第三章 「才能の自殺」
僕の心配は杞憂だったようで、翌朝登校するといつも通りの日常だった。
昼休み以降の授業をエスケープしたと言うのに、教師すら僕に何も言ってこない。
まるで僕がこの世界に居ないかのような、空気同様の扱いだった。
魔女さんの言う通り、僕は居ても居なくてもあまり変わらない存在らしい。
というか、存在感が薄いという理由だけで説明出来なくない?
ある種の能力が僕にはあるのでは無いかと、中二病真っ盛りの僕は考えてしまう。
透明人間的な能力だったら良いな、痴漢し放題だ。
もし自分が透明人間だったらという妄想を膨らませながら教室に入ると、清水桜花さんは僕が教室に入ったと気付くと、クラスメイト達と談笑しながらも、バレないように小さく手を振ってくれた。
どうやら、昨日僕が告白の返事をせずに消えてしまった事について怒っていないようだ。
事件はお昼休みに起きた。
四限の終了と昼休みの開始を告げるチャイムが鳴ると同時に、清水桜花さんが僕の席に来て少し恥じらいながら、
「陽翔(はると)君のお弁当作って来たから、一緒に食べよ?」
時間が止まってしまったかのような静寂に包まれる教室。
陽翔君って誰の事だろうと思ったら、僕だった。
下の名前で呼ばれる事なんて滅多に無いから自分の名前を忘れていた。
クラス中の視線を集める中、調子の良い返事が出来るようなコミュ力を持ち合わせていない僕はテンパりながら、小さく頷いた。
先導する清水桜花さんが向かったのは、昨日と同じ屋上だった。
今までクラスメイト達と一緒に教室でお昼ご飯を食べていた彼女が屋上を選んだのは、僕を気遣っての事だろう。
屋上の隅に腰掛けると彼女が持っていた二つのお弁当のうち、一つを渡された。
渡された銀色のお弁当箱は新品で、僕の為に用意してくれた事が分かる。
それだけでも彼女の愛情が伝わって来たのだが、白米の上にピンク色の桜でんぷんで描かれた大きなハートマークが更に愛情を伝えてくる。愛情の過剰摂取で死にそう。
お弁当箱を開けて固まる僕を見た清水桜花さんも顔を赤らめて固まっていた。
恥じらってる顔も可愛いなぁ。
彼女の作ってくれたお弁当は野菜も入っていて、栄養バランスについても考えられていた。万年金欠で満足な食事が取れない僕にとって、生きる上で必要な栄養素が接種出来るだけで非常に嬉しい。
所々焦げている玉子焼きや不格好なたこさんウィンナーを見て、普段冷凍食品で済ましていた彼女がわざわざ手作りをしてくれたようだ。
お弁当箱を開いたまま、一筋の涙を流す僕に彼女は動揺した。
「ど、どうしたの陽翔君?」
「ごめん。誰かに優しくされた事とか無かったから、嬉しくてつい……」
「一体どんな人生送って来たの……。味には自信があるの! 食べてみて」
彼女に急かされるように僕は玉子焼きを一つ食べる。
「……美味しい」
「でしょ! 我ながら、初めてにしては良く出来たと思うの!」
彼女の言葉にまた泣けて来た。
こんなに幸せで良いのかなぁ?
彼女の僕に対する好感度の高さも全て魔法によって操作されたものだと分かっているが、そんな仮初の愛情でも嬉しいぐらい自分が愛情に飢えていた事に気付いた。
「泣く程喜ばれるとは思ってなかったから、なんだか恥ずかしくなってきちゃった……」
僕は泣きながら彼女の作ってくれたお弁当を食べ続けた。
そんな僕を見て嬉しそうに食べる彼女のお弁当は、失敗したものばかりなのか焦げているものが多かった。
お弁当を食べ終わった僕は意を決した。
「清水桜花さん」
「なんで今更フルネームなのよ! お、桜花って……呼んで……」
「じゃあ、桜花さん。昨日の告白の返事なんだけど」
「そう! 昨日突然居なくなってビックリしたんだから!」
「ごめん! 悪気があった訳じゃないんだ……」
「分かってるよ……。陽翔君の事だから、何か事情があるんだなって思ってた」
凄い、突然目の前から姿を消したのに、特に何も説明しなくても理解してくれた。まさに正妻の鏡。
桜花さんに異界の事を話すべきだろうか……。
いや、きっと話しても余計な心配を煽るだけだろう。
異界に行くのは僕だけで彼女に危険は無いんだから、わざわざ言う必要は無い。
それに、もし異界で僕が死んだら桜花さんに掛かった魔法も消えて、きっと僕に対する認識も影の薄いクラスメイトという立ち位置に戻るはずだ。
「桜花さん」
「どうしたの? 急に改まって」
「好きです! 僕の彼女になって下さい!」
僕の渾身の告白に桜花さんは咽てお弁当をのどに詰まらせた。
慌てて水筒のお茶を飲んで、喉に詰まったお弁当を流し込んだ桜花さんは何度か深呼吸をして落ち着きを取り戻す。
「だ、大丈夫?」
「大丈夫じゃない! 急過ぎるのぉ! 心の準備をさせろぉ!」
「ごめん! いひゃい! いひゃいからほっぺ抓らないで!」
顔を真っ赤にして僕の両頬を引っ張る桜花さん。
口元が少しニヤついてるから、多分そんなに怒ってないと思う。
「……良いよ」
「え?」
「付き合ってあげるって言ってるの!」
「え、あ、本当? 桜花さんは僕の彼女?」
「そう彼女! 恥ずかしいんだから、何度も言わせないでよ」
非モテ童貞の僕に美少女の彼女が出来ました。
これで、桜花さんとあんな事やこんな事をし放題になってしまった訳だ。
いくら恋人同士だろうと、いきなりおっぱいを揉ませて欲しいという程、僕は勇敢ではないし、愚かでもない。
「じゃあ、恋人同士になった事だしルールを決めましょう」
「ルール?」
両手の平を合わせて、提案する桜花さんに僕は首を傾げる。
「まず、毎日の起床時と就寝時には必ず連絡してね?」
「え」
