第1話

 1


「生まれてきてすいません」

 私の一日は存在を全否定するところから始まります。

 おかしな宗教に入っているわけではありません。

 もし私の命で百万人が救えるという状況に陥ったら、喜んでそれを受け容れてしまうアクティブな英雄志願者でも自殺志願者でもありません。冴えない女子高生は仮の姿、その実態は異世界から地球を救うためにやってきた美少女戦士などという現実逃避をしているわけでもありません。

 生に対する畏怖、あるいは単純に恐怖を覚えているだけです。

 澄み切った蒼穹を見上げると、疚しい事がなくとも顔を背けたくなりませんか? 小さな子供の純粋無垢な瞳を見ると目を逸らしたくなりませんか? 夕陽が地平線に落ちていくのを見ると、もうすぐ夜が来ると安堵の息を漏らしたりしませんか?

 ひょっとすると私は美少女吸血鬼なのかもしれません。

 もちろん違いです。

 とはいえ、そういった妄想に傾倒したほうが結果的に良いのかもしれません。少なくとも生に対して畏怖することはないでしょう。ともかく私は今日も今日とて存在しない架空の話し相手に生まれてきたことを謝罪するのです。

「生まれてきてすいません」

 この一言で生きていることを肯定してもらえるとは思っていませんが、なんとなく洗面所で顔を洗って、朝食を食べて、制服を着て高校へ向かっても許されるような気分になるのです。出過ぎた発言をしてしまいました。今のは聞かなかったことにしてください。

 私なんかが当然のように普通の生活をしていてはいけないのです。ただ無為に過ぎていく私の一日は、誰かにとってのどうしても生きたかった明日だったのかもしれません。そう考えると、私は謝罪せずにはいられないのです。

 さてと、登校の準備が整いました。

 高校にはバスを使って向かいます。定期券を振りかざすと無料で目的地まで運んでくれる素敵滅法な乗り物です。授業の開始時間は全学年共通なので、バスの中は同じ高校の生徒で溢れていました。下級生から上級生まで揃っていますが、もちろん私に話しかけてくる生徒はいません。

 なぜなら愛と勇気だけが友だちだからです。

 すいません。嘘を吐いてしまいました。

 本当は小説と漫画とインターネットだけが友だちです。アンパ○マンさんより友だちが多いのは嬉しい事実でした。つまり友だちいない歴=年齢ということになります。それでもイジメに遭ったことはありません。一時期本気で透明人間説も考えましたが、どうやら教師その他の大人に見えているらしいので違うようです。

 人を好きになったこともありません。醤油を頭からぶっかけたような黒髪は最近流行っていないそうです。ああ、また失言をしてしまいました。これでは髪を染めたら私がモテるような表現になっていますね。政治家なら進退を問われるところでした。

「不適切な発言があったことを深くお詫び致します」

 学校での一日は坦々と流れていきます。武装集団に教室を占拠されたりしませんし、火災訓練が役に立つような火事が起こったこともありません。

 教壇に立っている物理の教師が黒板に式を書き始めました。

 私は真面目に授業を受けるタイプなので居眠りも雑談もしません。

 四限目が終わると、昼休みが始まります。

 もちろん私はトイレで弁当を食べています。こうすることで他クラスから遊びにきた生徒が椅子に困ることはありません。同時にトイレの花子さんという学校の怪談に信憑性を持たせる役目を担っているのです。要約すると私は便所虫ということになります。

 弁当を食べ終えると、私は小型パソコンを膝の上に置きました。

 最近の便所虫はパソコンが使えるのです。

 そこそこコンピュータの知識を有しているのですが、誰かに自慢したり傲慢な態度を取ったことはありません。本当は自慢できる相手がいなかっただけです。

 貴重な時間を無駄にしてはいけません。いつも巡回しているサイトを順次閲覧しなければならないからです。私は便所の中でもアクセス数に貢献するという応援活動を怠ったことがありません。すいません、本当は他に時間の使い道がないのです。

 パソコンを起動して、私はお気に入りのサイトにアクセスしました。

 鬼語。

 鬼に語と書いて「オニガタリ」と読むそうです。訪れた当初は鬼の言葉を教えてもらえるサイトだと思っていました。シンプルな黒い背景にトップ、プロフィール、メイン、ブログ、BBS、リンクと見出しが並んでいます。BBSというのは閲覧者が自由に意見や感想を書き込める掲示板で、平日の夜や休日を中心に盛り上がりを見せるのが恒例です。

 管理人は「孤独な遊牧民」さんと言います。サイトでは親しみやすくユウと名乗っているようです。だから私も脳内でユウさんと呼んでいます。

 鬼の名を冠するだけあって、メインコンテンツは鬼や妖怪に関する民俗学的考察です。かなり深くまで掘り下げているので、読み物としても大満足な内容になっていました。現在も更新され続けている超おすすめサイトです。

 このサイトのおかげで、私は妖怪博士と自称できるまでに成長しました。言い過ぎたかもしれません。なんちゃって妖怪博士と自称できるくらいに成長できました。

 メインコンテンツの更新がなかったので、私はブログをクリックすることにしました。

 別窓で開いた日記ページには、手書きと思われる青鬼のイラストが載っています。ハイセンス過ぎて、凡人である私には下手糞にしか見えません。これは時代に乗り遅れている私の責任で、管理人であるユウさんに一切の落ち度はないでしょう。

 そんなわけで、私はイラストから文章へ視線を移しました。

 ブログは更新されていました。


 ◇◇◇


『はっはーっ、突然だけど鬼ごっこはいいね。

 国民的遊戯と言っても過言じゃない。ケイドロも悪くはないんだけど、あれは泥棒の脱獄率高すぎなんだよね。それに警察より泥棒のほうが主役っぽいのが問題だよ。あれじゃあ、いくら楽しくても法治国家としては教育上の問題で国民的遊技に認定できないよ。

 おっと、話が横道に逸れちゃったね。

 本題は鬼ごっこだ。

 ルールに則ると鬼が追いかける側になるけど、歴史的に考えれば鬼は基本的に追われる側の存在なんだよね。迫害って表現したほうがわかりやすいかな。とにかく人間に煙たがられる怪物だったんだ。

 信用できないって人はメインコンテンツの「鬼語」を読んでくれよ。

 たしかに鬼は異形の化物って扱いで、人間とは比べものにならない力を持っている。でもそれは単体で考えた場合で、結局、最後に勝つのは数が圧倒的に多い人間なんだよね。少数派が滅亡するなんて話は、いつの時代にも存在する自然の摂理なんだよ。

 ところで鬼ごっこも鬼は一人だよね?

