2. 男が悲しみの底に沈むまで(後編)

「ニレ? いるか?」


 ナトスは寝室の扉の前で、やっとのことで出せた掠れ声で妻の名前を呼ぶ。努めて冷静になっているのか、もしくは、既に発狂し尽くしたのか。


「入るぞ? 着替えてたらごめんな?」


 ナトスは虚ろな目で、まずは顔だけを寝室に入れて、恐る恐る覗き込む。次の瞬間に彼の鼻を刺激するのは血の臭いと、それとは別の何かの強烈な臭いだった。彼はレトゥムの身体と先ほど点けた明かりを抱え持って、身体も寝室に入れていく。


 寝室には2つのベッドが横並びにくっついている。部屋はとても狭く、大人用の中でもかなり小さなベッド2つと小さな洋服ダンスが部屋をほぼほぼ占拠している。


 普段はここで親子3人が小さなベッド2つの中で寄り添うようにして、川の字になって寝ている。それが彼にとって、家族にとって至福の時間であったことは言うまでもない。


 ナトスはベッドを照らす。すると、そのベッドには長年使って薄くなった掛布団に覆われている大きな膨らみがあった。彼はなぜか安堵する。現状、安堵する理由などなく、状況はただただ最悪であろうに、とにかく、彼はなぜかこの時に意味の分からない安堵をしてしまったのだ。


「ニレ、寝ているのか? レトゥムをほっぽり出して、先に寝るなんて。よほど、疲れているのかな」


 ナトスはベッドに近付く。臭いが強くなる。すえた臭いが彼に警鐘を鳴らしているが、彼の脳はその警鐘を全て無視して、ゆっくりとベッドへと近付いていく。彼は窓辺にライトを置いて、レトゥムをしっかりと抱きしめる。


「今日さ、朝早くに出かけただろ? 実は昼前には冒険が終わってさ。それからは、ずっと獲物の処理だったんだよ。いつもあんなに狩らないモンスターを全滅させるんじゃないかってくらいの勢いでトラキアが狩っていたんだ。その後は、俺一人で解体作業やらされてさ。今日はいつになくひどかったよ」


 ナトスはベッドの端に腰を掛け、今日の顛末をゆっくりと話し始める。乾いた笑いを顔にべったりと貼り付けて、彼は何かに気付かないためにか、自己防衛のために、ただひたすら一人で話し続けた。


 彼はレトゥムの身体をトントンと優しく寝かしつけるように叩いている。それは彼女が中々寝ないときにする行動であり、彼がニレに勝てる唯一の特技でもあった。そう、彼は寝かしつけるのが上手い。そして、それももう必要ないと自覚したくなかったようだ。


「それでさ、俺さ、今日、実は、あー、うん、あのな、トラキアのパーティーをクビになったんだよ。びっくりしちゃってさ、聞いてみたら、なんか、俺が男だからってさ。ひどいよな。さっき言った解体作業もきっと最後の嫌がらせだったんだろうな。長いこと一緒に冒険をしてきた仲間にさ。なんていうか、そんなこと言うか、普通。あいつも多分、悪い奴じゃないと思うんだ。こんな俺でも5年も雇ってくれていたわけだしな。だけど、どうにも俺は嫌われている、嫌われてしまった、ようでさ。なんでかは分からないんだ。思い当たる節はないんだ。困っちゃうよな」


 ナトスはレトゥムの死体をトントンと優しく叩きながら、虚空を見つめる。決して、ベッドの方を向かない。まだ向かない。まだ向きたくないという彼の意思の表れだった。


「だからさ、相談なんだけど。みんなで町を出ないか? ここは物価が高すぎる。俺も冒険者を辞めてさ、普通の村人として、職業適性はなくても農家か酪農家に弟子入りしてさ、どこか知らない村でさ、のどかに皆で暮らさないか? 俺が冒険者したいから城下町にいただけだったろ? どう思う? なあ、ニレ。起きているんだろう? 返事してくれよ」


 ようやく、ナトスはベッドにある膨らみを見つめ、ゆっくりとだが確実に、薄い掛布団を膨らみからよけた。そして、そこにあるのは、ニレのドス黒くなった血に染まった全身、ピクリともしない全身、どう見ても死体だった。


「あっ……ああっ……あ……あっ…………」


 ナトスは叫んでいた。自分の心の中ではたしかに叫んでいた。城下町中に響くであろう獣のような恐ろしい叫び声をたしかに上げていた。だが、実際は彼の口から身体から声も言葉もほとんど出なかった。途切れ途切れに掠れた声が少しばかり出ている。彼の中ではもう何時間も叫んだのではないかと思うくらいに叫び続けている。


 ニレの身体は服を一切着ておらず、全裸に剥かれていた。彼女の下半身や口、胸の辺りからは彼女以外の臭いが立ち込めている。見た目も派手な全身の血で分かりづらいが、男の体液も混じっているのは明白だった。


