第一章 「異界」
僕はモテない。
自分の見た目を客観的に評価するのであれば、中の下が妥当だろう。
人は見た目じゃないと言う意見も多いが、中身に関しても僕はモテない要素が多い。
頭は悪く勉強は下の下、人見知りな性格でクラスどころか学校内に友達が一人も居ないコミュ障ボッチ。授業で当てられなければ、学校で一言も発さずに終わる日だってある。
体格も中肉中背、どちらかと言うと男にしては少し華奢なぐらいだろうか。
外見と内面どの要素を取っても特徴が無いのが特徴だった。
僕が如何に魅力の無い人間か力説したが、付け加えると僕はむっつりスケベだ。
無いものねだりとはよく聞く言葉だが、まさに非モテの僕は女性に飢えていた。
大多数の人間がモテたいと思うはずだ。自分の事を好きになって欲しいし、自身に凄い所なんて無くても、ちやほやされたい。
非モテなる者達は皆一緒だと思うが、モテたいからと言ってモテる為の努力はしない。
何故そんな事が断言出来るかと言うと、ちゃんとモテる為の努力が出来る人は、モテるから!
身だしなみに気を使ったり、異性に優しくしたり、勉強やスポーツなど何か得意な事があったりして、モテるから!
モテない人というのは生まれ持った魅力が乏しいというのも理由の一つかもしれないが、それを補おうとする努力が足りないのだと思う。完全に僕の持論なので反対意見も多いと思うが、これが僕の出した答えだった。
つまり、そんな持論を高々と掲げているクセに僕はモテる努力をしない『救いようの無い奴』な訳だが……高校生になれば、特になんの努力もせずに僕の知らない僕の魅力を理解してくれる美少女が告白してくれる。なんの根拠も無いが、きっとそうなんだろうと考えていた。
そして、この持て余している性欲を発散出来るはずだと、ただその一心で僕は少しでも可愛い女の子が多そうな高校へ進学する為に死に物狂いで勉強した。
結果、女子比率の高い県立の商業高校に入学を果たしたが……モテないまま一年近くの時が流れた。
僕の学生生活は虚無そのものだった。
彼女どころか友達もおらず、アパートの家賃や生活費を維持する為にバイトに明け暮れる毎日だった。
まるで夢破れたフリーターのような、うだつの上がらない日々を過ごしていた。
ある日の黄昏に魔女を名乗る怪しい美少女に出会うまでは――。
時は夕暮れ。歩道橋の上から眺める遠く空は日が沈み薄い青からオレンジへの色鮮やかなグラデーションになっていて、夕日を背にしたビルやマンションがシルエットと化している。
冬の季節という事もあり空気が澄み切っていて頭上の空には幾つかの星が既に輝いており、夜の訪れを告げている。
天気の良い日には毎日見られるが、日が沈み始めてから夜になるまでの僅かな時間しか見られない貴重な景色だ。
一般的に黄昏と呼ばれるこの時間が、僕は好きだ。
久しぶりにバイトも無く、綺麗な景色の下で気持ちよく下校していると僕が住んでいるアパートの前に見慣れない人が立っていた。
銀髪に黄金の瞳という、どの国籍か分からない。その人形のように整った容姿は人間離れした美しさで、僕と同じ人間かさえも疑わしい彼女は僕を見ると微笑んだ。
この真冬にも関わらず黒いドレスを着ている彼女は中学生ぐらいだろうか? 外見の幼さも相まって人形のように綺麗だったが、少し人間離れした不気味さも兼ね備えていた。
彼女の美しさに見惚れている僕を可笑しそうに笑う彼女は口を開いた。
「魔法はいりませんか?」
確かにそう言った。
一体彼女が何者でどういうリアクションを取るのが正解なのか、沈黙し考えていると彼女は目の前に詰め寄って来て、もう一度言った。
「欲しいでしょう? 魔法」
もう僕の心臓は爆発寸前だった。彼女が心臓を爆破する魔法を使ったのではなく、美少女が僕に顔を近づけて来たという現実に爆発しそうな程、鼓動が高鳴ったのだ。
女性に対しての免疫力が皆無の童貞ボッチには刺激が強すぎる距離だ。
「あ、えっと、欲しい……です?」
目を逸らして照れ隠ししながら、そう言う僕に彼女はにっこりと笑うと、
「良かったです」
両手を合わせて喜んだ。
彼女が笑うとなんだか僕も嬉しい気持ちになって、僕は彼女を「寒くないですか?」などと言って家に誘ってしまった。
正直、現実離れした出来事を前に浮かれていた。やっと僕の人生が始まったのだと確信していた、舞い上がっていた。
「あ、ごめん! 急に家来ないとか、気持ち悪いよね!」
下心とかは無かったが、初対面の女の子からしたら相当気持ち悪い台詞を言っている事に気が付いた僕は必死に誤解を解こうとした。
訂正、正直あります……下心。
意味が分からない状況だとしても、この千載一遇のチャンスを逃してなるものかと目を光らせる僕はまさに狩人。
「お邪魔しても、良いのですか?」
彼女の返答は僕の予想とは真逆なもので、あっさりと僕の家に上がり込んだ。
表情では冷静を取り繕い、内心ではお祭り騒ぎになっていた。
緊張しながら震える手でなかなか開かないドアの鍵を開けて、彼女を家へと上げる。
家と言っても『ハイツ山田』というアパートの一階、102号室だ。
「ど、どうぞ」
「お邪魔します」
黒いパンプスを脱いで家へ上がる彼女を見て、初めて人を招く事に動揺を隠せなくなった僕は慌てて暖房を付けて、絨毯の上に座るよう指示してしまった。
挙動不審な僕を可笑しそうに笑う彼女は、どこに座っても良いのに僕に言われた通りの場所に座る。
何故だろう、いつもの僕の部屋なのに凄く良い匂いがする。これが、美少女の空間浄化能力。
「親切な人。お招き頂いてありがとうございます」
「い、いや。こんな部屋で申し訳ないです」
「貴方……もしかしてミニマリストですか?」
ちゃぶ台しか置いていない白壁の部屋を見た彼女の率直な感想だった。
「敷布団はクローゼットの中にあるし、違うよ」
「つまり、敷布団とちゃぶ台しか無いのですね。一体どう違うのでしょうか……?」
戸惑う様子の彼女に僕まで戸惑ってしまう。え、僕ってミニマリストだったの……?
