第2話

 1


 オフ会までの時間を外で潰そうかとも思ったのですが、思わぬ出費で軍資金に少々の不安が残ります。夕食は素直に家で食べることにしました。

「ただいま」

「おかえり……」

 はてさて、一体どうしたことでしょう?

 ちょうど玄関で鉢合わせた母が、未確認生物を発見したような顔をしています。

「ど、どうしたの? その格好……」

「あ」

 私は買った服をそのまま着込んでいたのです。Yシャツにカーディガン、フリフリのミニスカート、革製のブーツという謎設定の格好でした。本来なら制服姿で帰宅する娘が、謎の未確認生物になっていたわけです。

 それに今日は友達の家へ泊まりに行くと言いました。

 一、悪い友だちができる。

 二、格好を仲間の趣味に合わせる。

 三、不良の一員になる。

 こんな想像が母の頭の中を目まぐるしく駆け巡っている可能性があります。そこまで考えないにしても、変な想像をさせる格好とタイミングなのは間違いありません。

 私は早急にそれっぽい言い訳を捏造しました。

「バ、バンドをするのです」

「バンド?」

「は、はい」

 ステンレス製の定規を取り出して先端を弾きます。ベース音で母を威嚇しました。効果がありません。それでも私は「バンドをする」の一点張りで押しました。

「私の頃とは時代が違うものね。ええ、わかってるわ。音楽をするバンドよね。ええ、わかっているわ。ええ、楽しそうでなによりね」

 呪文のように「ええ」と納得しながら、母は自転車で夕食の買い出しに向かいました。

 母にとってモノサシストは常識の範疇を逸脱していたのかもしれません。というか、怪しげな服装でステンレス製定規を弾いてる時点で怖すぎです。

 私はとんでもない失態を犯してしまったのでしょうか?


 2


 適当に時間を潰したあと、私はオフ会の集合場所へ向かいました。

 そわそわしながらも巡回予定のサイトはきっちり閲覧しました。おかげでモノサシストの最新情報もばっちりです。生活習慣はそう簡単に変えられないということでしょう。

 今日は霧島さんとたくさん話をしました。そのきっかけもオフ会がなければ起こり得なかったことです。運命の悪戯とはこのことを言うのでしょう。おかげでクラスメイトと買い物へ行くという高校生らしい体験ができました。

 こんな時間に外出というのも当然初めてなので、今日だけで思わぬ数のイベントを体験することになりました。私はユウさんのオフ会に参加するために出かけているのですが、よく考えれば誰かに積極的に会いたいと強く思ったのも初めてのことなのです。

 考え事をしながら歩いていると目的地に着きました。

 誰もいません。妙な胸騒ぎがします。

「……あれ?」

 鬼瓦公園は決して小さな公園ではありません。近くにコンビニや二十四時間営業の牛丼屋があって、この辺りは終電がなくなるまで人の流れが多いと聞いていたのです。この時間帯に人通りがなくなるなんて考えられないことでした。

 それなのに、誰もいません。

 オフ会の参加者らしき人が見当たらないという甘いものではありません。

 見渡す限り人影がないのです。まるでお化けでも現れそうな雰囲気でした。

 私は独りぼっちです。

 文字通り誰もいないのです。

「あのー、誰かいませんか?」

 まさかこの台詞を使うときが来るなんて想像もしていませんでした。とはいえ、差し迫った事態に陥ると人間の行動パターンは単純化するのかもしれません。

 冷静に公園を見回しても、やはり誰もいない様子でした。

「すみませーん、誰かいませんかー?」

 普通の人なら偶然だろうと思うかもしれません。しかし私は並行世界へ移動してしまったとか、人類が一瞬にして消滅したとか、そういう二次元的な発想ばかり浮かんでしまうのです。ホラーやミステリーなら殺人が行われる状況ですし、青春や恋愛ならオフ会の参加者は私とユウさんだけという展開が予想されます。

 ともかく状況を整理してみましょう。

 私はオフ会の集合場所である鬼瓦公園にいます。道路を挟んだ先にコンビニと牛丼屋があります。車は目の前を通過して行きます。私の声が届く範囲に人がいないのです。

 時刻は集合時間の少し前です。あと数分でオフ会が開催されなくてはいけません。

 それなのに私は独りぼっちのままです。

 人除けの結界を張った覚えはありません。というか、そんな能力を持ち合わせていません。腕時計が動いているので、世界が一時的に凍結したわけでもなさそうです。とりあえず私はいつまで妄想を続けていればいいのでしょうか?

 私は大きくかぶりを振りました。今回に限っては安易に妄想と片付けられません。

 それほどの異常事態でした。

 孤独は幻想を生み出します。つまりここはファンタジーの世界なのでしょうか?

 地球が滅亡するとして、最後まで生き残った人はなにを想うのでしょうか?

 だって今、世界に残されたのは私だけなのです。

 学校でも家でも私は一人で過ごしてきました。でもそれは違ったみたいです。いくら否定しても、無視しても、受け入れなくても、周囲には必ず誰かがいました。本当の意味で一人になったことはなかったのです。

 この不思議な空間に迷い込んで、私は初めて独りぼっちが不安になりました。なんだか私の存在そのものも曖昧になってきます。このまま消えてしまいそうな雰囲気でした。

「誰か……誰かいませんか?」

 呼びかけを続けても返事はありません。

「誰かっ!」

 夜の街に私の叫び声だけが虚しく響きました。

「誰でもいいから返事をしてください!」

 もう一度呼ぼうと私は息を吸い込みます。すると公園の奥から靴音らしきものが聞こえてきました。音は次第に大きくなってきます。こちらへ近づいているのでしょう。

 やがて暗闇の中から人影が現れました。

「やあ、こんばんわ」

 背の高い青年でした。黒のロングTシャツにジーンズというラフな格好をしています。

 私は目の前に現れた青年を見つめました。

「今夜は月が綺麗だね。オフ会日和でよかったよ」

 ぱっと見で年齢はわかりませんが、いろんな意味で青年という言葉がしっくりきます。

 飄々とした態度ですが、どことなく知性を感じさせる風貌でした。

 私は眼前の青年に当然の疑問を投げかけました。

「あの……あなたがユウさんですか?」

「ええ、僕がユウです」

 髪を掻きながらユウさんは人懐っこい笑みを浮かべました。

「えっと、あの、その……」

「なにか聞きたそうな顔をしているね」

 当たり前です。ユウさんに聞きたいことは宇宙の元素と同じくらいあります。すいません、さすがに言い過ぎました。ちょっと気が動転しているようです。

「ともあれ最初に君の名前を教えてもらっていいかな?」

「名前……ですか?」

 事態の異常性が強くて失念していましたが、目の前にいるのは憧れのユウさんなのです。名前を聞かれて、改めて実感してしまいました。

 歳は離れていないように見えます。高校生か大学の一回生くらいでしょう。実年齢が外見以上に高かったとしても、それはそれでありだなと思えたので問題ありません。私は面食いさんじゃないのですが、格好いいに越したことはないとユウさんの顔を見て考えを改めました。

 平たく言ってしまえば、ユウさんは美男子だったのです。

 サイトやブログの内容で私はユウさんに惹かれたわけなので、内面を重視していると言えなくもないですが、それでもやっぱり禿げ散らかした頭のメタボおじさんだったら失望していたことでしょう。嘘を吐いてしまいました。失望どころか絶望していたかもしれません。

 人を外見で判断するなんて自己嫌悪に陥りそうですが、私は正直者なので、訂正しない方向で話を進めていくことにします。というか、私は誰に対して宣言しているのでしょうか?

