第4話 哀愁

オフィスは、大きなビルの中だ。

大学院を卒業後、企業側からのスカウト入社だった。


学生時代に培った語学を活かし、出版社で翻訳作業や海外向けの記事の執筆を担当している。

優秀な後輩にも恵まれ、仕事は至って順調だ。


本来であれば、横に、春馬もいるはずだった。

春馬は、人望だけではなく、学業も優秀だった。

私から推薦した本を読む時、文章ひとつひとつを丁寧に咀嚼し読み進める春馬の表情を見るのが好きだった。


長いまつ毛に、陽の光が差して、繊細な影を作る。

深い焦茶色の髪が風に揺れ、穏やかな凪のような時間が、いつも彼のそばに在った。


あの事故から、4年経とうとしている。

大学4年の夏、二人が好んで通った鵠沼海岸。

大学院に進むことを決めた私と、就職を決めていた春馬。

何かと、決め事はすれ違う。しかし、そこに距離を感じることはなかった。

どんな場所でも、どんな状況でも、お互いの存在があれば、それ以上でもそれ以下でもない。

「ふたり」でいることが、大切だった。


「蛍さん、最近悩んでます?」

紬が、私を気遣う素振りを見せている。

思っていた以上に、彼女には心配をかけていたようだ。

そういえば、最近同じような問いかけを聞いていたはずだ。

自分の追憶に囚われ、目の前の人たちに気が回っていなかった。


「うん、ごめんね。なんでもない」

「私、できることは少ないかもしれないけど、何かあれば言ってくださいね」

「うん。ありがとうね」


紬は、去年の春に新卒入社でやってきた。

朗らかな雰囲気を持ちながらも、仕事は熱心に取り組み、よく助けられている。

プライベートはお互い詮索しないけれど、常時穏やかな彼女に、陰を感じることがない。

むしろ、私こそが、笑っていても、心の奥では常に罪の意識に苛まれ、苦悩している。


事故を起こす前も、起こした後も、周りの人たちとの距離感に、何も変化は無かった。

ただひとつ、春馬がいないことだけを除いて。


彼もまた、この会社に就職することを望んでいた。

私はさして興味が無かったけれど、彼の亡き後、企業から声がかかって、不思議な縁を感じ、入社を決めた。


仕事を終え帰宅中、また、あの匂いが鼻を掠めた。

甘く華やかだが、どこか哀愁を感じる。

自分自身の過去は、懐かしめるようなものではないけれど、この香りは、過去の居場所を淡く思い出させる。


けれど、その先に何があるのか、誰といたのか、肝心なところは靄がかかっている。


私は、幼い頃、児童養護施設で過ごした。

暴力的な父親と酒乱の母親の元に生まれ、家には何度か警察が訪ねてきた。

泣いて叫んでも、あの人たちは恐怖以外に与えてくれることはなかった。


公園で日が暮れるまでブランコを揺らし、やがて暗くなる街並みに家の明かりが灯る。

この街には、こんなにもたくさんの明かりが灯るのに、そこに私の居場所はないのだと思うと、何度も涙が込み上げた。

明かりが灯る場所に帰る人たちには、迎えてくれる人がいる。

自分との埋めきれない溝に、幾度となく絶望したものだ。


そんな風に過ごすうち、母が家に見知らぬ男性を連れ込むことが増えた。

見かねた近所の人が通報してくれ、私は養護施設へ引き取られることが決まった。

施設に向かう日、最後に母が言った言葉が忘れられない。


「あんたみたいなめんどくさい子、扱いにくいのよ」


両親の喧嘩に怯え、いつからか人の顔色を窺う癖がついていた私は、自分から発言することを避けていた。

母に何が食べたいか聞かれても「なんでもいい」が決まった返事となっていた。

家にお金はあったけれど、子供の私に充てられることはなく、何が食べたいか答えたところで、千円札を投げつけられ「好きに買いなさい」と言われることは、幼稚園に上がる前に学習していた。


母の手料理も、父に抱きしめられる安心感も、私は体感したことがない。


中学に上がるころ、余ったお金をかき集めてこっそり買う本が、心の拠り所になった。

そして、初めて手に取った「夏の庭」という小説。

物語で、こんな風に心打たれ、涙を流せることが、喜びだと感じた。

図書室に通い、昼休みはいつもそこで過ごすようになった。


本の世界は、誰も傷つけない。

空想の世界の住人でいるうちは、現実の辛さを忘れられる。


そのきっかけとなってくれた、あの小説が、奇しくも、春馬との関係が変わる一冊になった。













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百日紅が散る、その日まで @hakuto_melancholy

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