25. 死霊術師が元勇者を屠るまで(後編)

 吟遊詩人の詩や童話などに出てくる死は、黒紫蝶こくしちょうとともに訪れる。


 黒紫蝶は、刻死蝶、または、告死蝶や酷死蝶とも呼ばれ、文字通りに黒と紫に彩られた幻想的な蝶々である。死を刻む蝶、死を告げる蝶、酷い死を与える蝶、いずれの名にしても、その蝶の逸話に死が付き纏う。


 羽ばたかせる度に落ちる鱗粉が、死への恐怖を和らげるとも、逆に死への恐怖を高めるとも言われ、死を冠するこの蝶の真実は死の神タナトスしか知らないとされる。


「これは……まさか、黒紫蝶なのか?」


 驚いているナトスから手品のように出てくる無数の黒紫蝶たちは、姿かたちが様々に異なっていても、黒と紫の配色だけ違いがなく、無音で羽ばたき、無慈悲に生きている者に死を告げ、無残な死を刻み、無惨で酷い死に追いやる。


「ギギッ!」

「ギャア!」

「アギャッ!」


 生存本能を揺さぶられた魔物たちが一斉に飛び逃げていく。しかし、蝶の告げる死はどこからともなく死神のように、それこそ最初から隣にいたかのような自然さと不気味さを綯い交ぜにした状態で忍び寄った。


 ある魔物は血を吐き、ある魔物は意識を失い谷底へと落ち、ある魔物は硬直してそのまま動かなくなり、ある魔物は口から泡を吹き、ある魔物は苦しみに悶える。そのいずれの魔物も終着点は死でしかなく、ただ数多くの魔物がいるために、死の見本市のように様々な死を遂げていく。


 その後、ナトスの死霊術師の能力によって、アンデッドとして立ち上がる。


「えげつねえ……」


「言葉に気を付けなよ、アルカディア」


「アルカディアの言葉遣いの悪さには同意しますが、他方、たしかに、アルカディアが言いたくなるとおり、これはちょっとありえないですわ……」


「……ナトス様は我々に惨たらしい死を与えず、生き返すことを約束してくれた」


「あぁ……優しい死がどれだけ素晴らしいことかを……我らは生き返ってもなお、心に刻まねばなるまい……」


「苦しくなくてよかった……ってのもなんだかと思うけどね」


「苦しくない方がいいじゃん」


「まあ……だねえ……」


 アルカディアをはじめとして、既にアンデッドとして存在している死に身の勇者たちは自分が死んでいることに胸を撫で下ろして安堵していた。


 藻掻き苦しみ、死しかない結末を悟り、それでも死ぬまで生きることを諦めきれず、しかし、やがて訪れる死を直前までじわりじわりと感じる。


 その恐怖に、死というすべての恐怖の根源に、生きとし生ける者すべてが身震いする。


「死が安寧を呼ぶ、なんて、こんなの見たらよ、嘘でしかないだろ?」


 死の神タナトスが与える死は、厳格で冷酷でありながらも、どこか優しく包み込むような死だった。


 だが、怒りに打ち震えていたナトスが図らずも与えることになった死は、それを望むべくもなく、ただひたすら痛みのような苦しさに最期まで苛まれる死だった。


「無数の蝶がトラキアの周りに纏わりついている?」


 アテーナイがそう呟く。魔物1体に近付く蝶は1頭だったが、トラキアの周りだけは数えきれないほどの大小さまざまな黒紫蝶が群がり、1頭ずつ順々に近付いていく。


「やめろ! やめろ! ぐあああああっ! 痛い! 苦しい! 死ぬ……死ぬ……それに俺の力が! 俺の力が抜けていく……」


 蝶を散らそうとトラキアが全身を震わせて動かして跳ねのけようとするが、蝶に身体が触れる度に死が訪れている。


 尾の蛇が次々と死んで横たわり、コウモリの翼も徐々に小さくなり、そればかりか、身体もどんどん小さくなって、人型へと、元のトラキアの姿へと戻していくようだった。


 トラキアはそれを力が抜けていくと表現し、為す術もなく倒れ込んでいる。


「どうやら他の魔物の能力を活かすために、命をそのまま取り込んでいたようだな。だから、その命の1つ1つに黒紫蝶が寄り添っているようだ。すべての蝶が消えるとき、トラキアは死ぬだろうな」


 ナトスの冷たい説明が、まるで勇者たちやトラキアの腹の中に氷の塊が置かれたかのように、彼らの肝だけでなく全身を著しく冷やしていった。


 どれほど優しい人間であろうと怒らせてはいけない。むしろ、普段優しい人間ほど怒らせてはいけない。


「ぐううううっ……」


「もう……生き方に苦しむな、トラキア……その歪んだ自尊心も……何もかも……死んで手放すといい」


 トラキアは死の激痛や苦しみを今まで喰らった命の分だけ受けていた。何度も訪れる死は彼をまともに動かすことさえ許さない。


 ナトスは先ほどの声色から一転して、少しだけ優しそうな色も入れた声で話しかける。これから死にゆく者に最期まで怒りを持ったままに冷たくできないナトスらしい変わり方だった。