「それで、名前は?」

 ユウさんが先を促しました。私は緊張のあまり名前すら満足に発音できません。

「あ、あま……あみっ、まやっです」

「ふむふむ、じゃあアイさんだね」

 違います。

 私の名前は雨宮です。

 そこで、ふと思い直しました。これはこれで都合がいいのかもしれません。

 アイとユウ。アイ・ラブ・ユウ。これ以上ない組み合わせです。

 ユウさんは周辺を見回しながら人差し指を折り始めました。なにやら数えているみたいです。邪魔をしたくないので、私は無言で待つことにしました。

「ふむ、ふむ、ふむ、アイさんを含めて参加者は七人だね」

「え?」

 驚いて振り返ると、そこには六つの人影がありました。年齢も性別も様々です。

 どういうことでしょう?

 さっきまで独りぼっちだったのに、随分と賑やかな人数になっていました。

 気だるそうな若い男、小学生くらいの男の子、派手な化粧で露出の多い女性、不気味な肥満体型の男、スーツ姿の中年男性、独り言を呟いている制服姿の女子の六人です。

 そこに異文化交流ファッションの私を加えると七人になります。

 参加者にこれといった傾向はありません。それにしても小学生や中学生くらいの子を参加させて大丈夫なのでしょうか? あとで親に怒られたりしないか心配になってしまいます。幸い補導や職質の心配はありません。一人が七人になったところで、世界は停止したままなのです。

 人が増えても不可思議な空間は継続していました。この閉ざされた世界に七人しかいないのです。正確にはユウさんを入れて八人でした。多いのか少ないのか判断し難い人数です。不安がないと言えば嘘になります。そもそも私は初対面の人と仲良く談笑する能力を持ち合わせていません。知らない人が集まるというオフ会の概念をまるで理解していなかったのです。あとは成るようにしかならないでしょう。

「ねえねえ」

「はい?」

 視線を移すと小学生くらいの男の子がカーディガンの袖口を引っ張っています。伸ばさないでほしいのですが、子供相手に恫喝するわけにもいきません。私はやんわりと少年の手からカーディガンを守りました。

「ボクたち、鬼なんだよね?」

「まあ……ユウさんの定義だと私は鬼になりますね」

「じゃあ、ボクは?」

「私には判断できません」

「どうして判断できないの?」

「私があなたのことをよく知らないからです」

「ふうん、まあいいや」

 諦めの早い男の子でした。

「それで気になることがあるんだ。お姉ちゃん教えてよ?」

「答えられる範囲の問題なら任せてください」

「お姉ちゃん、堅苦しい言葉を使うんだね」

 男の子は不思議そうな顔をしていました。

 私は対象年齢に合わせて話し方を変えたりしません。いつも安心の丁寧語なのです。

「ところで質問はどうしたのですか?」

 先を促すと、少年は思い出したように疑問符を投げかけてきました。

「鬼の居ぬ間に洗濯って言葉あるじゃん? あれってさ、もし自分自身が鬼だったらどうなるの? 服を洗えないことになるじゃん」

「それは……困りましたね」

 子供の発想は独創的でした。意味合いの違う「鬼」とか関係なしみたいです。

「ねえ、洗濯しちゃいけないの?」

「最近は全自動が主流なので洗濯機から離れておけば大丈夫じゃないでしょうか?」

「なるほど!」

 単純な子供でした。解答席に着かされた私にとっては楽な質問者で助かります。

「どう、アイさん?」

 ユウさんが爽やかな笑顔で近づいて来ました。鼓動が高鳴るのを感じます。

「アイさんって……子供好きなの?」

「そういうわけではありません。話しかけられたので答えているだけです」

「優しいね」

「そうでしょうか?」

「うん、それに話し方が丁寧なのもポイント高いよ」

 どうやらユウさんの中で私の好感度が上昇したみたいです。話しかけてくれた男の子に感謝しなくてはなりません。今ならカーディガンの裾を伸ばされても笑って許せる自信があります。むしろ子供の悪戯に優しく対応できるお姉さんを演じさせてください。

「ねえねえ、お姉ちゃん。このお兄ちゃんのこと好きなの?」

 前言を撤回します。

 子供は空気が読めないから嫌いです。感謝なんてとんでもありません。あとで叱っておく必要があるでしょう。私は動揺しながら問い返しました。

「ど、どうしてそう思ったのですか?」

「ただ聞いてみただけだよ」

「それならいいのです」

 もう少しで罠に引っかかるところでした。根拠のない発言だったようです。

「ねえねえ、お姉ちゃん。鬼に金棒って言葉あるじゃん?」

「はい」

「あれって時代の流れを無視してるよね? 鬼にバズーカとかのほうが強そうじゃん!」

「それだと鬼の怪力自慢を表現できないからじゃないですか?」

 常識的な回答をしておきました。さっきの発言に対する嫌がらせではありません。

「ふうん、お姉ちゃんの話はつまらないや」

 捨て台詞を吐いて男の子は走り去って行きました。

 これだから子供は嫌いなのです。泣いてなんかいませんよ?