 あれ、それともウイルス感染のゾンビみたいに増えていくんだっけ?

 ああ、深い意味はないよ。とりあえず言ってみただけだからね。

 はっはーっ、画面の前で「意味ないのかよ」って突っ込みを入れてくれた人には感謝しておくよ。このブログの趣旨をよく理解してくれてありがとう。

 さて、鬼の話をしよう。

 鬼は「隠」が語源だという説は知っているよね?

 知らない人はメインコンテンツの「鬼語」を読むことを推奨するよ。

 でもまあ、語源の真偽なんてそれほど重要じゃないけどね。

 覚えておいてほしいのは鬼の誕生秘話のほうだ。

 鬼は憤怒や憎悪から生まれるとされている。子供を殺された母親が鬼になったり、恋人を亡くした男が鬼になったりするわけだ。中には理由もなく鬼になってしまう人もいるみたいだけどね。ともかく鬼は負の感情から生まれるんだ。ただし付随する条件がある。

 鬼は孤独でなければ生まれない。つまり誰かが一緒にいれば誰も鬼にはなれない。

 異端っていうのはさ、大勢の普通に触れて初めて異端と認識されるんだよ。だから鬼は畏怖の対象になるんだろうね。だって明らかに周りと違う奴がいるわけだからさ。つまり誰もが普通じゃないと判断したときに鬼は生まれるわけだ。

 普通の輪から外れて、異端扱いされると大変だよ。

 そう簡単には元に戻れない。一度独りになると基準がわからなくなるからね。

 ほんと孤独は怖い。

 でもまあ結局のところ、ただの悪循環なんだろうね。

 わからない、怖い、わからない、怖いのループじゃ仲良くなんかなれないさ。

 そういう意味では現代にも鬼がいっぱいいるだろうね。わからないから怖い。だから距離を取るなんて鬼予備軍を入れたら、それはもう結構な数になること請け合いだろうね。

 いいかい?

 人間は一人では生きていけない。

 ずっと一人でいれば、いずれ鬼になってしまう。人の心を忘れてしまうんだ。

 人という漢字は互いに支え合っているんだとか、一方がもう一方に寄りかかって楽をしているんだとか、いろいろな見方があるけど、少なくとも自分以外の誰かを必要としている点では共通しているんだよね。

 家族でも友人でも恋人でも隣の家に住む綺麗なお姉さんでも誰でもいい。

 誰かに観測されなければいけない。一人では存在を肯定できないからね。「我思う、ゆえに我あり」という言葉もあるけど、それじゃあ、ちょっとばかり足りないじゃないかと僕は考えるわけだよ。「我」じゃなくて「誰か」じゃないと孤独は解消できない。

 おっと、悪い癖がまた出たよ。

 最初は鬼ごっこの話をしていたんだっけ?

 途中から鬼の話になっちゃったけどさ。でもまあ、これもブログの醍醐味だと思うし、推敲したりせずに原文のママ載せちゃうんだけどね。アップロードに失敗して記事が消失したときは書き直す気力がないから短文にするけどさ。

 さてと、それじゃあ短文になっても報告しなければならないことを書くとしよう。

 重大発表!

 オフ会をすることになりました。

 詳細は随時更新していきます。

 なにか良い事あったらいいね、ユウでした』


 ◇◇◇


 一気に読み終えて呆然としていました。誰かがトイレに入って来なければ、昼休みが終わるまで気づかなかったかもしれません。ともかく私はブログを拝見して理解しました。

 どうやら私は美少女戦士でも美少女吸血鬼でも便所虫でもなかったようです。

 鬼でした。

 全国独りぼっち王選手権があれば、かなり上位まで勝ち進める自信があるのです。

 もし孤独な存在を鬼と呼ぶのなら、ひょっとすると私は上級職の鬼かもしれません。下っ端を顎で使えるような偉そうな鬼です。ところで孤独な鬼に上司や部下といった階級制度は適用されているのでしょうか?

 閑話休題。

 重要なのは鬼そのものです。上下関係の有無ではありません。

 私はトップページに戻ってプロフィールをクリックしました。管理人であるユウさんがどのような人なのか知りたくなったのです。お気に入りサイトの管理人さんを知らないのも変かもしれませんが、私が誰かに興味を抱いて調べるなんてもっと変なことなので許してください。

 画面にユウさんの簡素なプロフィールが表示されました。

 名前、孤独な遊牧民。

 年齢、永遠の十五歳。

 私より年下でした。しかし永遠という枕詞に注目しなくてはいけません。永遠の○○歳という表現は、実年齢が上がるにつれて使い難い側面を有しています。そこから推測すると、ユウさんは私より年上で中年までいかないくらいでしょう。もちろんアクティブなお爺さんという可能性も否定はできません。

 趣味、好きな本、好きな映画、好きな音楽と項目が続いていきます。

 どういうわけか私と被っていました。ユウさんが好きと書いてあるから私も好きというわけではありません。もし仮に今プロフィールを見て好きになった作品が含まれていたとしても、それは出会う前に好きな作品として紹介されていただけのことなのです。これからネットオークションで入手して好きになるのですから問題ありません。

 私は一体なにを言っているのでしょうか?

