第3話
1
「はあ……はあ……」
日頃の運動不足もあって、私の心配機能は限界に達していました。それでも足を止めるわけにはいきません。私はとても弱いのです。もしこの足を一度止めたら、たぶんもう動けなくなるでしょう。この誰もいない寂しい世界こそが、安住の地であると本気で考え出すかもしれません。
この世界にユウさんと二人なのか、それとも私だけ取り残されてしまうのかわかりません。ともかく行き止まりなのです。行き止まりでは前に進むことができません。
私は変わりたいのです。
霧島さんは変な性格をしていますが、なんだか友達になれそうな気がしてきました。本気で付き合おうとすれば、すれ違いも多くなりそうですが、そういう関係も悪くはありません。どちらかと言えば、そっちのほうが唯一無二の親友って感じがします。
両親にはとても心配をかけているようです。友だちの家に泊まるという嘘は嬉しさのあまり見抜けなかったのかもしれませんが、大抵の心配をかけさせないための裏工作はお見通しなのでしょう。私は親不孝娘です。だからこそ、これから自立して一人前になりたいのです。ファーストレディになりたいのです。違いました。今と変わりたいのです。
「私は……私は……」
先へ進みます。
車の通らない国道。公園の広場。学校の校庭。商店街。
どこを捜してもユウさんは見つかりません。
私は立ち止まりました。息ができません。
体中にべったりと汗を掻きました。買ったばかりの服は汗だくになっています。深呼吸をして息を整えました。私は再びユウさんを捜します。この鬼ごっこを終わらせるためにユウさんを捕まえなければいけません。
本当にそうでしょうか?
少し違うような気がしてきました。私は誰かに会いたいのです。霧島さんでも両親でもいいのです。私の存在を許してくれる誰かを捜していました。
「私は……」
鬼は寂しいから人を追うのだと実感しました。誰かに触れたい一心で、逃げる人を追うのでしょう。触れ合う相手を求めて走るのです。ユウさんはケイドロを国民的遊技に認定できないと書いていましたが、団体戦ではなく、独りぼっちで戦い続けなければならない鬼ごっこも国民的遊技には向いていないかもしれません。
こんな哀しい思いを誰にもしてほしくないです。
「私は……」
足が思うように動かなくなりました。ここ数ヶ月に匹敵する運動量を一日で消化したのですから無理もありません。足が棒になるのも当然でした。走れなければ歩くしかありません。ふと見上げると、カーブミラーに私の姿が映り込んでいました。
思わず吹き出してしまいます。
私は霧島さんと選んだ勝負服で街を疾走していたのです。フリフリのミニスカートにウエスタン調ブーツという無謀な組み合わせで激走していた姿を思い浮かべると可笑しくて仕方ありません。思わぬ形で元気をもらうことになりました。
「ユウさん、絶対に捕まえてみせますからね」
最終的に行き着いたのは、集合場所である鬼瓦公園でした。
オフ会で集まったのは、結局、私だけだったのでしょうか?
それともすべては私の頭の中で起こっていることなのでしょうか?
鬼という特別な存在になることで充たされようとしていたのでしょうか?
疑問は尽きません。それでも一つだけ決めました。
私は逃げません。絶対に諦めないことにしました。
「私は人間です! 私は鬼なんかになりたくありません! 弱いですし、甘いですし、臆病ですし、自分勝手ですし、その他にもダメなところが山のようにあります! でも鬼は嫌です! 独りぼっちは嫌です! だからユウさん、ここから出してください!」
私は生まれて初めて腹の底から声を出しました。
もう一歩も動けそうにありません。制限時間がまだ残っていることを祈ります。
「やれやれ。本当に僕は……」
後ろから誰かが近づいてきます。 ユウさんは必ず来てくれると確信していました。
「本当に僕は今も昔も泣く鬼に弱いんだよな」
私は顔がぐちゃぐちゃになるほど号泣していました。これでユウさんが現れない道理はありません。振り向くと、髪を掻きながら歩いているユウさんの姿がありました。
「このままアイさんが鬼になるまで隠れていようと思ったんだけど、やっぱりアイさんは鬼じゃなくて人間になるべきなんだよね。僕みたいな生まれながらの鬼とは違うんだからさ」
「あの……」
どうしても聞いておかなければなりません。
「ユウさんは……私じゃないのですか?」
「面白い質問だね、アイさん。僕はユウだよ。アイじゃない」
数瞬の間を置いて、ユウさんは続けました。
「人間じゃない、ただの本物の鬼さ」
ユウさんは快活に笑いました。その笑顔は曇りのないものでしたが、心の底から笑っているとは思えません。私も鬼の端くれですから気持ちがわかるのです。
どんなに強がっても、どんなに孤独を愛しても、独りぼっちは寂しいのです。
「ユウさんは逃げないのですか? これは鬼ごっこですよね? 隠れて逃げ切ってしまうのも、むしろ正々堂々とした作戦なのではないですか?」
「そうしたらアイさんは本物の鬼になってしまう」
「それは……困ります」
「だろ?」
「でも私が鬼になれば鬼は二人です。二人なら独りではありません。きっとそれは鬼じゃありません。鬼だけど、鬼じゃなくて、きっと新しい鬼っぽい存在です。カードゲームにおけるシークレットキャラ的な感じです」
「アイさん、気持ちは嬉しいけど意味がわからないよ」
意味不明なことを口走っている自覚はあります。
それでも私がこのまま元の世界に戻って終わりというのは違う気がするのです。
