第二章「赤き月の世界」
深夜。布団の中で眠っていた僕はガチャリと部屋の鍵が開錠される音で目を覚ました。
きっと隣の部屋に住んでいる部屋が帰って来たのだろう。
そう思っていたのだけど、隣の部屋のドアが開けられる音が聞こえない。
僕の住んでいるアパートは築四十年という事もあって、壁が薄く隣の部屋の音が結構聞こえてくる。
鍵を開けたのなら当然その後にドアを開けるものだが、隣の部屋のドアが開けられる音が聞こえてこない。
寝ぼけた思考で不思議に思いながら、また夢の中へ行こうと目を閉じる。
夢の中では清水桜花さんの胸が揉める五秒前だったから、早く戻らないといけない。
ギィー。と音を隠すようにゆっくりと僕の部屋のドアが開けられる音が聞こえて来た。
まさか、さっき鍵が開けられたのは隣ではなくて、僕の部屋?
深夜に訪れた突然の侵入者に僕は布団を頭の上まで被り、息を殺した。
侵入者は律儀にドアを閉めると、元から裸足だったのかペタペタと音を立てて、眠る僕の布団の周りを歩く。
ペタ……ペタ……段々と遅くなる歩調。それはやがて僕の頭の上で止まり、恐怖のあまり僕は布団の中で震えた。自らの存在を隠さなければいけないのに、震えを止める事が出来ない。
足音が止まり、しばらく静寂が続いた。
静まり返った部屋は、まるで侵入者など最初から居なかったように感じる。
ただ、近くで聞こえていた足音が遠ざかる訳ではなく突然消えたという事は、居るのだ。
今、寝ている僕の頭の上に誰かが居る。
間違いない。
先程まで寝ぼけていた意識は完全に覚醒している。自ら布団を取って侵入者の正体を暴いてやろう。
そう決意したものの、まだ震える体が言う事を聞かない。
突如、侵入者によってバッ! と布団を剥がされ、
「――――ッ!」
悲鳴を上げたくても、まるで金縛りにあったかのように声が出ない。
侵入者の正体は、長身の女性だった。
傷んでいる長く黒い髪、血走った目は充血しており、大きなマスクをしている女性の肌は異常に青かった。
パッと見女性だが、吐息が掛かるようなこの至近距離で見てしまえば断言出来る。
今僕の目と鼻の先で覆いかぶさるように見てくるこの女性は、人間じゃない。
寝る前にトイレに行っていなかったら、絶対に失禁していた。
「…………アタシ」
侵入者は何かを言っているが、声が小さすぎて聞き取れない。
「……アタシ……れい?」
「…………」
「アタシ、きれい?」
ベッドの上で女性に綺麗と聞かれる日が、こんなに早く来るとは思わなかった。
僕が予想していたシチュエーションとは大きくかけ離れているけど……。
「綺麗です」
例え化け物であろうとベッドの上で女性に綺麗か聞かれたら、綺麗だと答えるのが男の義務。
即答する僕に女性はマスクを取った。
「コレデモカーッ?」
マスクの下には耳元まで裂けた大きな口。その傷は塞がっていないのか、血が滴っており僕の顔にぽたぽたと落ちる。酷い悪臭に咽そうになる。
唐突な出来事過ぎて、何故? どうして? そんな疑問ばかりが頭に浮かぶが、息を荒げ今にも襲って来そうな口裂け女さんに余計焦る。
確か、マスクを取った後(第二形態)は綺麗と言っても不細工と言っても難癖付けられて殺されるんだよなぁ……。
「…………よく見えないので、電気を点けて良いですか?」
「…………」
窓から差し込む月の赤い光のみが照らす室内。じっと見つめてくる口裂け女さんからの返事は無い。ただ見られているだけなのに、顔が怖すぎて気が狂いそうだ。
口を裂かれて殺されるのって、かなり痛そうだな……。どうして僕がこんな目に。
ホラー映画に出てくる登場人物達は皆、理不尽な怪異を前に同じような心境になったに違いない。
諦めて目を瞑るが、一向に襲ってくる気配は無い。
まさか、無言は承諾の意味なのか?