「あと、私以外の女の子とは極力会話を避ける事。もし、会話した場合はいつどこでどんな会話をしたのか報告する事。ほぼ毎日入ってるバイトも私が三食作ってあげれば減らせるよね? 休日は必ずどちらか一日は開けて私と過ごす事。あと、陽翔君のスマホに位置情報アプリ入れさせてね? 彼女なんだから、常に彼氏の居場所を把握しておく事は当然だよね。それから、学校終わりの後なんだけど…………」
桜花さんと付き合う上でのルール説明は、昼休みの終了を告げるチャイムが鳴るまで続いた。
放課後、学生アルバイターの僕は今日もバイトへ向かう。
ちなみに桜花さんはテニス部に所属しているらしく、一緒に帰宅しようと提案したは良いが僕もアルバイトがあるので、憧れである彼女と一緒に下校イベントは叶わなかった。
アルバイトに向かう途中、下駄箱で靴を履き替えようとしていた時に胸が熱くなる感覚に襲われた。
それは桜花さんを呼び止めようとした時に襲われた感覚に近く、魔法が発動したのだと直感で悟った。
一瞬静止した世界は再び動き始め、上履きを脱ごうとした瞬間声を掛けられた。
「――おい」
僕を呼び止めた声の主は面識のない女子生徒だった。
「お前、名前は?」
彼女の第一印象は眠そうだなって感じで、半分閉じている目の下にはクマが出来ており姿勢も少し猫背だった。
紺色に近い黒髪はウェーブがかっており、身だしなみには無頓着なのか所々に絵具が付いている。
絵具が付いているのは髪だけではなく、手足や服にも様々な色の絵具が付いているが、特に赤色が多い。
彼女の服装は制服では無く、黒いジャージをだらしなく着こなしていた。きっと絵具が付いても良いようにという理由なのだろう。
学校で話し掛けられなければ、彼女が同じ学校の生徒だと判別出来なかっただろう。
普通の人からすれば一見だらしない女性だと思うが、僕の目は誤魔化されない。よく見ると背も高くスタイルも良いのに、勿体ない……彼女は間違い無く美女だ。
知らない人から声を掛けられる事が増えたなと思いながら、僕は脱ぎかけた上履きを履いた。
「僕は横嶋ですけど……」
「横嶋。君に見てもらいたい絵がある、来い」
突拍子の無いお願いをしてきた彼女は僕の返事を待たず、歩き始めてしまった。
幸い、アルバイトまで少し時間の余裕はある。
感想が聞きたいのかな? 絵を見るだけであれば、そんなに時間も取られないだろう。
そんな甘い考えで僕は彼女の跡を追った。
彼女はやはり美術部だったようで、方向的に美術室へ歩いていた。
下駄箱のある北館から美術室のある南館に渡り廊下で渡り、階段で三階まで上る。
「ここだ」
彼女が入った部屋は美術室では無く、美術室の隣にある美術準備室だった。美術準備室って初めて入るな……なんて考えながら彼女に誘導されるまま入る。
美術準備室は彼女しか使っていないのか、照明が消されていて暗かった。
「この絵を見て、何か気付く事はあるか?」
彼女が美術準備室の照明を付けると、部屋の奥に置いてあるイーゼルに立てかけられたキャンバスが一つ。
そのキャンバスに描かれた女性を見た僕は言葉を失った。
僕が異界で出会ったキリン人間にそっくりだったのだ。
現実世界ではあり得ない歪さが伝わって来るこの絵は、こっちの世界にあってはならない物だと直感した。
「どうして……」
そう呟く事しか出来ない僕を見た彼女は嬉しそうに目を輝かせた。
「どうしてとは、どういう意味だ? まさかとは思うが、君はこの女性について何か知っているのか?」
「何も知らないですが、昨日会いました」
「それはどこで? こちらの世界か、それともあちらの世界か?」
あちらの世界と聞いて、驚いた僕の反応を見てニヤリと笑う先輩。間違いない、この人は異界について知っている。
「あの世界はやはり実在するのか。直感を信じて君に話しかけて正解だった訳だ」
「直感?」
「ああ、下駄箱で君を見た瞬間なぜか胸が高鳴ってな。私は私の作品を誰かに見せたりしないのだが、不思議と君には見せたくなったのだ。この運命的な出会いを共に喜ぼうじゃないか」
何という事だ……。この人は勘違いしている。
魔法によって僕を好きになっただけなのに、僕を運命の相手と思い込むばかりに誰にも見せていなかったこの絵をよりにもよって、僕に見せてしまったのだ。
偶然と運命は紙一重と言うが、まさに彼女と僕の出会いは全くの偶然であり運命なのだ。
「貴方は一体……何者なんですか?」
「そうか、自己紹介がまだだったな。私は二年三組の赤羽瑠香(あかば るか)だ。呼び方は好きにするがいい」
「いや、名前とかじゃなくて……どうしてこの女性を知ってるんですか?」
「私は観測者であり、観測した存在を表現するアーティストでもある」
うーん、さっぱり分からない。
「いつの頃からか、この世界の住人では無い存在を夢で見るようになったのだ。以来、この異形の存在の絵ばかり描いている。私は彼女達異形の者が住む世界へ行きたい。夢では無くこの目で直接見てみたいのだ」
話を聞く限り、僕とは違う形で異界との関りがある人らしい。
「そういう横嶋は一体何者だ?」
「先輩の言葉を借りるなら、僕は探求者です」
主に女体に関してだが……。
「探求者……か。君は自分の意思で異界へ行くことが出来るのか?」
「自分の意思では行けませんし、出来る事ならもう二度と行きたくないと思っています」
僕は制服のボタンを外し、抉れた傷の残る右肩を赤羽先輩に見せた。
「この傷も異界で出来ました」
「なるほど。君は何度異界へ行った?」
「……二回ですけど」
「っぷ、あはははは! 二回! たった二回行っただけで怖くなってしまったのか! 探求者が笑わせてくれる!」