人生という物語において、私は脚本演出主演すべてをこなしてきました。ほかのどうにもならないことはともかく、人生という物語だけは「語り手」である「私」にすべてが委ねられています。霧島さんには霧島さんの物語があって、両親には両親の物語があることでしょう。だから私はこのまま元の世界に戻って終わりにしたくないのです。
ユウさんを残して私だけ助かるなんて最悪の結末です。
私はユウさんを放っておけません。
弱い鬼たちと向き合って、私は少しだけ成長したのかもしれません。この兆しを見逃したくないのです。袋小路から抜け出せる機会なのかもしれません。可能ならユウさんと一緒に抜け出したいのです。
私はユウさんに向かって歩きました。
手を伸ばせば届く距離まで近づいて、私は顔を起こしてユウさんを見上げます。
しばらく見つめ合う格好になりました。動悸が激しいのは走り続けたからだけではありません。これを恋と呼ぶべきかわかりませんが、同情なんて言葉で片付けたくないという気持ちは大きいです。
先に目を逸らしたのは、意外にもユウさんでした。
「これで鬼ごっこは終わりだよ。アイさんは人間になって、僕は鬼のまま取り残される。歴史は繰り返すってやつだね」
「歴史は繰り返すなんて、そんなの人間の作った言葉じゃないですか? 鬼のユウさんに当てはまるとは限りません。それに簡単に諦めるくらいなら私をこんなところへ連れて来ないでください!」
私は素直な気持ちを訴えました。ユウさんは困り果てた表情を浮かべます。
「ユウさんは大丈夫ですよね」
私は右手でユウさんの左手を握り締めます。予想通りユウさんは消えませんでした。
諦めを悟ったようにユウさんは肩をすくめました。
「これで鬼ごっこは終わりだ」
「いいえ、まだ終わりません」
これが冴えたやり方なのかはわかりません。私は空いてる手でユウさんのもう片方の手を握りました。意図がわからないらしく、ユウさんは苦笑しています。
「アイさん、別に両手で触っても僕は消えたりなんかしないよ?」
「一人だと鬼になる。ユウさんはそう言いましたよね?」
私の瞳から涙が零れ落ちました。それでもユウさんに伝えなければいけません。
「人という字が支え合っているのか寄りかかっているのか私にもわかりません。ただ自分以外の誰かを必要としていることは確かです」
どんなに格好悪い姿を晒しても私はユウさんを独りぼっちにさせません。顔が真っ赤になるのを感じながら私はユウさんにキスをしました。
私の培ってきた膨大な読書量と映画鑑賞量を基に導き出せば、最終局面で男女が向かい合った場合、ほぼ百パーセントの確率でキスによってハッピーエンドを迎えるのです。その法則に従えば、これで事は上手く運ぶでしょう。
ファーストキスは涙で塩辛いだけでした。誰かレモン果汁を貸してください。
ゆっくりと顔を離して、私は決め台詞を紡ぎました。
「ユウさんの誰かに、私がなることはできませんか?」
一生分の奇跡を使ってしまったくらいの確率で、私は嘘偽りのない気持ちを噛まずに言い切りました。ドラマみたいに格好良くはありません。鏡で見るまでもなく、私の顔は涙や鼻水でぐちゃぐちゃです。衝動的なファーストキスも塩味でした。
それでもいいのです。今の私には生きてる実感があります。
便所虫だなんて卑下しません。
独りが寂しいと正直に言います。
もう誰にも哀しい嘘は吐きません。
親に心配しないで大丈夫と言いたいです。霧島さんに友達になってほしいと言いたいです。ユウさんには……言いたいことの半分くらいは言えました。
ユウさんは固まっていました。突然の出来事に混乱しているのでしょう。
「まったく、これじゃあ……」
泣くのを堪えているようでした。小さな男の子が意地を張るみたいに、無理をして声を飲み込んでいます。ユウさんは私の肩に顎を乗せました。
泣いている顔を見られたくなかったのかもしれません。そのかわり私とユウさんの距離はぐっと近づきました。冷静になれば顔から火が出るような場面なのですが、恥じらい中枢は少し前から完全に麻痺しています。
ふと思い至りました。
人は生きる重みを誰かと共有できるのです。それが人間たる証なのでしょう。
一人では鬼です。誰かに触れたいのに触れることを怖れている鬼です。
怖がりで独りぼっちな鬼を卒業しなくてはいけません。人間には重みを受け容れてくれる誰かが必要なのです。もう一押しなのに気の利いた言葉が思い浮かびません。
だから私はユウさんを抱き寄せました。
言葉にできなくても私はここにいると、ユウさんに知ってもらいたかったのです。
ユウさんは小さく震えていました。至福の時間が過ぎていきます。
突然。
「ああああああああああーっ!」
ユウさんは天まで届くような大声を上げました。まるで産声のように聞こえます。
「ああああああああああーっ!」
私も真似して叫びました。
ユウさんも私も新しく生まれ変わるのです。
凍結された世界。閉ざされた世界。鬼の世界。
行き止まりに未来はありません。心配事も厄介事もない世界に未練はありません。
だから新たな旅を始めましょう。過酷な世界でも、二人なら大丈夫です。
刹那。
目が眩むほどの光が空から射し込んできました。
鮮やかな光の欠片が、まるで雪のように降り注いで来ます。
きっと、この世界は壊れたのです。鬼の世界は今日で終焉を迎えたのです。
私はユウさんを離さないように腕に力を込めました。
ユウさんも私を離さないように抱き締めてくれました。
2
…………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………あれ?