 ともかく私がユウさんのサイトを気に入ったのは必然だったのかもしれません。

 似た者同士なのです。

 ところで今日のブログには重大な発表がありました。

 ラスト三行に注目してみましょう。オフ会が行われるらしいのです。つまり鬼たちが一堂に会するかのようにオフラインで集まるわけです。要約すると出会いですね。

 軽く頭が混乱してきました。鼓動が高鳴って混乱に拍車をかけてきます。くらくらしながら私はトップページへ戻りました。今度はBBSをクリックします。

 そこで予鈴が聞こえてきました。

 昼休み終了まで五分しか残っていません。他の巡回サイトは夕方以降に訪れるとして、私はオフ会の情報収集をすることにしました。

 掲示板にはオフ会に関するスレッドが立てられていました。

 どうやらオフ会が行われるのは間違いなさそうです。悪意のある鬼も登場するかもしれませんが、今のところ掲示板は穏やかに進行しています。ほとんどの人がユウさんの更新を楽しみにしているようでした。

 ひょっとすると今朝の夢は予知夢だったのかもしれません。

 夜が楽しみで仕方ありません。

 なぜならユウさんはいつも夜にサイトを更新するからです。


 2


 数日後の夜、ブログにオフ会の情報が更新されました。


 ◇◇◇


『オフ会について!

 20××年○月△日にオフ会をすることになりました!

 現代にも鬼は結構いると思うんだよね。むしろ考えようによっては増えてるかもしれない。それも一つの処世術かもしれないけど、なんかちょっと違う気がするんだよ。

 苦しんでる鬼もいるんじゃないかな? 隠れて泣いてる鬼もいるんじゃないかな?

 今も昔も僕は泣いてる鬼に甘いんだよね。

 さて、本題に入ろう。

 現代っ子のユウはインターネットを通じて同志を集めることにした。

 細かいことは決めてない。ルールとして定めたのは参加資格と活動内容くらいさ。

 参加資格は鬼あるいは鬼かもしれないという自覚があればOK。

 活動内容は夜の散歩ってところかな。鬼ごっこでもいいけどね。

 わかりやすく表現すれば、ネットのオフ会で集まった奇人変人が夜の街を散歩するわけさ。深夜徘徊と言うべきかな。それで警察に職質をかけられたら急遽鬼ごっこにしてしまうのも面白いかもね。

 集合時間は午前零時。

 集合場所は鬼瓦公園。

 正確な場所がわからない人にはメールで地図を配布しているから安心してほしい。

 なにか良い事あったらいいね、ユウでした』


 ◇◇◇


 鬼瓦公園。

 あまり利用しない方面にある公園ですが、近所なので場所くらいは正確に把握していました。おそらく徒歩で三十分くらいでしょう。

 私は自室のベッドの上で寝返りを打ちました。意味もなく寝転がる癖があるのです。殺風景な部屋にはパソコンと本や小物を収納するためのラックしかありません。嘘でした。それなら私が寝転んでいるベッドが存在しないことになってしまいます。しかしそれらは重要なことではありません。

 夜中に外出するための口実を考えなくてはいけなくなりました。愛と勇気だけが友だちの私は、そもそも外出する機会が極端に少なかったので、両親から外出許可を取る必要がこれまでなかったのです。ごろんごろんと寝転がってみても妙案は浮かびません。

 うーん、どうしたものでしょう?

 そのうち羊の群れが軽快な動きで襲ってきました。


 3


 ステンレス製の定規を机の縁から少しだけ出して、その先端を指で弾くとベースと同じような音を表現できるそうです。私もステンレス製の定規を購入して挑戦したみたのですが、どうやら私の購入した定規は動画の中で使用されているものと違うようでした。見た目も品名も一緒ですが別物でしょう。なぜなら変な音しか出ないからです。

 ぶいーんぶいーん。

 しばらくすると、休み時間が終わりました。

 数学の授業が始まります。

「ふぅー」

 腕時計の針に息を吹きかけても、当然のことながら時計の針は速くなりませんでした。

 どうも授業に身が入りません。それに授業中は定規を弾けないので退屈です。

 学校は嫌いなのですが、平穏な授業は嫌いではありません。

 ノートを借りる友人がいないからという消極的な理由で、積極的に授業を受ける必要があることも否定はできません。今日の授業範囲がテストで出ないことを祈るばかりです。

 授業は滞りなく進行していきます。

 数学教師が黒板に式を書くと小粋な音が響きました。小声で雑談する生徒、居眠りする生徒、読書やゲームを興じる生徒、携帯メールで密に連絡を取り合う生徒、教室の中に一体感はありません。形式的に授業が行われているだけで、それぞれの生徒が好き勝手なことをしています。そんな空間の中で、私は一人だけの世界に没頭していきます。ただただ意識を集中させるのです。

 すると教室の中に不思議な空間が生まれます。

 そこは世界と隔絶した絶対領域で、外部からの攻撃をすべて無効化してくれるのです。格好いい呼び方をするとATフィールドです。すいません、中二病に罹患しただけかもしれません。名前なんてどうでもいいのです。専用の個室が出現したと思って頂ければ差し支えありません。

 いつもより愉快な気分でした。

 この独りぼっちな感覚が私を鬼だと証明してくれるからでしょうか?

