38 入学式とハボタン
「入学式にはしおれちゃうかな」純恋がそう言うと、一子は天気予報のアプリをひらいて、
「三月末から四月はじめにかけてはうすら寒いみたいだよ。花ももつんじゃない?」
と、そう言って笑顔になった。
一子はアネモネの花を覗き込んで、
「私と兄は、幼稚園が教会付属のところだったんだ。それなのに神社で七五三のお参りっていうのもおかしい話だけど、まあそこはふつうの日本人の家だから」
と、なにか不思議な話を始めた。
「もううろ覚えなんだけどね、聖書には、空の鳥や野の花を見なさい、ってくだりがあったと思う」
「空の鳥や野の花?」
純恋は、小さいころどこかで聞いたような気がするその言葉を、よく噛んで味わった。空の鳥や野の花。いかにも聖書に出てきそうなフレーズだ。
「うん。空の鳥は働いてないけど食べ物に困ってない。花は何を着るか悩んでないのにきれいに咲いてる。だから心配しないで神様に養ってもらえ。そういう話だったと思う」
「それは、幼稚園児に教えるにはちょっとばかし難しくない?」
「卒園のお祝いに園からもらった聖書を、小学生のときぱらぱらーってめくってみたんだ。そしたらそんな言葉にぶつかった」
一子はアネモネを眺めながら続ける。
「それでね、もうひとつ――こっちははっきり覚えてるんだけど、『栄華をきわめたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした』って言葉があって、この花っていうのがアネモネなんだって」
「アネモネ……かあ。わたし、春の花では桜とマーガレットの次くらいに好き。そんな由緒ある花なんだね、アネモネ」
「アネモネの名前の由来は『風』って意味の『アネモス』って言葉なんだって。で、なんでソロモンでさえ……っていうのかというと、当時紫色の染料ってすっごい高級品で、王侯貴族しか紫の服を着られなかったんだって。だから、キリストがみたアネモネは紫色なんだって」
「紫色のアネモネかあ、うちにあるよ。花が咲くかはちょっと分からないけど、花芽は伸びてきてる。なんかヒョロヒョロしてるけど」
「咲いたら見せて。また純恋の部屋に遊びにいっていい?」
「いいよ。狭いけど」
「むやみに広いよりいいよ。私の家、兄がいなくなって、子供部屋の二段ベッドは上に寝る人がいないし、学習机も二つ並んでるけど片っぽ何も乗っかってない。がらんとしちゃった」
一子はどこか強がるように、そう言葉を唱えた。
「一子もなんだかんだブラコンなんじゃん」
「……まあ、小さいころから兄の後ろを追っかけまわしてたからね。一緒に特撮ヒーロー観たり、私も柔道やりたいって言って親を困らせたり」
「先輩みたいに柔道やりたかったの? なんか意外。一子、中学のとき陸上部だったじゃん」
純恋は目をぱちぱちした。一子は口角を上げて語る。
「うん、兄がみるみる強くなるから、楽しそうで。でもうちの当時存命の祖母が、女の子がやるもんじゃない、って言って、その手のスポーツ禁止されちゃった。こっぴどく𠮟られたのがトラウマで、もうよほどのチャンスじゃないと挑戦する気が起きないと思う」
「でもお祖母さんもういないんでしょ? やっちゃえばいいじゃん」
「そうだね。体育で柔道できるっぽいからやってみよっかな」
一子は、そう言って中学のころと何も変わらない、爽快な笑みを浮かべた。それを見て、純恋も目を細めた。
「春だね」と、一子と純恋は空を見上げた。白い雲が、飛び飛びに空に浮かんでいる。
空に綿雲のちぎれ飛ぶのを、しばらくぼんやり眺めて、ふと、心が温かいのを感じた。一子という友達をまた手に入れたこと、一子と一緒にいられること。そういうことが、ぜんぶ嬉しくて、変な涙がこぼれてくるのを止められなかった。