壊れ始めた世界から場面転換しません。
ここは二人で元の世界へ戻る流れじゃないのですか?
「どうやら……このまま終わらせてはくれないらしい」
「……ユウさん?」
「僕の世界が崩壊し始めている。早くここから逃げ出さないと存在そのものが消滅してしまうかもしれない」
「ちょっと待ってください。場面転換して元の世界に戻るとかできないのですか?」
「アイさん、世の中そんなに上手くはいかないよ」
前置きや伏線の回収をしてくれるのは小説や漫画の世界だけなのかもしれません。現実はいつも唐突で、謎は謎のまま放置されてしまうのです。なんの脈絡もない展開こそが自然なのでしょう。
「どうすれば元の世界に戻れるのですか?」
「この世界と外の世界を繋ぐ場所を探すしかない」
ユウさんは深刻な表情で公園を見回しました。空から光の欠片が降り注ぐという幻想的な光景も、元の世界へ戻る方法がわからないと不安を掻き立てる演出にしかなりません。光を放出し切った場所が夜とは異なる闇に侵食されていきます。
闇というより無と呼ぶべきでしょうか?
ともかく夜より深い闇が誕生していくのです。異常な光景と呼ぶべき現象でした。
「ユウさん、あれ、なんか様子がおかしくないですか?」
「急ごう。闇に飲まれたら二度と元の世界へ戻れなくなる」
ユウさんは私の手を取って走り出しました。こういう逃亡劇的な展開も嫌いではありません。大通りを闇から逃げるように走りました。鬼ごっこで消費した体力も、命がけとなれば話は変わってきます。
「アイさん、自転車でもなんでもいい。走るより効率のいい逃走手段を探すんだ」
「え、あ、はい」
当てのない逃避行は長期化する可能性が高いようです。コンビニの駐輪場には深夜でも複数の自転車が並んでいました。二人で使えそうな自転車を探しますが、どれも簡単には外せない施錠がされています。原付に至っては鍵がないとどうしようもありません。
闇から遠ざかりながら使えそうな自転車や原付や車を調べていきます。
「これだけ数があるのに、どれもこれも使えないってどういうことですか?」
私は思わず愚痴を漏らしてしまいました。泣きべそと言ってもいいかもしれません。
「乗り捨てられた自転車ってわけじゃないからね。普通は施錠すると思うよ」
「それでもここまで見つからないのは変じゃないですか?」
「現状に立ち向かわないと活路は開けないよ。過去の結果や統計学的な確率を問題にしても始まらない。重要なのは今だ。アイさんはこうなった原因である僕を責めなかったじゃないか? その前向きな精神があればこの危機も乗り越えられるさ」
ユウさんは微笑みました。私は顔を伏せることしかできません。
すいません、ユウさん。私は過去の経験や統計学に基づいて話していません。すべて漫画やアニメから得た知識なのです。あとユウさんを許せたのはユウさんのことが好きだからです。肥満男が元凶だったら許していません。というか、私は下着を見られただけで顔面を蹴りつけてしまうような女の子なのです。
「どうしたんだい? ぼーっとしている時間はないよ」
ぼーっとしていたわけではありません。オフ会に参加していた人物を思い出していたのです。個性的な六人と過ごした時間は決して無駄ではありませんでした。
「あの、ユウさんは単車の運転ができますか?」
「免許はないけど運転ならできるかな」
いい感じです。いい感じに伏線を回収できそうです。
「ここから南へ下ったところに寂れた公園があるんです。そこに鍵を付けっぱなしの大型単車が放置されています。ユウさんと会う直前に乗っていたので間違いありません」
「その公園が闇に侵食されていないことを願うね」
「大丈夫です」
「自信満々だね」
「はい。根拠はありませんが大丈夫なのです」
今度は私がユウさんを先導するように走りました。空から降り注ぐ光の欠片と世界を侵食し続ける闇。この空間に夜明けがあるのかわかりませんが、今となってはそれを把握する手段さえ失っていました。
「あの公園です!」
私は視界に入った公園を指し示しました。ユウさんが険しい表情を浮かべます。
「単車は公園の中に停めてあるのかい?」
「公園を抜けた先の道路です。それがどうかしたのですか?」
そう聞かずにはいられないほどユウさんの顔色が優れません。私は急いで公園の奥側へ目を向けました。闇に侵食されている形跡はありません。
「僕にはあの公園の半ばまでしか見えない」
「はい?」
素っ頓狂な声を上げてしまいました。しかしユウさんが嘘を吐いているようには見えません。絡みつくような不安が緊張を生み出しました。
「アイさんには公園の向こう側が見えるのかい?」
「見えます。ユウさんにはどのように映っているのですか?」
「闇に侵食されている。とても近寄れる場所には見えないよ」
「……そんな……」
私は言葉を失いました。ユウさんが容赦なく告げます。
「想像以上に闇の侵食が早い。もうあんなところまで来ている」
ユウさんは来た道を振り返っていました。慌てて視線を追いましたが、闇の侵食は遥か彼方に見えます。かなり寄り道してこれなのですから、ひょっとすると闇の侵攻速度は徒歩よりも遅いのかもしれません。
