29 英語の教科書の例文

「悔しいです」

 純恋はそう呟いた。みんなで世話してきた花壇が、生徒会のやったことで花壇として使えなくなってしまった。悔しかった。


「悔しいなあ。園芸部の顧問が先生じゃなかったら、もっとうまくやれたのかなあ」

 五木先生はそうぼやいて、キャンプに使うようなガスバーナーの火を止めた。


「そんなことないですよ。先生、五木先生だからここまでうまくできたんだと思います」


「そうですよ。五木先生は植物に関してはプロフェッショナルですよ」


「プロフェッショナルか。そりゃあずいぶん素敵な評価だな。でもな……もし本業の体育が万全に指導できたら、研修とかいかないで済んだわけだろ?」


「そっか、五木先生って体育の先生だった」と、手毬。


「一年C組とD組は別の先生の担当だからな。そうだぞ、草むしりの師匠じゃなくて体育の先生なんだ、先生は」

 一同、アハハハと笑った。


 確かに五木先生は体育教師としてはわりと出来のよくないほうだ。でも、園芸部の顧問としての五木先生は、すごく素敵だと純恋は思っていた。


「五木先生は、なんで体育の先生なのに園芸部の顧問をやっているんですか?」

 純恋がそう訊ねると、五木先生は空を遠い目で見ながら、

「そもそもあんまり好きじゃないんだよな、点数で決めるとか、走る速さとか投げた遠さとかで決めるとか」と、予想外のことを言ってきた。


「じゃあなんで体育の先生になったんですか」露草がそうツッコミを入れた。


「そりゃあ大学で教育学部にいて、高校体育の教員免許を取れて、運よく教員採用試験を通っちまったからだ。先生から数学とか習いたいか? 気合いじゃ微分積分は勉強できんだろう」


 その「気合いじゃ微分積分は勉強できんだろう」というフレーズが面白くて、ふふふ、と笑ってしまった。五木先生は自分の力不足をよく分かっているのだ。


「体育教師っつうのは、基本的に上の言うことをきちんと聞いて、その通りにやるから出世も早いんだよ。難しいこと考えないでハイハイってエラい人の言うことを聞くからな。それも体育会系の悲しいサガってやつだ」


 五木先生はそう言い、首をこきっと鳴らした。

「でも、先生は出世よりのんびり植物の世話がしたかったんだよな。子供のころから身近に花や野菜があって、……なら農家に嫁ぎでもして教師なんかやめちまえって話だが」


「そんな悲しいこと言わないでくださいよぅ」手毬がしょんぼり顔で言うと、五木先生は、

「まあもう婚期もすっかり逃してるからな。そうはならんよ。転勤にならない限り、ずっと園芸部の顧問でいるつもりだよ」

 と、笑顔で答えた。


 一同、しょんぼりとハーブティーをすする。まあまあおいしいのが悔しい。

「じゃあ……きょうの活動はこれくらいにするか」


「もうそんな時間ですか」純恋は入学祝いに買ってもらった腕時計を見た。もうすっかり夕方だ。確かに陽が暮れかけている。


「陽が落ちるのが早くなったな。いいなあ野球部は。灯りまで用意してもらって」

 グラウンドの向こうでは、野球部がカクテル光線に照らされて練習していた。


「それはしゃーないです。どこの学校も部活だと野球部が優遇されるんじゃないですか」

 手毬がそう言って立ち上がった。


「なんででしょうね。野球部ばっかり優遇されるの。いや野球部悪くないですけど」

 露草も立ち上がった。


「日本人は高校生の野球大会を全国でワクワクして見る民族だからなあ……」

 五木先生も、小さい体をひょいと立ち上げた。


「……じゃあ、お疲れ様でした」

 純恋がそう挨拶して、その日の園芸部の活動は終了になった。


 生徒会にトドメを刺された、そんな気がしていた。ペパーミントはきっと、来年には旧校舎の花壇からあふれ出て、あたり一面に広がるに違いない。


 旧校舎のひさしから出て、新校舎に戻る。制服に着替えて、校舎を出ようと歩き出す。ふと、生徒会室が目に入った。ふんどしこと岩見宏輝が、ナポレオンパイを食べながらコーヒーを飲んでいた。少女漫画の生徒会か。純恋は心の中でそうツッコんだ。