腹を抱えて笑う赤羽先輩。
まだ異界の恐ろしさをその身で経験していない彼女に笑われるのは、少し腹が立った。
「私はこれまで夢を通して何度も異界を見て来た。異界に住む異形な住人達を見る度に彼等に魅せられてしまう程美しい。そんな世界を怖くなってしまったのなら、確かにもう二度と行かない方が良いだろう」
「赤羽先輩はどうして異界へ行きたいんですか?」
「愚問だな。私はこの世界よりも歪で美しい世界がある事を作品という形で伝えたい。ただ、それだけだ」
創作活動の為に自らの命を危険に晒す事を厭わないのは、決して誇れる事では無い。
きっと赤羽先輩は人として欠落してはいけない部分が欠落しているのだろう。僕は魔法の代償として異界へ飛ばされるのに、彼女はむしろ異界へ行くことを羨んでいる。
彼女の目はどうしようも無く、異界に魅せられてしまったようだ。
「無理を承知で頼む。一度で良いから私を異界へ連れて行ってくれないか?」
「ごめんなさい。そろそろバイトに遅れそうなので、僕は帰ります。貴重なお話ありがとうございました」
「まぁ、待て」
美術準備室から逃げ帰ろうとする僕の襟を掴んで、逃がさない赤羽先輩。
「ところで君は童貞か?」
「……はい。童貞ですが」
不意を突かれたあまり、童貞カミングアウトをしてしまった。
そんな僕の耳に赤羽先輩は背後から抱きしめるように、唇を近づけると艶めかしく囁いた。
「ではこうしよう。私を異界へ連れて行ってくれたら、私が童貞を卒業させてやろう」
「乗った」
「よし、交渉成立だ」
しまった。赤羽先輩の巧みな話術による誘導にまんまと引っかかってしまった。
「早速だが、異界へ行く方法を教えてくれるかな? 童貞君?」
からかってくる赤羽先輩に僕は言いようのない興奮を覚えてしまった。
エロい先輩……大変素晴らしいじゃないか……。
「異界に行く方法ですか……正直僕も良く分かってません」
「そうか。では生足で膝枕をすれば思い出すか?」
ジャージの裾で隠しながら、ジャージのズボンを脱ぎ始める赤羽先輩。
やはり僕の目に狂いは無かった。裾下から覗く白い太ももはかなりえっちで、僕は赤羽先輩の太ももに顔を埋めたい衝動に駆られる。
「思い出せます。いや、なんとしても思い出します」
適当な椅子に座って僕を誘う赤羽先輩。
僕は彼女の太ももに崩れる様に頭を乗せた。
その間およそ二秒。
赤羽先輩の太ももは想像を絶する柔らかさ。そして何よりも素晴らしいのは、正気を失いそうな女性特有の甘く良い匂いがした。
この太ももの上で死ねたら、それ以上の幸福は存在しないだろう。
「どうだ? 思い出したか?」
「はい。思い出しました。前回異界へ行った時は桜花さんに告白された時でした」
「告白というのは私でも良いのだろうか?」
「先輩は美人なので大丈夫だと思います」
「美人かどうかが異界入りに関係しているのか、実に興味深いな」
ごめんなさい。そんな謎ルールを追加してしまったのは僕の下心なんです。なんて、口が裂けても言えない。
「では試してみよう。こほん…………す、好きだ」
刹那、視界が眩く白い光に覆われた。
ああ、魅惑の太ももをもっと堪能したかったな。
後悔を抱いたまま、僕は三度目の異界入りを果たしてしまった。
静寂。背中には冷たくて硬い感触。そしてホテルで嗅ぐような高級感のある匂い。
あまりの眩しさに瞼を少し開くと、天井に幾つも埋め込まれた正方形の照明が白い光を放って建物内を照らしていた。
立ち上がって周囲を確認すると、僕は美術館に居た。
美術館だと一目で分かった理由は、壁や柱の至る所に『バルカア展開催中』という文字と女性の絵画が印刷されたポスターが貼られていたからだ。
ちなみに、芸術に疎い僕はバルカアという画家を知らない。
他にも照明が付いておらず暗いお土産売り場、無人ではあるが受付カウンターなどからも、ここが美術館である事は容易に想像出来た。
「赤羽先輩は?」
赤羽先輩のお願いは彼女を異界へ連れてくる事だった。しかし、美術館のエントランスをどれだけ探しても、どれだけ呼びかけても赤羽先輩は居なかった。
「最悪だ……。最悪のパターンだ」
そもそも、もし一緒に異界入りするのであれば前回も清水さんが一緒に異界へ来ていたはずじゃないか……。
肌と肌を触れ合っていたら、連れて来れると期待したがダメだったようだ。
落胆しながらも、僕は美術館の探索を進める事にした。
試しに外へと繋がる扉を押してみたが、開かなかった。薄々は感づいていたが展示場内に進むしかこの世界から出る手段は無さそうだ。
前回はキリン人間と接触してから時間が進んだ。今回も同じだとすると、体力があるうちに行動しておいた方が良いだろう。
無人の受付カウンターを通り抜ける事に少し罪悪感だが、僕は展示場へ入る。
白い木目調の床に白塗りの壁。展示場内は照明が抑えられていて、少し薄暗かった。
入ってすぐ『バルカア展』と書かれた立て看板が置いてあり、順路は左へと続いていた。
順路を進んで突き当りの壁に一枚の絵画が展示されている。『貴婦人』というタイトルの上に飾られている絵画には長い背もたれの椅子が描かれていた。
「貴婦人ってタイトルなのに、椅子しか描いてない……これが芸術かぁ」
順路は右へ続き、順路の壁には風車小屋や小麦畑等の風景画ばかり飾られていた。
風景画の廊下を進み突き当り、『色彩』というタイトルの上に二メートル四方はある大きな白紙の絵が飾られていた。
他の作品同様にスポットライトが当てられており展示物として扱われているが、額縁に入れられた白紙が飾られているという不思議な展示物。芸術に関して僕が無知なだけなのか?