「行っちゃったね」

「はい」

 おかげでユウさんと二人になれました。しかしそれがおかしなことなのです。

 こういう夢みたいな世界が存在するとは思えません。だから私は勇気を振り絞って確かめなければなりません。それによって現実に引き戻されるとしてもです。

「ユウさん、一つ質問に答えてもらってもいいですか?」

「どうしたんだい? 急に改まっちゃってさ」

「茶化さないでください」

 私は凛とした表情で訴えました。

「わかったよ。真剣に聞こう」

 眉目秀麗な青年は表情を引き締めました。私は両手を広げて正面に立ちます。

「私の服装……変じゃないですか?」

「そんなことはない。似合ってるよ、アイさん」

 安心しました。もうオフ会参加者以外の人が見当たらないなんて不思議な出来事は気にしません。そんな些細なことに疑問を抱いていたらオフ会を楽しめないですからね。

「さてと、それじゃあ、そろそろ歩くとしよう」

 その一言で、ついにオフ会が開催されました。ユウさんは悠然と歩き始めます。

「ど、どこへ向かうのですか?」

「ん? おかしな質問をするんだね」

 わけがわからないという表情を浮かべるユウさん。

「どういうことですか?」

「行き先なんて最初から存在しないよ」

 人差し指をメトロノームのように揺らしながらユウさんは言葉を継ぎ足しました。

「アイさんはこのオフ会の主旨を覚えてるかい? このオフ会は歩くことが目的なのさ。話をしながら夜道を歩いて親睦を深めるんだ」

 たしかに活動内容は夜道の散歩と書いてありました。

「目的地を決めると終わりも見えてしまう。終わらない旅のほうが魅力的で面白そうだと思わないかい?」

「素敵です」

 その企画もユウさんも素敵滅法です。終わらない旅に出ましょう。

「そう言ってもらえると嬉しいね」

「私も参加できて嬉しいです」

 自然な会話が成立しています。霧島さんに選んだもらった服を着込んでから、私は少しだけ前衛的な性格になれたのかもしれません。ユウさんに褒められたことも重大な要素です。とはいえ、この服装は「似合ってる」と言われて素直に喜んでいいものなのでしょうか?

 今になって怖ろしい事実に気づいてしまいました。

「おっと、先を越されちゃったね」

 数人の参加者が前方を歩いているのが見えました。出会って間もないのに、ほかの参加者はもう打ち解けてしまったのでしょうか?

「さあ、僕たちも行こう」

 ユウさんが歩を進めます。私もそのあとに続きました。

 ふと空を見上げると、そこには満面の星空が広がっていました。

 どうやら鬼しかいない不思議な世界にも月と星は存在するみたいです。


 3


 鬼による行進が始まりました。

 ユウさん主催のオフ会に集まった人なので、年齢や性別は様々ですが、あちらこちらで小粋な妖怪トークが繰り広げられています。鬼同士という親近感が心の壁を取り払ってくれているのかもしれません。

 私は少し距離を置いて様子を見ていました。いつものスタンスです。しかし段々と気分が悪くなってきました。正確にはイライラしているのかもしれません。

 どうしてこんな気持ちになるのか、今の私にはよくわかりませんでした。

 嘘です。

 本当は薄々わかっているのに、わからない演技をしているのかもしれません。

「どうしたんだい? 本当の鬼みたいな顔をしているじゃないか?」

 ユウさんが心配そうな顔をして近寄って来ました。

「はい……あの……まあ……ちょっと考えすぎてしまったみたいです」

 鬼みたいとユウさんに言われてしまいました。私は鬼のような形相を持つ独りぼっちの鬼らしいです。とても哀しくて泣きそうになりました。

「……冗談なんだから真に受けないでくれないかな?」

「本当に冗談ですか?」

「もちろんだよ。アイさんは鬼の中でも姫だからね」

「……私が姫ですか?」

「女王様のほうがよかったかい?」

「いえ、姫でお願いします」

「その意気だよ」

 くくくとユウさんは笑いました。姫っぽく「意地悪!」とか言いながら頬を膨らませようかと思ったのですが、想像以上にそういう萌えキャラは私に似合わないと気づいたので踏み止まりました。一瞬の好判断に拍手を送りたいです。

 ともあれ社交的に見えるユウさんが、本当に私やあの人たちと同じ鬼なのでしょうか?

 独りぼっちなのでしょうか?

 私にはよくわかりません。信じられないと言ったほうが正しいかもしれません。

「またまた険しい顔をしているね、アイさん」

「…………」

 なにも答えられませんでした。

「僕は鬼だけどさ。アイさんは鬼じゃないよね?」

「どうしてですか? ユウさんの基準に従えば私は鬼です」

「半分くらいは鬼かもしれないね。でもまだ完全な鬼じゃないよ」

「そうなのですか?」

 私は鬼なのでしょうか? それとも人なのでしょうか?

 よくわかりません。私はどちらになりたいのでしょうか?

「そうだよ。鬼である僕だからこそ断言できる」

 断言されてしまいました。

 私は独りぼっちだと思っていました。ゆえに独りぼっちが鬼なら、必然的に私は鬼ということになります。それを否定されたら、私は一体なんなのでしょうか?

 不意に友達の家へ泊まりに行くと伝えたときの両親を思い浮かべてしまいました。きっと私が思っていた以上に普段の私を気にかけていたのでしょう。それに霧島さんと話をしました。たまたま居眠りしたのをきっかけに話しかけてくれましたが、それはつまり普段から私を見ていたということでしょう。

 私は独りぼっちだったのでしょうか?

 そう思い込んでいただけということはないでしょうか?

 つまり逃げていただけなのです。他者と向き合わずに逃げ出していたのです。

 イライラしていた原因は私自身が不甲斐ないからでした。

「まったく……僕はいつでも泣く鬼には弱いんだよ。この単純な性格なんとかならないものかな。せっかく新しい仲間ができると思ったんだけど……やっぱりアイさんに鬼は似合わないよ」

 独り言のように呟きながら、ユウさんは私の目尻を拭いました。

 私はユウさんを見上げました。視界が歪んで世界が霞んでいます。

 ああ……泣いていたのですね。

「あの、どうして私は泣いているのでしょうか?」

「それを僕に聞くのかい? 僕は正真正銘の鬼だからね。その質問には答えられないよ」

「……どうしてですか?」

「アイさんは『泣いた赤鬼』って話を知っているかい?」

 私は無言のまま首肯しました。

 人間と友達になりたい赤鬼のために青鬼が憎まれ役を買って出る物語。それで一件落着すればよかったのですが、独りぼっちになった青鬼はどこかへ旅に出てしまうのです。それを悲しんだ赤鬼はわんわんと泣いてしまうという話でした。

「青鬼は今も旅をしながら仲間を探している」

「…………」

 ユウさんがユウさんを演じる上で必要な設定なのかもしれません。突っ込みを入れるのは野暮というものでしょう。私はなにも聞き返しませんでした。

「まあ、信じられないならそれでもいいよ」

 ユウさんは静かに語を継ぎ足しました。

「鬼は泣かないんだよ」

「いきなり話を否定していませんか?」

「そんなことはないさ。物語の最後で赤鬼は泣いた。そして鬼から人になったんだよ。独りぼっちじゃなくなった赤鬼は人になって、独りぼっちで旅に出た青鬼は依然として鬼のままなんだ」

 哀しそうにユウさんは顔を伏せました。

 鬼は独りぼっち。

 ユウさんは独りぼっちなのでしょうか? 私は独りぼっちなのでしょうか?

「泣いた私は人になれたのでしょうか?」

「……そうだね。ただし、ここに長くいると鬼になってしまうよ」

「鬼になる? ここはどこなのですか?」

 鬼瓦公園からそれほど離れてはいません。しかし世界は停止したままです。

 本当にここは一体どこなのでしょうか?

