2 保健室
さて、その翌日。純恋は目覚まし時計をぶったたいて止めた。
学校が嫌で仕方がなかったが、よく知らない親戚に「野々原さんが登校してこないのですが」と連絡されるのも嫌なので、てきぱきと冷凍食品及び白いご飯を弁当箱に詰める。
顔を洗って髪にブラシを入れ、弁当とノートと教科書なんかをリュックサックに詰めて、準備万端にしてから、ご飯に塩昆布をぱらぱらかけて食べ、ついでにインスタント味噌汁を飲み、歯を磨いて純恋はアパートを出た。
学校までの短い道のりを歩いて、純恋はきょうも独りぼっちでいる覚悟を決めた。
学校につくと、「生徒会」の腕章をつけた男子生徒が、部活の宣伝ポスターをはがしていた。もう掲示の期間が終わりなのだろうか。はがされたポスターには「園芸部」と書かれていた。
羊歯高校のモットーみたいなやつ――ほら、体育館の壁に貼ってある、学校全体の校訓――は、「自律、友愛、挑戦」である。生徒会は「自律」を拡大解釈して、わりと傍若無人にふるまっているらしい。
なんで一子はそんなところに入ったのだろう。
純恋ははがされ捨てられた園芸部のポスターをちらりと見た。「生徒会」の腕章をつけた生徒は、ほかの部活のポスターはスルーしていく。
「あのっ」
純恋はその生徒会男子に声を掛けた。
「どうしたんだい?」と、男子生徒は優しい表情で振り返る。
「なんで、園芸部のポスターだけはがしたんですか?」
「ああ、園芸部はおそらく今年の六月には廃部になるからね」
廃部。
「なんで廃部に?」
「そりゃあ、部員がふたりしかいないからさ。三人と顧問の教師一人で正式な部活と認められるけど、この調子じゃもう新しい部員は厳しいんじゃないかな。一年生もほとんど全員部活なり生徒会なりに所属してる季節だろ? 話はそれだけ?」
生徒会の男子は肩をすくめて、呆然と立っている純恋を無視していなくなった。
純恋はゴミ箱にねじこまれた園芸部のポスターを引っ張り出して、伸ばして眺めてみた。きれいなレタリングで、「花は人の心を和やかにします」と書かれている。
花かあ。
とりあえず興味はないな。
純恋はそのポスターをゴミ箱に戻そうとしたが、でもなんとなくそれははばかられて、そのままたたんで制服のポケットに押し込んだ。
教室に入る。純恋に気付いて教室がざわつく。自分の机の横にリュックサックをぶらさげて、純恋は窓の外を眺めた。
旧校舎の古い建物が目に入った。もう学校として使われてはいないが、建築として価値があるとかで、解体するかしないかでもめているらしい、という噂は聞いていた。
羊歯高校ができたころから建っているらしい旧校舎の、きのうなにやら人がいたあたりで、また同じメンバーが鉢植えを太陽に当てようとコチャコチャ動いていた。
もしかしてあれが園芸部なのかな。
純恋は教室に意識を引き戻した。ゲーム機を堂々と持ち込んで遊んでいるやつ、漫画雑誌に夢中のやつ、真面目にきょうの範囲を予習するやつ、バレないメイクについて盛り上がるやつ。
羊歯高校は校則がわりとゆるいので、髪を染めるとかピアスを開けるとか、それくらいのルール違反でないと𠮟られない。それに勉強に必要ないものを持ち込んでも𠮟られない。
ただし授業の内容はしっかり難しいところまで掘り下げるスタイルだし、放課後の自習教室はいつも混雑している。赤点の基準も厳しいらしい。
そういうところだからこそ、一緒に勉強できる友達がいたらいいのに。
純恋の孤独とは裏腹に、きょうも朝のホームルームののち、授業が始まった。
四時間目が体育だと思い出して、純恋はげんなりと体を丸めた。いまは五月に控える運動会の練習で、隣のクラスと合同でひたすら走らされたあと綱引きの練習をするのだが、一子は純恋を完全に無視してくる。この間親しげに話しかけて完全に無視されたときのいたたまれなさを思うと、憂鬱でしかなかった。
そう思っているうちに四時間目の体育が始まった。どうにも野暮ったいジャージ姿で、グラウンドに出る。きょうも五木先生が、「根性出して走れー」と、なんの指導にもならないことを叫んでいる。