 そう、私は鬼なのです。語尾にヤンスと付けたいくらいです。いやいや、それではただの雑魚キャラになってしまいます。ガンスならどうでしょうか? 幾分か鬼っぽくなりましたが、やめておいたほうが無難そうですね。

 どうしてこんなに浮かれてるのか、私の冷静な部分が回答を用意してくれました。

 簡単なことです。

 孤独な鬼であることを喜べる理由なんて一つしかありません。ただユウさんとの共通点が増えたのが嬉しいだけなのです。好きな本、好きな映画、好きな音楽、それらが一つ増えるだけで楽しくて仕方がありません。しかし浮かれてばかりはいられません。

 本日はオフ会なのです。

 告知から三日後に決行という節操のなさでした。非常識です。常識的な猶予期間がどれくらいか判然としませんが、三日間というのはいくらなんでも早過ぎると思いました。半年くらい心の準備をする時間がほしかったです。こんな非常識なオフ会に参加する鬼がいるのか心配でなりません。

 もちろん私は参加します。

 両親の承諾も朝のうちに得ることができました。二日間練りに練った計画を溝に捨て、口から出任せで友だちの家へ泊まりに行くことになったと告げたのです。

 もし本当なら前代未聞の出来事です。家族会議が開かれてもおかしくありません。

 友だちのいる気配を微塵も感じさせないのに、いきなり友だちの家へ泊まりに行くというのですから無理があります。しかも急な話だったので、私は挙動不審を画に描いたような状態でした。さすがに疑われると思ったのですが、父も母も特に突っ込んだ質問をせずに信じてくれました。

「仲のいい友だちができたんだな」「仲のいい友だちができたのね」

 たかが友だちの家へ泊まりに行くと伝えただけで両親はとても喜んでいました。

 父は遠い目で天井を仰いでいましたし、母は涙目をエプロンで拭う素振りを見せています。「今夜はお赤飯ね」と言われそうな雰囲気だったので、私は豚カツが食べたいという希望を事前に出しておきました。

 ともかく今さら嘘とは言えません。

 友だちの家へ泊まりに行くなんて嘘は、絶対に吐いてはいけない嘘だと思いました。罪悪感で胸が押し潰されそうです。おそらく私が思っていた以上に、普段の生活態度から両親に心配をかけていたのでしょう。無知ゆえに罪悪感がなかっただけで、悠々と一人の世界に浸っていた私は、両親に見えない傷を日々負わせていたのかもしれません。

 両親の安堵したような顔が思い出されます。

 さっきまで浮かれていたのに、急に憂鬱な気分になってしまいました。

 誰にも迷惑をかけないように独りぼっちの鬼となったのに、これでは報われなさ過ぎて涙が出てきそうです。ベース定規を奏でたくなりましたが、そんなことをすると両親が学校へ呼び出されるおそれがあるので自重しました。

 暗い話題は終わりにしましょう。

 今夜はオフ会なのです。

 美少女吸血鬼と勘違いしていた時期もある私ですから、当然普段も夜型の生活をしているのですが、それは深夜以降の野外活動を想定したものではありません。というか、深夜どころか日中でさえ私の身体は野外活動に向いていないのです。

 ここは体力を温存しておくべきでしょう。私は机に突っ伏しました。

 これは最も効果的に鋭気を養う方法で、現在も複数の生徒が実践していたりします。

 初めてなので、とても緊張します。大冒険です。不良になった気分です。

 そんなわけで、いわゆる居眠りに初挑戦です。


 ちっとも熟睡できませんでした。

 悪い子になっただけで、鋭気を養うことには失敗しました。しかも中途半端に寝た所為で頭がぼんやりしています。授業中に漫画やアニメの登場人物が気持ち良さそうに眠っているのを真似したかったのですが、素人の私が調子に乗って行うと身体のあちこちが痛くなるという弊害しか起こりません。

「授業中に居眠りなんかしたらダメなんだからね」

 そんな小言を聞かせてくれる委員長タイプの女子も現実には存在しませんでした。

 さて。

 まだ午前の授業が二つ残っているのですが、居眠りするかどうか深刻に悩まされています。症状を悪化させて今夜の大事なオフ会に参加できなくなったら、鋭気を養うための居眠りは本末転倒になってしまうからです。深夜徘徊活動に備えて、どのような選択をするべきか非常に重要な局面です。

 寝るべきか寝ざるべきかが目下の課題になりました。

 もし私が漫画やアニメの萌えキャラなら「だじょ」とか「にょろ」とか「ですに」とか語尾に付けておけば、熱血主人公が問題を解決してくれるのかもしれませんが、独りぼっちの鬼にはそういう補正がありませんので、ただただ今夜のオフ会に健康体で参加できる方法を模索するしかないのです。

 ともかく今は休み時間なので、ベース定規を奏でることにしました。

 私は取り出したステンレス製の物差しを掲げます。

 長さ十五センチの細身な定規で、ペンケースに収まるので持ち運びにも困りません。ちょっとした小包を開封するときにも便利ですし、ステンレス製という特徴を活かして厚紙の裁断も可能です。一本持っているだけで無類の性能を発揮してくれるのです。

 私は机の端に定規を設置しました。六センチほど宙に突き出した格好です。中指で定規を弾きました。相変わらず変な音しか出ません。突き出す長さや角度を変えて挑戦しても、なかなかベースっぽい重低音が出てくれません。

 ぶいーんぶいーん。

 集中していると休憩時間はすぐに終わりました。

 次の時間は国語です。

 国語は苦手ではありません。というよりも、勉強自体が得意なのです。与えられた問題に対して解答を導き出すだけですから、人間関係の構築に比べれば遥かに簡単で楽な作業のように感じます。

 だってそうですよね?

 正解のある問題ならあらかじめ正答を憶えておけばいいだけですが、正解のない対人問題は様々な立ち回りを必要とするので大変です。そういう人間らしい能力に劣るので、私は薄型のノートパソコンよりも価値のない存在なのでしょう。演算能力がスーパーコンピューター並みなら評価も変わるのかもしれませんが、私の記憶力も処理能力も激安で売られているパソコン以下なのでどうしようもありません。

 もし近い将来人工知能を有するロボットが誕生するのだとしたら、きっと私のような単純な機能しか持っていないような気がします。どんなに問題の答えを憶えても、それだけでは人間と言えません。

 はてさて、私は一体なにを考えているのでしょう?