「僕はアイさんに謝らなければならない」

「謝る前に教えて下さい。この世界は一体なんなのですか?」

「ここは……どう説明したらいいんだろうね」

 ユウさんは困っていました。適切な言葉が見つからない様子です。

「……鬼の世界と呼ぶべきなのかな」

「鬼の世界?」

「だからここに長くいると本当の鬼になってしまうんだ。一度鬼になったら、きっと人間に戻れなくなる。だから、そうなる前に脱出しなければならない」

「……鬼の世界……」

 私は聞き慣れない言葉を繰り返しました。

「いや、正確には僕の世界と呼ぶべきかな。この世界は僕そのものだからね」

 凍結した世界。

 外界から完全に隔離した世界。

 そんな世界にユウさんは私を連れて来たのです。

 どうしてそんなことをしたのでしょうか?

 ここにいる理由を聞くのはやめました。

 こんな超常現象を言語で説明するのは困難だと思いますし、ここがユウさんの世界なのだとしたら理由はなんとなく想像が付きます。

「ここは奇妙で孤独な世界だ。どうしてこんな場所にいるのか、アイさんは興味を抱かないのかい? 犯人は目の前にいるんだよ?」

「犯人ではありません。ユウさんは『鬼語』の管理人さんです。そして今日、オフ会だから私はここにいるのです」

 私は即答しました。オフ会だからここにいるというのは事実です。

 正直、私にはユウさんが正真正銘の鬼なのか判断できません。しかしここが本当に鬼の世界で、独りぼっちなのだとしたら、それはとても寂しいことです。きっと耐えられない孤独でしょう。誰かを誘いたくなる気持ちを私は否定することができません。

「……本当にアイさんは優しいね。惚れてしまいそうだよ」

 赤鬼になる前に私は顔を伏せました。惚れるとか初めて言われてしまいました。

 それだけではありません。もっと重大なことがあります。

 漠然と会話をしていましたが、相手は長身で美男子のユウさんなのです。

 そうじゃありませんでした。相手は私の好きなユウさんなのです。

 惚れられたいです。いや、むしろ惚れてください。

「アイさん……目を瞑ってくれないかな?」

「えっと、あの、その、唐突すぎましぇんか?」

 混乱して意味不明です。あと若干噛みました。

 男性が女性に目を瞑らせてなにをするのでしょうか?

 それは言わずもがなでしょう。キで始まってスで終わる行為以外に考えられません。

 ユウさんのことは好きですが、ちょっと性急すぎるのが気になってしまいます。会って間もないのにキスなんてしてもいいのでしょうか? 都合のいい女にされたりしないでしょうか? それとも今はこれが普通なのでしょうか?

 経験値の少ない私には判然としません。見栄を張りました。経験値は少ないじゃなくて皆無です。あるいは正の数で表記できずに負の数になっているかもしれません。

「いきなりで申し訳ないけど、あんまり時間がないんだよね。ゆっくりと目を瞑って、十秒数えてくれないかな?」

「あ、その、は、はい、わかりました」

 ここは覚悟を決めましょう。姫役である私が王子に恥をかかせてはいけません。

 漫画やアニメでキスの仕方くらい学習済みです。十秒数えるという展開は初見ですが、最近流行の演出なのかもしれません。深読みは禁物でしょう。

 大勝負のつもりで私は強く目を瞑りました。

「十」「九」「八」

 一つずつ区切って、ゆっくりとカウントします。

「七」「六」

 半分の時間が経過しました。今のところ変化はありません。

「よーし、それじゃあ」

 ユウさんの声が酷く遠くに聞こえました。

 あれ、私の目の前にいるんじゃないのですか?

 ひょっとすると、ほかの参加者を遠ざけているのかもしれません。

 ともかく私はカウントを続けました。

「五」「四」「三」

 周辺から人の気配がなくなりました。ほかの参加者が離れて行ったのでしょう。

 まるで独りぼっち。

 あれ、それはおかしくないですか?

「二」「一」「零」

 私は瞳を開きました。

 周辺には誰もいません。ユウさんを含めて誰もいなくなったのです。

 独りぼっちというのはわかるのですが、こうなった事情がまったく理解できません。ユウさんは目を瞑って十秒数えてほしいと言いました。素直に従った結果がどうしてこの状況なのでしょうか?

「あのー?」

 きょろきょろと公園を見回していると、小学生くらいの男の子と目が合いました。

「げ、見つかった」

 そう言い残して、男の子は駆け出して行きました。

 ひょっとすると「かくれんぼ」と「鬼ごっこ」を勘違いしていたのかもしれません。

 鬼ごっこ? 勘違い?

 嫌な予感がします。前代未聞です。超弩級の嫌な予感です。

 私も「キス」と「鬼ごっこ」を勘違いしていたのかもしれません。

「アイさーん! 早く逃げる人を追わないと! これは鬼ごっこなんだからさ!」

 追い討ちをかける声が遠くから聞こえました。

「一体どういうことなのですか?」

「目を瞑って十秒数えるなんて鬼ごっこの鬼以外にないでしょう?」

 楽しそうに逃走を再開するユウさん。

 ユウさんの中では「目を瞑って十秒数えて」=「これから鬼ごっこをしよう。鬼はアイさんだよ」という意味だったのでしょう。しかしそんな意訳の通じる相手がこの世界にどれくらいいるでしょうか? 少なくとも私はわかりませんでした。

「……怒りましたからね」

 このとき私は鬼になりました。一人残らず食べ尽くしてやるのです。もちろん本気ではありません。ただ無性に悔しくて腹立たしくて、鬼気迫る勢いで私は走り出しました。


 4


 無気力を画に描いたような若い男が呆然と立ち尽くしていました。最初から逃げる気がなかったのかもしれません。あまりにも呆気なくて私は拍子抜けしてしまいました。

「……俺には関係ないんだ……人は人……自分は自分……だろ? ほかの参加者が逃げたからって俺が逃げる理由にはならないよね。どうせ俺は体力ないし……走って逃げても一番最初に捕まったに違いない……だから……逃げても逃げなくても一緒だ」

 若い男は面倒臭そうに呟きました。人の嫌な部分を見たようで気持ち悪かったです。少しだけ戸惑いましたが、私は気だるそうに観念している男にタッチしました。これでこの人が鬼になるはずです。ローカルルールがあったとしても、タッチをすると鬼が代わるという大前提は揺るがないでしょう。

「あれ?」

 これで鬼じゃなくなると思っていました。しかし私がタッチをすると男は消えてしまったのです。霧散するように跡形もなく消失してしまいました。新しい鬼が誕生するどころか消えてしまったのです。ローカルルール云々の騒ぎではありません。

 私は困り果てました。

「この場合は一体どうすればいいのでしょうか?」

 胸が苦しくなりました。心臓に針を一本刺されたような、ちっぽけですが確実な異物感があります。人は人、自分は自分と男は言っていました。たしかにそうなのかもしれません。それでも挑戦する前から結果を決めていいのでしょうか?