「どうして、あそこに立ってたの?」
今度は僕が率直な疑問を口にする。
「私は魔女。貴方を待っていたのです」
「僕を……? どこかで会ったっけ?」
「いえ、お会いするのは初めてです。私は貴方の願いを叶えに来ました」
「は、はぁ……」
電波な事を言う魔女さん。自宅という現実感の強い空間によって、思考が冷静になる。
もしかして、結構ヤバい人を家に上げてしまったんじゃないか?
「私は魔法を使って貴方の願いを叶えます。どんな願いでも大丈夫です」
「どんな願いでも?」
「ええ、どんな願いでも」
どんな願いでもかー。
「じゃあ、僕の専属メイドさんになって下さい」
「嫌です」
「どんな願いでも?」
「訂正します。私に危害が及ばない範囲でどんな願いでも叶えます」
そうか。僕のメイドさんになる事は危害なのか。
「じゃあ、モテモテにして……とかは?」
「ゴミみたいな願いですね。私以外の全人類から愛されるようにしましょう」
「あ、異性の可愛い子限定でお願いします」
抜かりない僕は同性愛者やゲテモノから好かれるディストピアをちゃっかり回避する。
「分かりました。では、異性の可愛い子からのみ貴方がモテモテになる魔法を掛けましょう」
「お願いしまーす!」
「その変わり、魔法の代償を支払って頂きます」
「代償?」
首を傾げる僕に魔女さんは人差し指を立てる。
「まず一つ目に、貴方が死ぬ時には貴方の魂は私が頂きます」
「つまり、死んでもずっと一緒だよ? って事?」
「全然違います」
うーん、分からん。まぁ死んだ後の事なんて今から悩んでもしょうがないか。
「分かりました。その条件オッケーです」
「二つ目に、願いを叶えた後は異界へ行って頂きます」
異界? 最近流行りの異世界転生ってやつか? モテモテにした上に異世界転生まで付けてくれるなんて、正に至れり尽くせりじゃないか! なんて良い人なんだ!
「全然オッケーです! むしろウェルカムですよ!」
「あの、本当に分かっていますか?」
「分かってますって! 魔王を倒したりドラゴンを退治すれば良いんだよね!」
「流石に、そこまで過酷では無いのですが……」
もしかして、最近流行りのスローライフ系の異世界か? 最高じゃないか。
異世界の美少女達とあんな事やこんな事をやりまくるスローライフとか、男の夢だろ。
「全然オッケーです!」
ぐっと親指を立てる僕に魔女さんはアホな子を見るような哀れみの目を向けたが、理由がよく分からない。
「では、魔法を掛けますね」
「最後に聞かせてください。どうして僕なんですか?」
僕は今まで自分の人生の事を萌えないゴミだと思っていたが、それは人生が辛いものだと思っていたからだ。それが急に現れた魔女さんによって、こんな嬉しい急展開を迎えて良いのだろうか?
話が出来過ぎていて、急に怖気づいてしまったが故の質問だった。
僕の質問に対して、彼女は何の迷いも無く言った。
「貴方がこの世界から孤立しているからです。貴方が居なくなってもこの世界に与える影響はかなり少ないでしょう。そんな相手で無いと異界に送れませんから」
人に言っちゃいけない事をペラペラと言い始める魔女さんの言葉は鋭いナイフよりも凶悪な凶器に感じた。というか今の言葉、即死魔法の類だよね?
「他に質問はありませんか?」
「大丈夫です! 魔法、お願いしまーす!」
「では、魔法を掛けるので目と瞑って下さい」
言われた通り目を瞑ると、魔女さんは小声で何やら呪文のような言葉を唱え始める。
まさか、ただの電波さんでは無くて本物なんだろうか?
なんて考えながら少し目を開けると、銀髪の美少女さんは邪悪に満ちた笑みを浮かべ、黄金の眼で俺の心臓部辺りに手を伸ばしていた。
あ、これ絶対許しちゃダメなやつだ……。
そう思ったのも束の間。
「ヤミクエルバイグェルトリルートゲニスウェシタ」
呪文の最後の一文だろうか? 聞き慣れない言語を大声で魔女さんが唱えると、僕の体の中心部が赤く輝き始めた。
僕の体の発光は徐々に収まり、完全に無くなると魔女さんは僕の心臓に向けていた右手を下げた。
「魔法は掛かりました。それでは、残り短い余生を有意義に過ごして下さい」
やることはやったと言わんばかりに立ち上がる魔女さんは、物音一つ立てずに僕の部屋から出て行った。
……一体、彼女は何者だったのだろう?
