13. 死霊術師が美の勇者と契約するまで(契約編)
キュテラはここでようやくナトスから少し離れて、自分の紺のローブをたくし上げる。するすると上がっていくローブの中からは真っ白で陶器のように美しくもどこか妖艶さを持つ脚が見え始めた。その脚はライアから見えず、ナトスにだけ見えるので、まるで秘密の遊戯のような背徳感さえ生み出している。
「おい、パピア、いきなり何を」
「私のこの腰帯が見えますか?」
ナトスが非難の声を上げた後に、何事もないかのようにキュテラが自身の腰回りにある帯を指し示す。彼は彼女に言われた腰帯を見ようとして視線を戻すが、すらっとしていて美しく整った両脚の先、優しい男を誘うような純粋無垢そうな肌着から何から目に映すことになり、再び目を逸らしてしまった。
「兄さま、私の身体に反応してくださるのは嬉しいのですが、きちんと見てください。これがアプロディタの神器なのですから」
アプロディタの神器。その単語がナトスの気恥ずかしさや遠慮を吹き飛ばした。彼はまじまじとキュテラの扇情的な太ももや臀部の上部に纏わりつく腰帯を凝視する。彼女は彼の熱い視線が自分へと向かっていることに感極まって腰を少し恥ずかしそうにくねらせていた。
「アプロディタの神器? ……腰帯が?」
パピアの素肌に直接まかれている腰帯は、青地に透けて肌まで見えるベールのような柔らかさとしなやかさを持った布である。宝石はついておらず、何も言われなければ、少し上等な程度の装飾品でしかない。
「嬉しい……こんなに興味を持っていただけるなんて。はい、銘無きケストス。ケストスとは腰帯のことです。銘が無いと言うのは、具体的な対象がないと取れますが、この場合、誰にでも等しく効果を与えられるということでもあるのです」
「効果?」
「それは私が解説してやろう。アプロディタの勇者が顕現させる神器は、精神操作や人心掌握も可能な強力な魅了の力を持ったその腰帯だ。雑魚程度なら人間以外でも操作できるし、人間など老若男女問わず他愛もなく操れる」
ナトスはライアの説明を聞き終わった途端に、飛び退くように視線を勢いよく別の場所へと移す。彼はもしかしてパピアに嵌められたのか、という疑心を抱く。
「老若男女問わず……じゃあ、俺も既にかかっているのか?」
ライアは嬉しそうに首を横に振り、逆にキュテラは悲しそうに俯く。まるでトリックを暴いて犯人探しを楽しむ名探偵のような少しばかり高揚した様子で1つ1つの言葉を線でつないでいく。
「そこだよ。ナトス、前にも言ったと思うが、お前自身が強力な魅了持ちなんだ。それに加えて、どうやら魅了が完全無効なようだ。本来、神器の方が勝るはずだが、さすがは規格外。神器の魅了も効かないとはな」
ナトスが他人の魅了に影響を受けないのは、転生前の死神タナトスの時に、何人たりとも死の運命を変えられないようにするためである。
タナトスの司る死は、どのような供物や贄、代償をもってしても、時期を変えてはいけないものだった。故に、彼は他人に精神操作をされることはない。
「そうなのか……? じゃあ、俺は魅了されずに自分の意志を貫けるのか」
ただし、間違ってはいけないことがある。
タナトスの司る死という運命はその結果だけ約束されており、過程についてはどのようなものでも受け入れられるのである。つまり、死ぬことは確定だが、どのように死ぬかは極論どうでもよいのだ。
それと同様に、ナトスにとって、ニレとレトゥムを生き返らせて彼女たちと平穏無事に暮らすこと、この一点は彼の中で確定していることである。そして、そのためならば、彼の意志は鋼のような硬さを持ち覆すことがない。
一方で、その一点以外については、他人に容易に流されてしまう揺らぎも併せ持つ。今もキュテラに流されかけているのはそのような揺らぎがあるためである。
「まあ、本当に操作されそうになっていたら、私が解除してやったがな」
ライアは小声でありながらも先ほどよりも高らかに笑う。
「まったく……このために神器が手に入れたというのに使えない……」
キュテラの一切隠さぬ物言いにナトスは頭を抱えるように腕を上げた。
「このためにって……」