再び目を開けると、やはり口裂け女は僕に覆いかぶさるような形で顔を覗き込んでいる。
一か八か、仰向けのまま這うように足の方向へ移動する。
口裂け女は相変わらず僕に視線を向けたままだが襲ってこない。
森の中でクマに対峙した時のように、相手を刺激しないようにゆっくりと立ち上がると薄暗の中手探りで壁のスイッチを押した。
「――っぎゃ!」
光に慣れていないのか、口裂け女さんが短い悲鳴と共に両目を手で覆った。
まずいっ! 意図せず視界を奪ってしまった!
僕から攻撃されたと勘違いした口裂け女さんは怒り狂い、手に持った大鋏を振り回す。
このままこの部屋に居たら間違いなく殺される。裸足のまま玄関から外へ飛び出した僕は一心不乱に駆け出した。
間もなく、玄関ドアが開けられる音がした。視力が回復した口裂け女さんが追ってきている。
部屋が一階で助かった。もし二階だったら階段を下りている途中で掴まっていただろう。
街灯だけを頼りに走っていると、サラリーマンの集団だろうか? スーツを着た三人の男が何かを囲むように車道の中央に屈んでいた。
「良かった! 人が居た!」
息を切らしながら、サラリーマン達に近づくと彼等の様子がおかしい事に気が付く。
バリボリ、クチャクチャと何かを咀嚼する音。彼等は道端で何かを貪っている。
僕の足音に気が付いた三人の内の一人が振り返ると、その男は口と両手が血で真っ赤に染まっていた。暗くてよく見えなかったが、不自然な挙動をする彼等が人間では無いという事は遠目からでも分かった。彼等は異形の存在だ。
進行方向に居る異形の集団を避ける為に、僕は街灯の無い路地裏へ入った。
「いたっ」
寒さで悴んだ足の裏から伝わる痛み。左足裏に刺さったガラス片を抜いて捨てる。
口裂け女さんやさっきのおじさん達は明らかに異常だ。例え深夜でも、都市部で車が全く通らない事に違和感を覚える。物音一つしない、不自然な程静かな世界。
まるで突然世界が変わってしまったような現象。一体どこへ行けば良いのか、分からない。
ただ、僕は異常な存在から逃げ続ける事しか出来ない。
路地裏を通り抜けて、さっきとは違う大通りに出ると、等間隔に並ぶ街灯が灯す微かな光が安心感をくれた。
右に行けば家、左に行けば学校があるいつもの通学路。
足の裏が痛い、出来る事なら一度家に戻って靴を履きたいところだが、僕を追っていた口裂け女さんの姿が見えない。もしかしたら家で待ち構えているかもしれない。
ガラス片を踏んで痛む左足を庇いながら、通学路の途中にある交番に向かう事にした。
化け物から逃げています。助けて下さいなんて言っても、当然信じて貰えないと思うけど朝まで匿ってくれるかもしれない。
毎朝通っている道でも、夜だと違う道に見えるから不思議だ。
夜道を歩く事数分。走って温まっていた体も徐々に冷えてくる頃、道の先に小動物のような影が見える。
恐る恐る近づくと、影の正体は小さな柴犬だった。
ただ一点、顔がおじさんという点を除けば普通の柴犬だった。
「……なんだ、お前さん人間か?」
驚いた事に顔がおじさんだと犬も喋るらしい。
「あ、はい。おじさんは犬ですか?」
「バカ野郎! 俺のどこが犬に見えるってんだ!」
「顔以外全部ですかね」
「っかー! これだから最近の若いもんは、すぐに人を外見で判断しやがる」
「すみません」
「まぁいい。見た感じお前さん新人だろ? この世界での生き方ってやつを教えてやる。付いて来い」
首で合図すると、路地裏に入っていく人面犬のおじさん。
素性の分からない人面犬のおじさんに付いて行っても良いものか、悩んだ末僕は人面犬のおじさんを無視して、予定通り交番に行くことにした。
路地裏に入っていく人面犬おじさんを心の中で見送り、街灯に沿って進むと明りの付いた交番が見えた。
