6. 死霊術師が必要悪を受け入れて自分の気持ちを裏切るまで(後編)
ナトスはこればかりは背中越しに話すわけにはいかないと思い、ゆっくりとライアの方に向き直る。彼は男としての欲望を振り払い、思わず見てしまいそうな首から下を決して一瞬たりとも見ないようにして、ライアの目隠しした顔を真っ直ぐと見つめて座る。
彼の視線は彼女の目隠し越しの瞳を見ているかのようにひたすら真っ直ぐに見つめている。
「ライア。分かっているだろうけど、俺にはニレがいるんだ。俺はニレを誰よりも愛しているんだ。俺はニレだけと心に誓っているんだ。それなのに、これじゃまるで彼女を裏切るような真似を……」
「これ以上、自分が傷つくことはない、だったな」
ナトスがいろいろと言葉を出しているのを最初はライアも聞いていたが、次第に呆れたような表情になった後に、先ほどよりもさらにひどく冷たい声色で、彼の決意の言葉を復唱し始める。
「なっ!」
ナトスはライアから放たれる過去の自分の言葉に、現在の自分の言葉を失う。
「理不尽は味わい尽くした。これより下はもうない。この底から這い上がってやる。たとえ、それで誰かが傷つくことになろうと、だったな」
ライアはさらに言葉を続ける。それは全て、ナトスが死霊術師になった時に、ティケに言い放った決意と覚悟、自らを奮起させるために使った言葉たちである。
「そ、それは……」
ナトスは言い澱む。彼は目を逸らしたくなるが、逸らせば別の場所に意識が行ってしまうため、それを避けるためにも目を逸らすわけにはいかなかった。
「その時、嘘偽りではなかっただろう。だが、ナトス。お前は全てを失ったと思っていたようで、実はまだ捨て去っていないものがあった」
ライアは右手を上げ、ナトスの左頬をゆっくりと愛おしそうに撫でる。彼はその感覚に一瞬の陶酔と欲情を覚えた後に、自身の欲望の浅はかさ、浅ましさに絶望する。
「ぐっ……」
ナトスは自分の太ももの肉を捩り切るつもりかのように、自身の握力いっぱいに太ももを掴んだ後に爪を立てる。彼はもはや、目以外のすべてがここから逃げ出したいかのように、ライアから離れていきたいことが如実に分かる姿勢になる。
しかし、彼女が逃がさない。
「捨てきれていないもの、それは道徳や倫理、常識といったお前の土台になるものだ。復讐を決意し、妻子以外の犠牲を厭わなくなったこともそれらの破壊と言えよう。しかし、それだけでは不十分で、さらに破壊してもらう必要がある。お前が13人目の勇者になるためには、私と交わるしかなく……つまり、お前の中で最も忌むべき、妻への裏切りを……必要悪を受け入れる覚悟がなければならない」
ナトスはライアの手を振り払って、目の前の光景を見ないように目を瞑って、愕然とした表情で頭が下がってしまう。
「……なんでそこまでしなきゃいけないんだ! もうたくさんだ! 俺はただ……俺は……」
ナトスはこの理不尽に涙が出そうになる。しかし、皮肉にもニレとレトゥムがいるということが彼を人前で泣かない夫、父親としての矜持を持たせる。
彼はそれもあってか、頭を上げた彼は近付こうとするライアを自分の腕の力で精一杯押し返して抵抗する。一分でも一秒でも、自分の身体にニレ以外の女性の肌を近づけたくなかった。
「……ニレやレトゥムのため、そう、お前が魔王に勝つためだ」
ライアは先ほどとは打って変わって、優しい声色でナトスにそう諭した。
「勝つため? ニレやレトゥムのため?」
「そうだ。お前が、すべての勇者を倒し、すべての勇者の力を手に入れ、すべての勇者を率いて、魔王を倒し、そして、家族を取り戻すためだ。ニレやレトゥムを本当の意味で取り戻すためだ。それがお前の望みだ。そのために、勇者になる。勇者になるために私と交わる」
ライアは1つ1つの流れを丁寧に説明する。ナトスが理解できなく、いや、理解しなくなっては困るからだ。
彼には理解してもらっている必要がある。自分で最終的に選んだのだと思わせる必要がある。力を振るうために異常であることと同時に意識が正常であることも必要になるからだ。
「ニレ……レトゥム……本当に生き返らせるには……勇者になるしか……」
ナトスが激しく葛藤する。彼の腕の力が弱まる。決して彼が意識的にライアを受け入れたわけではない。悩むことで押し返すことが正しいのか分からなくなっているのだ。