「はい。私は兄さまが私にメロメロになってくれたらいいなと思って、必死になってこの神器を手に入れましたの。でも、兄さまは私と目が合っても、この脚や身体を見ても魅了されませんでした。さすが、私の尊敬する兄さま、なのですが、私を魅力的に見てもらえないのは寂しく思います」
ナトスは素直にそう答えるキュテラに頭を抱える。彼には彼女が隠し事をしようとしない誠実な人間に見える一方で、話の通じない頑固さも持ち合わせているように見えた。
「本人の魅力と神器の魅了では話が変わると思うが……とりあえず、話を戻そう。俺はどうしてもパピアの出してくれた先ほど条件に応じられない。これだけは分かってくれ」
キュテラはローブをたくし上げるのをやめて、再びナトスの腕に抱き着く。彼はこれを回避しようかとも思ったが、逆にもつれて倒れ込まれても困るために渋々受け入れた。
「埒があきませんね……いくら兄さまのお言葉でも、あれも嫌だ、これも嫌だ、では、私も困ってしまいます。何とか折り合いをつけたいものですが……」
キュテラが目をしばたたかせる。どうにか魅了できないかといろいろとモーションをしてみるも、逆にナトスの振り向いただけの仕草にドキリとして魅了の返り討ちに遭う。彼女は彼に魅了で敵わない。
「では、私が折り合いをつけてやろうか?」
2人が混沌としてきたためか、ただの気まぐれか、はたまた、自分が参加することでどのような変化が起きるのかを確かめるためか。いずれにしても、ライアはぬるくなった白湯を片手にぐいっと飲み干してから、口の端を上げてそう2人に告げる。
「ライアが?」
「アストレア自ら?」
2人とも怪訝そうな顔を隠さない。キュテラがライアに対して自分の味方かどうかを判じるためにそのような表情になるのはおかしくないだろう。しかし、ナトスもまた似たような表情をする。それは、誰かにとっての正義が自分にとっての正義とならないことを彼が思い知ったためである。
「至極簡単な話さ。中途半端に対等で平等で公平にしようとするからだ。総取りゲームのようにしてしまえばいい。こうなったらこう、そうなったらそう、というように条件をいくつか付けるんだ」
正義の天秤を振りかざす女神の言動とは思えないような言葉だが、彼女は正義の天秤をいつも見ている上で行動している。つまり、これもまた一種の平等的な発言なのである。
しかし、ナトスは肩を竦めて、彼女を小ばかにしたように口を開く。
「おいおい、ゲームって……契約だぞ?」
「ナトスの言いたいことは分かるが、そんな堅苦しく考えるから話が進まないんだ。そうだな。まず基本的な契約として、キュテラ側は今後ナトスに支援を惜しまない、ナトス側はキュテラを目的達成後必ず蘇生する」
どこからかライアはカジノのチップのようなものを取り出す。山のように積まれたチップの中からいくつかを取り出して、ナトスとキュテラの前に置いていく。
「まあ、それは問題ない」
「私も問題ありません」
ナトスもキュテラもここに異論はないために首を力強く縦に振る。
「では、次だ。魔王を倒すその日まで、私とナトスが寝る日以外はナトスとキュテラが同衾する」
「おい! それはちょっと!」
「まあ!」
ライアが動き、キュテラの方にチップが追加で置かれていく。今は彼女の方が好条件であると示しているようだ。事実、彼女の瞳が輝き始めて両手を胸の前で嬉しそうに組んでいる一方で、ナトスはライアを恨めしそうに見つめ始めている。
「2人とも、話は最後まで聞け。で、だ。同衾中にナトスがしてしまったことを今後、キュテラもしてもよいことにすればいい」
「どういうことだ?」
「たとえば、ナトスがキュテラに意思を持って触れたら、キュテラは以降ナトスを触れてもいい。ナトスが行為を最後までしてしまったら、キュテラも最後まで行為を求めて動いてもいい。意思を持って、というのは寝ている間の寝返りなどの無意識下は例外という意味だ」
ライアがナトスの方にチップを追加で置いていく。若干、彼の持つチップの方が少ないために、これから追加の条件が入る可能性を示している。
「……なるほど。兄さまが触らない限り、同衾してもお互いに触れることはないのですね? 私がされていない行為は私からすることができずに……ただ指を銜えて兄さまを待つしかないのですか」
キュテラはナトスから離れるようになる。彼は彼女が触れていた部分が少し寂しくなるように感じつつもホッとした。
