18. 死霊術師が正義の女神と約束するまで(前編)

 町全体が聖域となった湯治の町。ナトスは一等地にある王族の別荘地にキュテラたちとともに戻っている。ハルモニアを仲間にし、彼はその足で帰ってきていた。


 彼はニレやレトゥムとの家族の団らんを楽しんだ後、さっさと食事と風呂を済ませ、レトゥムを寝かしつけた。


 その後、彼はある決意を持って、ライアとキュテラのいる寝室へと足を運ぶ。


「兄さま! パピアはお待ちしておりました」


 パピアこと美の勇者キュテラは、身体が透けて見えてしまうほどの薄着をたった1枚と神器のケストスを羽織っただけの扇情的な出で立ちでいて、ベッドの上でもじもじとしながらナトスが来るのを今か今かと待っていた。


 彼女はナトスが入ってきた途端にベッドから跳び上がるようにして、駆けた勢いのままに彼に抱き着く。


「ナトスか。さて、では、消えるとするか」


 その様子に気付いたライアは、すっかり冷めきって水になった白湯をゆっくりと飲み干した。彼女は2人が夜に営む際、隣で平然と寝ていることもあれば、どこかへふらっと消え去ることもあった。


「……今日はライアに用がある」


「えっ」


 ナトスがゆっくりとそう呟くと、キュテラは予想外の言葉に今にも泣きそうな顔で彼を見つめ、ライアは不思議そうなそれでいて予定通りといったような至って問題がないといった様子で口の端をわずかに上げている。


「おや? 今日はキュテラの方じゃなかったか?」


 ライアの言葉に頷くのはナトスだけではない。キュテラはその細い首筋が折れてしまうかと思うほどにぶんぶんと頭を大きく縦に振っていた。


 彼女の首が折れないようにと思ったわけでもないが、ナトスはそっと彼女の背に手を回して抱き寄せつつ、彼女の頭を優しく撫で始める。その愛撫に彼女の頭はぴたりと止まって、表情が嬉しそうに崩れていた。


「パピア……ごめんな。埋め合わせをするから、今日は俺のワガママを聞いてくれるか?」


 ナトスの優しい声がキュテラの耳をくすぐり、彼女が頭をゆっくりとあげると彼の優しい微笑みが彼女に向けられていた。


「承知いたしました。そこまで兄さまに言わせて食い下がるパピアではございません」


 キュテラは名残惜しそうに一歩下がって、ナトスから離れて恭しくお辞儀をする。


「ありがとう」


 ナトスはキュテラの髪を梳くかのように撫でた後に、彼女の左頬にそっと口づけをする。彼女は彼の予想外の行為に一瞬で赤面し、興奮のあまりに瞼が全て持ち上がって瞳孔が開く。


「はっ、えっ、その、あの、うれ、うれし……その、まさか、兄さま、から、頬に、キスを……その、嬉しい、です」


「喜んでくれるのは嬉しいけど、パピア、少し落ち着いてくれ。すまないけど、席も外してもらえるか? 長くなっちゃうけど、終わったら呼びに行く。もしくは別室で寝てもらえるか?」


「はい! いえ! 作戦会議室で待機いたします! いつまでもお待ちしております!」


「ありがとう」


 キュテラはさらに1枚透けないワンピースを身に着けて、作戦会議室と呼んでいる別の場所へと向かうことをナトスに知らせ、まるで自分が1分1秒でも早く向かえば、彼が早く迎えに来てくれると言わんばかりに慌てて出ていった。


 彼女が出ていった後に、ライアはクスクスと笑う。この笑いがキュテラに向けたものか、ここに残っているナトスに向けたものかは定かでない。


「まるで俺がライアの方に来ることを分かっていたようだな」


「ああ、分かるさ、ナトス。お前のことならな」


 ライアはナトスの問いに僅かな言い澱みもなくそう告げる。彼は少しおかしかったのか、先ほどのキュテラに向けた笑顔とは少し異なった表情を彼女に向ける。


「まるで長年連れ添った夫婦のようなセリフだな」


「ははっ、長年でも夫婦でもないが、私とお前は運命を伴にするパートナーだからな」


「正義の女神にパートナーと言われるのは光栄の極みだな」


 ライアはほんの少し怪訝そうな表情になる。先ほどからナトスの雰囲気が違っている。キュテラに対しても頬に口づけをすることなど、今までの彼であれば考えられなかった。


 彼女は確信する。彼が四天王との邂逅を経て変わったのだ、と。


「まあ、本題の前座はこれくらいにしておこう。それで? 私に何の用だ?」


「俺に関する、ライアが知っていることを話してもらえるか?」


「ハルモニアから何か聞いたのか?」


 ライアは合点がいった。元々神であるハルモニアとの会話で、ナトスが自分の存在に疑問を持っても何らおかしくはなかったからだ。


「いや、具体的には何も。ただタナトスと呼ばれた。名前が似ているから勘違いしているのかとも思ったけど、ハルモニアがあの時、俺の名前をナトスだと知っている可能性は極めて低い。仮に知っていたとしても、様付けしてまで、わざわざそう呼ぶ理由がない」


 ナトスは正直なところ、聞きたいことが山ほどあったが、ただ1点、自身のことだけに問いを絞った。多くのことを聞いたとき、話を整理する時間もなく、真実をはぐらかされる可能性も頭に過ぎったためだ。


 故に、ただ1点、自分のことだけに問いを絞ったのだ。


「だろうな。お前の考えは正しい」


「教えてくれ、ライア。俺は本当にタナトスなのか?」


 ナトスの言葉に、ライアは少し沈黙の時間を生む。彼女は何かを考えているような仕草で右手の人差し指を自身の唇にそっと当てて撫でるように動かしていた。


「まあ、タダでは教えられんな」


 ナトスはベッドに座るライアの下へゆっくりと歩き出し、彼女のそばまで来た後、彼女をそっとベッドに押し倒して、ベッドに膝を着きながら彼女を見る。


 そう、彼はまるで彼女の決して外すことのない目隠しのその奥を覗き込むようにまじまじと彼女の顔を見つめていた。


「それはいつものおねだりか? それとも、いつも以上のおねだりか?」


 ナトスがライアの頬にそっと指を添えると、彼女はぴくりと動いて次第に頬を赤らめていく。


「ふふっ……それもいい、が、とても残念だが、私じゃない」


「……パピアか」


「察しがいいな」


 ライアはここでキュテラとの契約を果たそうと考えた。ナトスから持ち掛けてきた交渉に、彼女は予めこのことを想定していたかのように余裕を持って流れを自分のものにしている。


「ライア以外にはパピアしか考えられないだろ?」


「いや、実はまだいるんだがな」


 ライアはナトスを多くの女性と交わらせようとしている。彼が効率よく成長するにはそれが一番だと常々彼に伝えていた。


 彼は彼で、既に破った誓いとはいえ、ニレのことを思えば、そう易々と提案に乗れるわけもなかった。


「惑わせないでくれ。少なくとも、今言いたいのはパピアなんだろ?」


 ライアは少し戸惑う。


 いつもより強く、いつもの揺さぶり程度では揺るがない今のナトスにタナトスの影が見えた。意志が固く、頑固者と呼ばれ、死に対して、自分の責務に対して、絶対に曲げず揺らがず通しきろうとする死を概念化した神。


 彼女は笑う。


 彼女の求めている最終形態へと彼は徐々に近づいている。


「あぁ。約束してくれるか? 私が知っていることを話したら、お前はキュテラを抱く、と」


「約束? 契約じゃないのか?」


「そう、約束だ」


 ライアは押し倒されたままに静かに笑った。

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