14. 正義の女神が美の勇者と密約するまで
ライアが少し不気味な笑い顔をして、その目隠しの笑顔を怪訝そうにキュテラが見つめている。
ナトスはいつもライアと寝る前にニレやレトゥムと少しお話をしてから異空間に送っている。そのため、キュテラと寝ることになることになって、彼はライアと寝る時同様に今自分がする話に夢中になっていた。
つまり、この会話は彼に届くことがない。
「交渉? 私はアストレアと交渉することなどありませんよ?」
キュテラは先ほどたくし上げていた名残である服のシワを綺麗に戻すと、ライアに毛ほどの興味もないためか露骨に嫌そうな顔をして手を軽く振って追い払うようなポーズを取る。
ライアはここまで人間にひどい扱いをされたことがないためか、少し新鮮な気持ちでキュテラのことを見つめ、その見えないはずの目隠しの奥にある瞳で観察をしているかのようだった。
「まあ、まあ、そう冷たくあしらってくれるな。さっき、助け舟をだしてやったじゃないか。まあ、お前ならなくても、あれくらいは引き出したかもしれんがな」
「……いえ、思ったよりもスムーズに運んだので、それ自体は助かりましたよ。まあ、たしかに私が単体で交渉するよりもおそらくは良い条件で契約を迎えられましたね」
キュテラはライアが先の交渉において自分の味方だと判じられれば、もう少しやりようがあったと考えつつもこの正義の女神に借りを作るのも癪だとも考えていた。
よって、彼女が改めて考え直しても、彼女の落としどころとしては先の契約条件が最良だった。
「はっはっは。まあ、それがあってこそ、平穏を求めるナトスは納得したんだ。魅了されない自分なら大丈夫だし、その後も平穏になる、とな。まあ、そうならんがな」
「……そうならない?」
「なんだ、気付いていないのか。まあ、過ぎたことはいい。時間もないからな。で、だ。それに加えて、私との追加交渉でお前のメリットは2つある」
「2つですか」
ライアがキュテラに向けて綺麗な指を2本立てる。彼女の顔は悪戯っぽくというよりもあくどいことを考えているような女神らしからぬ笑顔だった。それに対して、キュテラは怪訝そうな表情を崩さない。
「1つはナトスといずれそういう行為をできるように協力してやろう。私も協力すれば早めにできるようになるだろうさ」
「いいですね♪ それだけで十分に交渉の甲斐があります♪」
ライアにとって、ナトスが男女の行為を重ねれば重ねるほど、成長の効率も良くなって持ちうる力もより強大になっていくため、キュテラの登場は願ったり叶ったりである。
一方のキュテラにとっても、ナトスは自分にとっての素敵な王子様になってほしい。そのために、今の彼のニレを想う気持ちは、ハッピーエンドへ向かう間の障壁の1つ、単なる乗り越えるべきプロセスくらいにしか思っていない。
「それで……2つ目とは?」
「ナトスに内緒にしてやろう」
このライアの言葉によって、一瞬で空気が変わる。歪ではあるものの次第に和やかになっていた2人の間の空気が一瞬にして反転し、キュテラの表情が冷たいものへと変わったのだ。
もちろん、内緒にするのはこの交渉のことではない。
「兄さまに内緒……何のことやら?」
「私が知らないとでも思ったのか? 後から破棄したとはいえ、お前がアレウスの勇者と交わした密約をな。ナトスが死霊術師に覚醒する前だったら、おそらく、アプロディタの神器で容易に篭絡することもできただろうに……焦ったようだな」
ライアの切り札の1つは、トラキアとキュテラの密約のことだった。
キュテラは観念したように表情を変える。彼女が落ち着いた様子で両肘をテーブルに着けて、指を組んだ両手の上に面白くなさそうな顔をしつつ顎を乗せ始めた。
すると、ライアもまた彼女と同じようなポーズをする。ただし、ライアは楽しそうだ。
「……プライバシーの欠片もありませんね。あの頃は……すんっ……ナトス兄さまがいつもボロボロの姿をしてらして……ぐすっ……見てられなくて……早くお助けせねばと……悠長にしていられなかったのです……トラキアに兄さまのことを言っても、聞く耳を持っていませんでした……おいたわしや……兄さま……あんなクズクズのクズにいいようにされて……。それで、交渉と言うことは何か私にしてほしいことがあるのでしょう?」