「先を急ごう。あと二十分もすれば、ここも闇に飲み込まれる」
「待ってください」
私はユウさんを引き止めました。二人の見える世界が異なるというのなら、どちらか一方が真でどちらか一方が偽なのでしょう。それを確かめずに逃げ回っていても、おそらくこの世界から脱出することはできません。
「どうしたんだい? アイさん」
「ユウさん、闇を怖れないでください」
「そうは言っても飲み込まれたら助からないんだよ? 悠長なことは言ってられない。早急に非難すべきだ。それともアイさんに秘策でもあるのかい?」
焦るユウさんに、私は声を張って伝えました。
「この世界はユウさんのものです。怯える必要はありません」
「……アイさん?」
「闇は心の弱さだと思いませんか? 大丈夫です、私を信じてください」
私はユウさんに手を差し伸べました。怯える必要はありません。強い心を持って立ち向かえば闇なんて怖れるに足りないのです。
ユウさんは頭の上に疑問符を浮かべていました。
「なにをするつもりなんだい?」
「この世界から脱出するだけです。それ以外に望むことはありません」
「本当に……アイさんは強くなったね」
ユウさんは苦笑しながら私の手を取りました。
頭の中に鬼ごっこの映像が蘇ります。私に強さをくれたオフ会の参加者――いえ、本当は私の弱さだったのでしょう。この閉ざされた世界で具現化された私の弱さです。
行動を起こす前から諦めている心の弱さ。出来ない理由を誰かの所為にする弱さ。卑下することで劣等感を払拭しようとする弱さ。楽な場所へ逃げ込んでしまう弱さ。正直で素直になれない弱さ。弱さを認められない弱さ。私は弱虫です。
それでも諦めることだけはしませんでした。今度はユウさんが弱さを克服する番です。
「行きますよ」
「どこへ?」
「公園の向こう側へです」
「正気かい? あの闇へ足を踏み入れて助かるとは思えないよ」
「大丈夫です。私にはちゃんと見えています」
私は公園へ向けて歩き始めました。ユウさんの手に力が入ります。それでも逃げ出したりはしませんでした。畏怖しながらも闇に立ち向かうようです。ところが公園の半ばまで進むとユウさんの足が止まりました。
「アイさん、ここからは僕が先に行くよ」
「どうかしたのですか?」
「アイさんに見えなくても、目の前は闇に侵食された世界なんだ。そんなところへアイさんを先に行かせるわけにはいかない」
「……ユウさん……」
惚れてしまいそうでした。すいません、本当はすでに惚れています。
「もし僕が闇に飲み込まれてしまったら、そのときはアイさん一人でもこの世界から脱出する方法を考えてほしい。決して諦めないでくれよ」
「わかりました」
私は力強く答えました。
二人きりの世界でアダムとイブになるのは来世にしましょう。今回は絶対に元の世界へ戻ります。霧島さんや両親にこれ以上の心配をかけたくありません。
「行こう」
ユウが歩を進めました。私には見えない闇に一人で挑んでいるのでしょう。
違いました。ユウさんは独りじゃありません。
でも今だけは己の力でその闇に打ち勝ってください。
一歩、一歩、慎重に公園を通り抜けて行きます。闇に侵食された世界。私にとって何気ない風景もユウさんには底知れない脅威なのでしょう。
「アイさん、進行方向はこっちでいいのかい?」
「はい」
道路脇に停められた大型単車が見えてきます。しかしユウさんにはなにも見えていないようでした。だから私は先を急かせるようなことを言いません。
ゆっくりと進むユウさんの後ろ姿を見守るだけです。
しばらくすると目的地へ到着しました。
「そこです。目の前に単車が停めてあるのですが……わかりますか?」
ユウさんは前方へ手を伸ばしました。その手が単車の座席に触れます。
刹那。
空が割れました。欠片というより破片と呼んだほうが正しいような光の塊が降ってきます。もちろん光を失った場所は深い闇と化しました。
「アイさん、闇が晴れたよ」
ユウさんは私を振り返りました。その表情は清々しさに満ちています。
弱さを克服したユウさんはさらに素敵滅法でした。しかしその魅力について長々と語る余裕はなさそうです。悪い方向へ世界が一変していました。
「急ごう。さすがに時間を使い過ぎた」
闇の侵食が深くなっています。あと十数分でここを飲み込むかもしれません。
エンジンを起動させてユウさんは単車に跨りました。私も後部座席に腰を下ろします。鬼ごっこのときと違って二人乗り用のベルトはありません。
「行くよ、アイさん」
私は身体を密着させてユウさんに抱きつきます。幸せな気分になれます。しかし悠長なことは言ってられません。すぐさまユウさんは単車を発進させました。
重厚な音を立てながら公園を抜けて行きます。大通りへ出るとさらに加速しました。
誰もいない道を軽やかに疾駆していきます。世界が割れたことで、闇の勢力が拡大していました。さっきまで無事だったコンビニが闇に飲まれています。
「酷い有様だ」
ユウさんが呟きました。たとえ滅びるべき世界でも、その終焉を寂しく思うことは仕方のないことかもしれません。ここは鬼の世界なのです。だから私は繰り返しとなる質問を投げかけていました。