魔法なんてにわかには信じ難いけど、もし本当だったら明日僕は美少女にモテモテになって、更に異世界転生までするのかー。
よく考えると、異世界に行くって事はこの世界のお金はもう要らなくなるのか……。
今夜は奮発して、近所にあるラーメン屋でトッピング全部乗せを頼むことにした。
翌朝、二月中旬というのに早朝はまだ寒く極寒と言ってもいい。その寒さから布団を出たくない気持ちに身も心も支配される。
いつも通りの朝だったら、寒さと眠気に負けて二度寝を決め込むところだが今日は違う。
今日は昨日の電波さんが掛けてくれた魔法を試すのだ。
登校すれば学校中の美少女からモテモテになり、ヤリまくり生活が待っていると想像するだけで、僕は布団から飛び起きて着替え始めていた。
「やっぱり、夢じゃなかった」
パジャマを脱いで自分の上半身をまじまじと見つめる。
決して己の肉体美に見惚れている訳では無く、昨晩風呂に入る時に気が付いたのだが、自分の体の中心辺りに紋章のようなものが色濃く浮かび上がっていたのだ。
事情の知らない人から見たら、攻め過ぎたタトゥーにしか見えない。
僕は魔女さんのせいで二度と温泉に入れない体になってしまった。
今度彼女に会ったら、責任を取らせるとしよう。
そんな事を考えながら着替え終わった僕は敷布団を畳んでクローゼットへ押し込む。その後寝ぐせを付けたままの頭で登校した。
いつも通りの朝、いつも通りの通学路だが、今日の僕はいつも通りじゃない。
今日の僕はモテるのだから。
もう一度言おう、今日の僕はモテる。しかも美少女からモテる魔法が掛かっている。
童の者も遂に卒業してしまうのか。
父さん、母さん。天国から見ているかい? 僕は遂に卒業するよ!
徒歩十分の通学路では美少女と会う機会が無く、まだ魔法の実感が無いが僕と同じクラスには学校一の美少女と名高い清水桜花(しみず おうか)さんが在籍している。
清水桜花さんならば、僕が付け加えた異性の可愛い子という条件に必ず当てはまる。
あの誰もが憧れる清水桜花さんがこの僕に告白してくるのか……。そして、今まで灰色だった僕の高校生活が薔薇色に変わるのか。はたまたピンク色に変わるのか。色々と妄想すると思わず口元が緩んでしまう。
僕の通う県立大山田(おおやまだ)商業高校は、今年で創立五十年になる歴史ある高校で、校舎自体は老朽化が進んだ関係で耐震の為の補強工事をしたが、机や椅子等の備品含めて経年劣化の跡を感じる。端的に言うと古くて汚い。
所々の錆が目立つ下駄箱に靴を入れて上履きに履き替えると、あれこれ妄想している僕はニヤけ顔のまま一年二組の教室に入る。内心しまった、と思うが僕の顔なんて誰も見ていなかったので問題無かった。
誰にも視線を向けられる事なく、窓側の一番後ろの席に座る。
教室内ではクラスメイト達が仲の良い者同士で幾つかのグループに集まって談笑している。
中でも一際目立っているグループはやはり清水桜花さんの居るカースト最上位のグループだ。
容姿端麗、成績優秀でクラスの中心人物である彼女はまさに僕と正反対の位置に居る。
正統派黒髪ロングに誰もがその視線を釘付けにしてしまうような美乳、スタイルが整っているのはもちろん、同じ人間とは思えない程白く美しい肌。
同じ制服を着ているはずの他の女子生徒とは一線を画す彼女の美しさは、美人は着る服など選ばない事を教えてくれる。
僕は彼女のおっぱいが揉めるのなら、死んでも良いとすら思っている。
内面は誰にでも気さくに話しかけるコミュ力の神。もう存在そのものが上位だ。
そんな彼女を教室の隅から眺める僕。客観的に見ても昨晩魔女さんに言われた『世界から孤立している存在』というのは、納得せざるを得ない。
今まではこの光景が日常だった。しかし、今日をきっかけに日常は覆る。
なんたって、僕には魔法があるからね。
ただ、いくら魔法があるからって突然彼女が僕に告白してくる事は無く、チャイムが鳴り担任が教室に入って来て朝のホームルームが始まった。
それから日常は続き、あっという間に昼休みになった。
美少女からモテモテになるどころか、まだ誰とも会話していませんけど?
隣の席に座っている女の子に対して、僕に話しかけるきっかけをあげようと思ってわざと消しゴムを落としたのに無視されたんですけど?