気合いとか根性で早く走れるようになったら陸上競技の選手はおまんまの食い上げである。
純恋は息切れしながらそんなことを考えて、グラウンドを走っていた。隣のクラスの、長いお下げに眼鏡の女子は、純恋よりだいぶ後ろを、いかにも走るのが苦手です、というフォームで走っていた。
隣のクラスだったんだ、この子。純恋はグラウンドを走り終えて整列した。
純恋たちの学年は四クラスある。羊歯高校も昔はマンモス高校だったらしく空き教室がたくさんあるのだが、もう純恋たちの世代にはマンモス高校なんていうものはなくなっているのだろう。いや、インドとか中国にいけばあるのかもしれない。
なるべく一子を視界にいれないようにして綱引きの練習をする。純恋のクラスの最後尾には相撲部屋からのスカウトを蹴って進学したというとんでもない力持ちがいる。こいつも生徒会に所属しているらしい。
綱引きに関しては、純恋のクラスが圧勝、というのが予想されている。運動会の様子はネットで配信するそうなので、きっと純恋の両親も見てくれるだろうと純恋は想像した。
綱引きの練習を終えた。ようやく弁当の時間だ。
教室に戻って弁当を持ち、純恋は昨日とおなじ場所で弁当を食べた。
五月の連休目前の四月末である、桜はわりと早くて七分咲きといった感じ。
今年、五月の連休なにしよう。せいぜいアパートの掃除くらいしか思いつかない。グミを食べながら渋滞情報を眺めるだけの連休だろうな、と、純恋はため息をついた。
「先生! 生徒会にポスターはがされました!」
おでこの広い子がそう言うのが聞こえた。やっぱりこの人たち、園芸部なんだ。
「まーた生徒会か。あいつら友愛の精神に欠けるよなあ。生徒会長の岩見が文化部不要論かかげて、去年は郷土史研究会が潰されちまった」
五木先生がやれやれ口調で言う。
「今度の標的は園芸部ってことですか。先生からなにかできないんですか」
と、眼鏡にお下げの子。
「できないんだよなあ……生徒会長は教頭のお気に入りだからなあ」
そう言えば羊歯高校は一子のお兄さんが生徒会長をやってるんだっけ。中学のころ、一子はいつもお兄さんの自慢をしていた。柔道の県大会で優勝したのだ、と。
まあそんなことはどうだっていい。弁当を食べ終えて、純恋は教室に戻ることにした。
「友愛、っていうのがこの学校のモットーのひとつだが、そもそも生徒会長は友達がいないんじゃないかなあ。友達がいなきゃ友愛精神なんてクソだもんな」
五木先生がそう言うのを聞いて、純恋は自分のことを考えていた。純恋は、友達が欲しくて仕方がなかった。だがクラスメイトに「一触即発トリニトロトルエン女」と思われている現状、友達なんて作りようがない。
五時間目は現代国語だった。ミステリが本領の、本当なら人がばったばった死ぬようなものを書いている小説家が書いた、妙に偽善の匂いのする短編小説を一行ずつ順番に朗読し、とりあえず文章の全貌を掴む、というのがきょうの授業内容である。
純恋の番がきた。文章は「さよなら」で始まる。純恋はすうっと息を吸い込んで、
「さよなりゃ、」
と、盛大に噛んだ。
これがクラスの人気者がやったことだったら、クラスメイトは大爆笑して終わりだろう。
しかし純恋は「一触即発トリニトロトルエン女」である。
教室は、しーんと静まり返った。
純恋はそれに耐えかねて、そのまま頭を机に激しく打ち付けた。
何度も何度も、机に頭を打ち付けた。
国語のおじいちゃん先生が、慌てて純恋の肩を掴む。純恋は、ギリギリと歯を鳴らして、
「死なせてくれ」と言葉を絞り出した。
「野々原さん、落ち着いて。だいじょうぶ、ゆっくり読んで」
国語の先生がそう言うものの、純恋はそのまま貧血で気を失った。
次に気が付いたとき、純恋は保健室のベッドに横たわっていた。しばらく気を失っているふりでもしよう。純恋はそう思ってまた目を閉じた。
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