 考えるべき問題は寝るべきか寝ざるべきかでした。すぐに横道に逸れるのが私の悪い癖です。ともかく打算や計算をしながら解答を導き出しました。

 新しい範囲なら継続して授業を受けて、練習問題や復習なら居眠りするのが理想でしょう。私は机の上に腕枕を作って、授業が始まるのを待ちました。

 国語教師は前回のおさらいを語り始めます。

 どうやら居眠りを選択できそうです。私は腕枕の中へ顔を埋めました。


「雨宮さん」

 幻聴が聞こえてきました。

「大丈夫?」

 誰かに肩を揺すられています。幻触というのは存在するのでしょうか?

「大丈夫なの?」

「あうあう」

 生返事をする萌えキャラがいました。私です。

「雨宮さん、こんな極寒の冬山で寝たら死んでしまうわよ」

「教室なう!」

 私は思わず流行を取り入れながら突っ込んでしまいました。

 ……。

 …………。

 ………………。

 ……………………。

 …………………………。

 三点リーダで思考停止を表現してみました。

 顔を上げた先には級長の霧島さんがいました。とても驚いた顔をしています。私もそれ以上に呆けた顔をしていることでしょう。脳内突っ込みをしたことはあっても、他人に突っ込みを入れたのはこれが初めてです。硬直して二の句が継げません。

 ともかく魔が差しました。どう対応すればいいのか見当も付きません。

 しばらく間を置いて、霧島さんはくくくと笑いました。

「そうね、ここは極寒の冬山じゃなくて学校の教室よ。だから本当は寝ても死なないの。あまりに急だったから、面白くない冗談しか思い浮かばなかったわ」

「……ほっとしました」

 私は霧島さんが気分を害していないことに安堵しました。

 霧島さんは画に描いたような美少女優等生なのです。勉強も運動もできて、おまけに級長までやっているのです。そういう既成事実もあって、まさかこういう愉快な性格をしているとは思いもしませんでした。青天の霹靂とはこのことでしょう。

「雨宮さんも音楽をやるのね」

「……音楽?」

 私はきょとんとすることしかできませんでした。音楽の授業は受けていますが、おそらく霧島さんの求めている回答ではありません。

「ほら、それのことよ」

 そう言って、霧島さんはステンレス製の物差しを指し示しました。

「ひょっとして……霧島さんもモノサシストなのですか?」

「凄腕のモノサシストよ」

 霧島さんは得意げな顔をしていました。ちなみに物差しでベース音を担当する人はモノサシストと呼ばれているのです。ほかにも日用品ドラム、ホースホルン、ストローボーン、醤油ちゅるちゅるギターなどが存在します。一流のメンバーが集まると日用品だけで曲になるのですが、かなりマイナーな番組でしか取り上げられていないので、流行ものに興味が向かう人たちにはあまり認知されていません。

 普通から外れた独りぼっちの鬼。

 なんとなく話しかけられた理由がわかりました。

「霧島さんも鬼なのですか?」

「鬼?」

 どうやら私の予想は外れていたようです。よくよく考えれば、級長で人気者の霧島さんが独りぼっちのはずがありません。どうやらモノサシストにも格差があるみたいです。親近感を覚えてしまったのが恥ずかしくてなりません。

「オモニ」

「韓国語で誤魔化されても困るわ。それにまだ子供を産んだ覚えはないわよ?」

「あう」

 霧島さんは格下相手にも手を抜かないライオンでした。おまけに韓国語に精通しているなんて反則です。妄想の中では無類の長広舌を発揮できる私ですが、現実では外国語教科書に出てくるような定型文しか捻出できません。

「雨宮さん、さっき授業中に居眠りをしていたでしょう?」

 ライオンが牙を剥いてきました。獲物を嬲るように責めてきます。

 モノサシストの話題は、私を油断させる罠だったのかもしれません。まんまと騙されてしまいました。捕食者を前に私はぷるぷると肩を震わせることしかできません。

「額と腕が赤くなるから、なにか柔らかいものを挟んだほうがいいわよ」

 くぴぽ?

「あの、居眠りについては怒らないのですか?」

「だって怒る理由が世界中のどこを探しても見つからないわ。授業は寝て待てという言葉があるでしょう?」

「ありません」

 私は人生で二度目の突っ込みを入れました。

「あらそう。でもまあ、無事そうで安心したわ」

 どうやら私は本当に心配されていたようです。今まで声をかけられたことはないので、やはり居眠りをしたのが原因なのでしょう。私のような目立たない生徒の微細な変化に気づくなんて、霧島さんは級長の鑑の一歩先を行く次世代の聖人君子に違いありません。