「オワッどうしたの純恋」
「わかんない。たぶんどっかで忍者がタマネギ刻んでるんだと思う」
「なにそのレトリック。センスがすごいよ純恋」
不思議そうな顔で一子が言う。忍者がタマネギを刻んでいる、というフレーズは、海外でよく聞くフレーズなのだが、それを説明するのも野暮なので、純恋は話題を無理に変えた。
「そうだ。春だし新タマネギ食べよう。オニオンスライスにしてかつお節とお醬油かけて」
「ふふ」
一子は笑った。
純恋はそれでいいと思った。
入学式の朝、園芸部が必死に作った花壇はだいぶ散り始めていた。早春を告げる花は、すっかり春になったいまではもう遅いのかもしれない。遅れて咲く多年草も植えておけばよかったかな。
純恋はリボンの色が変わった制服を着て、園芸部が必死に育てた花を見ていた。やっぱり、頑張って作っただけあってきれいだ。……ただ、用務員さんにはめちゃめちゃビックリされたらしい。松の木の周りに花を植えるとは思っていなかったようだ。
生徒会とももう戦わなくていい。それだけで安心できる。純恋は花壇を眺めてから、校舎に入った。二年生の教室は二階だ。二階の端にある二年A組が、純恋と一子と露草と手毬が二年生のあいだ過ごす教室である。
なんと純恋は三人と同じクラスになったのであった。うれしい奇跡だ。
「一子おはよう」
「純恋おはよう。露草と手毬がこないんだけどどうしたんだろう」
「さあ……あ」
純恋のポケットでスマホが鳴った。取り出してみると、手毬からメッセージが来ていた。
「ハボタン並べるの頼まれたから大至急で体育館」
おお、そりゃ大変だ。それを一子に教えて、二人は体育館に向かった。
卒業式とおなじ紅白幕が飾られ、露草と手毬がハボタンの鉢を並べていた。
「ハボタンかあ……」純恋はため息をひとつ吐き出した。純恋はどうにも、この「食べられないカラフル白菜」が好きになれない。でも、いま並べている鉢は、純恋のよく知るシンプルな紫のハボタンでなく、独特な黒っぽい色のハボタンだ。
「この黒いハボタン、チョイスしたのだれ?」
「五木先生でござる。ふつうのハボタンは却下したんだそうでござるよ」
「そうなんだ。やれやれ」
園芸部の面々は体育館にハボタンの鉢を並べた。その鉢というのがシンプルな白いプラスチックのプランターで、色気がとにかくなさすぎる。それでも学校がこれでいいというのだからいいのだろう。
「よしできた」ハボタンのレイアウトが終わった。
「きょう、入学式終わったら草むしりのあと部室に集合だって。部活掲示板に書いてあったよ」と、手毬が言う。
「なにするんだろ」
「新入部員募集のポスター作るんだって。去年あたしと露草で作って『一年生を呼ぶためのものであって一年生が描くものでない』って生徒会に却下されたやつ」
「まあ今年は二年生だからね。文句のつけどころがないよね」
「……野々原氏、敬語やめたんでござるな」
「……二人とも、友達だから。わたしに必要だったのは、友達なんだよ」
「友達かあ。いいね。じゃああたしらも、一子みたいに純恋のこと呼びタメしちゃおう」
そんなわけでため口で呼ばれることになった。
体育館を出て教室に戻る。教室では担任の、公民の先生で剣道部の顧問をしているという、沖田先生という若い男性教師が、一同の帰りを待っていた。
「おつかれちゃん。五木先生に頼まれてハボタン運んでたんだっけ」
「はい。遅くなってすみませんでした」
「だいじょぶだいじょぶ。きょうの主役は新一年生だからね。我々は校歌を歌うだけさ」
沖田先生、随分とノリが軽いぞ。純恋はこれからの一年が期待できると思った。
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