白紙が許されるなら僕にだって画家が名乗れそうだ。
呆然と白く大きな絵の前に立ち尽くしていると、周囲から笑い声が聞こえて来た。甲高い女性の笑い声だ。
周囲に人の気配は無く、僕が歩いて来た背後の道か、右手に続く次への順路しか無い。当然どちらの道にも人は居ない。
決して幻聴では無い、はっきりと聞こえる笑い声が不気味だが先を急ぐ。
右手に続く順路には、女性の絵ばかりが飾られていた。
中世を思わせる絵が多く、ドレスを着た婦人や家畜に餌をあげている農婦の絵が印象に残った。中でも傘を差してこちらを見ている貴婦人の絵は大きいおっぱいが特徴的で、ついつい魅入ってしまった。
絵具で描いているそうだが『バルカア』の絵はどれもリアルで、まるで人間の肌そのもののようだ。特におっぱいの張りが凄い。
谷間を凝視していると、またあの笑い声が聞こえた。さっきよりも近く、まるで目の前の女性が笑っている…………笑っている。
確かに凛々しい顔でこちらを見ていたはずの絵の中の女性が見下ろすように、視線を僕に向けて口の端を吊り上げて笑っていた。
「うわぁっ!」
驚いて後ろに飛び退くと、周囲の絵も声を出してゲラゲラと笑い始めた。
絵の中に居る女性達の笑い声から逃げるように、耳を塞いで廊下を走る。
映画とかでよく絵の中の人物が動くシーンがあるが、実際目の当たりにすると相当不気味だ。
耳を塞ぎながら走った先に廊下の突き当りがあり、突き当りには一枚の絵画と二階へと続く階段があった。
絵画のタイトルは『貴方は希望』。絶望しきって座り込む女性がこちらへ手を伸ばしている絵で、僕はその絵に魅入られてしまった。
「……可愛い」
絶望しきった顔の女性は僕と同い年ぐらいの少女であり、あの桜花さんに匹敵するぐらいの美少女だ。白いワンピースを着ている絵の少女は儚げな雰囲気を纏っており、桜花さんとは正反対の印象だが、守ってあげたくなる欲望が掻き立てられる。
こちらに手を伸ばしている彼女に向かって、僕は届くはずの無い手を伸ばしていた。
僕の手が絵に触れる直前、絵から白い手が出てきて僕の手を掴んだ。
「――っな!」
急に絵から飛び出してきた白い手に掴まれた僕は、咄嗟に手を振り払おうとするが想像以上に強い握力で絵の中に引きずり込まれる。
「……変わって……変わって……変わって……変わってよぉ?」
僕を絵の中に引きずり込もうとする手に必死で抗う。
「い、嫌だ!」
左手の平と両足の裏を絵が展示されている壁に付けて、全身の力を使って逆に白い手を絵の外に出すよう引っ張る。
引きずり込もうとした相手に逆に引っ張られ始めた白い右手は、左手を使って僕の右手剥がそうとするが、逆に僕は彼女の左手も掴んだ。
「変われ変われ変われ変われ変われぇ?」
「僕が! 僕が入れ替わったら、君と一緒に居られないじゃないか!」
そして、地面から大根を引き抜くような動きで絵の中から彼女を引っこ抜いた。
気持ちの良い効果音が聞こえてきそうな程、豪快な抜きっぷりで絵の中から彼女が飛び出してくると、上手く着地が出来ず僕の上に乗るような形で倒れ込んだ。
真正面から全身で彼女を受け止めた僕は、彼女の控え目な胸や太ももの感触に歓喜した。
「だ、大丈夫?」
鼻の下を伸ばしながら心配する僕に白いワンピースを着た女性は、僕の上で寝そべったまま目をぱちくりとさせていた。
「あ、あれ……? ここって、絵の外?」
何が起こっているのか状況が出来ていない彼女は、困惑した様子で立ち上がると周囲を見渡した。
今まで彼女が居た絵は白紙になった事を確認すると、彼女は自分の体をぺたぺたと触った後に僕と視線を合わせる。
「貴方が私を出してくれたの?」
「えーっと、そうなるかな?」
下心が故の行動だったから、怒られるかと思ったけど……怒ってない?