「級長は大変ですね」

「どうして?」

「私みたいな生徒の面倒も見なくてはいけないのでしょう?」

「そうね」

 霧島さんは穏やかな表情で首肯しました。私は尊敬の眼差しを送ります。

「三十人の面倒を見るなんて私には絶対にできません」

「いえいえ、私が気にかけるのはモノサシストだけよ?」

「守備範囲狭っ!」

 三回目の突っ込みです。これにより私は本日を突っ込み記念日としました。

 雑談をしているうちに休み時間が終わりに近づいていきます。

「ふーん。雨宮さん、話すのが嫌いなわけじゃないのね」

 意味深な発言をする霧島さんでした。こちらの感想も述べておくべきでしょう。

「……私は霧島さんのイメージが優秀な級長から変な人になりました」

「そんなに褒められたら照れるわ」

「褒めてません!」

 もう何度目の突っ込みか覚えていません。

「私も雨宮さんのイメージが三百六十度変わったわね」

「なにも変わってないじゃないですか!」

「角度じゃなくて温度のことよ?」

 したり顔の霧島さんでした。

「……随分と燃えているのですね」

「違うわ。萌えているのよ」

 霧島さんは隠れオタクでした。美少女級長というのは仮の姿です。

「雨宮さん」

 級長は顔を近づけて来ました。驚くほど端整な顔立ちをしています。ゆえに近寄り難い雰囲気を醸し出していると言っても過言ではないでしょう。

 それにしても、今日の私は無防備すぎました。警戒もせずに霧島さんと会話をしていたのです。独りぼっちの鬼である自覚が足りません。まさに油断大敵でした。

「雨宮さんって友だちいないでしょう?」

「…………」

 有無を言わせぬ迫力がありました。私はなにも答えられません。

「教室内の人間関係は把握しているつもりだけど、その中に雨宮さんの居場所らしい居場所はないわよね? それとも私の知らない外部に居場所があるのかしら?」

「……どうして?」

 私は声にならない声を絞り出しました。

「独りぼっちなんでしょう?」

 いろんな感情が押し寄せてきました。頭の中がぐちゃぐちゃです。吐き気に近い気持ちの悪い感覚が私の精神を襲いました。

 独りぼっち。

 初めて他人から言われた気がします。

 自覚するのと他人に指摘されるのでは決定的な違いがあります。

 とても恥ずかしい存在なのだと罵られているような気がしました。

 とても汚らしい存在に成り下がってしまったような気がしました。

 それを避けるために私は他人と関わらなかったのです。

 友だちの家へ泊まりに行くと言ったときの両親の顔がフラッシュバックしました。

 心が痛いです。己の浅はかさを思い知らされました。

「雨宮さん、やっぱり具合悪いんじゃない?」

 霧島さんは悪魔でした。この状況でそれを聞くのは酷いです。人間の為せる技ではありません。美少女オタクさえも仮の姿でした。

 私がなにも答えられないでいると、霧島さんは神妙な面持ちで話を続けました。

「雨宮さんとは違うけど、結局のところ私も独りぼっち。クラスに溶け込んでいる演技をしているだけなの。興味のない話題に相槌を打って、興味のない恋愛相談を真剣に受け答えして、興味のない買い物に一緒に出かける。うんざりだわ。だから『独りぼっち』な生徒を探していたのよ。雨宮さんは最適の人物だったわ。だけど近づく隙がなかった。成績が優秀だったからかもしれない。見た目が可愛いからかもしれない。欠点がないから他者を必要としていなかったとも言えるわね。ともかく完全に他者を拒絶して一線を引いていたのよ。そんな雨宮さんが今日は居眠りしてたでしょう? だからチャンスだと思ったの」

 ここで言葉を区切ると、霧島さんは悪戯な笑みを浮かべました。

「私たち、いい友だちになれると思わない?」

 言っている意味がわかりませんでした。さらなる陵辱が始まるのでしょうか?

 私には霧島さんと友だちになれる要素が一つも思い浮かびません。

 それに相手は悪魔なのです。霧島・デビル・ほにゃららという名前の悪魔なのです。

 勝手にミドルネームを挟んでしまいましたが、むしろそのほうがしっくりとくるくらい霧島さんは奇怪な性格をしています。私は勇気を振り絞って問いかけました。

「霧島さん、どういうつもりですか?」

「友だちがほしいだけよ」

「ほかの人を当たってください」

「嫌よ」

 きっぱりと否定する霧島さん。

「どうしてですか?」

「最初の友だちは雨宮さんって決めていたからよ」

 そんなことを言われました。おろおろすることしかできません。

 このタイミングで休み時間終了を告げるチャイムが鳴りました。

 霧島さんは笑顔を振り撒きながら席へ戻っていきます。悪魔が美少女優等生の仮面を被る瞬間でした。とても変な気持ちです。嬉しいような恥ずかしいような、でもそれを受け容れたくないような複雑な気分なのです。

 私は一体どんな顔をしているのでしょうか?


 昼休み。

 高校に入ってから初めてクラスメイトと一緒に過ごしました。

 相手は霧島さんです。昼食に誘われたというよりは拉致されたと表現すべきでしょう。私は強引に腕を引っ張られて中庭に連行されたのです。どうやら昼食時は憩いの場になっているようでした。トイレでしか弁当を食べたことのない私にとって、中庭は開放感がありすぎてどうにも落ち着きません。

「食欲がないのかしら?」

 霧島さんは大げさに首を傾げました。首の骨が折れないか心配になります。

「太陽が眩しすぎるのです」

 意味不明な八つ当たりに聞こえるかもしれませんが、私にとってこれは嘘偽りのない本心なのです。太陽が眩しくても食欲はなくならないと賢しく考えないでください。それは地動説を疑い始めるくらい不必要な努力です。

 なぜなら私は鬼なのです。この一言ですべて解決です。

「それなら少しもらってもいいかしら?」

 悪魔はどこまでも貪欲でした。私が弁当を差し出すと、霧島さんは卵焼きを箸で挟んで口へ運びます。もぐもぐと咀嚼して「雨宮さんが作ったの?」と再び首を傾げました。

「違います」

「そんな気がしたわ」

 普通に接していれば、霧島さんは大人しい人でした。もちろん私なんかと比べたら暴れん坊ですが、少なくとも「私のものは私のもの、あなたのものは私のもの」という無茶な言い分で無理難題を押し付けてくることはありません。

 不意に霧島さんに問いかけられました。

「一人しかいなくて独りぼっちなのと、大勢の中にいて独りぼっちなのと、どちらのほうが寂しいのかしら?」

「わかりません」

 素直な気持ちを伝えました。

 わかっているのは、どちらも寂しいということです。

「私は一人しかいなくて独りぼっちのほうが寂しいと思ったの。だからこっちを選んだのだけど、いざ体験するとこっちのほうが寂しいじゃないかと感じることもあるわ」

 会話の主導権は、ずっと霧島さんが握っていました。牛耳っていたとも言えます。私はカウンター重視のスタンスなので非常に助かりました。

 ひょんな会話から私服の話になりました。どういう経緯だったかは憶えていません。ともかく私の私服が一般に比べて著しく少ないという結論に至ったのです。

「買い物に行きましょう」

「いえ、私はほとんど外出しないので大丈夫なのです」

「そういう問題じゃないのよ」

「じゃあ、どういう問題なのですか?」

「一緒に出かける口実がほしいと思わない?」

「思いません。それに霧島さんもそういう行為を煩わしく思っているんですよね?」

「あら、知らないの? 友だちと遊ぶのは楽しいのよ」

 そんなことを言われました。上から目線です。高飛車の二歩先を行く前衛的な上から目線でした。とんとん拍子に話が進みます。ずっと霧島さんのターンという感じでした。

 最後まで私のターンは回って来ませんでした。


 4

 

