第2話 風の匂い

「蛍さん、顔色悪いですが、大丈夫ですか?」

現実に、突如戻される。


横では、会社の後輩である紬(つむぎ)が、私の顔を心配そうに覗き込んでいた。

「あ、うん。ごめん」

もう昼休みが終わろうとしている。スターバックスのコーヒーを片手に、ふたりでオフィスへ歩き出した。


雨の多い時期には、必ずと言っていいほど思い出す。


あの日、次に思い出すのは硬い病院のベッドの上での出来事だ。

救急車で運ばれた私は、思いの外軽傷で、数日様子を見るための入院で済んだ。

様々な検査を受けたものの、外傷以外には異常はどこにも見当たらなかった。


「このような軽傷で済んで、本当に良かったです」


けれど、私の運転する車で、安心し切ってうたた寝していた春馬は……。


退院後、真っ先に向かったのは、春馬の家だ。

迎えてくれたのは、彼のお母さんだった。

何を言われようと、されようと、受け止めよう。


「この度は……」


包帯の残る頭を、深く下げた私に、春馬のお母さんが一言放った。


「あなたは、無事だったのね」


見上げると、お母さんは目にいっぱいの涙を溜めていた。


「もっと、たくさんね、言ってやろうって、思っていたのよ。

 でもね、あの子……春馬がね、あなたのこと、本当に、本当に、大切にしていたから……」


春馬のお母さんが嗚咽を漏らし、大粒の涙をこぼす。


「無事で……、無事で、良かった」


しゃくり上げ、乱れた呼吸の中で、彼女は言った。


思い切り、罵倒して欲しかった。責めて欲しかった。

立ち直れないほどに。

けれど、春馬のお母さんは最後に私の肩をそっと抱き寄せた。


「生きてちょうだい。あの子は、そう望んでいるはずだから」


何も返すことのできない私に一礼すると、彼女は静かに玄関のドアを閉めた。


西陽に照らされながら、帰路に着く。

風に乗って、甘い香りがどこからか漂ってきた。

ずっと昔から知っている匂いだ。ただ、何かは思い出せない。


爽やかだったはずの薄青の空が濁り始める。

この時期らしい、移り変わりの激しい天気だ。


向かいを歩く親子連れ。

小さな女の子が、麦わら帽子をかぶっている。

両手でつばをつまみ、満面の笑みで歩いている。

白いコットンワンピース。

あの日の自分と似ている。


白いワンピースも、麦わら帽子も、あの日の記憶と一緒に、奥深くに仕舞い込んだ。

血と雨に濡れ、絶望と悲しみに覆われた時間を思い出す。


自分が招いた出来事だ。

後悔しても、しきれない。


対向車を走り、こちらに向かってきた軽自動車の運転手の男性も、あの日亡くなったと聞いた。

原因は、運転中に持病の発作が出てしまい、ハンドル操作を誤ったらしい。


強い日差しで、頭がぐらつく。

左手首の腕時計の内側が疼いた。


なぜ、誰も自分を責めないのか。

後悔が襲い、どうにもならない夜、手首に刃物を当てた。

流れ出る血を見ても、贖罪になどなるはずもない。

何度も繰り返し、手首の傷は深く残った。


社会復帰してからは、太いベルトの腕時計で隠すようにしている。

自分の過去を知らない人々に囲まれて送る日常。

けれど、常に自分の中には消えない罪の意識が在る。


自分だけ、生き残ってしまったという罪の。







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