恐る恐る言う僕の手を彼女は握りしめて上下に振った。
「ありがとう! ずっと絵の中に居ると思ってたから……凄く、嬉しい!」
涙して喜ぶ彼女に僕は少し恥ずかしくなって、視線を逸らした。
今まで面と向かってお礼を言われた事無かったから、こういう時どう返したら良いのか分からない。
「名前を聞いても良いかな?」
「僕は横嶋陽翔。君の名前は?」
「私は白羽飾(しらはね かざり)。貴方はこの美術館の人?」
「違うけど……」
「そう! それなら、今すぐこんな美術館出ましょう!」
「え! 出られるの?」
前回は一人ぼっちだったから心細かったけど、白羽飾さんが一緒なら心強い。
「普通の美術館でしょ? 順路通り進めば出られるに決まってるじゃない」
白羽飾さんが絵の中から出て来た時点で、普通の美術館では無いと思う……。
「横嶋君はどっちから来たの?」
僕は来た道を指さした。
「それなら階段を上って二階へ行くのが正しい順路みたいね。さぁ、行きましょう」
久しぶりの外が嬉しいのか、軽い足取りで階段を上る白羽飾さんの後ろを追いかける。
階段の下から白羽飾さんのワンピースを覗けそうで、僕は歩調を落としてゆっくりと階段を上る。あと少し、あと少しで白羽飾さんのパンツが見える……はずだった。
しかし、本来パンツがあるはずの領域にパンツは存在しておらず、彼女のキュートな桃が見えた気がした。
もしかして、ノーパン? さっき僕の上に彼女が倒れた時も胸がやたら柔らかかったような気がする……。
白羽飾さんが下着を身に着けているのかどうか、真実は闇の中。
美術館の二階は広く開けた空間で、壁に展示されている絵画を好きな順番で見られる空間になっていた。
空間の壁には当然『バルカア』の作品が等間隔で並べられており、作品の大きさは大小様々だった。
小さな作品は十センチ四方のミニキャンバスに描かれた人の鼻のような絵で、大きな作品になると高さ二メートル、幅が五メートルはある横長の『天地創造』というタイトルの絵で、神のような抽象的な存在が黄色い光で大地を破壊している絵だった。
どの作品も抽象的な作品が多く、一階で見た人物画は一つも無かった。
「横嶋君見て」
そう言って白羽飾さんが指さしたのは『楽園』というタイトルの絵だった。
「……とても素敵な絵。そう思わない?」
歪曲した花瓶に一輪の花が飾ってある窓際の絵。どの部分が楽園なのか、僕には理解が出来なかったが、白羽飾さんには通じるものがあったのだろう。
「僕にはよく分からないよ」
「そっかー。残念」
「…………ぉふ」
にっこりと笑う白羽飾さんの笑顔は、喉の奥からよく分からない声が漏れる程可愛かった。
何事も無く二階の展示場が終わると僕たちは三階へ上る為、三階への階段に足を掛けた時、階段の上から誰かが二階へ降りてくる足音が聞えた。
ヒールのような足音から女性だと分かるが、三階から降りてくるその人物の手に握られた刃物のような物が照明の光に反射した瞬間、僕は白羽飾さんを引っ張り咄嗟に階段の影に身を隠した。
「――――なっ、むぐ」
危なかった。白羽飾さんの一件があったから、もし刃物が見えなかったら普通に声を掛ける所だった……ここが異界だと言う事を完全に失念していた。
意味も分からず暗がりに連れ込まれた白羽飾さんの口を手で塞ぎ、僕は三階から降りて来た人物が僕たちの存在に気付いていない事を心の中で何度も祈った。
カツカツとヒールの音を響かせて二階へ降りて来た赤いドレスを着た女性は、やはり手にカッターナイフを持っていた。
白羽飾さんも状況が理解出来たようで、必死に息を殺したので僕は彼女の口を塞いでいた手を離した。
階段の影に身を隠しながら、二階へやって来た赤いドレスの女性を観察する。
突然、女性は手に持ったカッターナイフを振り上げ展示されている絵に振り下ろした。
カッターナイフで切り刻まれた絵は、まるで生き物のように切り口から血のような赤い液体を吹き出した。そのあまりにショッキングな光景に僕は己の目を疑った。
どうして、絵なのに血が出るんだ……。
何度もカッターナイフを振り下ろされた絵画がズタズタに引き裂かれ、赤く染まった絵画は見る影も無い。
彼女の破壊衝動は一枚の絵画では収まらず、続いて隣の絵もカッターで裂き始める。
裂かれた絵は先程の絵と同様に真っ赤な血を吹き出し、周囲を赤く染めた。
返り血を浴びて、元々赤かったドレスが赤黒く染まっている女が止まることなく絵を裂き続ける行為は、まるで連続殺人犯の犯行現場を盗み見ているような心境になってくる。
女の奇行に絵の中から出て来た白羽飾さんは恐怖のあまり震えていた。
作品を破壊しながら、二階展示場の奥へ進んで行った赤いドレスの女に見つからないよう、僕たちは息を殺しながら三階への階段を上った。
三階はフロア全体が広く明るい二階とは対照的で、狭く薄暗い廊下が一直線に伸びていた。
一寸先は闇という視界の中、僕は白羽飾さんを背後に庇うようにして進んだ。当然、背後の二階から赤いドレスの女が上って来る可能性もあるので、彼女のヒールの音を聞き逃さないよう聞き耳を立てながら進む。
廊下の壁に展示は無く、壁の色も二階までの白ではなく黒色だ。
足元は木目調の床ではなく、赤いカーペットに変わっている。
照明の当たり具合、壁や廊下から三階は特別な階層だと感じた。
息を殺しながら、慎重に進んでどれだけの時間が経っただろうか?