誰とも会話せずに昼休みを迎えた僕は、魔法が本当に効いているのか疑い始めていた。いや、体に変なタトゥー刻まれただけで、魔女さんに騙されたと確信していた。
やっぱり、そんな都合の良い展開あるわけ無いよな。なにが魔法だ。
期待して本当にバカじゃないか。
きっと魔女さんも今頃どこかで笑ってるに違いない。こんな惨めな人間を騙して、嘲笑って何が楽しいんだ……。
期待が大きかった分、比例して落胆も大きいもので僕は気分を入れ替える為に今日は屋上で昼ご飯を食べる事にした。
ちなみに、僕の通う高校には一階に購買部がある。
僕は購買部で格安で買えるハムチーズサンドがお気に入りだ。
ハムチーズサンド百五十円、貧乏学生に優しい価格設定に感謝しながら僕は屋上への階段を上る。
「――横嶋君」
「うぉあ! な、なに? 誰?」
普段学校で話し掛けられる事が無い僕はかなりオーバーなリアクションを取ってしまい、危うく階段から転げ落ちそうになる。
「だ、大丈夫?」
後ろを振り向くと、そこには驚いた僕に対して驚いた清水桜花さんが居た。
「え、え、あの、し、清水桜花さん……?」
「なんでフルネーム? 横嶋君に聞きたいんだけど、この字って横嶋君の字?」
状況が全く呑み込めてない僕に清水桜花さんから不機嫌そうに突き出されたのは、ピンク色の便箋だった。その便箋には少し汚い字でこう書かれていた。
『好きです! 付き合ってください! 今日の放課後、保健室のベッドで準備して待ってます。エッチ大好きマンより』
なんだ? この小学生がクラスの女子に悪戯で出した手紙を更に低次元化した内容は。
どうして清水桜花さんはこの手紙の差出人が僕だと思ったのだろう……。
確かに、僕はエッチ大好きマンだけど、こんな手紙書いた覚え無いぞ。
一つ付け加えるとするなら、ちゃんとおっぱいを揉ませてくださいと書いておかないと、何を準備しているのか彼女に伝わらないと思うのだが。
「その反応、やっぱり横嶋君が書いた手紙じゃないよね。クラスの男子全員に聞き回ってるんだけど、全員知らんフリするの」
レスポンスが遅いというのはコミュ障の共通事項であり、僕もその例に漏れない。清水桜花さんの言葉に対してどう返すのが正解なのか考えていると、
「気分を悪くさせてごめんなさい」
そう言って手を振ると教室へと踵を返してしまった。
魔法なんて無くても良い、今踏み出さないと僕はこの先の人生で後悔を引きずったまま生きる事になる。
そう直感した時、心臓が熱く高鳴り一瞬周囲の時間が止まったような錯覚を覚えた。
「……なんだ、今の?」
結局、彼女を呼び止められなかった僕は躓いてみっともなく転んだ。
転んだ拍子に購買で買ったハムチーズサンドを手の平で潰してしまい、もうなんだか泣きたくなってきた。
でも、この惨めさが僕の日常って感じて少しほっとした。
身の程を超えた願いは身を亡ぼすって言うしね。潰れたハムチーズサンドを持って屋上への階段に足を掛けたその時、
「――待って、横嶋君!」
再び背後から僕を呼び止める清水桜花さんの幻聴が聞こえた気がして振り返ると、声は幻聴じゃなくて本当に清水桜花さんが僕を呼び止めていた。
振り返って目が合う清水桜花さんの顔は心なしか紅潮しているように見えた。
「……えっと、何かな?」
呼び止めた後、何も言わない清水桜花さん…………僕から何か言うべきなのか?
「もし良かったら、なんだけど……お昼一緒に食べない?」
オヒルイッショニタベナイ? そんな日本語あったっけ?
彼女のようなスクールカーストの頂点に君臨する存在が僕を昼食に誘うなんてあり得ない。きっと別の意味を持つ日本語に違いないが、一体どういう意味かな?
言葉の意味について考えていると、痺れを切らした清水桜花さんが僕の手を取って階段を上った。
「横嶋君はいつも屋上だよね! 行こ!」
女子と初めて手を繋いだ感動で僕は涙を流した。
女の子の手って、こんなに柔らかかったのか……。あと、清水桜花さんお花みたいな凄く良い匂いがする。今後こんな出来事二度とないと思うから、いっぱい嗅いでおこう。
清水桜花さんに手を引かれるがまま、屋上に入ると数人の生徒達が一斉にこちらを見た。
普段、僕が一人で入って来ても誰一人見向きもしないというのに、それだけ清水桜花さんが持つ人の視線を引き付ける力が強いという事だろう。
基本的に複数人のグループで動いている清水桜花さんが、僕と二人で行動しているという状況が非常に珍しく、より注目を集めているのかもしれない。
地味で冴えない男子が学校一の美少女と手を繋いでいる。その光景に集まる嫉妬の視線がこんなに気持ちいいとは思わなかった。
屋上の隅でボッチ飯を決め込んでいる陰キャたる僕。今まで見下していた僕に周囲が嫉妬する時が来るなんて、誰が想像しただろうか。
清水桜花さんに手を引かれるがまま、屋上の隅に座らされた僕は隣に座ってお弁当を広げる彼女を前にしても、この状況が夢では無いかと思えてならなかった。
階段で彼女に声を掛けられた時に転び、頭部を強打。打ちどころが悪く、気を失ってしまった僕が見ている夢だと言われた方が、納得できる。
きっと魔女さんの掛けた魔法は本物だったんだ……騙されたとか言ってごめんなさい。
潰れたハムチーズサンドの封を開ける僕をまじまじと見つめる清水桜花さん。
彼女の瞳は吸い込まれそうな程に大きく綺麗で、思わず僕は硬直してしまった。
「あ、ごめんなさい! こんなに見られたら食べにくいよね。でも、そのサンドウィッチ潰れてるし……もしかして横嶋君って誰かに虐められてる?」
間抜けな僕が自分で潰したサンドウィッチを見て本気で心配してくれる清水桜花さんに少し心が痛くなった。
「こ、これは……自分でやったから」
彼女の綺麗過ぎる目を見ながら返事をする事など僕には難易度が高い。目を伏せながら小声で言う僕に彼女は笑った。
「そうなんだ! 面白い食べ方だね!」
基本的に僕が食べ物を潰してから食べるという意味の分からない勘違いをした彼女は、思いのほかアホなのかもしれない。可愛いからそのアホさも愛おしいんだけどね。
「……良かった」
ぼそりと呟く彼女、一体何が良かったのだろうと僕は考える。
「ほら、横嶋君っていつも一人で居るから、実は少し心配してたんだ。誰かに虐められてるんじゃないかな、寂しい思いしてるんじゃないかなって」
「……虐められては無いよ。さ、寂しい思いはしてるけどね」
僕渾身のジョークに清水桜花さんは優しい目をした。
そんな彼女の哀れみとも取れる視線は、不思議と嫌な気持ちはしない。
当然だ、こんな美少女が僕の事を見てくれているんだ。喜ぶ事はあっても嘆く事じゃない。
サンドウィッチを食べ終わった僕に清水桜花さんは首を傾げる。
「男の子なのにそれだけで足りるの?」
「僕、小食なんだ」
実はお金が無くて最低限の食費に切り詰めてるんです。なんて恥ずかしい事は言えなかった僕は見栄を張った。
「小食とか羨ましい! 私なんてすぐお腹減っちゃうし、お弁当も自分で作ってるから好きなものばっかり入れちゃうし……」
お弁当箱の中には、ハンバーグや揚げ物ばかりで基本的に茶色のおかずだった。
僕は思わず喉を鳴らした。
彼女のお弁当を見たからでは無く、お弁当の中身を見せる為に体を寄せて来た彼女の胸を見たからだ。
大きいとは思っていたが、至近距離で見るそれは富士山だった。まさに日本を象徴する絶景であった。
その頂きに手を伸ばしたいと思うのは、男として当然では無いだろうか?