 だが、そのトラキアの死を免れるようにしたい者がいた。


「お願いします……トラキア様の命だけは……」


「……プリス?」


 ナトスが認識できた姿は彼の知る以前と大きく変わったプリスだった。彼女は魔王城の方から走って来て、トラキアと黒紫蝶との間に割って入った。しかし、黒紫蝶は彼女のことなど眼中にないように、次々とトラキアの身体に触れては、彼の蓄えた命とともに消えていく。


「お願いします……トラキア様を殺さないでください」


「どの口が……どの口がっ!」


 プリスが再度懇願してナトスの顔を見つめると、ナトスは複雑な表情で顔を歪ませる。彼の頭の中では、懇願を無視されて絶望のまま死んだとされるニレの顔が幾度となく過ぎった。


 彼にとって、自分勝手な理由を述べて暴虐の限りを尽くしたトラキアのことなど、到底許せるわけのない相手である。


「お願いします……お願いします……」


「……プリス、お前も変わり果ててしまったな」


 プリスは懇願している。ナトスはサイフォスを持ち上げ、プリスの目の前にその刃先を向ける。


「私はどうなってもいいですから……お願いします……お願いします……」


「……そこまでトラキアのことを」


 プリスは懇願している。ナトスは先ほど過ぎったニレが愛する者を守る姿とも考え始めると、その愛する者を守る姿として目の前の彼女を嫌でも重ねてしまった。


 そうすると、ナトスはここで無慈悲にトラキアを殺してしまうことに、自分とトラキアが重なってしまうのではないかとまで思うに至った。


「お願いします……お願いします……」


「……ちくしょう……なんで可哀想なんて……ちくしょう……ちくしょうがっ!」


 ナトスは右手をかざして、ケラウノスを放つ。その矛先はトラキアとプリスではなく、眼前にそびえ立つ魔王城だった。


 彼はいろいろな感情も混ざりに混ざった怒りの一撃を、ほんの少し取り戻した冷静さで魔王城攻略への一撃へと変えたのだ。


「……ははっ……魔王城に八つ当たりしてみても効かないか」


 だが、ケラウノスは魔王城の不可視の何かによって四散させられ、周りの山々にぶつかるだけに留まった。雷の直撃を受けた山は頂上の地形が変わるほどに抉れており、勇者たちがその光景に絶句する。


「どうか……お願いします……お願いします……」


「もういい……興味が失せた……アンデッドに……俺の配下にする気にもなれない……」


 ニレと重なるプリスに思わず涙をこぼし、トラキアと重なりたくない自分を改めて思い、ナトスはサイフォスを鞘に収めてから、1頭だけ、一番大きい黒紫蝶を見つめて、指をくいっと動かして自分の方へと戻していく。


 ナトスはほだされたと同時に、トラキアと違うのだと自らを証明するために殺すことまではしなかった。


「ありがとうございます……ありがとうございます……」


「……みんな、聖域の聖火を回収してから行くぞ。トラキア、プリス、二度と俺の前に顔を見せるな。それが条件だ。次にお前たちの顔を見て、見逃せる自信がない」


「はい……分かりました……」


 勇者たちが聖域を回収し、ナトスはそのままプリスやトラキアのことを一度も見ることなく、ただ一言、そう忠告すると魔王城へと入っていった。


 しばらく時間が経ち、プリスはトラキアに覆いかぶさっていた状態から、彼の頭を膝枕するような姿勢へと変わっていた。トラキアはプリスの回復魔法も効くようで徐々に回復していく。


「うっ……ううっ……ひくっ……ひっく……ひくっ……よかった……ほんとうに……」


「はぁ……はぁ……くっ……くそっ……俺は……俺は……」


 プリスもトラキアも泣いていた。プリスは生き残ったこと、トラキアが生きていることに涙が止まらなかった。トラキアはナトスに完全に負けたこと、負けた上で慈悲で生き長らえてしまったこと、そして、それにどこか安堵してしまった自分がいることに涙が止まらなかった。


「トラキア様……どこか安らかに過ごせる場所で……静かにともに暮らしましょう……ナトスも誰も関係のない……そのような場所を探して……」


「そうだな……プリスさえ……いてくれれば……」


 もうしばらくしてトラキアが起き上がって動けるようになったとき、プリスはトラキアの身体を支えて、魔王城とは逆、洞窟の方へと向かう。


 いくら弱っているトラキアとプリスとはいえ、洞窟の魔物に負けることはない。


 洞窟の魔物にならば、負けることはない。


「……あのねえ? 君たちだけ、そんな上手いこといくわけないでしょ?」


 その後、トラキアとプリスの行方を知る者は、魔王以外、誰もいなかった。

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