一時間以上歩いている気もするし、一瞬だったような気もする。
曖昧になる時間の感覚の中で歩き続け、やがて狭い廊下が終わり少し開けた空間に出た。
二十帖程度のスペース。奥の壁には五枚の絵画が展示されていた。
淡い光によって妖しい雰囲気を醸し出すそれらの作品は明らかに今まで僕達が見て来た作品とは作風が違った。
左から順番に『嫉妬』『孤独』『才能』『退屈』『死』と名付けられた絵画。
嫉妬という絵は、真っ黒で何も描かれていない。
孤独という絵は、イーゼルに立てかけられたキャンバスの絵が描かれている。絵の中のキャンバスは赤黒くグチャグチャに塗りつぶされていた。
才能という絵は、ギロチンが描かれている。
退屈という絵は、赤羽先輩によく似た女性の自画像が描かれている。絵の中の女性の表情は無表情で、ただじっとこちらを見ている。
死という絵は、漆黒のローブを靡かせた骸骨が鎌を手にこちらを見て嗤っている。まるで死神のような存在が描かれていた。
一体この絵が何を意味しているのか、考えるが一向に分からない。
そもそも、意味なんてあるのだろうか?
絵の意味なんて、製作者にでも聞かない限り一生分からないだろう。
興味深そうに絵を見る白羽飾さんには、何か伝わっているのかも知れない。
白羽さんに絵の意味を聞こうとした時、
「――この絵を見て、君はどう思う?」
いつの間にか僕の左脇に居た人物に声を掛けられた。
声からして女性だと思うのだが、目部下に黒いフードを被っていてどんな人物なのかは分からない。
「すみません。僕は芸術に疎いのでよく分かりません」
「君の素直な感想を聞かせてくれ」
「そうですね……不思議なんですけど、この絵を見てると懐かしい気持ちになります」
「懐かしい? この絵は今まで誰にも見せた事が無い作品だ。適当な事を言っていると殺すぞ」
「絵自体が懐かしい訳じゃなくて、僕の元居た世界を思い出して……」
素直な感想を口にすると、フードの人物は少し沈黙した。
「……元居た世界か。この部屋に希望を連れて来た君は、一体何者だ?」
「何者だと聞かれても、何者でも無いですとしか……」
「答えるつもりが無いのなら、それもいい。この五枚の絵は、私の内なる恐怖を象徴している」
私の内なる恐怖という事は、この人がこの美術館に飾られている絵の作者バルカアさんか。
なんの脈絡も無く横に立っていたし、薄々そんな気はしていた。
「私はね。私の作品に殺されてしまうんじゃないかと怖いのさ」
「画家が絵に殺されるなんて、笑えませんね」
「この顔を見てもそう思うかい?」
そう言って指の無い手でフードをめくると、包帯で隠された顔が現れた。
顔を隠していた包帯も見えない何かに引っ張られるように解けていき、彼女の顔が徐々に顕わになる。
彼女の顔はとても悲惨なものだった。刃物か何かでめった刺しにされたのか、目や口や鼻といった顔のパーツがグチャグチャで、どこがどこなのかギリギリ判別出来るレベルで破壊されていた。
「私の本来の顔は『退屈』に描かれているものだが、『嫉妬』にやられてこの有様だ。指は『才能』に描かれているギロチンに切断された。今の私はもう絵は描けない。きっともうすぐ『死』に描いた死神に殺されるのだろう。私は自らが描いた作品達が心の底から恨めしい。自ら描いた死が怖い、気が狂ってしまった」
惨たらしく顔を引き裂かれ、上手に泣けない彼女が流す涙を僕は見るに堪えなかった。
「自分の作品に恐怖して、絶望するなら。自分の作品に希望を持って、救われても良いと思います!」
僕達のやり取りを見ていた白羽飾さんが声を上げた。
「私の作品に希望を持てと言われても、この手で一体どうやって希望に溢れた作品を描けと言うのだ!」
「私が居ます! 貴方が希望と名付けてくれた私がここに居ます!」
そう言って白羽飾さんは『孤独』のキャンバスとイーゼルしか無い絵の中へ入って行った。
すると、絵の中で何かを漁り始めた白羽さんは赤黒く塗りつぶされたキャンバスを退かして、真っ白のキャンバスをイーゼルに乗せると何やら絵を描き始めた。
白羽飾さんが入ってから『孤独』という絵のタイトルが『仲間』に代わっていた。
その時、二階から上って来る階段の方からヒールの音が聞こえて来た。
奴だ。二階で絵を切り刻んで居たあの赤いドレスの女が三階に戻って来た。
「嫉妬が帰って来る。奴は嫉妬の対象になる物を見つけるとズタズタに切り裂いてくる。『仲間』の絵が見つかったら終わりだ……」
階段からここまで一本道、当然隠れる場所など無いし白羽飾さんを置いて逃げる事なんて出来ない。僕は学校指定のブレザーを脱ぐとそれを左腕に巻き付けた。
昔、学校の防犯講習みたいなやつで、刃物を持った相手には衣類を巻いて対抗出来るって聞いた事がある気がする! というか、他にいい方法があるなら誰か教えて欲しい!