 放課後。

 私は霧島さんと一緒にショッピングモールで洋服を物色していました。

 駅周辺の再開発で建設された巨大施設で、百貨店や映画館、フィットネスクラブのほかにも各種専門店が百以上入居しています。周辺道路の整備も推し進められて、現在では街の中核を担う施設となっています。

「雨宮さんは私のようにスタイルがいいから、きっとなにを着ても私のように似合いそうね。ではでは早速、これなんかどうかしら? おそらく私のように道行く男子の視線を集めることになるわよ」

 胸元が開いた下着のような服を私の身体に押し当てて、霧島さんはまるで好きな人とデートをしているかのように微笑んでいます。もちろん私の知っているデートは映画やアニメの作中で行われていたものです。実体験は当然ありません。

「そういう肌の露出が多い服は苦手なのです」

「どうして?」

「恥ずかしいからです」

 私は押し当てられた服を着ている妄想をして赤鬼になりました。素人が手を出せる代物ではありません。またまた霧島さんは大げさに首を傾げました。

「これくらい今は普通よ? でもそうね、無理に押し付けるのはよくないことだわ」

 納得してくれたのか、霧島さんは店内を移動して別の服を手に取りました。

「じゃあ、このカーディガンはどうかしら? 雨宮さんは私のように気品があるから、おそらく私のようにエレガントに着こなせると思うわ」

「……あの、褒めてるのか貶しているのかどっちですか?」

「褒めているに決まってるじゃない。比較級の最も上に君臨するのが『私のように』なのよ? つまり私は褒め殺しと疑われるくらい雨宮さんを褒めまくっていたの」

 その「私のように」が原因とか言える雰囲気ではありませんでした。

 こういうときの対処方法は心得ています。事なかれ主義と呼ばれているやつです。

「ありがとうございます」

 私は褒め言葉として受け取ることにしました。霧島さんは変わった性格ですが、本物の極悪人ではありません。おすすめのカーディガンを購入しました。ほかの店舗へ歩いて移動します。会話のキャッチボールは昼休みのときよりも順調です。変化球で行われることを除けば、おしゃべりになったと勘違いしてしまうほど話しました。

 漫談のような流れで買い物は進んで行きます。

「素材はいいのだから、雨宮さんはもっと前衛的になるべきだわ」

「前衛的?」

「欲を持ったほうがいいと言ったほうがわかりやすいかしら?」

「欲ですか?」

「目立ちたいとかよく見られたいとか、そういう欲がないとお洒落をしようなんて思わないでしょう?」

「たしかに、そうですね」

 納得するしかありません。外出予定がない日にフルメイクする人は限りなく少ないでしょう。誰にも見られないのだから、お洒落をする必要がないというわけです。

 今は制服姿なのでわかりませんが、おそらく霧島さんの私服姿は清楚で可憐なのでしょう。居眠りを指摘されてからの短期的な交流と、私の小学生並みに低い洞察力でもわかってしまいます。良くも悪くも霧島さんは計算高い人なのです。

 好意的に取るならば、そんな霧島さんが裏表を見せずに接してくれていることです。言葉通り友だちとして接してくれているのかもしれません。

「例えば好きな人とかいないの?」

「…………」

 頭の中にユウさんのイメージ映像が浮かびます。

 背が高く痩せ型。

 笑顔の似合う好青年。

 血液型はO型しか考えられません。あるいはB型です。

 年齢は私の少し上から三十代前半まで広範囲を想定しています。

 永遠の十五歳を信じるほど私は子供ではありません。

 ただの理想です。妄想と呼ぶべきでしょうか?

 ちょっと考えれば、すぐにわかることでした。

 私はユウさんの性別も年齢も知らないのです。それでもどうしようもなくユウさんに惹かれています。趣味が似ているのもあるでしょう。私の知りたい情報を発信してくれるところもあるでしょう。それでも決定的な原因は私にもわかりません。

 好きになるって、こういうことなのでしょうか?

「雨宮さん、顔が赤くなっているわよ?」

「はひ?」

 油断していました。私は知らないうちに赤鬼になっていたようです。

 恥ずかしいです。穴を掘って埋まりたいです。

「耳まで真っ赤よ?」

 私は両手で顔を覆い隠しました。しかしそれが罠だったのです。

「ふーん、本当に好きな人がいるみたいね」

 指の隙間から覗くと、したり顔の霧島さんが見えました。

「顔が赤いなんて嘘よ」

 やはり霧島さんは鬼じゃなくて悪魔です。上級職の悪魔かもしれません。

「……酷い人です」

「それは心外だわ。私はいつも『お前は本当にいい性格をしているよな』と褒められてばかりなのよ? それを雨宮さんに否定されるなんて哀しいわ」

「それ絶対に皮肉で言われてます!」

「まあ、酷い言われよう」

 本当に霧島さんはいい性格をしていました。憎たらしいにもほどがあります。

「霧島さんなんて大嫌いです」

「嫌よ嫌よも好きのうちというやつね」

「どれだけ前向きなのですか!」

「ところで、雨宮さん」

 霧島さんが神妙な面持ちになりました。私の突っ込みは完全に無視のようです。

「なんですか?」

「誰が好きなの?」

 直接的な物言いでした。

 私の脳細胞が話題を逸らすために脳内を全力で駆け巡ります。

「あはははははっ、地球が滅びればいいのに!」

 すぐに制御不能で暴走してしまいました。いきなり謎の発言です。狂気の沙汰です。かなり危ない存在と思われたに違いありません。実際にかなり危ない状況です。

「次世代の萌えを追求するのはいいけど、いくらなんでもそれは前衛的すぎて誰もついて来れないわよ? もう少し基本路線に則るべきだわ」

「……すいません」

 謝るしかありませんでした。霧島さんは悪魔で級長で美少女オタクです。微塵の隙もありません。二次元も三次元も自由自在で対応してきます。斬新な萌えキャラを演じたわけではないのですが、もはや私のような存在はどんな理由で怒られても仕方がないように思えてきました。