「ユウさんはこの世界が好きなのですか?」
「そうだね。嫌いじゃない」
風を切る単車の上でも会話が成立します。物理的に考えれば不可思議なことなのでしょう。やはりここは普通の世界ではありません。ユウさんは身体を倒して左に曲がりました。身体を預けている私も傾きます。目指すべき場所はわかりません。ただただ闇から遠ざかるように単車を進めているようでした。
「ユウさん、どこへ向かっているのですか?」
「わからない。どこへ向かえばいいのか僕にもわからないんだよ」
もしここが独りぼっちの世界なら、二人になれば脱出できるはずなのです。ところが崩壊し始めた世界に私もユウさんも残されたままです。これに訳があるとすれば、考えられる理由は一つしかありません。
「旅へ出ましょう」
「……こんなときになにを言ってるんだい?」
ユウさんの怪訝な声が返ってきます。私は自信たっぷりに告げました。
「鬼ごっこをしているときに街を一周しました。その境界線より外へ出れば鬼の世界から抜け出せる気がするんです」
「根拠は?」
「ありません」
「へ?」
間抜けな声が前から流れてきました。運転に支障をきたさないことを願いながら私は続けます。根拠はありませんが確信はありました。
「鬼ごっこに意味があるなら、あと回収していない伏線はそれくらいだからです」
「……アイさん?」
「私は鬼になりたくありません。ユウさんがいなくなるのも嫌です。二人で元の世界へ戻ると決めました。そして今二人で単車に乗っています」
この条件化でやるべきことは一つしかありません。
「それで境界線を越えて旅に出ると?」
「そうです」
「随分と曖昧で乱暴な推測だね」
「大切なのは想いです。この展開で私とユウさんが闇に飲まれて終わりなんて想像したくありません。そんなのは私が嫌だからです。だから絶対に絶対に大丈夫です」
「本当に自信満々だね。それで向かう先に当てはあるのかい?」
私は記憶を手繰り寄せました。街を一周する間に見えた景色を思い浮かべます。その中で旅へ出るには打って付けの場所がありました。
「高速道路の入り口がありました。そこから旅へ出るのはどうですか?」
「いいアイデアだね。全面的にアイさんを信じるよ」
方向を伝えると、ユウさんは単車を加速させました。ぐんぐんと速度を上げて目的地へ向かいます。この世界に目指すべき場所はありません。だからどこでもよかったのでしょう。目的地を決めることで目的は達成されたのです。
空から光の塊が落ちてきました。ユウさんは巧みに単車を操作して回避します。
「見えた!」
ユウさんが叫びます。前方に高速道路が姿を現しました。
轟音とともに空が砕けます。隕石のように無数の光の塊が地面へ落下して来ました。ユウさんはジグザクに走行することで上手く捌きます。まるで滅亡寸前の惑星から逃げ出す映画みたいでした。
単車は高速道路へ向かう坂道を上っていきます。私は振り落とされないようにしっかりと抱きつくだけです。かなり役得かもしれません。
「今度の旅は面白くなりそうだ」とユウさんは言いました。
「私もそう思います」
さらに強く私はユウさんの身体を抱き締めました。
砕けた空には陽が昇り始めていました。闇の侵攻が治まったのかもしれません。
単車は誰もいない夜明けの高速道路を疾駆していきます。
「そろそろ境界線を通過する」
「はい」
「最後にお礼を言わないといけないね」
「聞きたくありません」
「どうして?」
ユウさんはなにもわかっていません。私は声を大にして言いました。
「最後じゃないからです。これから始まるのは私とユウさんの旅です。勝手に最後の別れを言わないでください」
「本当に……アイさんには敵わないよ」
やれやれという声が流れてきます。私は精一杯の気持ちを込めて伝えました。
「だから絶対に『さよなら』は言わないでください」
境界線を越えたのでしょう。眩い光が私とユウさんを包み込みます。
私はユウさんの背中に顔を寄せました。絶対にこれで「さよなら」なんかにしないでください。身体が不思議な浮遊感に包まれます。ふっと意識が遠退いていきました。
3
ぼんやりとした頭に甲高い声が響いてきます。
「里依紗、また居眠りしてたでしょ?」
「していません」
私は友人の指摘を否定しました。顔を起こして制服を正します。
教室の雰囲気からして、昼休みと推察されました。
どうやら授業中に眠ってしまったようです。級長として恥ずべき失態でした。
「机に涎が垂れてるよ」
声に釣られて私は隈なく机の上を調べます。くすくすと笑う声が降ってきました。
「やーい、引っかかった」
「人を騙すのはよくありませんよ」
「だって里依紗はすぐに引っかかってくれるから楽しいんだもん」
酷い言われようでした。しかし事実に変わりはありません。
私は気を取り直して友人に質問を投げかけました。
「宿題は出ませんでしたか?」
「出てないよ」
「小テストの告知とかは?」
「されてない。ほんと里依紗は真面目だよね」
そこへもう一人の友人が割り込んできました。
「それよりさ、お弁当を食べに行こうよ。早くしないと場所がなくなっちゃう」