 頭が痛いです。理由はわかりません。

 ともかくこの鬼ごっこは一筋縄ではいかないようです。とはいえ、ここで立ち止まるわけにはいきません。諦めたらそこで終了なのです。

 次の相手を求めて私は歩き出しました。

 真夜中でも暗くてなにも見えないということはありません。月明かりや外灯、それに各種店舗の照明が煌々と夜の街を照らしているからです。私は懸命にほかの参加者を捜しました。しかし簡単には見つかりません。逃亡エリアを限定していないので、当然と言えば当然と言えるでしょう。この世界全域からたった六人を捜し出すのは困難です。

 どれくらい経ったのでしょう。前方の道路を渡る人影を見つけました。

 二人目はスーツ姿の中年男性でした。

 私の存在に気づくと一目散で逃げて行きます。私は中年男性の背中を追いかけました。

 走る。走る。走る。

 運動不足に定評のある私ですが、それよりも先にスーツ姿の男性は力尽きました。肩で息をしながら交差点の真ん中に倒れ込みます。私が距離を詰めると寝返りを打って大の字になりました。

「やはり駄目だな。若さには敵わない。いくら私が努力しても若者には勝てない。羨ましいよ。君にはまだ望むものになれる可能性が残っている。それに比べて私は……もうどうしようもない。歳を取り過ぎてしまった」

「おじさん」

 私は対話を試みました。鬼ごっこを忘れて話に集中します。

「おじさんは変われないのですか? もう望むものになれないのですか?」

「なれないだろうね」

「どうしてですか?」

「……私には若さが足りない」

「そんなの理由になりません!」

 私は語調を強めました。おじさんは不可能な理由を若さに押し付けているだけです。

「無理なんだよ。無理なものはどうしようもない」

「そんなことありません!」

「どうしようもないんだ。圧倒的に時間が足りない」

「どうしてそう考えるのですか?」

「無理だよ。無理なんだ」

 会話が成立しなくなりました。おじさんの「無理」には理由がないのかもしれません。

 おじさんは最初の一歩を踏み出せなかったのです。たしかに怖いです。勇気が必要かもしれません。それでも諦めなければ可能性はなくらないのです。最初の一歩がどれだけ困難かわかっているのに強気な発言をしてしまいました。

 私は自分に優しく他人に厳しい人間だったのでしょうか?

 だとすれば鬼ではなくて鬼畜です。衝撃の事実でした。私は鬼以下の存在だったのかもしれません。とても切ない気持ちになってしまいます。

 独りぼっちの鬼も一括りにはできません。それぞれの立場があって、それぞれの考えがあって、それぞれの弱さゆえに鬼となったのでしょう。

 だからこそ、この鬼ごっこには意味があるのかもしれません。

「捕まえました」

 私が触れると中年男性は消えてしまいました。心臓に新しい針が突き刺さります。

 凍結された世界で、私は呆然と立ち尽くしました。

 ここは鬼の世界。誰かと交わることも誰かに混ざることもできない世界です。

 究極の独りぼっちです。完成された孤独な空間と呼んでも差し支えないでしょう。

 私が授業中に妄想で構築する引き篭もり空間の終着駅がこの世界です。

 外界から完全に遮断された世界。周囲の動向を気にしなくていい空間。

 あれ? それって理想の世界じゃないですか?

 誰かと競わなくていい世界。誰とも比べられない世界。変わらなくていい世界。

 変わりたいと思っても、実際に変わることは難しいです。無理なものは無理なのです。理由なんて考えなくても、始める前から無理なのは明白でしょう。それなら最初からなにもしなければいいのかもしれません。

 そう思っていた時期が私にもありました。

 仮にそうだとしても、なにも行動を起こさないのは逃げているだけです。失敗するとわかっているからなにもしないは言い訳にしかなりません。第一歩を踏み出すのに効率や非効率は関係ありません。

 それは今までの私にも言えることでした。利口な選択をしているように見せて、本当はただ未開な地を避けていただけなのです。傷付きたくなかったからでしょうか?

「……甘えてちゃいけませんね」

 盛大な溜め息を一つ吐いて、私は最初の一歩を踏み出しました。

 私が鬼じゃなくなるまで鬼ごっとを続けなければいけません。

 これは私に課せられた使命なのです。絶対に諦めないと心に誓いました。

 三人目は高架下で見つけました。

「現役女子高生の鬼姫ちゃんだ! ずっと探してたんだよ!」

 そう言って、肥満男は私に近づいて来ました。

 この人は鬼ごっこのルールを知らないのでしょうか?

「この世界に鬼姫ちゃんみたいな萌えキャラがいるなんて最高だよ」

 ファーストコンタクトでその発言はどうでしょうか? 少なくとも第一印象は最悪の部類に属します。関心がないだろうと詳細を伝えていませんでしたが、私は内向的あるいは自己完結的な趣味を持つ人たちに人気があるようなのです。

「鬼姫ちゃんの服装可愛いね」

「……どうも……」

 褒められて嫌な気分になったのは初めてでした。とにかく肥満男の舐めるような視線が気持ち悪いのです。私は数歩下がって距離を取りました。

「Yシャツにカーディガン、ゴスロリミニスカートと赤いウエスタンブーツ、そのアンバランスな組み合わせと、黒髪と涼やかな瞳が醸し出す物憂げな印象、攻撃的なファッションと繊細なメンタルが新たな萌えを生み出している」

「……どうも……」

 霧島さんと一緒に選んだ服を褒められたのは嬉しいのですが、やはり褒めてくれた相手が誰かということが重要なのかもしれません。それに褒め言葉がマニアックすぎて素直に喜んでいいのか悩ましいところです。

「ほかの連中は知らないけど、僕はこの世界を気に入っているんだ」

 気持ち悪い人なのですが、これまで話した参加者の中で一番意思が強そうです。

 はっきりとこの世界を気に入っていると言いました。

 独りぼっちの鬼らしく誰もいない世界を望んでいるのでしょう。

「向こうの世界で僕は酷い扱いを受けてきた。漫画やアニメが趣味だけど、それさえ僕を軽蔑するための道具にされてしまう。気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い。どこへ行ってもそればっかりだ」

 肥満男の訴えは悲痛なものでした。

 見た目で判断してしまったことが悔やまれます。どんな人も生きてるだけで気持ち悪がられていいはずがありません。私は他人にだけ厳しい鬼畜でした。

「鬼姫ちゃんはこの世界が嫌いなの?」

「そんなことはありません」

 オフ会参加者にとって、それは愚問にすぎます。

 この世界に集まったのは独りぼっちの鬼たちなのです。他者と関わることを避けてきた鬼にとって、外界と完全に隔離されたこの世界は理想郷と呼んでも過言ではありません。魅力がないと言えば嘘になるでしょう。

「お願いだ、鬼姫ちゃん! 僕からこの世界を取り上げないでほしい」

 肥満男は膝を折って地面に両手を付きました。土下座です。それほど向こうの世界で追い詰められていたのかもしれません。頭を下げることに抵抗を感じなくなるほど虐げられてきたのでしょうか? 向こうの世界は文字通り地獄だったのでしょうか?