「あ、ダメ!」
しまった、胸を凝視していた事がバレた!
「私のお弁当はあげないからね」
そう言って弁当を隠すように離す清水桜花さん。
なんだ、弁当か。危うく僕が熟成されたむっつりスケベである事がバレたかと思った。
ほっと胸を撫でおろす僕を見て清水桜花さんは何を思ったのか、おかずのハンバーグを差し出してきた。
「でも、一個だけならあげてもいいよ」
この人、さっきからずっと一人で喋ってるな……。
小さなハンバーグを箸で摘まむと、それを僕の顔に近づけてくる。
待てよ、これは俗にいうあーんでは?
まさか、夢にまで見た美少女からのあーんが、こんな唐突に叶うなんて!
ハンバーグをあーんして貰った感想は、リア充って感じがして幸せでした。
「どう? 冷凍食品だけど美味しいでしょ!」
うーん、流石最近の冷凍食品は進化してる。普通に美味い。
「うん、美味しい」
「もし良かったらだけど、明日は横嶋君の分もお弁当作って来てあげよっか?」
「え?」
「あ、ちがっ! 別に変な意味じゃなくてね! 今日のお詫びと言うか、なんと言うか」
顔を真っ赤にして俯く清水桜花さんに萌えた。
なんだこの美少女、少しあざと過ぎやしないか?
可愛い過ぎなんだが、こんなに幸せで良いの? 後でトンデモない仕打ちを受けるんじゃないの?
「お詫びなんて良いよ。気にしないで」
清水桜花さんの申し出がなんだか怖くなって、丁重にお断りする。
ここでありがとうと言えたら、僕は長年陰キャボッチをやってない。
「…………ごめん。さっきの嘘」
「え?」
「本当は変な意味なの! 私が横嶋君の事が好きだから! ずっとずっと好きだったから! その、明日も一緒にお昼ご飯食べたいって言ったら……迷惑ですか?」
上目遣いで彼女が僕を見つめてきた瞬間、視界が真っ白な光に包まれた。
あまりに突然の出来事に僕は太陽の光が何かに反射しただけだと思ったが、いつまでも視界は白いままで何も見えない。
この時、僕は昨晩魔女さんの言っていた代償について思い出した。
これはきっと異世界に行く時に見る光なんだろう。
どんな世界なのか、楽しみだなぁ!
肌が焼けるような強い日差しの下、五月蠅いセミの鳴き声に目を覚ました。
暑さのせいか、ぼーっとする意識で上半身を起こし、ぼやける視界で周囲を見渡す。四角のジャングルジム、ブランコが二つと木で作られたベンチ。小さい子向けの滑り台と狭い砂場。一片の疑いの余地も無く公園だった。
公園の中で芝も何も無い地面に寝転がっていたせいで、服の背中が少し湿っていて砂で汚れている。
段々と意識がはっきりしてきて気が付く、清水桜花さんに告白された後からの記憶が無い。
僕は昨夜出会った魔女さんの言った通り、美少女にモテた後に異世界転生した事になるはずだったのだが、異世界というよりかは……住宅街の中にある公園だった。
冬のはずなのにセミが鳴いている事から、時間と場所が異なる世界という予想は付いたが、僕の想像していた異世界とは大きくかけ離れていた。
美少女ハーレムに囲まれながら異世界を冒険するものだと思っていたのに、拍子抜けだ。
ずっと公園の中に居てもしょうがない。とりあえず、公園を出て住宅街を散策する。
この世界に来てから違和感を幾つか感じていたが、その一つが今はっきりとした。人とすれ違わないどころか車の通る音を含めた、一切の生活音が聞こえないのだ。
昼間の住宅街とは、こうも静かなものだろうか……。
しばらく歩き続けると、小さな公園が見えてきた。
その公園にはジャングルジムや二つのブランコなど、僕が最初に居た公園とそっくりだった。公園の中に入って確信する。そっくりでは無く、そのものだった。
でもおかしい。僕はこの公園を出てずっと真っ直ぐ歩いていたのに、後方ではなく進行方向にこの公園があるわけが無い。
今度は最初とは逆方向に走ってみるが、またあの公園に辿り着いた。
どうやら、どれだけ歩いてもこの住宅街からは出られないらしい。
強い日差しのせいでぼーっとする思考。頭を冷やす為、公園にある木陰で休む。
木陰で休んでいると、更に恐ろしい事に気が付いた。
どれだけ時間が経っても、木の影が変わらない。分かりやすく言うと日射角度が一ミリも変わっていない。つまり、この世界はずっとお昼のままなのだ。
何が異世界だ。こんなのまともな人間だったら発狂必須の無限空間じゃないか。
この世界に来てからどれくらいの時間が経ったのだろうか、空腹で腹の虫が鳴る。
その時、嫌な思考が脳裏を過った僕は立ち上がって、公園内に設置してある蛇口を捻った。
すると、生ぬるいが水が出てきて安心したと同時に、空腹を満たす勢いで水を飲んだ。
この日差しが強い無限空間の中で水分補給すら出来ないとなると、きっとすぐに熱中症か脱水症状で動けなくなってしまっていた。どうやら、最悪の事態は回避出来たようだ。
しかし、状況が超最悪から最悪になっただけで何一つ好転していない。
この無限空間から脱出する方法を考えなければいけない。そもそも、脱出など可能なのか?