「そうですね。ちょっと待ってください」
鞄から弁当を取り出していると、別方向から甘ったるい声をかけられました。
「里依紗、英語の宿題でわからないところを教えてもらっていいかな?」
「昼食を取りながらでいいですか?」
「うん、ありがとう! 私もお弁当を持ってくるよ」
クラスメイトが微笑みます。私も弁当の用意を済ませて席を立ちました。
「里依紗は本当に甘いなあ。あの子、勉強を教わるっていうより宿題を見せてもらってるだけだったじゃん。びしっと断ることも必要だと思うよ?」
「そうそう。ああいう子に甘い顔は禁物だよ」
「まあまあ。お菓子を用意したり気を使ってくれてたじゃない?」
私は二人を見やります。ぐうの音も出ない様子でした。
「それじゃあ、中庭に行きましょう」
「はーい」と二人はハモりました。
「返事は百八回です」
「それは無理!」
他愛ない会話で今日も笑いが起こります。毎日はとても平和で充実していました。
中庭には途中で合流した生徒も含めて六人が集まりました。お弁当を食べ始めると、誰からともなく雑談が飛び交います。冗談もあれば大切な話もありました。
「小テストって今日だっけ?」と一人が切り出します。
「英語? 国語?」と聞き返す茶髪の女子。
「国語。昨日の授業終わりに漢字の小テストをするとかなんとか言ってなかった?」
「いやいや、そんな話は出てないでしょ?」
「出てたよ」と違う女子が応じました。
「ということは、やっぱり小テストあるんだよね?」
「そうっぽい」とまた別の女子が口を開きました。
「最悪」
次々に愚痴が零れます。どうもテストは嫌われ者のようです。とはいえ、すぐに別の話題へと移行しました。ちょっとした悪口や文句も雑談の一つに過ぎません。本気で憎いわけではなくて、あくまで誰かに聞いてほしいだけなのです。ひょっとすると知ってもらった上で共感してほしいのかもしれません。それはいつもと変わらない光景でした。
「ところでさ、七組に転校生が来るんだけど知ってる?」
「あれって噂じゃないの?」
「来るのは本当っぽい。怪しいのは転校生の情報じゃなかったっけ?」
その噂なら私も知っています。たしか転校生は高校入学式で総代を務めた才色兼備ということでした。男子を中心に情報収集が行なわれて、転校前の高校へ顔を見に行った生徒までいるそうです。もっともそれさえ伝聞なので真偽はわかりません。
「あーあ、天は二物を与えないんじゃなかったっけ?」
「三物や四物を与えないとは言ってないじゃん」
「それは屁理屈だよ」
「まあ、たしかにね」
日常は退屈です。些細な出来事を除けば、ほとんど変化がありません。そんな中で転校生という存在は幾分か刺激的だったのでしょう。ほかの話題に比べて長持ちしていました。
「それに三物や四物を与えられた人なら近くにいるしね」
その言葉で私に視線が集中しました。思わず箸が止まってしまいます。
「たしかに里依紗は別格だよ。頭良くて可愛くて性格もいいとか反則すぎる」
「でもさ、あまり目立たないから存在を忘れちゃうんだよね」
「級長の存在を忘れられるのはあんたくらいだって! そんなことだから赤点ばっかり取るんじゃないの?」
「ほっといてよ」
本当に他愛ない会話で笑顔になれます。毎日がそれなりに楽しくて仕方ありません。
女が三人集まると姦しいと言いますが、六人だとそれ以上の効果があるのかもしれません。ともかく話題が尽きないのです。それはとても素敵なことに思えました。
そこへ一人の男子生徒が近づいて来ました。女子の輪に加わるのは抵抗があるのか、声の届く距離まで来ると立ち止まります。同じクラスの副級長でした。
「雨宮、ちょっといいか?」
「はい。ちょっと待ってくださいね」
弁当を片付けて立ち上がると、一人の女子が茶化すように口笛を吹きました。勘違いしているようなので、私は端的に説明をしておきます。
「放課後に委員会があるので、その打ち合わせをするのです」
「そんなの建前に決まってるじゃん。副級長に立候補したのも里依紗が級長に決まってからだったでしょ?」と囁いてきます。
言われてみるとそうなのですが、しかしそれだけで私に好意を持っているとは限りません。ほかの理由も充分に考えられます。
「というか、向こうがどう思ってるかより里依紗がどう思ってるかだよね?」
「実際のところどうなの?」と別の女子まで話に乗っかって来ました。
さらに芸能リポーター並みの追及をしてきます。おそらく日常に起こった些細な変化を楽しんでいるのでしょう。悪気があって囃し立てているわけではないのです。
「うーん、今日の小テストで私より点数の高かった人だけに教えてあげます」
「無理だし!」
「意地悪!」
「卑怯者っ!」
「超酷い仕打ち!」
言葉は酷いですが、すぐに笑い声が零れました。
「あんまり待たせちゃ悪いよ」
「そうですね」
私は副級長のもとへ向かいます。すぐに三枚のプリント用紙を渡されました。
「委員会の資料、あの様子じゃまだ取りに行ってないだろ?」
「すいません、ありがとうございます」
「雨宮ってさ、ほんと誰に対しても馬鹿丁寧に話すよな」
「丁寧に話されて嫌な気分になる方はいませんからね」