 そもそもこの辺の菓子店でナポレオンパイなんて買えるんだろうか。謎が深まる。


 そう思いながら夕飯の買い出しに、学校のすぐ横のフジノヤに入る。適当に、具材がセットになっているチンジャオロースーセットを買う。翌朝弁当を作る元気がない可能性を考慮して、値引きシールの貼られた菓子パンを買う。


 ふとスイーツのコーナーを見ると、岩見宏輝が食べていたのにそっくりなナポレオンパイが当たり前にそこそこ可愛くない値段で売られていて、純恋は膝カックンされた気分になった。


 ナポレオンパイにはしょせんスーパーの菓子だ、ひかえめにイチゴが乗っている。

 そのイチゴの赤を見て、純恋は一子のスニーカーを思い出していた。

 一子は昔から真っ赤なスニーカーばかり履いていた。その理由を、おぼろげに思い出していて、一子がそれを打ち明けたのは自分一人だと思い出す。


 一子に、直談判してみよう。

 一子なら、現状を変えることができるかもしれない。園芸部を守るには、その手しかない。


 純恋は夕飯の材料をかかえて、アパートに帰った。ドアノブに紙袋がぶら下がっている。なんだろう、と開けてみると、やっぱり太喜雄さんからナスとナスの漬物だった。


「五木先生やお友達にもおすそ分けしてあげてください」と書いたメモが入っていた。

 ははぁ~ん。純恋はマセガキの顔で太喜雄さんの動機を察した。開けてみると、確かに一人でやっつけるには多すぎる量のナスの漬物が入っていた。


 一瞬それでやることを忘れそうになった。違う違う。一子に連絡をとるんだ。

 スマホのメッセージアプリを開いて、しばらく悩んでそっと閉じた。とりあえず夕飯にしよう。それからでいいよね。純恋はそう思ってチンジャオロースーを作り、ナスの漬物といっしょに白いご飯をもぐもぐ食べた。


 夕飯を食べ終えて、スマホを見る。一子に連絡を取らなくては。メッセージアプリをしばらく眺めて、でもまだいいか、とまた閉じる。先にお風呂に入ろう、と、風呂を沸かす。


 風呂上り、髪を乾かしながら、一子に連絡しなきゃ、と考えながらSNSをひらいてしまった。あれだけ嫌いだったハートマークを、どんどん押していく。


 そこで宿題の存在を思い出して、純恋はあわててノートを広げた。宿題も「自分で考えなさい」といった印象のレポートが結構ある。頑張って書いて、さて寝るか、とスマホを充電器につないで、いや待てよ、と純恋は本来の目的を思い出した。


 スマホの画面をつつく。夜十時。さすがに連絡を取るには遅すぎるだろうか。

 それでも、いまやらなきゃいけない。純恋はそう思って、一子とのチャットをひらいて、

「元気ですか? わたしは元気です」と、そう入力して送信していいのか、と考える。


 これじゃ当たり前すぎないか。もっと印象的なことを書かねば。えーと、と純恋は唸る。


「ひさしぶり! 元気してる? わたしは元気だよ!」

 これはちょっとフランクすぎる。


「お久しぶりです。お元気でしたでしょうか? わたしはつつがなく暮らしております」

 こっちはちょっとていねいすぎるな。


 さんざん悩んで、最初に考えた、「元気ですか? わたしは元気です」という文章を送信した。流石にきょうは返事がこないだろう。純恋は寝ようとして毛布をかぶったが、そこでスマホが鳴った。


「元気です。なにかありましたか?」

 うお、一子から返信が来た。おもわずそう口に出してしまった。


「生徒会の活動は楽しいですか?」

 そう送信して、しまった、と思う。皮肉を言ったように聞こえないだろうか。


 返事はなかなかこなかった。流石にもう寝落ちしたんだろうか。それとも、皮肉を言われたと思って嫌われたろうか。


 待つ間は、結局数分だったけれど、何時間も経ったように感じた。

「楽しいですよ」とだけ、返ってきた。


「園芸部も楽しいですよ」と、返信する。

 まるで英語表現の教科書の例文みたいだ。

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