8 育ててみたい花

 しばらく意味もなく叫びながら、部屋の床や壁を叩き続けた。

 あおい荘には純恋しか住んでいない。

 純恋が出ていったら、取り壊すことが決まっているらしい。


 そりゃそうだよな、このボロさだもの。純恋は癇癪を起こしながら、それでも冷静に考えていた。あまり暴れると床が抜けやしないか、とも。


 息切れしてきたので、暴れるのをやめた。

 純恋はカップに、貧血対策によさそうだと買ってきて放置していた麦芽飲料の粉末を入れて、ポットのお湯をそそいだ。


 みんなで飲んだココアほどではなかったけれど、それはなんとなく、おいしかった。

 またみんなでココアが飲みたい。でも親に連絡したら、スポーツの部活に入るように言われたりはしないだろうか、とそこまで考えて、すっかり園芸部に入る気満々なことに気付く。


 とりあえずシンガポールの母親に、「園芸部に入りたい」と連絡してみた。どうやら昼間だったらしく、すぐ返事がきた。時差は正直把握していない。


「あなた花とか嫌いじゃなかった? 小さいころテストに花丸かかれて泣いてたじゃない」

 そんなことあったっけ。

 純恋は考えて、ああ、と思い出した。


 純恋は小さいころから、花だとか、星だとか、ハートだとか、その手のマークがとにかく嫌いだった。ハートマークが嫌いだ、という理由もあってSNSもやっていない。


 だから小学校一年生の初めてのテストで、百点満点で大きな花丸を答案に描かれて、学校で癇癪を起こして大泣きして、親に連絡が行ったのだった。


 でも、マーガレットを可愛く想って、枯れてショックを受けたのは間違いがなくて、それを助けてくれた園芸部に入って、もっといろんな花が見たいな、と純恋は思っていた。


 母親からのキャリアメールに、

「でもなんだか最近花が好きになった」

 と返信する。少ししてから、

「いいんじゃない? 楽しいと思うことをしなさい」

 と帰ってきて、納得してメールを削除した。


 さて。

 純恋はリュックサックをひっくり返して入部届けの書類を探した。


 羊歯高校の入部届けは、保護者と、本人と、担任と、顧問のサインが必要という面倒なものである。保護者のサイン、どうしよう。確か親戚のおじさんが保護者ってことになってるはず。純恋はスマホで、教えてもらっていた親戚のおじさんの連絡先を確認した。


 親戚のおじさんはもともとこの土地の人で、農業をしているはずだ。

 メッセージを送るものの、待てども暮らせども返信がこない。


 さすがにイライラして電話をかけると、親戚のおじさんはすぐ出てくれた。

「おーわりぃわりぃ、俺ぁメッセージとか見るの面倒でなあ。純恋ちゃんだったか」

 それならなぜメッセージアプリを入れているのか。純恋はため息をついた。


「あの、入部届けを書きたいんですけど、保護者のサインが必要なんです」


「おう、分かった。そんじゃ今晩行くから待ってろ」

 ぶつっと電話が切れた。なんだあのおっさん。


 その日の夜、夕飯を食べ終えたころに玄関チャイムが鳴った。出ていくと、「親戚のおじさん」というにはわりと若々しい印象の、無精ひげに日焼けした顔が精悍な男性が立っていた。