「お前はそもそも成り立ちからしてあり得ないことばかりだ。詳しくは伏せるが、お前はいろいろと異常だ。本当ならば無理なことをいろいろとお前に詰め込んでいる。いや、お前だからこそ、無理に詰め込めている。そして、少なくとも、お前は魔王を倒すまでは自身が異常であることを受け止め、その間は人として異常であることも自覚しなければいけない」
ライアはここぞとばかりにナトスの手を振り払い、そのまま彼を優しく抱きしめた。彼には再び押し返すだけの力が出なかった。彼の鼻を彼女の甘い香りがくすぐる。
「家族を取り戻したいだけなのに……むちゃくちゃだろうが……」
美しい女を何度も抱ける、夢だった勇者になれる、魔王さえ倒せる力をいずれ手に入れられる、望みが叶う。これほどの好条件はない。妻を裏切り、自分の誓いを打ち捨てることさえ除けば、である。
「それを受けたのはナトス、お前だ」
ナトスは騙し討ちを受けたような気分だった。しかし、自分が言ったことに間違いはなく、そして、それ以外の方法がないことも理解していた。
「ぐっ……俺の……俺の……なんでだよ……くそっ! ライアはいいのか?」
「何?」
ライアはナトスの問いにピクリと反応する。
「お前は俺と交わることになっていいのか。それが本心から言えることなのか!」
ライアは、まずゆっくりと微笑んだ。先ほどまでの声色と剣幕は嘘かのような笑顔。次に、彼女はナトスに向かって、ゆっくりと縦に頷いた。最後に、彼女はゆっくりと口を開く。
「無論だ。それが私の正義なのだ。私には私の正義がある。それのためなら、この命さえ惜しくない。司るとはそういうことだ」
ナトスは目隠しがあるためにライアの瞳を見ることをできないが、恐らく曇りのない瞳なのだろうと容易に想像できた。
彼は、神の異常性、機能としての執着に驚きを隠せない。
「ぐっ……くそ……」
「まったく……アストレアは優しいですね。ナトスに1つ後押ししてあげましょう。あなたは昨夜、既にアストレアと同衾を果たしています」
ティケが会話に入ってくる。それもナトスにとって衝撃的な発言とともにやってきた。彼はライアから彼女へと視線を移す。
「……何だと?」
「理由は簡単です。いくら適性があるからと言って、ただの人間がホイール・オブ・フォーチュンの再構成に耐えきれるかどうかは分かりませんでした。ですから、いずれ交わるであろうアストレアの神の力をあなたに分け与えるために1度、男女の営みを致しているわけです。もちろん、私は見ていませんよ?」
ティケは悪びれた様子もなく、淡々と説明する。
「そんな……」
ナトスはもはやどのような表情をすればよいのかさえ分からずに困惑する。彼は既に、ライアとそのような行為があったことなど知らなかった。
「だから、今朝はきっと良い目覚めだったでしょう? すべてが癒されて、すべてが清潔で、すべてが正常で、すべてがすっきりした気持ちで起きられたはずです」
ティケは、良いことを私たちはしてあげた、と言わんばかりの言い方でナトスに語りかける。
「そんな、その時はまだ決めてなかっただろうが!」
「……決めてからでは遅いのです。準備はあくまで実施するべき時までに終わらせなければなりません。遅くなればなるほど、ニレさんやレトゥムちゃんの魂が冥府に行く可能性が高かった。かといって、あなたの身体で1度きりのギャンブルなどもってのほか」
「ニレやレトゥム、俺のためだって言いたいのかよ」
「いいえ、私たちはそこまで押し付けていません。ただ、私たちは私たちが考えられる最善をしたまでです。それは少なくとも、あなたにとって最悪ではないはずです」
ナトスはティケと会話ができているようなできていないような不思議さと気持ち悪さを覚えている。彼は、ライアからはライアなりの意志を感じることがあっても、ティケからはティケの意志を感じない。
彼は脱力した。彼にとって今までの会話は何だったのだろうか。既に彼の身体はその意志に反していようと、妻を裏切った事実があるのだ。その意志さえあの手この手で崩されようとしている。
彼は考える。そもそも、彼に何かを否定する権利など元々あったのだろうか。この運命、この流れに彼の意志はどこまで及んでいるのだろうか。所詮は神の考えたお遊戯の人形に過ぎないのではないだろうか。