自分が命の危険に陥っている時ほど、交番の光が輝いて見える瞬間は無いだろう。
ようやくこの寒さ、心細さ、恐怖心から解放される。そう思うと引きずっていた左足の痛みが消える。
ドアが開いたままになっていた交番に入ると、中に誰も居ない。
「す、すみませーん」
交番の中に入る事なんて初めての僕は、少し緊張しながら人を呼ぶ。
明りも付いているし、ドアも開いたままなんだ。きっと誰か居るはず……。
しばらく待つと、返事は無かったが奥の引き戸が音を立てて開いた。
交番奥から出て来たのは、警官帽を目深に被った警察官の男。
「すみません! 実は今、化け物に追われてて」
必死に説明する僕の話をまるで聞いていない警察官は大股で近づいて来て、
「イヒヒッ!」
僕の両肩を掴んで不気味な笑い声を上げる。
「あ、あの……聞いてますか?」
俯いている顔を上げた警察官。
「イヒヒッ!」
その顔には人間離れした大きさ口が付いていた。
赤く充血した瞳と死体のような青白い肌が、彼が人間では無い事を表している。
異常に大きい口で歯を剥き出しにして笑う警察官。
人並外れた頑丈な歯を持つ警察官は大口を開けて僕の右肩に噛みついた。
「うわぁああああああ?」
ブチブチと右肩の肉を食い千切られ、熱した鉄を当てられたような熱を伴う激痛。
喉が避ける程に大きな声で、声にならない悲鳴を上げる。
いっそ意識を失ってくれた方が楽だと思うが、僕は痛みを消すためにアドレナリンが出るよう叫び声を上げる事しか出来なかった。
クチャクチャと僕の肉を咀嚼した警察官は喉を鳴らして飲み込むと、ニヤリと笑う。
恐怖と殺意が渦巻く感情に飲み込まれる。
恐怖は目の前の化け物に、殺意は警察官だという理由で信じた過去の自分に。
痛みで思考がまとまらない。
立ち尽くす僕に目掛けて、もう一口と言わんばかりに目の前化け物は再び大口を開ける。
「――っひぃ!」
反撃しようにも利き手である右腕が上がらない。
咄嗟に左に転ぶように避けるが、体勢を崩してしまい次は避けられない。
空気を噛んだ口はガチンとまるで石と石がぶつかるような高い音を立てる。
そして、今度は倒れ込んだ僕に向けてその口が開かれる。
もうだめだ――。
「――大食いめ。これでも食ってな」
完全に諦めた時、小さな影が僕と化け物との間を通り過ぎた。
「アガッ! アガガガガガガ」
いつの間にかつっかえ棒のように鉄パイプを口に挟まれた大口の化け物は、口が閉じられなくなって慌てふためいている。
「ったく、ちょっと目を離した隙に食われてんじゃねぇよ」
僕を助けてくれた小さな影の正体は、人面犬のおじさんだった。
「……どうして」
「言ったろ、この世界での生き方を教えてやるって。今度こそ付いて来いよ」
それ以上何も言わず交番を出ると、人面犬のおじさんは小さな四足で歩き始めた。
命の恩人の言葉を聞かない訳にはいかない。今度は大人しく人面犬のおじさんの後ろを付いていく事にした。
食われた右肩からの出血が酷い、外気の寒さがより辛く感じる。
左足と右肩を引きずりながら、薄暗い路地裏を人面犬のおじさんの跡を追って歩く。
段々と眠くなってきた。意識が朦朧としてくる。
もしかしたら、このまま眠れば何事も無かったように自分の部屋で目を覚ますんじゃないか。
そんな淡い期待に掛けても良いかなと考えている最中、前方の暗がりから声が聞こえる。
「頑張れ、この道を出たらすぐだ」
人面犬のおじさんの言葉を信じて、口の中を噛み切る痛みで無理やり意識を覚醒させる。
路地裏を出ると、再び大通りに出た。
「見えるか新人。あの洋館に行けば助かるぞ」
人面犬のおじさんが見上げる先には、住宅街には場違いな大きい洋館があった。
あんな洋館、この街にあったか……?