キュテラは幾筋もの涙を流す。彼女から見て、トラキアパーティーにいた頃のナトスは本当に不憫だった。
ナトスの個人としての戦闘力こそ凡人であることは彼女も理解していたが、それ以外が優秀であり、何でもこなせる非凡さや優しさと人徳であれば、前線ではなく指揮官向きであると確信していた。せめて、彼に無能の烙印さえなければ、いかようにもなれたはずなのだ。
彼女は彼以上に彼のことで心を痛めて、運命を呪っていた。ここに運命の女神を名乗る者がいれば、彼女は何の躊躇もなく神殺しをしてみせるだろう。
「ああ、キュテラなら簡単だ。私の身分証を作ってほしい。あとは、私とナトスが同衾して行為をする回数がキュテラよりも多いことを理解して殺意を向けないことだ。男は委縮すると気が乗らないからな」
ライアは頭を手からどかして、自由になった左手で輪を作り、右手の人差し指を輪に入れ損ねる仕草をしておどけて見せている。
「はぁ……そのポーズはやめてください。はしたないですよ。まあ、身分証など言われなくとも作りますよ。私はともかく、兄さまが変に疑われては困りますからね。しかし……しかし、この泥棒猫がっ……姉さまならやむなしと思っていたところに、お前が2人目に……私からすれば実に許しがたいのです……あまつさえ、死んでしまった姉さまを生き返せるなどと……それがなければ、私が献身的に傷心した兄さまを生涯にわたって支えて差し上げられたのに!」
キュテラは先ほどのナトスを想う憂いの乙女の表情から一変した。目の前のライアを泥棒猫と呼び、怒りを爆発させる寸前までになっている。
「ははっ……ナトスがニレの死んだその時に死のうとしていたことを知らないわけもあるまい?」
「っ……私がどうしても離れなければいけない時に……あのクズ勇者が暴走するようなグズでもあったのは悲劇です……多少顔が良くて女を誑かすのが上手いと豪語するから使ってやったのに……私は兄さまと姉さまの仲を裂けと言ったのに……誰が姉さまの身体を裂けなどと……まあ、それはいいとしてもです」
トラキアとキュテラの密約。それはナトスとニレの仲を裂くことだった。
ナトスがニレにぞっこんであったことは誰もが知っていた。キュテラの美貌を持ってしても無理だと悟っていた。そこでキュテラはニレの方をどうにかできないかと画策したのである。
粗野で乱暴で女好きであるものの、勇者としての力を持ち、美丈夫としても有名な力の勇者トラキアを使って、ニレの心をナトスから引き剥がそうとした。トラキアへのメリットとして、魔王が倒された時の王と彼の約束であるキュテラとの結婚や次期王としての権力を彼女としても確約すると告げた。
ただし、契約ではなく単なる口約束であり、彼女は契約でないことを守るつもりはなかった。キュテラはナトスを迎えるつもりだったからだ。この時点でトラキアは単なる口約束に踊らされた道化である。
「身体を裂いてもいいのか。怖いことを言うじゃないか」
その密約でトラキアが動いた結果、ニレもまたナトスにぞっこんであり、相思相愛の夫婦に付け入る隙などなく、トラキアは何の影響も与えることなく失敗に終わる。その後、キュテラはトラキアを止めた。もう何もしなくてもいいと告げ、密約を破棄したのだ。
もちろん、トラキアが下手に暴走しないように結婚の話や権力の話をなかったことにはしなかった。だが、自尊心の高かったトラキアは自分になびかないニレに業を煮やしてしまい、その果てに独りで暴走していた。
「ふんっ。何とでも言ってください。しかし、何故レトゥムちゃんまで! 彼女が生きていれば、まだ兄さまも姉さまの忘れ形見に生きる理由を見出していた。そうして、片親になったのだから、危険な冒険者など続けずに生活するとなれば、そうなれば、いずれ王族の私の下で保護して、いずれ確実にその優秀さを見込まれて、いずれ私の伴侶になったはずなのにっ! だいたい、アストレアが来てこんなことになるなんて予想外も甚だしいっ! ああっ! 兄さま以外のすべてが、自分自身さえも忌々しいっ!」