僕がどれだけ思考したところで解決策など浮かぶはずも無く、ネットの知識に頼ろうとスマホの画面を見るが当然圏外で何の役にも立たない。
また木陰で直射日光から身を守る状態へ逆戻りしてしまう。
例えば、この空間を探索系ゲームだと考えてみる。そしてこの空間からは何かしらの方法で脱出出来ると仮定したら、どこか僕がまだ行っていない場所や会っていない人が居るはずだ。
この暑さの中では闇雲に動いても体力を消耗するだけだ。動くのならある程度の目星を付ける必要がある。
ぼーっと虚空を見つめて考えているか、考えていないか分からない。まとまらない思考状態で居たらずっと視界に入っていた民家が気になった。
無意識のうちに背景だと思っていたけど、インターホン鳴らせば誰か出てくるんじゃないか? 誰かしらと接触が果たせたらこの世界から出られなくても、助けを求める事は出来るんじゃないか?
希望の光が見えた気がした。
僕は公園の前にある一軒家に向かう。庭もある裕福そうなお家だ。
その家の表札には『清水』と書かれていた。
インターホンは外からでは鳴っているか分からないタイプのもので、インターホンを押してからしばらく待つが、誰も出てこない。
もしかしたら、インターホンの電源を切っているか、壊れているかもしれないと思い、僕は玄関のドアをノックした。しばらく待つが、中から返事は無く人が出てくる気配は無い。
しかし、玄関ドアの前に立って気が付いた。家の中からはテレビの音が聞こえてくるのだ。
誰か居る可能性は高いと踏んだ僕はドアノブに手を掛ける。
恐る恐るドアノブを握り玄関ドアを引くと、鍵が掛かっていなかったドアがそのまま開いた。
「……お、お邪魔しまーす」
誰にも聞こえないような小声で一言断ってから侵入するという、よく分からない行動をしながら家に入ると、中からは外でも聞こえていたテレビの音が聞こえた。
きっと、リビングには誰かが居る。完全に住居侵入罪を犯していると冷静に考えると少し緊張した。
「あ、あのー。お邪魔しまーす」
今度はリビングからも聞こえるぐらい、少し大きな声で言うが返事は返ってこない。
仕方なく玄関で靴を脱いでから、リビングへ入るとリビングのソファーに腰掛けていた存在に僕は目を疑った。
異様に首の長い女性が座っていたのだ。
首が長い女性と言うと、ろくろ首を想像する人が多いだろう。しかし、ソファーに座っていた女性の首は直線的に長く、例えるならキリンのようだった。
僕がリビングに入った事に気が付いた女性はこちらへ振り向く。
「あら、もう帰って来たの? さっき出たばかりじゃない」
「……えっと、誰かと勘違いしてませんか?」
「こちらへいらっしゃい」
隣に座るよう、ソファーを叩く女性にどうしたら良いのか分からず狼狽する。
「早く来なさい?」
そんな様子に明らかな苛立ちを見せた女性は口調を強める。
訳が分からなかった。
ただ、一つ言える事はこの世界は普通じゃない。明らかに異様だ。
逃げようにもどこへ逃げたら良いのか分からず、立ち尽くしていると首の長い女性は立ち上がってこちらへ歩み寄って来た。
天井にぎりぎり頭が当たらない点によく設計されているものだと、現実逃避じみた感想が脳裏に浮かぶ。
女性の顔を見上げていて、僕の首元に伸びていた女性の手に気が付かなかった。
首を絞められる手に力が込められ、とても並みの握力では逃れられない。
「――ぅぐっ」
声にならない苦悶の声が自分の喉から漏れる、脳に酸素が行かず次第に思考もぼやけてくる。苦しい、苦しい。ただ、早くこの苦痛から逃れたいという思いでいっそ気を失いたいとすら思った。
「いつも! いつもいつもいつも! 本当に邪魔な子! お前なんかいらない! 死ね! 死んでしまえ?」
唾を飛ばしながら首を絞め前後に体を揺さぶる女性の憎悪。彼女の放つ憎しみの言葉が薄れゆく意識の中で何度も響いた。
意識を失いかけたその時、僕は恐ろしい事実に気が付いた。
この女性、首はキリンみたいに長いけど首から下は普通に良い体をしている。
特に彼女のおっぱいは素晴らしい巨乳であり、彼女に首を絞められている僕は非常に彼女の魅惑のおっぱいに近い位置に居る。
脳裏に浮かぶ一つの欲望が囁く。
手を伸ばせば、おっぱいを揉めるんじゃないか?