洋館へ向かい大通りを歩いていると、背後から気配がして後ろを振り向く。
すると、街灯に照らされた小さな影。
頭身は犬や猫に近く小動物だろう。しかし、犬や猫にしては右足と左足の感覚があまりにも広い。目を凝らしてよく見ると、向こうも僕が見ている事に気が付いたのかゆっくり近づいてくる。
街灯から離れ、暗闇で姿が見えなくなった後、手前の街灯に照らされて再びその姿が顕わになる。
それは、人だった。
正しく表現するなら、人の上半身だった。
上半身のみの女性が両手を足のように使い歩いている。
直感が告げる。あれはヤバい。
「人面犬のおじさん。あれ、何ですか?」
僕の前を歩いている人面犬のおじさんを呼び止める。おじさんは上半身だけの異形の怪物を見た瞬間、小さな声で呟いた。
「…………走るぞ」
僕達は駆け出した。背後に居た上半身の女も僕達が逃げ出したと同時に走り出す。
背後から聞こえてくるテケテケという独特な足音。それは手で走っているとは思えない脅威的な速さで近づいてくる。
振り返っている余裕など無い。ただ前だけ向いてコンクリートを蹴り続ける。
人面犬のおじさんが路地裏に入った事を確認し、僕も後を追う。
すると、そこは洋館の目の前だった。
洋館の周囲には鉄柵が植物のツタを纏い、外壁の装飾にはガーゴイルが不幸の訪れを見張っている。まるで魔女や悪魔が住んで居そうな禍々しい印象を与える洋館は畏怖すら覚える程に立派な作りだ。
勢い良く鉄柵に設けられた門扉を開けると、敷地内には洋館の入り口へと繋がる道があった。
レンガを敷いて作られているその道は洋館の庭の一部であり、道の周囲は枯れ木や石で荒れ果てている。
「中までは追って来れないはずだ! 下半身とサヨナラしたく無かったら、あと少し頑張れ!」
その時、背後からの音はすぐ近くに迫っていた。
まだ捕まっていないのが不思議なぐらい近くから聞こえる音。次の瞬間には殺されてしまうんじゃないかという恐怖は、まるで背後に死神を連れて走っているようだ。
洋館の扉まであと二十メートル程度。秒数にすると五秒も無いだろうけど、背後に死が迫っている時には永遠のように感じられる。
あと十五メートル、十メートル、五メートル、先に洋館に着いた人面犬のおじさんが切迫した表情で洋館のドアを開けていてくれる。
あと一歩、という時背中に刃物で切り付けられたような鋭い痛みが走る。
「ギィイイイイイイイイイイイッ?」
直後、絶叫にも似た悲鳴が聞こえた。
上半身だけの化け物はガラスにぶつかる虫のように、僕に触れる直前で透明な何かに弾かれていた。弾かれた化け物は何度か見えない壁を叩いた後に恨めしそうな目で一瞥すると、暗闇に姿を消した。
「危なかったな新人。洋館の結界が少し広めに貼ってあって良かったぜ。悪運の強い奴め」
何だかんだ言って、僕の生存を喜んでくれる人面犬のおじさんは洋館の中に入っていく。
洋館の一階はエントランスホールになっており、二階まで吹き抜けの構造だ。
二階の天井から吊るされている豪華なシャンデリア。取り付けられた無数の蝋燭がエントランスホール全体を照らしている。
人面犬のおじさんは迷わず半螺旋状の階段で二階へ上っていき、階段を上ってすぐの所にある大きな扉の前で止まった。
大扉の前にはフルプレートの西洋甲冑が二つ、門番のように両脇に飾ってある。
僕達が大扉に近づいた時、置き物だと思っていた甲冑がその手に持ったハルバートで交差するように行く手を阻んだ。
「へへっ、門番様、お疲れ様です。例の件で女王様との謁見に来やした」
へこへこと頭を下げる人面犬のおじさん。甲冑達は扉を塞いでいたハルバートを納めた。