「おいおい、大声を出すとさすがに聞こえるぞ?」
キュテラはライアの言葉にすっと落ち着きを取り戻す。ナトスに聞かれることは絶対にあってはならない。彼女は何があっても、破棄したはずの密約について、墓場まで持っていかなければならなかったのだ。
「……思わず、はしたない真似をしてしまいました。しかし、あのクズ勇者のせいで多くの想定を崩されてしまいました……そもそも最初に兄さまに手を差し伸べるのは私だったはずなのに……別のこともあって兄さまを優先できなかった……まずそれが大きな過ちでした……あの時から悔しくて……悔しくて……安眠できたことなどありません……」
キュテラはよほど悔しかったのだろう。思い出した今でも唇を噛み、口の端から血が流れるほどに彼女は感情が発露していた。さすがのライアもその形相には少し驚くが、平静を装って宥めるように微笑む。
「どれもこれも運命さ……だいたい、お前と、しかも、ペアのパーティーなど当時のナトスが組むはずもない。その時点でナトスがニレにこっぴどく叱られてしまうさ」
「それもそうですね……。さて、雑談が過ぎました。よいでしょう、私としてもメリットが大きいので交渉に乗りました。お互いの良き関係のために」
「お互いの良き関係のために」
こうして、キュテラとライアはナトスに関する密約を結んだ。
「さて、では、今日は兄さまと楽しい夜を過ごします。ゆめゆめ邪魔などされぬよう」
「邪魔などするものか。だが、初日から期待していると疲れるぞ?」
ライアがそう返すと、キュテラは両手を頬に寄せながら恍惚とした表情でこれからの夜のことを妄想する。
「ふふっ……初日は触ってもらうだけでよいのです……触ってもらえれば、こちらも触れるようになりますからね……ふふっ……あぁ、久々の兄さまとの就寝……触ってもらえれば、その温かさに包まれながら久々の安眠に就けることでしょう……楽しみ……♪」
「パピア、準備ができたぞ」
ギギィッと古めかしい木の扉が開く音の後、家族の会話を終えたナトスがパピアを呼びに来た。彼女は嬉しそうに椅子からぴょんと跳ねて、彼の方へと一目散に駆けていく。
「はーい♪ ねえ、兄さま、ベッド以外では兄さまにぎゅってして触れてもよいでしょう?」
「え、まあ、いかがわしくなきゃいいけど……」
キュテラが昔のような純粋無垢な雰囲気で幼い妹のように甘えてくるので、ナトスも思わず2つ返事で了承してしまう。
「はーい♪」
「ところで、ライアと何か話をしていたのか?」
「あら、兄さま、女の子の会話に詮索を入れるのは紳士としていかがなものでしょう」
「あ、いや、2人が仲良く話せていたならいいんだ」
「ふふっ……アストレアは意外と話ができるようで有意義でしたよ♪」
「そうか。それはよかった」
ライアはナトスの「よかった」に何がよかったのかさっぱり分からなかったが、彼なりに周りが仲良くしてくれていた方がいいという思いから出た言葉なのだろうな、と思うに至った。
「っ……」
たまにライアは心の奥底に痛みを生じる。運命が重なったとはいえ、天秤が示しているとはいえ、ナトスのような優しい人を使いに使って、魔王を倒すという目的を達成しようとしている。
正義がどこにあるのか。そもそも正義とは何なのか。見た目に頼らない公明正大で平等な正義のはずが、盲目的な偏った正義になっていないかと常に自問する。
しかし、その答えは誰も持たない。それが正義などありもしないということの証明でないことを彼女は心から願っていた。
「……まあ、キュテラの方が何枚も上手だからな。ナトスも意識していないとはいえ、厄介な者を魅了してしまったようだな」
考えても仕方ないことを考えることはやめて、ライアは静かにナトスのことを想った。
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