当然人間社会では見ず知らずの女性の胸を揉むのは痴漢であり立派な犯罪だ。
しかし、この世界には今のところ僕とこのキリン人間さんしか居ない。
誰も僕を通報、逮捕する事が出来ない。完全犯罪だ。
この異常な状況と空間が僕を男に変えた。
僕の右手を動かしているのは、性への執着であり下心であり、巨大な双丘に対する憧れだ。
首を絞められて脳に酸素が行かず薄れゆく意識の中、僕は僕の限界を超えた。
「……っん」
遂に揉んだのだ。キリン人間さんから小さいけど声が漏れたのも聞き間違いじゃないだろう。
怪異的存在にはブラジャーをするという概念が無いのか、洋服越しに触る弾力は正に生であり、その感触は至福。
一度揉んだ後に追いの二揉みをした僕は求めた。
服越しでこの感触という事は、直に揉んだら一体どんな感触なんだ……?
それは果て無き探求であり、今僕はそれが最も近い位置にある。
まだ、それを知らずに死ぬわけにはいかない。
まだ、死ねない。
おっぱいを生で揉みたい。あわよくば吸いたい。
その一心で僕はキリン人間の人間離れした握力に抗った。
彼女の指と自分の首の隙間に指を入れると歯を食いしばり、両手に火事場の馬鹿力を超える力を込めて抗った。
最初は微動だにしなかった拘束も徐々に緩んでいき、
「うぉおおおおおおおおおおおおおっぱい?」
全力で彼女の手を首から引き?がした。
絞められていた首が解放された事により、何度か咽たが僕の視線はもう既におっぱいにロックオンしていた。
僕の鋭い眼光を本能的に察知したのか、キリン人間さんは自らの胸を両腕で隠した。
彼女の人間離れした身体能力による鉄壁の守り。
しかし今の僕には、おっぱいを揉みしだく未来しか見えなかった。
「隠しても無駄だ! 僕はおっぱいを揉む。生で揉みしだくと決めた!」
巨乳を指さし宣言する僕にキリン人間さんは何も言わなかったが、明らかに動揺していた。
両手の平を向けて揉みますと意思表示をしながらジリジリと歩み寄る僕に対して、後退るキリン人間さん。
「今だ!」
射程圏内に入った時、勢いよく飛び掛かるとキリン人間さんはリビングの掃き出し窓から庭へ飛び出し、そのまま逃走した。
「逃がすか! おっぱい揉ませろ!」
逃がすまいと後を追いかけるが、人間離れしているのは握力だけではなかった。
脚力も相当なもので、とても人間の足で追いつける速さじゃなかった。
庭へ出て気が付いたが、永遠に昼間だったこの世界は夕方を迎えていた。
夕日というのは不思議なもので、心を浄化してくれる。
先程までのおっぱいを揉みたいという邪な衝動に駆られていたが、夕日の茜色によって落ち着きを取り戻してきた。
「――――おめでとう」
突然聞こえて来た野太い声に振り向くと、庭の右側隅にスーツを着たライオンが立っていた。
さっきの首がキリンみたいに長い人もそうだったけど、どうやらこの世界に普通の人は居ないらしい。
しかも、今回は比喩でもなんでもなく正しくライオンだ。
二足歩行したライオンが黒いスーツを着こなしている。
「この世界で解放の黄昏(ワールドエンド)を迎えたのは君が初めてだ」
ライオンが流暢な日本語を喋るだけで、映画の吹き替えを見ているような感覚になる。
「解放の黄昏?」
「ここは君の住んでいる世界とは異なる世界。この世界から出られるのはこの黄昏時だけだ。夜を迎えてしまうと、君はこの世界の住人となってしまう」
つまり、ここに残る事も出来るのか。
キリン人間さんの巨乳を追い求めるのも、悪くないな。
「君の帰りを待つ人が居るだろう。元の世界へ帰りたいと強く願えば帰れるはずだ」
一瞬この世界に残ろうと思った僕の心を見透かしたような物言いをするライオンさん。
「分かりました」
「待ちなさい。君にこれを託そう」
そう言ってライオンさんが僕に手渡した物は、何の装飾も施されていない銀色の指輪だった。
僕は手の平で押し返し受け取りを拒否する。
「すみません。同性でしかもライオンと結婚するのはちょっと……」
まさか断られると思っていなかったのか、ライオンは少し呆けた顔をしてから笑った。
「勘違いさせてしまったのならすまない。これは婚約指輪では無い。お守りの類だと思って受け取ってくれ」
そう言ってライオンは僕の手の平に指輪を乗せると握らせた。
「そういう事なら、貰います」
夕日が沈みかけていて、空には無数の星が輝き始めてた。
ライオンに指輪を貰った後、僕は心から元の世界へ帰りたいと念じた。
この世界にやって来た時と同様の白い光に視界が包まれる。
「魔女に呪われた子。どうか私に救済を――」
肌を撫でる冷ややかな風に目を覚ますと、視界一面が茜色の空だった。
背中に伝わる硬い感触、上半身を起こして見渡すと転落防止の為の手すりや所々に小さなヒビが走る石膏の白い壁。
下の方からは運動部員達が部活動に励む声が聞こえてくる。
僕が目を覚ました場所は学校の屋上、いつもお昼ご飯を食べている見慣れた場所だった。
夕日が出ているという事は既に時刻は放課後になっている。清水桜花さんはもちろん、屋上に他の生徒は誰一人居ない。
どうやら、公園のある団地しか存在しない世界から戻って来る事が出来たらしい。
清水さんのお弁当に睡眠薬のようなものが入っていて、急な眠気に襲われて昏睡した末に見た悪夢なのかとも思ったが、あの世界での出来事が決して夢では無い事を僕の首にくっきりと残っている手の痕が証明した。
トンデモない体験をしたにも関わらず酷く冷静で、僕はおもむろにポケットからスマホを取り出して現在時刻を確認すると、今は午後五時だった。
日付は変わっていない。つまり僕は午後の授業を全てすっぽかして、異界で四時間過ごしていた事になる。
アルバイトをしないと生活を維持出来ない僕は、普段午後五時からシフトを入れている。当然今日も同じシフトが入っている。そして今は午後五時一分。
遅刻が確定した僕はとりあえずバイト先に電話を掛けて遅刻する旨を伝えてから、教室で荷物を回収した後に急いで校門を出た。
こういう別世界に飛ばされる展開は普通なら、外での時間が経っていなかったり、現実世界に辻褄を合わせるような設定があるものだが、どうやら僕に掛けられた魔法はそこまで親切設計では無かったらしい。
バイト先へ走る途中、僕が異界へ行っていた四時間がこちらの世界では、どのように流れていたのかが気になった。
清水桜花さんに告白された後の僕は突然彼女の目の前から姿を消したのだろうか?