「良いか、新人。この扉の向こうにはこの世界を支配しているお方が居る。粗相の無いように気を付けろ」
人面犬のおじさんに頷いて返事をすると、僕は扉を押し開いた。
扉の奥は様々な赤を基調に彩られた豪華絢爛な空間になっており、彫刻や絵画といった美術品が列を成すように飾られている。
部屋の奥には赤い布地に黄金の刺繍が施された玉座。この空間はまさに王が謁見に使う部屋に違いない。
贅の限りを尽くしたような空間で玉座に座るのは、氷のように冷たい眼差しを僕達に向ける美しい女王。
玉座に向かって歩く人面犬のおじさん。偉い人に見られていると思うと、その半歩後ろを歩く事でさえ緊張する。
真紅ドレスを身に纏う女王様は、近くで見るとより美しいと感じた。
肌の透明感がまるで人間じゃないみたいに無機質で、蝶のようなアイラインが特徴的な威厳のあるメイク。頬杖をついて見下すその視線は恐怖と羨望の感情を同時に湧きあがらせる。
「今宵も赤き月が誠に綺麗でございます女王様」
うつ伏せになって最大限の敬意を示す人面犬のおじさんを真似して、僕も片膝を突いて女王様に頭を下げる。
「面を上げよ」
「はっ! 仰せになられた人物を連れて来ました」
女王様は無表情のまま僕を見た。
「少年、余の傍に来い」
言われるがまま、僕は立ち上がって女王様の眼前まで近づいた。
女王様は僕の顎を指先で少し上げると、まるで商品を品定めするように色々な角度からじっくりと観察する。
「確かに、あちらの世界の住人のようだ。ご苦労、褒美を与えよう」
女王様が指を鳴らすと虚空から青紫色の血が滴る肉塊が出現し、ベチャッと音を立てて人面犬のおじさんの前に落ちた。
「あ、ありがとうございます!」
床に落ちた肉を貪り食う人面犬のおじさんは、正しく獣だった。
女王様は肉を貪る犬を見ていた僕の顎を引き寄せて、強制的に目を合わせる。
「たった今より、貴様は赤き月の世界の住人となる。その姿を異形の者へと変え、余に全てを捧げよ」
この世界の住人になる? 姿が変わる? 全てを捧げる? 一体どういう事だ!
一体いつからだろうか、先程までの豪華絢爛な部屋とは打って変わって、部屋の中は地獄のような光景に変わっている。
部屋自体は変わっていない、ただ僕達の周囲を囲むように異形の怪物達が犇めいている。
化け物達によってシャンデリアの明りが遮られ、闇が広がる。
僕もこの化け物達のような醜い姿に変えられ、自我までもが奪われるのだろうか。
そう考えると、より一層の恐怖が込み上げて来る。
切実の思いで人面犬のおじさんを見るが、目を逸らされた…………嵌められたんだ。
恩人だと思っていたのに、僕を助けてくれると信じていたのに……。
他人を信じた結果として、僕は化け物に変えられる。
ずっとこの化け物しか居ない世界で暮らしていく事になった。
もう誰も信じない。誰も頼ってはいけない。誰も助けてくれない。
二度目の後悔の念に苛まれながら、女王様が僕に向けて手の平をかざす。
呼応するように体の中心が熱くなってくる。その感覚は魔女さんに魔法を掛けられた時に似ている。
「ゲルニムベルセバラルーズノヴエアバニス」
女王様が呪文の最後の言葉を言い終えた時、目には見えない何かが女王様の右手を拒絶するように跳ね返した。
何が起こったのか理解出来ないといった様子で、驚愕の表情を浮かべる女王様と人面犬のおじさん。
かくいう僕も状況が理解出来ない。
「……ダメか。不純物が混ざっているせいで、余の魔法が効かぬ」
「えっと……つまり」
「貴様、厄介なのに寄生されておるな。きっと、この世界で化け物になっていた方が幸せだっただろう」
可哀想と言う女王様は哀れみと言うより、侮蔑に近い目で僕を見た。