 もはや私に残された手段は無抵抗主義しかありません。このまま話が萌えに流れることをただただ祈るばかりです。

「閑話休題、雨宮さんの好きな人について語り合いましょう」

 世の中は私が思ってるほど甘くありませんでした。

 霧島さんは必要以上に執拗な性格で、一時間に及ぶ質問攻めで私の精神を崩壊寸前まで追い込んできます。あることないこと自白してしまいそうな疲労感があります。

「……いないこともないです。ひょっとすると今夜会う可能性もあります」

 なんとも曖昧な表現ですが、私は好きな人がいることを肯定してしまいました。

 詳細こそ話しませんでしたが、今夜会う可能性も伝えました。

「つまり雨宮さんの発言を要約すると勝負服がほしいということになるわね」

「なりません」

「あら、勝負下着だったかしら?」

「……勝負服の方向でお願いします」

 反抗すると状況が悪化することを学びました。無抵抗主義万歳です。

 それに勝負服の意味合いはともかく、お洒落をしてオフ会へ挑むというのは悪い提案ではありません。ユウさんの服装の趣味は知りませんが、無頓着よりはお洒落な服装のほうが失敗する危険も低いでしょう。私は神妙な面持ちで告げました。

「……初勝負なので服選びを手伝ってもらってもいいですか?」

「任せなさい」

 自信に満ち溢れた声でした。

「私が選んだ服を着ていけば好きな人も雨宮さんに見惚れること間違いなしよ」

「期待しています」

「本当に私の服選びはすごいのよ?」

「よろしくお願いします」

「本当にすごいのよ?」

「…………」

「本当よ?」

「…………」

 嫌な予感がしないでもありません。物語において不用意な伏線は危険を孕んでいるからです。例えば戦友が主人公に「俺、この戦いに勝利したら結婚するんだ」と打ち明けると大抵帰らぬ人になりますし、必要以上の前置きを語っておきながら結果それかよということはよくあります。要約すると霧島さんのファッションセンスが絶望的というオチだけは回避したいということになります。

「それじゃあ、行きましょう」

「お願いします」

 一抹の不安を抱えたまま、霧島さんによる服選びが始まりました。

 霧島さんは次から次に服を用意し、私は指示されるままに試着を繰り返しました。案内に従って店を転々と移動して行きます。振り回されているうちに私は霧島さんによって完全コーディネイトされていきました。

 一時間後。

 ついに完成しました。新しい私が誕生です。新しすぎる私が誕生なのです。

「完璧ね、雨宮さん。これなら私が惚れてしまいそうよ。完璧ね、雨宮さん。これなら私が惚れてしまいそうよ」

「二回も言わないでください」

「大事なことは二回言うものよ?」

 霧島さんは重度の美少女オタクでした。

 独りぼっちの鬼。

 もしこれが霧島さんの求めている会話なら、たしかに理解してくれる人は少ないかもしれません。周りに大勢の人がいても、独りぼっちは成立してしまうのです。

「すごく似合っているわ」

 霧島さんは私の私服姿を満足気に眺めていました。どうやら私は霧島さんを侮っていたようです。上はYシャツにクリーム色のカーディガン、下は黒いゴスロリと呼ばれるフリフリのミニスカート、靴は赤いウエスタン調のレザーブーツです。良く言えば異文化交流ファッション、悪く言えば節操のない変態でした。

「本当に可愛いわ。食べちゃいたいくらい」

 私は一歩引きました。霧島さんはそっち系の人なのでしょうか?

「さてと、それじゃあ本当に可愛らしい服選びをしましょうか?」

「はい?」

 素っ頓狂な声を上げることしかできませんでした。

「その格好のままじゃただの変態よ?」

 確信犯です。霧島さんは私を辱めるために服選びをしていたのです。

 悪魔の所業です。それなのに嫌な気はしません。

 だから私は告げました。

「……これでいいです」

「冗談でしょう?」と霧島さんは目を瞬かせました。

「本気です。一人で服選びをしていたら絶対にこの組み合わせにはなりません。だから、いい記念になります」

 できるだけ簡潔に思いを伝えました。

「そんな恥ずかしさのK点越えを果たしたような服装で本当にいいの?」

 念を押してくる霧島さんに私は首肯で応じます。「そう」と霧島さんは答えました。

 そこで会話が途切れてしまいます。

 沈黙が訪れました。

 妙な使命感に駆られて、私はらしくないことを口走ってしまいます。

「次は……私が霧島さんの服を選びます。それでもいいですか?」

「そうね。今度は私が雨宮さんのセンスを試させてもらうわ」

 そう言って、霧島さんは嬉しそうに微笑みました。私は霧島さんと一緒にいると楽しいです。霧島さんもそう思ってくれているかもしれません。それでも決定的な境界線は踏み越えていないのです。ひょっとすると、この距離感がいいのかもしれません。

 おそらく私も霧島さんも変化を好まない性分なのでしょう。私たちは鬼のままです。

 今はまだ独りぼっち。

「楽しみにしているわ」

 霧島さんはそう言いました。買い物も終了の運びとなります。

 私は霧島さんと別れて帰路に着きました。

 バスの中で妄想します。オフ会の前に随分と疲れてしまいました。

 霧島さんは大勢の中で独りぼっちの鬼。

 私は一人だから独りぼっちの鬼。

 対極だからこそ上手くやっていけるのかもしれません。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る