「私は鬼ごっこを終わらせなければいけません」

「…………」

「これから私はほかの参加者を捕まえに行きます。それで解決できれば問題ないのですが、この鬼ごっこを終わらせる方法が『全員を捕まえる』だとしたら、私はあなたを捕まえなければなりません。だから今のうちに逃げておいてください。この世界に留まりたいなら私から逃げ切ってください」

「……そんな……」

 哀しげな声とともに肥満男は顔を上げました。

「ふひひ……白だ」

 私は咄嗟にミニスカートの裾を押さえました。恥ずかしさと怒りで赤鬼になっていたかもしれません。私は力任せに肥満男の顔面へ蹴りを入れました。人生初の暴力を振るった相手は満足そうな顔をして消えて行きます。

 鬼ごっこのタッチが手とは限らないのです。心臓に三本目の針が刺さりました。

 私は深夜の街を徘徊します。次第に敵索も慣れてきました。

 四人目をコンビニで発見しました。制服姿の女の子です。

 漫画雑誌を一人で立ち読みしていました。こちらに気づいていないようなので、背後からのソフトタッチを試みます。少し反則っぽいですが、おそらく成功していたでしょう。しかし私はその方法を取れませんでした。

「なにを読んでいるのですか?」

 声をかけると制服姿の女子は振り返りました。

「捕まえないんですか?」

「逃げないのですか?」

 鬼ごっこ中とは思えない緩い会話でした。私は続けて質問を投げかけます。

「あなたはこの世界を気に入っているのですか?」

「どうかな。多くの人は誰かとコミュニケーションを取るために、いろいろと行動を起こしたり情報を集めたりするじゃないですか? その苦労と得られるものを天秤にかけて取捨選択もする。私は面倒になって全部切り捨てちゃったんですよね。だからこの世界も向こうの世界も同じかな。私は存在しない。どこにいても存在しないのと変わらないんですよ。だから逃げません。捕まえるなら捕まえていいですよ」

「そんなことはありません。必ず見てくれている人がいます」

 私の声は眼前の少女に届きません。正攻法が通じるなら始めから鬼になんかなっていないのでしょう。それなら趣向を変えてみるのも悪くありません。

「私と勝負をしましょう」

「はい?」

 制服姿の女子は訝しげな表情で本から顔を上げました。

「簡単に捕まえられると面白くありません。だから私があなたに勝たない限りタッチできないルールにしましょう」

「変わった人ですね。勝負はゲームでもいいんですか?」

「もちろんです」

 私は笑顔で答えます。少女の表情も少しだけ緩んだように見えました。

 一時間後。

 お約束な展開になってしまいました。私の手には携帯用ゲーム機が握り締められています。目の前には携帯用ゲーム機を掲げる少女の姿がありました。言うまでもなく今のところ全敗です。独り遊びは得意なのですが、どうしても勝つことができません。

 勝負に指定されたのは「落ち物パズル」と呼ばれるゲームでした。上から落下してくるブロックを操作して、特定の形にすれば消えるという仕組みです。難易度の高い組み合わせを成功させて、対戦相手の形を崩していくのが勝利への鍵となっています。

「次はどれにしますか?」

 少女は微笑みました。

 一口に落ち物パズルと言っても、その種類は数十種類に及ぶのです。基本ルールは似ていますが、それぞれの特徴を把握していないと攻略は難しくなります。さらに対人戦となれば、これはもう相手の力量を上回るしかありません。

「わざと負けてくれたりしないのですか?」

「勝負をしようと言い出したのはそっちですよ?」

 ぐうの音も出ません。次善の策を考えましょう。

「落ち物パズルを含めた七番勝負にしませんか? 先に四種類のゲームで勝利した方が勝ちというルールです。次に行なうゲームは敗者が決めることにしましょう」

「ほかのゲームはどうするんですか?」

 どうやら興味を持ってくれたようです。ここは一気に攻め落とすべきでしょう。

「落ち物パズルは確定しているので、それぞれ三つずつ提案するのはどうですか?」

「なるほど、それで合計七種類のゲームが出揃うわけですね」

 少女は突き出した拳の親指を立てました。

「面白そうです。やりましょう!」

 七番勝負が承諾される瞬間でした。

 三十分後。

 そこには敗北する私の姿がありました。圧倒的実力差です。対戦者たる少女は一朝一夕で倒せる相手ではありません。調子に乗っていた過去の発言を撤回したいです。恥ずかしくて顔を上げることもできません。

「いつまでも私に構っている場合じゃないんですよね?」

「はい。私は鬼ごっこを終わらせなければいけません」

「私は充分楽しませてもらいました。もう大丈夫です」

 見やると少女の屈託のない笑顔がありました。

「本当にいいのですか?」

「はい。私に関心を持ってくれる人もいるんだなって思えましたからね」

「ありがとう」

 私は女の子の肩に触れました。音もなく消えていきます。

 これで針は四本になりました。

 なんとなく女の子が読んでいた雑誌を手に取りました。私の好きな漫画雑誌です。不思議なことに随分と古いバックナンバーでした。棚を見やると愛読していた雑誌や漫画本が所狭しと並べられています。おかしなコンビニと思いつつも、ついつい手が伸びてしまいました。好きな漫画に囲まれて、読まない理由はありません。

 しばし時間を忘れて読書することにしました。

 悪いことだと理解しているのですが、無人なので飲み物やお菓子も頂いておきます。誰もいないこの世界だからこそできる贅沢三昧でしょう。

 あれ? ここは想像よりも理想郷かもしれません。

 変な頭痛も治まっています。現実から目を背けて、妄想の世界に逃げ込めば頭痛を回避できるのでしょうか? それならコンビニに引き籠もるのもいいかもしれません。

 妄想は優しいのです。

 私は物語を読み進めました。

 完璧に完成した完結な世界で、現実では叶えられない大冒険に挑戦できるのです。そこには夢と希望がありました。決して裏切らない絆や愛も存在します。現実と違って、努力は必ず報われます。良いことをすれば誰かが見てくれています。困ったとき助けに来てくれる仲間がいます。そこには理想の世界が広がっているのでした。

 現実はいつも独りぼっちです。誰も助けてくれません。

 ふと漫画から視線を上げました。

 高校生くらいの変わった服装をした女の子がいました。漫画雑誌を一人で立ち読みしています。それはコンビニのガラスに映った私でした。

 こんなところで時間を浪費している場合ではありません。

 コンビニを出て私は鬼ごっこを続行しました。

 胸を刺す痛みが増していきます。なんとなく針のからくりには気づきました。

 こう見えても私は頭が回るのです。天才肌なのかもしれません。こんな表現をすると頭の弱そうな子に思われそうですが事実です。きっと神様に選ばれた特別な存在なのでしょう。学校の勉強でわからないことはありません。五教科すべてのテストで満点を取ったこともあります。だから他人が私のことを理解できないのだとしたら、それはきっと相手に問題があって私に非はありません。