もし、そうなら彼女に突然姿を消した事を謝らなければならないと同時に、告白の返事と僕が今置かれている状況を説明しなければならない。
魔女や魔法など言っても信じて貰えるか怪しいし、魔法について教えるというのは彼女の僕に対して抱いている恋愛感情が、魔法によって操作されたものである事だと説明する事にもなる。
正しい行動はしっかりと彼女に事実を伝えた上で謝罪する事なのだろうが、僕はそんな当選した宝くじをわざわざ破るような勿体ない事はしない。
幾つの嘘を重ねても僕は彼女のおっぱいが揉みたい。
バイトに遅刻した言い訳と清水桜花さんの目の前から突然姿を消した言い訳、その二つの言い訳を考えながら僕は走った。
遅刻した事を散々叱られたバイト終わり、月明かりと街灯が照らす夜道を歩く。
夜道ではあるが十分に明るい住宅街を歩いていると、僕の住むアパートの前に人影が見えた。
アパートの前で僕の事を待つ人など一人しか居ない。銀髪金眼という特徴を持っている魔女さんは遠目から見てもすぐに分かった。
街灯に照らされている魔女さんはどこか不気味で神秘的な雰囲気を纏っていて、やはり人間離れした美しさがそこにはあった。
恋人を待つかのように佇んでいた魔女さんは僕に気が付くと怪しく微笑んだ。
「解放の黄昏を迎えられたのですね」
ライオンさんも同じような事を言ってたな……。
「えっと、まだよく分からない事が多いんですけど……僕はこの世界に戻って来ても良かったんですか?」
「本来なら、異界から戻って来る事は叶いません。しかし、貴方がこの世界に戻って来たという事はきっと意味がある事なのでしょう」
なんだか難しい事を言う魔女さん。言っている事の5パーセントも僕は理解出来ていない。
「もう、魔女さんの掛けてくれた魔法は無くなったんですか?」
魔法が無くなれば、もうキリン人間のような化け物が居る危険な異界に行く必要は無い。
だけど僕はまだ、清水桜花さんの美乳を揉んでいない。
僕の命とおっぱいを天秤に掛けると、清水桜花さんの美乳を揉む事の方が遥かに大事だ。
でも揉んだ後はどうだ?
いつか僕が色々な美少女達とエロい事をやり尽くした後、まだ僕はこの性的欲求を維持する事は出来るのだろうか?
美少女に飽きてしまったとしても、魔女さんの掛けた魔法は僕を異界へ送り続けるだろう。
そんな僕の思考を見抜いたかのように、彼女はクスリと笑った。
「ご安心下さい。私の掛けた魔法は貴方の命が尽きるまで消える事はありません」
「良かった……のかな? せっかく魔法を掛けてくれた魔女さんに言うのは失礼かもしれないけど、僕は魔女さんの言う異界が思っていたのと違って……正直、迷っているんだ」
「何を迷われているのですか? 先程も申し上げた通り私の魔法は貴方の命が尽き果てるまで消えませんよ?」
「…………え?」
「契約とはそういうものなのです。思っていたのとは違ったからと言って、解消するなど認められません」
淡々と告げる魔女さん。
この時、僕は初めて自分が取返しの付かない事に足を踏み入れてしまった事に気が付いた。
誰かに告白された時。また、異界に行かなくてはいけない。命が尽きるまで、何度でも。
「貴方が異界からこの世界に戻って来たのは奇跡でしょう。奇跡とは何度も起こらないから奇跡と言うのです。きっと明日は起こらない。今夜がこちらの世界で迎える最後の夜となるでしょう。後悔の無いように楽しんで下さい」
昨日も同じような事を言われて贅沢したせいで、僕金欠なんだけど。
最後の晩餐が素うどんって……悲し過ぎる。
「それではお元気で」
僕の夕飯事情など知る由も無い魔女さんは、小さく会釈をすると夜道の闇へ姿を消した。
僕としては彼女に色々を聞きたい事もあったが、一先ず家に帰って空腹を満たす事にした。
告白の直後、僕が突然姿を消した事を清水桜花さんがどう思っているのか、それを考えると明日の学校は少し億劫だ。
夕飯を食べ終えた僕は、特にする事も無いので布団を敷いた。
寝る間際に部屋の窓から見える月がほんのり赤く見えたのは、きっと気のせいだろう。
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