「純恋ちゃん、久しぶりだな! 最後に会ったのは赤ん坊の時だもんな」

 そりゃ覚えていないわけである。純恋は入部届けを渡して、

「ここにサインしてもらえますか?」と言う。おじさんは「よっしゃ」と、さらさら『野々原太喜雄』とサインした。このひと太喜雄さんっていうのか、と純恋は思った。


「あの、太喜雄おじさん。わたしとはどういう血縁なんです?」


「俺ぁお前さんの父さんの父さん、つまりお前さんの爺さんの弟の息子だ」

 なんだかこんがらがってしまうが、要するに父の従弟ということらしい。


「園芸部に入るのか? サツマイモとか植えるのか?」


「いえ、花壇をやったり花の世話をしたりするんだと思います」

 サツマイモかあ、それもそれで楽しそうだな。


「そうかー。そいじゃあおっちゃんは帰るわー」

 太喜雄さんはさっさと軽トラで帰っていってしまった。


 あとは顧問と担任のサインがあればOKだ。

 そこではっと、自分が本当に園芸部に入ってしまうことに気付いて、純恋はごくり、とつばを飲み込んだ。まじか……花が苦手だった自分が、まじで園芸部に入ってしまうのか。


 ――手毬さんも、露草さんも、仲良くできたら楽しいだろう。

 この二人と仲よくなれたら、一子を忘れることだってできるだろう。


 純恋はそう思って、こぶしをぎゅっと握り固めて、自分の手が温かいのを確認した。

 疲れていた。宿題は明日にして寝てしまおう。


 ――というわけで、純恋の連休後半戦は、宿題に追われることとなった。

 それでもなんとかぜんぶ用意して、純恋は連休明け、学校に向かった。


 五月晴れの気持ちのいい天気の下、校舎はそのモダンなレンガ造りの建物に、ツタをまとっている。これ、秋になったらさぞかしきれいに紅葉するんだろうなあ、と純恋は考えた。


 まずは担任の先生のサインが必要だ。ホームルームが終わるなり、純恋は先生に突撃して、サインをもらった。純恋のクラスの担任は現代国語の先生で、見た目がお爺さんぽいので、「げんじい」と通称されている。定年前の教師なんだから六十歳より年下のはずなのだが。


 げんじいはニコニコとサインをくれた。

「園芸部かあ。素敵だねえ。そう言えば旧校舎の花壇が青い花でいっぱいだねえ」


「あれ、ネモフィラっていうんだそうです」


「ネモフィラかあ~。可愛い名前だねえ」

 げんじいは純恋が奇行ゆえクラスで孤立していることを知っている。それで優しく扱ってくれるのだ。そんなことを考えながら、純恋は昼休み、いつも通りグラウンドに出た。


 グラウンドのへりから見える旧校舎からは、なにやら陽気なおしゃべりが聞こえてくる。純恋は入部届けを持って、そちらに向かった。


 旧校舎のL字の折れ曲がったあたりで、五木先生と手毬と露草がおしゃべりしながら弁当を食べていた。手毬は可愛らしくサンドウィッチの弁当、露草の弁当はわりと茶色基調、五木先生の弁当は分かりやすく酒の肴のあまり、という感じだ。


「お、野々原じゃないか! どうした?」


「あの。園芸部に入りたいので、五木先生……サインください」


「やったー! 廃部回避だー!」

 手毬が嬉しそうに腕を振り回す。露草は恥ずかしそうに、

「これから、……よろしくね。純恋さん」

 と、雨の日のオタク口調からは考えられない、穏やかなしゃべり方で言って、微笑んだ。


「じゃあ一緒に弁当にしようか。野々原は弁当を自作してるんだっけか」


 先生がたの間で、純恋の生活の塩梅が把握されていて、純恋はちょっと驚いた。

「いちおう……まあ、冷凍食品詰めただけですけど」


「それでも立派なもんだよ。先生なんかきのうの酒の肴のあまりだからな」

 やっぱり酒の肴のあまりだったのか、と純恋は変に納得した。だって、ピックに刺したオリーブなんて、弁当に入れるものではない。


「このオリーブは自家製なんだ。オリーブ自体も先生が育ててる」


「え、木に生ってるってことですか。すごい」


「おう。毎年たくさん生るんだ。塩漬けにして、それを肴に一杯やるのは幸せだぞ」


「先生、モテない悲しみを酒にぶつけるのはやめたほうがいいです」

 露草が冷静にそう言う。この露草という人は、とても冷静で真面目な人なのではなかろうか、……。


「まあ、きょうから中間考査のテスト期間だから、きょうから二週間、部活自体はお休みだ。草むしりと水やりは先生がやっとく。野々原はなにか育ててみたい花はあるか?」

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