 嘘です。私みたいな勉強しか能のない暗い妄想大好き便所虫のことを、日々を楽しく過ごしている他者は理解する必要がありません。人間失格に等しい私は、ひっそりと消えたほうがいいのかもしれません。

 友だちもいません。霧島さんは級長として私に声をかけただけでしょう。仮にそうでないとしても、友だちと呼ぶには距離が遠いような気がします。

 私は鬼で人と相容れない存在なのでしょう。永遠に独りぼっちなのです。

 頭が痛くなります。ともかく鬼ごっこを攻略するしかありません。

 私は走りました。孤独から逃れるように走ります。

 どこまで行っても他者の温もりを感じられない世界。

 閉ざされた世界。

 これが私の求めていた理想郷なのでしょうか?

 ユウさんは私の救世主になってくれるのでしょうか?

 わかりません。ただ今は鬼ごっこを終わらせることだけに集中すべきです。

 髪を振り乱しながら走りました。必死にオフ会参加者を捜します。

 どれくらい経ったのでしょう。歩道橋の上に人影を見つけました。

 五人目は最初に会話を交わした小学生くらいの男の子でした。

「あっ! 鬼だ!」

 私に気づくと全速力で逃げて行きました。逃げられたら追いたくなるという心理は本当のようです。初めて鬼ごっこらしくなりました。相手は小学生なのですが、運動音痴の私だとなかなか追いつけません。

「待ちなさい!」

 気分を出すために叫んでみました。

「わかったよう!」

 元気のいい声で応えて、少年は立ち止まりました。

 純粋です。純粋すぎです。私の話を面白くないと言っていた子供とは思えません。

 あれ? ひょっとすると私の話は本当に面白くなかったのでしょうか?

 それはそれで認めたくない事実です。私は当然の疑問を投げかけました。

「あの、どうして止まるのですか?」

「え? お姉ちゃんが待ちなさいって言ったんじゃないか!」

「そうなんですけど……鬼ごっこなので逃げてもらわないと困ります」

「どうして困るの?」

「それは……」

 私にもわかりません。鬼としては一刻も早く捕まえるべきなのですが、どういうわけか躊躇してしまう自分がいるのです。触れれば消えるからでしょうか? それは違うような気がします。もっと根底にある気持ちが私を戸惑わせているのです。

「お姉ちゃんは鬼なんだろ? それでボクを捕まえなくちゃいけない。どうして鬼は鬼じゃない人を追うのかな?」

「それは……寂しいからだと思います」

 ふと口を衝いた言葉に驚きました。

 寂しい? 鬼が? それとも私が?

「どうして寂しいのに逃げてもらわないと困るの?」

「そういうルールだからです」

「そのルールさ、なんとかならないの?」

「それは……」

 本当に子供は思ったことを口にします。私は言葉を濁すことしかできませんでした。

「鬼は怖がりなの? 人と仲良くしたいのに、人と触れ合うのが怖いの?」

「そうかもしれませんね」

「じゃあ、鬼は結局どうしたいの?」

 そうなのです。どんなに議論を重ねても行き着くところはそこでしょう。

 結局どうしたいのでしょう?

 独りぼっちの鬼は誰かと仲良くなりたいのでしょうか? 一人だけの世界で静かに暮らしたいのでしょうか? それとも別のなにかを求めているのでしょうか?

「お姉ちゃんはどうしたいの?」

 私はどうしたいのでしょう?

 それが一番の問題です。私にしか決められない大問題です。

 私は一体どうしたいのでしょうか?

「このままでいいの? ボクは一体どうすればいいの?」

 男の子は地団駄を踏みました。

「逃げればいいの? 捕まればいいの?」

「……わかりません」

「どうして、どうしたいのかわからないのさ?」

 この少年は素直です。

 疑問を持って、理由を求めて、終わらない問いに解答を求めているのです。まるで果てのない自問自答を繰り返しているようでした。

「自分自身のことがわからないときもあるのです」

「そんなの答えになってないよ」

 たしかに、その通りかもしれません。私は答えを出すのが怖くて保留しているのです。わからないことにして、それ以上追求しないようにしているのです。

「自分の気持ちに正直になればいいだけだろ!」

 少年は吼えました。それでも私は沈黙することしかできません。

「お姉ちゃんなんかに捕まってやるもんか!」

 そう言って、少年は駆け出しました。

 鬼ごっこの再開です。

「待ちなさい!」

 呼びかけても今度は立ち止まってくれませんでした。私が納得のいく答えを出すまで、男の子は逃げ続けるつもりなのでしょう。私は追跡しながら思考を巡らせます。

 ユウさんの主催したオフ会で鬼の世界に連れて来られました。どういうわけか私が鬼で鬼ごっこが始まります。参加者は逃げることに積極的ではありません。あくまでマイペースに鬼ごっこをしている様子でした。

 いえ、そうじゃありません。参加者は私を試すような言動を取っていました。

 なにかを伝えようとしていたのでしょう。あとは私が理解するだけです。

 走りながら考えました。疲れで思考が鈍ってきます。それでも必死に考え続けました。

 私はどうしたいのでしょうか? どうすればいいのでしょうか?

 ああ、やっとわかりました。

 この鬼ごっこは最初から私とユウさんだけの物語なのでしょう。それならやるべきことは一つしかありません。私は逃げる少年に届くように大きな声で叫びました。

「待ってください! どうしたいのかわかりました!」

 ガードレールを飛び越えて、道路へ躍り出た少年の足が止まりました。ゆっくりと振り向いて私を見上げます。私は息を整えながら男の子との距離を詰めました。

「私はユウさんを捜します。ユウさんに会いたいんです」

「じゃあ、ボクはどうすればいいの?」

「私に捕まってくれませんか?」

「うん、わかったよ」

 私は少年の頭に手を乗せました。心臓に一本の針が追加されます。

 寂しかったのです。怖かったのです。誰かに助けてほしかったのです。

 私は自意識過剰な鬼ですから、他人にどう見られているのか、どこかおかしいところはないか、それらを気にするあまり人と会話することが億劫になったのです。もっと明確に最初の一歩を踏み出さなければなりません。ユウさんは私の救世主になってくれるのでしょうか? それとも私が創り出した空想上の鬼なのでしょうか?

 頭が混乱して痛いです。私は頭痛に耐えながら歩を進めました。

 この孤独な世界を創造したのは誰ですか?

 オフ会の参加者たちを創造したのは誰ですか?

