消える。

「死体は見つかりませんでした。戦争中という理由で、碌な捜索もされないまま母は殉死扱いになり、そして帝城――ラインシュタイン城内における私の居場所はなくなりました……そこから先は、あっという間です。私は生命を狙われるようになりました。当時から側をハイジが守ってくれてはいましたが、限界があります。遠からず殺される。そのような状況の中で、ボーデンシャッツ辺境伯――ハイジのお父様に引き取られたのです」

 リリアーヌがアーデルハイトの方をチラリと見る。

「皇帝陛下も私の境遇には同情的だったようで、その手続はスムーズに進み、私はボーデンシャッツ辺境伯の養子となりました。特に妨害を受けることはありませんでした」

 なぜ? と、新一は目だけで問いかける。禍根を絶とうとするなら、殺してしまった方が都合が良い。

「恐らく……もう再起の芽はないと思われたのでしょう」

 リリアーヌは新一の意を悟り、答えを返す。

「ボーデンシャッツ辺境伯は母の支援者の一人でしたから、周囲からは随分疎まれ、当時は既に現リシュアーナ神聖国との国境沿いに領地替えになっていました。帝都から最も離れた辺境の地です。そんな場所に追いやられたボーデンシャッツ家には、もはや帝政への発言権はありませんし、日々のリシュアーナ神聖国との争いのせいで、国力を整えることも困難になります。他の皇位継承候補者にとって、もはや気にする必要もなくなったのでしょう。ただ……もしかするとボーデンシャッツ領内の屋敷に囲われた以上、殺すのはリスクが大き過ぎると判断されたのかもしれません。追いやられ、縮小されて尚、『個の武力では帝国最強』と、ボーデンシャッツ家は謳われていましたから」

 新一は思い出す。ボーデンシャッツを名乗った少女の戦いぶりを。屈強な騎士に囲まれて尚奮戦する彼女の姿は、新一の心に強く残っている。

「こうして、私はボーデンシャッツ辺境伯の下で約十年を過ごしました。変化が起きたのは、先のクーデターの後。先程申した通り、後継が軒並みいなくなるという非常事態が勃発し、かつての皇女――忘れられた姫君の存在が、再度浮上してきたのです。そして私はエル・オーラムに呼び戻されました。今がその上洛の最中――ということです」

「ですが……」と、リリアーヌは続ける。

「私の復権を快く思わない――いえ……恐怖している人間も相当数存在します。かつて、私を追い落とした者たちです。彼らは私の復権を恐れ、これを妨害すべく動くでしょう。それだけではありません。リシュアーナ神聖国も、帝国の更なる混乱を欲しています。こういった勢力の妨害を躱すため、私たちは部隊を二つに分けることにしました。片方の部隊にはクラウン=プリンセスの上洛らしく、華々しい行列を演出させ、皆の注目を一手に引き受けます。そして――」

「本命は、少数精鋭で密かに上洛し、敵の妨害を受けないままにエル・オーラムに入る……か。中々良い策のような気もしますが、残念ながらそれも、失敗に終わってしまったみたいですね」

 と、新一が後を引き継ぎ、私見を述べる。

 本命が襲われ、警護隊がほぼ壊滅した以上、この策は完全に失敗したと言って良いだろう。

「いいえ、失敗しておりません」

 しかし、リリアーヌは新一の言葉を否定する。

「なぜなら――」

 そして、こう言葉を紡ぐ。

「なぜなら――新一様、貴方が私の前に現れたからです」

 そして、リリアーヌはニッコリと微笑んだ。

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