今から相手にするのは、あのキリン人間に匹敵する化け物だろう。
本当は逃げ出したいけど今、僕の後ろには守らないといけない人が居る……。
両手で自らの頬を叩いて恐怖を吹き飛ばし、赤いドレスの女が居る廊下へ走った。
声で僕の存在に気が付いた赤いドレスの女は奇声を上げて、手に持ったカッターナイフを振り上げた。
赤いドレスの女は目が真っ赤な宝石のようになっていて、肌は浅黒く口には鋭い釘のような歯が数本生えている。明らかに人間では無かった。
赤いドレスの女は腕力も人間離れしており、ブレザーのおかげで切り傷は防げたものの、カッターの攻撃を受けた衝撃で左腕に激痛が走った。
骨が折れた訳では無さそうだが、ヒビは入っているかもしれない……。
続けざまに下から斜め上に振り上げられるカッター攻撃を寸でのところで躱したが、攻撃の手を止める事をしない赤いドレスの女が繰り出す攻撃に右の頬が切られ、熱い痛みと共に血が流れる。
そんなに深くない切り傷のはずだが、普段傷に慣れていない僕は半泣きで痛みを誤魔化す為に声を張り上げる。
「痛ってぇええなぁああああああ?」
頬に走る熱い痛みに堪えながら、赤いドレスの女がカッターを持っている右腕に飛び掛かると、何とかカッターを奪う為に押し倒し膝で女の体を床へ押し付ける。
僕にカッターを奪われまいとする女も必死で、釘のような歯で僕の右足に?みついた。
「うわぁああああああああ?」
太ももに針が刺された激痛に泣き叫びながら、必死に抗う赤いドレスの女からカッターを奪う為に右腕を押さえつける。
しかし、想像以上に強い力で振りほどかれてしまった僕の心臓を目掛けて、赤いドレスの女はカッターを突き出した。
「しまっ」
女の突き出したカッターは僕の心臓を貫いた。
「キキ、キキキキキ!」
「――ごほっ?」
口から血が吹き出し、体の体温が急速に低下していく感覚。それが死だと気が付いた時、僕の意識は闇に飲まれた――。
目を覚ますと、僕は薄暗い廊下の中に立ち尽くしていた。
足元のカーペットの上で、赤いドレスの女が横たわっている。
「うわぁっ!」
咄嗟に驚いた理由は足元に死体が落ちていた事もあるが、何よりも赤い血でカーペットを汚す彼女の胸に大穴を空いていた事に対してだ。
そのあまりにグロテスクな惨状に僕は目を背けた。
「一体、何が?」
廊下の中で呆然としている僕に、一枚の絵を持った白羽飾さんが誇らしげにやって来た。
「横嶋君? だよね?」
「あ、はい。横嶋です」
僕の存在感が薄いせいか、僕の名前が半信半疑になったのか疑問形で僕を呼ぶ白羽飾さん。
「そうだと思ったー! 横嶋君、これを見て!」
白羽飾さんが持っているキャンバスには、祈るように両手を合わせる先ほどの赤いドレスの女が描かれていた。
気が付くと、先ほどまでカーペットの上で横たわっていた赤いドレスの女は、血痕だけ残し跡形も無くなっていた。
きっと、何かを見間違えたんだろう。
「元々『嫉妬』だった絵に私が描き足しました! タイトルは『憧れ』だよ」
どうやら、白羽飾さんが絵を書き換えてくれたおかげで、助かったらしい。
先程の五枚の恐怖の絵が飾られていた空間に戻ると、『嫉妬』『孤独』『才能』『退屈』『死』というタイトルだった絵が『憧れ』『仲間』『努力』『没頭』『生』に代わっていた。
憧れという絵は、赤いドレスを着た女性が天に祈っている。
仲間という絵は、真っ白なキャンバスが立てかけられたイーゼルの隣で画材を持った白羽飾さんがピースしている。
努力という絵は、綺麗な女性の手が描かれている。
没頭という絵は、『退屈』と同じく赤羽先輩によく似た女性の自画像が描かれているが、白い羽の髪飾りを付けていて、表情も綻んでいる。
僕はこの絵が一番好きだと感じた。
『生』という絵は、鎌を失くした死神の絵が描かれている。
「素敵な絵ばかりですね」
白羽飾さんの絵はお世辞にも上手とは言えず、どの絵もバルカアさん絵に上から落書きしたようにしか見えなかったが、僕は白羽飾さんが描き足した絵が素敵だと思う。
「そうだろう。私もこの絵は好きだ」
少し誇らしげにそういうバルカアさんの顔の傷はそのままだったが、不思議と美しく見えた。
「これからは、私がバルカア様の代わりに絵を描いていこうと思います」
「君は私の希望だからね。よろしく頼むよ」
「はい! 任せてください!」
二人のやり取りを見ていると、なんだか僕まで幸せな気持ちになってくる。
正直まだ左腕や右頬の傷が痛むけど、そんな痛みを忘れてしまえるような気分だ。
「まだ、解放の黄昏まで時間はある。早速だが、一つ頼まれてくれるかい?」
「お任せください!」
「私達の為に頑張ってくれた、彼の絵を描いて欲しいんだ。彼が彼の本来居るべき世界に戻っても、私達の事を忘れない為にね」
「え! 横嶋君帰っちゃうの? ずっとここに居れば良いのに!」
白羽飾さんのような美少女に誘われてしまうと、ついつい残りたくなってしまうが……僕には赤羽先輩との非常に大切な約束がある。
「…………ごめん。僕は、帰らないといけない」
苦渋の決断だが、仕方ない。
「ううん、そうだよね」
それ以上何も言わず、彼女は僕の似顔絵を描き始めた。
どれだけの時間が経ったのだろうか。美少女の顔を見ていると時間はあっという間に過ぎてしまい、バルカアさんが解放の黄昏を告げた。
「名残惜しいがお別れだ」
そう言って彼女が手渡したのは、白羽飾さんが書いてくれた僕の似顔絵……?