 わかりません。そもそも自問自答で解決できる問題ではないのです。

 それなら試すべきことは一つでしょう。私は立ち止まって呼吸を整えました。

 すべてが私の創造世界なら、今すぐユウさんを連れて来てください!

 心の中で強く念じました。もしここが私の精神世界なら、創造主の願いは実現されるはずです。当然のようにユウさんが目の前に現れてもおかしくありません。

 しかし無反応です。なにも起こりません。

「すべてが私の創造世界なら、今すぐユウさんを連れて来てください!」

 今度は叫んでみました。やはり反応はありません。

 創造された世界。

 もしこの世界が芝居だったら観客はいるのでしょうか?

 どこかでポップコーンを片手に持った人々が、私の右往左往している様子を見物して笑っているのでしょうか? そんな映画を見たこともあります。笑われている人は独りぼっちで、笑っている側は大勢という構図でした。

 深みにはまったのかもしれません。どんどんわけがわからなくなります。

 私は誰なのでしょうか? 本当に両親の子供なのでしょうか? 実は私以外の人間は存在しなくて、私という人間を宇宙人が観察しているのではないでしょうか? 世界は滅亡していて、私の脳だけが水槽の中に浮かんで夢を見ているだけなのではないでしょうか?

 小学校に入学する前から、私はこんな妄想をしていました。

 だから誰かを必要としない孤独を選んだのでしょうか?

 この世界は私にとって理想郷なのでしょうか?

 わからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからない。

 私は再び歩き始めました。頭痛が酷くなったからです。

 この頭痛は誰かを必要としている私からの訴えなのでしょう。この孤独な世界から一刻も早く出たがっている私が存在する証です。この世界に進化は望めません。閉ざされた空間に未来はないのです。新しい一歩を踏み出すには脱出するしかありません。

 六人目は寂れた公園にいました。派手な化粧の女性です。

 ベンチとブランコしか設置されていない公園で、女性は寂しそうにブランコを揺らしていました。私が近づいても逃げようとしません。

「あの……」

「あら、鬼ごっこの基本も知らないの?」

 振り向きながら女性は苦笑しました。

「……基本ですか?」

「この場合なら気づかれないように忍び寄ってタッチするのが常套手段でしょう?」

「そうかもしれません」

「とりあえず隣に座ったら?」

 落ち込む私に女性は微笑みかけてくれました。促されるまま私は隣のブランコに腰を下ろします。深夜の公園に女性二人というシチュエーションは、果たしてどのような場合に用いられるのでしょうか? 飲み会のあとに愚痴を語り合うOLでしょうか? それとも失恋相手を慰めているときでしょうか?

「変わった服装をしてるみたいだけど高校生?」

「似合っていませんか?」

「うーん、私に若い子のファッションはわからないわ」

 おどけるように女性は肩をすくめました。

「私も若いときはあなたくらい可愛いかったんだけどね」

「今でも綺麗じゃないですか!」

 思わず反応してしまいました。

「ありがとう。でも男は若い二十代の新人にしか興味が向かなくなるのよ」

「それって重要なことなのですか?」

 私は素朴な疑問を投げかけていました。

「特別な存在でありたいのよ。そんな上等な女じゃないってわかってるのに、その他大勢の中に含まれるのが苦痛で仕方ないの。誰からも認められる存在じゃないと嫌なのかもしれないわ」

「それは自分勝手で贅沢な悩みです」

 漫画や小説に出てくる高飛車キャラ並みの傲慢さです。

「わかっているわ。でもオール・オア・ナッシングっていうのかな? 中途半端に妥協するくらいなら消えてしまいたいのよ」

「どうして普通は嫌なのですか?」

「それを聞いてどうするの?」

「……わかりません」

 私は決まり文句を口にするだけでした。言いたいことを上手く表現できません。

「なんて言ったらいいのか、誰でもない誰かになりたかったのかな」

「特別な存在というのは……誰か一人にとっての特別な存在でもいいのですか?」

「それに納得できていたら、幸せになれたのかもしれないわね」

 女性は愉快そうに苦笑しました。とても切ない気持ちになります。

「私はユウさんを捜し出さなければなりません。捕まってもらえますか?」

「その人があなたにとっての特別な誰かなの?」

「はい」

 私は即答していました。女性は「そう」と呟いて視線を移動させます。その先には大型の単車が停められていました。見るからに高級感が漂っています。

「その前に少しだけ付き合ってもらえる?」

「あの、その……」

「決まりね」

 勝手に決定されてしまいました。しかし私に抗う術はありません。

 二人で公園の出口へ向かいました。そこでふと疑問が浮かび上がります。

「私が触れたら消えてしまいますよ?」

「便利な道具があるのよ」

 そう言って、女性は単車からベルトのようなものを取り出しました。それを身体に装着させると背中側に取っ手が付いていました。どうやら身体を密着させずに二人乗りするための道具みたいです。しかしこれで問題がすべて解決されたわけではありません。

「あの……ミニスカートで単車に乗るのはどうなのでしょうか?」

「誰も見てないから問題ないでしょう?」

「そういう問題ですか?」

「そういう問題よ」

 言い包められてしまいました。

「どうぞ」

 促されるまま私は大型単車の後部座席に跨ります。しっかりと取っ手を握りました。二輪に乗車する服装ではない上にヘルメットもありません。どうしてこんなことになっているのでしょうか? アクセルを吹かし始めた女性が発車の合図を送ってきました。

「停めてほしいときは声をかけてね」

「わかりました」

 大通りに出ると単車は次第に加速していきます。二人乗りは初体験ですが、安定していて怖いという感覚はありません。タイヤも車並みに分厚いので、大型のほうが二人乗りに向いているのでしょう。慣れてくると周囲を見渡す余裕も出てきました。

「いやー、やっぱり誰もいない道路を突っ走るのは気持ちがいいわ」

「走り屋なのですか?」

「違うわよ。ただ誰もいない道路を走ってると、そのときだけは世界を独占しているような気分になれるの。そういう感覚わかる?」

「わかるような……わからない感じです」

 深夜の街を一台の単車だけが疾駆しています。夜明けの海にでも連れて行ってくれるのでしょうか? それともこのオフ会と同様に目的地など存在しないのでしょうか?

「久しぶりにいい夢を見れそうだわ」

「それはよかったですね」

「そうね。ありがとう」

 単車は街を大きく一周して元の場所へ戻って来ました。

「あー、気持ちよかった」

「私も楽しかったです」

 私は降車して服装を正しました。女性も運転席から降りて単車を停めます。

「頑張ってね」

「ありがとうございます」

 私が手を差し伸べると、女性はそっとその手に触れました。一瞬で消失してしまいます。

 六本目の針が心臓に突き刺さりました。私は頬を軽く叩いて気合を入れ直します。

 あとはユウさんだけです。無我夢中で街を駆け回りました。

 私に捕まればユウさんも消えてしまうのでしょうか?

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る