 彼女は犯された。


 何度も何度も徹底的に犯されたのではないかと思うくらいに、彼女以外の臭いがきつく残っている。爪がいくつも剥がれかけていて、いくつかは既に剥がれ落ちているのか、血まみれの指が惨たらしさを彼に見せつける。そして、美しかった長い髪が振り乱されてボロボロのボサボサになっている痕跡を残している。


 彼女なりに必死に抵抗した素振りがあった。最後まで諦めることのなかったゆえの無残なまでの敗北を示す。彼女は女としても人としても尊厳を犯し尽くされていた。


「あ……あぁ…………ぐっ……なんなんだよ……なんだよ、これは……」


 ナトスは妻の顔を覗き込むのを恐れた。しかし、意を決して、覗き込む。


 そこに表れていたのは、悔しさに塗れ、今にも犯した相手を呪い殺さんばかりの鬼のような形相だった。子供を、レトゥムを先に殺されてしまったのだろう。涙の跡がいくつも見えることからも容易に想像がつく。


 彼女が犯されて、娘を殺されて、そして殺されたのか。はたまた、娘を殺されて、彼女が犯されて、そして殺されたのか。彼にはその時の状況を窺い知ることができなかった。知りたくもなかった。


「俺が何をしたって言うんだよ! 俺が、何を、したって言うんだよ!」


 ナトスはようやく叫び声らしい叫び声を上げることができた。しかし、悲痛な叫びは決して力強いものではなく、ただただ弱弱しく、隣の家にも聞こえるかどうか怪しい、ひどく小さな嘆きのような叫びだった。


「トラキア……。トラキアあああっ!」


 ナトスがかつての仲間の名前を叫ぶ。彼はニレの身体に刻まれた鋭い一太刀の太刀筋に見覚えがある。彼は、子どもとはいえ人を真っ二つに叩き斬るような剛腕の持ち主に聞き覚えがある。そして、彼は、彼女から臭う彼女以外の臭いに覚えがあった。


 彼の想像の通り、犯人はトラキアだった。


 トラキアはナトスに大量の雑務を押し付け、その間に彼の家に押し入り、彼の子どもレトゥムを切り殺すと彼の妻ニレを脅し、彼女を犯し、彼女の心を折るためにレトゥムを殺し、さらに彼女を犯し尽くし、そして最後に彼女をも殺した。


 すべてはナトスの心を完璧に折るためだけに仕組んだものだった。


「なんでだよ。俺を殺せばいいだろうが。なんで、関係ないニレとレトゥムにひどいことをするんだよ。勇者ってなんだよ……勇者ってなんなんだよ!」


 ナトスはようやくここで涙が零れた。彼は最愛の妻と子どもの死を受け入れざるを得なくなり、現実を知り、理不尽を理解し、ようやくここで涙が流れ始めたのだ。彼の嗚咽が夜に悲しく響く。誰にも聞こえることもなく、ただ静かに夜に悲しく響く。次々と迫ってくる負の感情に押し潰される。


 その後、臭いの気持ち悪さが彼にようやく染み渡ったのか、嗚咽の果てか、彼はレトゥムをゆっくりと置いてから、突如部屋の隅へ向かい、おもむろに吐いた。早めに食べた朝食以外に口にしていなかったことがせめてもの救いか。彼は吐く時も二人を汚さないようにわざわざ部屋の隅まで移動したのだ。


 やがて、落ち着きを取り戻した彼はレトゥムをニレの横に寝かせ、タンスから拭く物を取り出し、ニレやレトゥムの身体を丁寧に拭き始めた。


「ごめんな。俺がトラキアと関わったばかりに。ごめんな。俺がニレと結婚したばかりに。ごめんな。俺がニレと出会ったばかりに。こんなことになって」


 ナトスのトラキアへの恨みは、彼の骨の髄まで染み込んでいる。しかし、彼は自身をも責めた。トラキアには何をどうしたって敵わない事実と恨みを決して晴らすことはできないという現実。それだけにやり場のない怒りは行き場を失い、ひたすら自分を傷付けるしかなかった。


「さて、これで少しは綺麗になったかな」


 ナトスは2人を綺麗に拭き上げた。服も昨日洗濯したばかりの太陽の匂いがするものを着せた。少しでも表情をよくしようと、目や口を閉じさせる。彼はいつもの川の字をつくって、横になりながら彼女たちを見つめる。この行為は、彼以外の人間には何の意味もない。しかし、今の彼にとっては、最期を少しでも綺麗に飾りたいと言う意思の表れだった。


 仰向けに寝転んでいる彼の手には護身用の鋭利なナイフが握られている。


「ごめんな。俺は弱いから、仇を討てそうにない。できるのはトラキアを呪って死ぬくらいだ。安心してくれるか分からないが、俺も今から行くよ。二人のいない世界に未練はない……」


「待ちなさい!」


 ナトスがナイフを自身の心臓に突きつけようとした瞬間に、力強い女の声と昼間の太陽のような光が部屋を包み込んだ。

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