僕の似顔絵と言って渡されたキャンバスには、目、鼻、口といった顔のパーツが無く、顎下が大きな口になっている真っ白の異形、上手く言葉では形容出来ない化け物が描かれていた。
「えーっと、これ……僕ですか?」
「何を言っている? 君そのものではないか?」
「そうだよ! 横嶋君は私の絵が下手って言いたいの?」
「いや、下手とか、そう言う次元の違いでは無いと言うか……」
これを似顔絵と言って渡されるのは複雑だが、せっかく描いてもらったのを受け取らない訳にはいかない。
「ううん。ありがとうございます! 大事にしますね!」
そう言って僕は彼女達に手を振ると、心の中で元の世界へ戻りたいと強く念じた。
が、一つ大事な事を確認し忘れていた事に気が付いた。
そう、白羽飾さんがパンツを履いているのか、聞き忘れていたのだ。
白羽飾さんがパンツを履いていたのかどうか気になっている僕に向かって、手を振り返してくれる彼女達が映る視界が白く染まり、意識が闇の中へと沈んでいくのを感じた。
「君の世界の私によろしく伝えてくれ」
そう言って、少し寂しそうな顔をするバルカアさんを僕は忘れる事が出来ないだろう。
眩い光が止み、ゆっくりと瞼を開くとぼやけた視界に映ったのは一枚の絵だった。
その絵は異界で白羽飾さんが描いてくれた僕の似顔絵。
その絵はイーゼルに立てかけられており、まるで最初からそこにあったようだ。
手に持った制服のブレザーがズタズタに引き裂かれている事に僕は絶望した。
周囲を見渡すと、僕は美術準備室の中に居た。
なんとか異界から帰還出来たようだ。思わず安堵のため息を吐いた。
窓から差し込む夕日に照らされながら、絵を描いている赤羽先輩が僕の存在に気が付くと筆を置いた。
「おかえり、随分と激しい世界だったようだな」
薄暗くてはっきりと見えないが、口調から察するに赤羽先輩は少し不機嫌そうだった。
「あの、もしかして置いて行かれて怒ってます?」
「はぁ? 別に? 全然! 怒ってないが? 突然姿を消した君に続いて、私も異界へ行けるのでは無いかと期待して、待ち続けていたとか、そんな事全然無いが?」
あかん、先輩めっちゃ怒ってる。
なんとか先輩のご機嫌を取ろうと思考を巡らせた僕は、白羽飾さんに描いてもらった絵を先輩に見せる事にした。
「先輩、見て下さいよ。この絵」
赤羽先輩は腕を組みながら、僕の似顔絵を後ろから覗き込む。
「…………素晴らしい」
絵を見た途端、目を輝かせる赤羽先輩。
完全に魂が絵に行ってしまっていて、僕の話など耳に入らないだろう。
僕が異界に行っている間、どれぐらいの時間が経ったのだろう?
美術準備室には時計が無く、スマホで時間を確認すると午後の五時。
背筋に電流のような悪寒が走る。
ぶつぶつと独り言を言っている赤羽先輩を横目に、僕は急いでバイト先に遅刻する旨の電話を掛けた。
僕の電話を取った店長は、二日連続で無断遅刻をした僕に対して「もう来なくて良いよ」と涙が出る言葉を掛けてくれた。
「この絵は異界から持ち帰った物か?」
何かを閃いたような口調で言う赤羽先輩だったが、新しいバイト先を探さないといけない僕はそれどころじゃ無かった。
「あー、はい。そうですね」
「詳しく聞かせてくれないか!」
「あー、はい。そうですね」
「一体どうした?」
「たった今バイトをクビになって、学費家賃食費その他諸々が支払えなくなっただけです」
「なんだ、そんな事か」
「そんな事? 僕の生活が破綻した事がそんな事!」
きっと家族が居る赤羽先輩には、労働が前提で成り立っているこの世界でただ生きるだけが、どれだけ難しいのか分からないんだろう。
学生アルバイターのバイト先での扱いと言ったら……。
「自慢じゃ無いが、私の家は金持ちでな。父は作曲家であり母は女優をしている」
え……自慢じゃ……ない?
「君は金が欲しい。私は君の経験が欲しい。交換出来るとは思わないかい?」
薄暗い美術準備室の中、怪しい笑みを浮かべる赤羽先輩に僕は唾を?み込んだ。
「君が異界で体験した話。一つの世界につき五万円でどうだ?」
赤羽先輩が交渉上手な理由、それは相手の欲しい物を熟知しているからだ。
彼女の提案に僕は腰が折れそうな程頭を下げた。
「よろしくお願いします!」
「君のように素直な子は嫌いじゃない。この後の予定が無くなったのなら、早速聞かせてくれるかい?」
そう言って、椅子に腰かけると長く美しい足を組む赤羽先輩。
そんな先輩のパンツが見える事を期待して、僕も向き合うようにして語り始めた。
最初に話し始めたのは、ついさっき体験したとある画家の話――。
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