「はっは、同衾中と言っただろう? 今はこの話の適用外だ。話を戻そう。そう、要はキュテラにお預けだ、お預け。この話がほぼ公平にできるのは、ナトスが魅了無効だからだ」
「俺が魅了無効……か……」
「これくらいの譲歩がないと、いい加減、キュテラが可哀想だと思わないか? こんなにお前のことを想ってくれているのに」
「やけに引っ掛かる言い方だな」
「その通り、引っ掛けているのさ。臆病なお前をギャラリーから参加者にするために手を差し伸べているとも言えるな」
ライアは2人の成り行きやナトスの熟考姿に笑みを浮かべて、空になったコップを持ち上げてふらふらと揺らしている。
彼女は彼が魅了無効ということをことさら強調している。これに気付いているのは彼ではなくキュテラだった。
「嫌な言い方をしてくれるな。まあ、俺がしっかりしていれば……大丈夫なのか……」
「では、私から追加の提示を。兄さまとの営みの有無にかかわらず、魔王討伐後の兄さまとの結婚は兄さまが望まぬ限り諦めますわ。もちろん、兄さまや家族を故意に追いかけることもいたしませんし、生活の保障をきちんといたします」
キュテラの提示はナトスにとって衝撃以外の何物でもなかった。そもそも彼女の最初の提案は結婚することだったのだ。その最初の提案をなくしてもよいということは、彼女がしたかった契約と異なる、つまり、最大の譲歩なのではないかと彼は錯覚する。
無論、彼女は最初からそれができると思っていなかった。もちろん、できれば完璧だが、ニレがいる限り彼の気持ちをそちらまで動かすことは難しいと判断していた。
もし彼が金や生活で容易に交渉できるようであれば、彼はこの国一番の女たらしで既に有名になっているはずである。彼を狙っていた女性はそれほどまでに多く、彼の性格やニレという最愛の人の壁はそれほどまでに高かった。
「俺がしっかりしていれば……家族も……生活も……」
ニレやレトゥムとの安定的な生活やキュテラに監視されることのない平穏な生活を妄想し、ナトスにもようやく契約に乗って来られるほどの欲が出始める。
キュテラはナトスを見て笑う。
「いいのか? そのような約束まで加えてしまって? ナトス側への要求はあるのか?」
「そうですね。強いて言えば、同衾の約束は必ず果たしてほしいのと、一度、兄さまが営んでくださったら、その後は私の欲求……失礼……要求に応じて、幾度となく応じてください」
「つまり、一度したら、以降は原則拒むな、ということか」
「そうですね」
「……分かった。俺は魅了がかからないんだろ? 俺がしっかりしていれば……」
こうしてナトスは契約のすべてを理解した上で了承する。キュテラは微笑む。ライアもまた手を叩く。
「では、決まりだ。正義の女神アストレアの名において、2人の条件付き契約について、必ず履行されることを誓おう」
ナトスは1つ大きな勘違いをしたまま契約をする。
彼は魅了無効であることに間違いないが、男としての性的欲求や本能を失っているわけではない。つまり、キュテラのような美女が性的な挑発を行えば、彼も男として普通に反応してしまうわけである。
実際に彼は彼女を見ればドキッとしてしまうこともあるし、触れられたところが温かく感じ離れればその温かさに少しの恋しさを覚えていることもあるのだ。
もちろん、普段の彼なら本能を抑えることもできるだろう。普段の彼ならば。
「契約は今日からか?」
「今この瞬間からだな。つまり、今日からだ」
ライアがナトスの言葉にそう答えると、彼は律儀に支度を始めようとする。
「……ニレとレトゥムには異空間で寝てもらうよ。パピア、支度するから待っていてくれ。ちょっとだけ時間がかかる」
「はい♪ お待ちしております♪ 楽しみです♪」
ナトスが少し苦笑い気味に寝室の方へと消える。キュテラは終始笑顔である。彼女の交渉はほぼ当初の想定通りだった。後は、魔王を倒すまでに彼と愛し合って愛の結晶を作ればいいのである。その算段もほぼ終わっている。
「さて、キュテラよ。では、続けて、交渉といこうか」
ライアがナトスの気持ちを揺らがせる以外に何の意味も持たなかったチップを片付けながら、キュテラにそう話しかけた。
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