「そうか? 俺はちょっと苦手だぞ」
副級長は大げさに険しい表情を作りました。
「乱暴な話し方よりはいいじゃないですか?」
「そうなんだけどさ。距離を感じるというか、なんか親密になり難いんだよな」
副級長は長身で線の細い男子です。まだ話すようになって間もないのですが、正直、私は副級長のことが気になっていました。しかしそれと委員会の仕事は別です。公私混同をしてはいけません。
「結局、今回の議題は部費になったのですね」
私は資料に目を通しながら本題へ入りました。
「生徒会長の選出方法を議題に挙げたかったので残念です」
「へえ、雨宮が生徒会長狙いなんて初耳だな」
「生徒会長になりたいわけではありません。選出方法に疑問を呈したかったのです」
「ん、興味もないのに選出方法に口出しするつもりだったのか?」
「現状の人気投票みたいな選出方法に疑問を持たないのですか? あれでは優秀な役員を適材適所へ振り分けることもできません。早急に改善すべき問題です」
副級長はやれやれという風に肩をすくめました。
「俺はあの適当さがいいと思うんだけどね。生徒会は国民の生命を預かる軍隊じゃない。ある程度の厳格さを保てれば、あとは生徒主導のほうが理想的だと思うよ?」
「意見の相違ですね」
私は校舎へ向けて歩き始めました。副級長が慌てた様子で追いかけて来ます。
「怒るなよ。俺たちが気まずくなったらクラスにも迷惑をかけるだろ?」
「いつからクラス思いの副級長になったのですか?」
歩きながら皮肉る私の肩を副級長が押さえました。仕方なく私は振り向きます。
「雨宮、俺のこと嫌いなのか?」
そう告げる副級長の表情は真剣そのものでした。なので私も真面目に応じます。
「そんなことはありません」
「それなら俺と付き合ってくれないか?」
あまりに唐突な告白でした。勢い余ったのかもしれません。あるいは魔が差したというべきでしょうか? ともかく青天の霹靂でした。
恋愛経験。
それは青春時代の想い出に欠かせない存在でしょう。片想いも一つの形ですが、叶うなら両想いが素敵です。好きな人から告白されるなんて、まさにその理想形と言っても過言ではないでしょう。私は慎重に言葉を選びました。
「冗談なら怒りますよ?」
「冗談じゃない。本気で付き合いたいと思ってる」
とても喜ばしい申し出でした。早急に良い返事をしなければなりません。
「――――」
私の発言を制止するように予鈴が鳴りました。最悪のタイミングです。
「返事は放課後にでも聞かせてくれよ」
そう言い残すと、副級長は教室と違う方向へ走って行きました。本当によく働いてくれるので、級長である私は随分と楽をさせてもらっています。
私は一人で教室へ向かいました。
好きな人から告白されるなんて夢のような気分です。世界は私を中心に回っているのかもしれません。多くの仲間に囲まれて、成績も容姿も性格も高評価を得ています。そこに今度は恋人が出来ました。なにもかもが順調で怖ろしいくらいです。
まるで夢のような世界です。
放課後。
私は副級長の告白を受け容れる返事をしました。委員会が終わったあとだったので、これからの行動は限られています。ある意味で当然の申し出だったのかもしれません。
「送って行くよ」
「方向が違いますよね?」
「そんなの気にすることじゃないさ」
「バスの定期は持っているのですか?」
「…………」
「わかりました。歩いて帰りましょう」
そんなわけで、徒歩で帰宅することになりました。
高校生の男女が肩を並べて歩く画は、なんとも青春ドラマ的で、そんな光景を夢に見なかったと言えば嘘になります。そして現在、その夢を叶えているわけなのですが、どうしても素直に喜べない私がいるのでした。
理由は判然としません。
「徒歩だと四十分くらいかかるみたいだな。せめて俺が自転車通学だったら、もうちょっと彼女を家まで送ってる感じになったのにさ。ほんと俺の都合で面倒なことに巻き込んじゃって悪かったな」
「気にしないでください」
帰宅時間が遅くなることも、歩きになったことも問題ではありません。重要なのは現状を楽しめない原因です。もやもやした感情の正体と呼ぶべきかもしれません。
「ひょっとして、なにかあったのか?」
「どうしてですか?」
「さっきからずっと浮かない顔をしてるからだよ」
浮かない表情をしている原因は明白です。その正体がわからないのが問題でした。
「なにかこう、しっくり来ないのです」
「…………」
「どうかしたのですか?」
「いや、付き合い始めた日に別れ話もあるのかなと思ってさ」
「すいません、そういう意味じゃないのです」
言い表しようのない違和感があるだけなのです。ともあれ少し建設的な話をしましょう。
「こうやって好きな人と肩を並べて歩くのが夢だったのです」
「その相手は俺でよかったのか?」
「はい。だから、これからもずっと私の傍にいてください」
「……雨宮……」
副級長は柔和な笑みを浮かべました。自然と私も笑顔になります。
「里依紗って呼んでいい?」
「もちろんです」
整理のつかない気持ちに振り回されるのはやめましょう。現状を楽しむべきです。それが青春というものでしょう。私は副級長を見やりました。