「……どうする? 勇者の儀式はすぐでなくともよい。考える時間は与えるぞ?」
「……いや、やるよ」
ナトスは首を横に振ってからそう答えた。時間などいくらあったところで意味がないと分かっているからだ。
「覚悟か?」
「覚悟? 覚悟って、そんな大層なもんじゃない。自棄だよ。きっと冷静になったら、ニレやレトゥムの顔を眺め続けていたら、一生できなくなる。自棄になっている今なら、どうにか必要悪を受け入れることができる」
それはナトスの本心だった。嫌なことを先延ばしにして良かった試しの無い彼は、他に手段を考えることのできない彼は、ただただ諦めるように半ば強制的な決意を自分に課すしかなかった。
彼が自分に決意を課したのは、人のせいにして何もかもが嫌になって逃げることをできる限り避けるためである。自分が決めたと思えば、歩みを止めることは少ないだろう。
彼は歩みを止めるわけにはいかないのだ。
「私は、ナトスのその意志を尊重しよう」
ライアがそう言うと、ナトスはさすがに苦笑いとモヤモヤとした何かが込み上げてきた。
「尊重か……。ははっ……もう訳が分かんねえ……」
その後、ティケは神界へと帰り、ライアはベッドの上で待ち、ナトスはニレとレトゥムをベッドから移動させて、ダイニングの椅子に座らせる。さすがに彼女たちの寝ている隣でそういった行為をするだけの豪胆さは彼になかった。
「念のために、レトゥムちゃんとニレさんは寝るように強く念じておくといい。そうすれば、ナトスの行為を知ることはないだろう」
寝室に戻ってくるナトスに向かって、ライアはそう声を掛けた。彼はベッドに近付く。ふと、彼はこのベッドをナトスとニレ、トラキアとニレ、そして、ナトスとライアが使ったことになると気付く。早めに買い換えたいと考えるばかりだったが、今後もライアと交わるのであれば全てが終わってからか、とも考えてしまう。
「先に言っておく……ライア……ありがとう」
ライアはまさかナトスからお礼を言われると思わなかったので、驚きを隠すことができなかった。少しの間、彼女の口が開いたままになり、その後、ようやく動いた。
「……急にどうした。礼を言われることはしていない」
ライアとしても、今のこの状況がナトスにとってどれだけ辛いか、汲み取る気持ちはあった。私情を切り捨てることの難しさは彼女もよく知っていた。
「女神様なのにこんなことまでしてくれて、礼を言わないわけにはいかない。いや、もちろん、いろいろ言いたいことはある。なんで、どうして、と呪いたくなることだってある。だけど、気付いたんだ……俺だけじゃ何もできないんだ……何も変えられないんだ……文句は何も言えないってことに……気付いたんだ……」
ナトスは思わず涙を流す。それが何の涙なのかは彼自身にも分からない。
「……こちらこそ、ありがとう。私のことは気にするな。私の使命に準じているだけだからな。……ところで……お願いがある……んだが……」
「なんだ?」
ナトスは服を脱ぎながら、ライアの方を振り返る。彼女が先ほどの勇ましさとまったく異なるもじもじとした仕草でゆっくりと口を開く。
「その……優しく……してほしい……後、目隠しだけは外さないでほしい」
「分かった」
ナトスは自らの意志でライアと男女の営みを行った。絡まるようなキスから始まったそれを彼も彼女もよく覚えていない。ただ、機械的に終わったわけでもなく、終始愛し合う仲のように時間が流れていた。優しくという言葉が彼をそうさせ、彼の行為と魅了の効果が彼女をそうさせたのである。
こうして、彼は死霊術師となり、13人目の勇者となった。
たしかに彼には凄まじい力が流れ込んできた。絶望していた彼が、これならあのトラキアにも勝てるだろうと確信を持てるほどに神の力や強さを感じている。しかし、彼はそのことに喜んでばかりもいられず、しばらく小さな嗚咽と涙が意図せずに零れていた。
ライアは気付かないふりをするために眠ったふりを続けていた。
「ここまでしたんだ……絶対に……取り戻す……」
ナトスがライアにも聞こえないような小さな小さな声でそう呟く。このとき、彼は死霊術師になるよりも勇者になるよりも大事な必ず目的を達成するという鋼の意志を得たのである。
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