「この世界には朝も昼も黄昏も無い。貴様はどのようにして元の世界へ戻るつもり? それとも、こいつらの餌になってくれるのか?」
周囲の異形の者達が歓喜の咆哮を上げる。
どうやって元の世界に戻るなんて、僕が知る訳が無い。知っているのなら、とっくに元の世界に戻っている。
言い淀む僕に女王様は笑った。
「貴様に帰る手段などあるものか! 本当に可哀想な奴! 未来永劫元の世界に戻れると思うな! 怨むのなら、貴様に過酷な呪いを掛けたあの魔女を怨め! ヒャヒャヒャヒャヒャ!」
至近距離で唾を飛ばしながら、僕を嘲笑う女王様。
彼女に対して、僕は何一つ言い返す事が出来なかった。
言い返したところで状況が悪化する事しか無いのだから、僕は動揺を隠し沈黙を貫く事で小さな反抗を示すしかない。
一通り笑い終えた女王様は急に冷静を取り戻す。気性の変動が激しすぎて戸惑うレベルだ。
「と、言いたいところだが……貴様は元の世界へ戻そう」
「女王様! 一体何故ですか!」
僕よりも先に疑問を口にしたのは、口回りを青紫色の血で汚した人面犬のおじさんだった。
「哀れな魔女の働きによって、この世界の住人はかなり増えた。これ以上増やさなくとも当面は問題あるまい。何より、余はあの魔女が嫌いでな。少年を殺すよりも生かした方が奴への嫌がらせになる」
「なるほどでございます!」
歪んだ笑みを浮かべる女王様と彼女へ媚びへつらうおじさん面をした犬。
一言も喋っていないけど、どうやら元の世界へ返してくれるらしい。
女王様は決して良い人では無いけれど、元の世界へ返してくれるという点に置いては、今の僕にとっては良い人なのかもしれない。
「少年よ。目を瞑れ」
言われた通り、僕は瞼を閉じる。
「赤き月の女王、ヴェルニアの名において貴様を本来在るべき世界へ戻そう。胸の底で帰還を願え」
僕は心の底から、元の世界。僕の部屋の布団で寝ていた時へ戻りたいと願った。
目を閉じているにも関わらず、強く白い光を当てられたように眩しさを感じた。
「――――次に貴様と会う時は、果たしてどちらの貴様だろうな?」
薄れていく意識の中、女王様が最後に告げた言葉の意味は分からなかった。
目を覚ますと、窓から白い月明りが差し込む僕の部屋だった。
ついさっきまで感じていた左足と右肩の痛みが無い。恐る恐る右肩へ触れてみると、警察官に噛みつかれた傷が塞がっていたが、深い傷があった事は明らかだ。
枕元に置いていたスマホを見ると時刻は深夜の二時だった。
そして、スマホの通知ランプから僕は突然あちらの世界へ行った理由を知る。
普段光る事の無い通知ランプが告げていたのは、中学生時代の同級生からのメールだった。
同じクラスで一番可愛いと評判の西村(にしむら)さんからのメール。内容はずっと好きでしたという一文。受信時刻は夜十時。
たったそれだけのメールによって、僕は死ぬ間際に追いやられたのだ。
彼女からの告白など踊ってしまう程嬉しいが、今の僕には恋に喜べるような心の余裕が無い。
メールに対して返信せず、僕は中学時代の知り合いから連絡が来ないように全ての電話番号を着信拒否にし、メールアドレスを変えた。
今晩はいくら目を閉じても眠る事が出来なかった。
布団で横になっていたら、またドアが開けられて異形の者が侵入してくるのでは無いかと考えてしまう。
結局その日の晩は眠る事なく、興味の無いアプリゲームで時間を潰して朝を迎えた。
きっと今晩の出来事は記憶の毒となって、この先も僕を蝕み続けるだろう。
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