「時間ある?」
「はい。家に帰っても夕食まで勉強するくらいですからね」
「それだったら、ちょっと寄り道していかないか?」
「どこへ行くのですか?」
「あそこ」
指し示された方向にはゲームセンターがありました。案内によると一階に定番のビデオゲームやコインゲーム、二階にはモグラ叩きやレースゲームなどが設置されているみたいです。この規模になるとゲームセンターと異なる名称があるのかもしれません。
「いいですね。興味があります」
「それじゃあ、決まりだな」
そう告げると、副級長はゲームセンターに向かって歩き出しました。
夕方という時間帯もあって、店内には学生の姿が多くありました。こういう場所を訪れたのは初めてなので、不良になってしまったような気分になります。落ち物パズルや格闘ゲームの脇を抜けて二階へ進みました。
「付き合い始めた記念にどうかな?」
一角に多数のプリクラ機が設置されていました。使用したことはありませんが、どういうものかは理解しています。たしかに記念には欠かせない代物かもしれません。
「そういうのは女の子が口にする台詞じゃないですか?」
「初回特典ということでいいだろ」
「わかりました。そのかわり次からは私が言いますよ?」
「そのときは優等生な委員長じゃなくて、できるだけ可愛らしい幼馴染み風で頼むよ」
副級長は涼しい顔で難しい条件を突きつけてきます。私は額の汗を拭いました。
「……やってみます」
「真面目かっ!」
「冗談ですよ」
「……それはそれで哀しい」
どちらともなく顔を見合わせて、ほとんど同時に吹き出していました。
ただ一緒にいるだけで幸せです。充実しているとはこのことを言うのでしょう。
まずは予定通りプリクラを撮って、それから脈絡のない順番でゲームセンターを遊び尽くします。本当に楽しくて、こんな日がずっと続けばいいのにと思いました。それなのに違和感が消えません。楽しくて仕方がないのに、それを楽しめていない私がいるのです。これは一体どういうことなのでしょうか?
散々遊んだあと帰路に着きました。時刻は八時を回っています。
私たちは肩を並べて歩き始めました。消えない違和感の存在は忘れてしまいましょう。
「こんな日がずっと続いてほしいよ」
「そうですね」
私は鷹揚に首肯します。不意に胸を刺すような痛みが走りました。反射的に胸を守るように手を当てます。痛みは一瞬で引いていきました。
「どうかしたのか?」と副級長は怪訝そうな表情を浮かべます。
「なんでもありません」
私は胸から手を離しました。痛みの原因はわかりません。
こんなにも楽しい気分なのに、どうして痛みを伴わなければならないのでしょう?
ひょっとすると、上手く行き過ぎている毎日に不安を覚えているのかもしれません。幸せ過ぎて怖いというやつです。しかしそれは推測の域を出ません。
「しかし里依紗に車の運転技術があるのは意外だったな」
鞄を肩にかけ直しながら副級長は言葉を紡ぎました。私は首を傾げます。
「ゲームと現実は違いますよ?」
「あのゲームはかなりリアルに作られた上級者向けなんだよ。初心者だとエンストを起こしまくってレースどころじゃないさ」
運動音痴には定評があります。とはいえ、運転技術と運動神経に関係性がないだけかもしれません。あまり深く考えないことにしましょう。
「それに落ち物パズルも上手かったよな。里依紗って実はゲーム好きなのか?」
ぐらりと頭が揺れます。なにかを思い出しそうで思い出せない感覚でした。
「どうした? 本当に様子がおかしいぞ」
「いえ、本当になんでもありません。はしゃぎ過ぎて疲れたのでしょう」
ふとコンビニを見やると、中学生くらいの女子が立ち読みをしていました。前方にある歩道橋を小学生くらいの男の子が駆け上がって行きます。反対側の道路では両手に紙袋を提げた肥満男が嬉しそうに微笑んでいました。
強烈な既視感。頭が痛くなります。副級長が心配そうに私の身体を支えてくれました。
「大丈夫か?」
大丈夫ではありません。本当に痛くて我慢できません。
横断歩道を渡ってきた中年男性が私を一瞥しました。信号が変わって、停まっていた大型単車が駆動します。古いアパートのベランダには煙草を吹かしている気だるそうな男がいました。違和感の原因はこれしか考えられません。
ああ、やっとわかりました。
夢のような世界を望んでいたわけではありません。私は逃げないと決めたのです。
「ユウさん、こんな世界に騙されてはいけません」
「……ユウ?」
副級長は訝しげな表情を浮かべました。
「私は霧島さんに『友だちになってください』と伝えたいのです。両親のところへ絶対に帰らなければなりません。それにこんな形でユウさんと結ばれたくありません。ちゃんとした世界で、きちんと恋愛をしたいのです」
夢のような世界は必要ありません。私は等身大の私を好きになりたいのです。
世界が大きく歪んで見えました。頭痛が酷くて意識が朦朧としています。
ふっと意識が途絶えました。
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