2. 男が悲しみの底に沈むまで(前編)
雲が月をたまに隠す夜。ナトスは黒髪と汚れた身体を揺らしながら帰路を歩いていた。肩の痛みは既に引いており、先ほど自分で簡単にだが、戻してみた。詳しくは明日以降に医者に診てもらう予定と決めているようだ。所持金は少ないが、彼には時間がたっぷりある。いや、時間がたっぷりできた。
「身体は資本。身体は資本」
彼の言う通り、身体は冒険者の重要な資本だ。粗末に扱うわけにはいかない。軽い負傷をバカにしたばかりに命を落とした歴々の先輩を知る彼は、自分が無能であるが故に人一倍、自身の身体に気遣っていた。
「しっかし、ニレになんて言おうか。とても笑顔で振る舞うことはできない。きっと泣いてしまうだろう。そうしたら、ニレは優しく抱きしめてくれるだろう。身体も洗ってないから嫌がるかな? ははは。ニレは今よりも働きに行くかもしれない。こうなってしまうと、ニレには頭が一生上がらないな……はは……」
ナトスはとにかく独り言ちる。そうでないと理性が保てないと言わんばかりに、同じことを何度も呟くこともあるし、過去の冒険をまるで誰かに言い伝えていることもあった。しかし、最後は妻と子どもを含む自身の生活をどうしていくか、ということである。
「あぁ……どうしようか。いっそのこと、冒険者などやめてしまおうか。それなら、城下町にいる必要もなくなるな。どこかの村に身を寄せて、誠実に畑でも耕しながら働いていれば、食うに困ることもないだろう」
彼は城下町の中心にあるあの豪奢な宿からとびきり遠い城下町の外側に近い一般市民街のさらに外側、安宿街の方がまだマシだが、貧民街よりは何とか体裁が整っているといった風の街並みを歩く。
彼は普段の3倍はたっぷり時間を掛けてようやく家に着く。野ざらしよりは随分マシだと言える程度の借家を大家の了承を得て、少しばかり改良した我が家。部屋は食事をする部屋と寝室の2部屋にトイレがあるだけの3人で住むには小さな家。しかし、彼が結婚してから、ここで数年はお世話になっている。今では住み慣れた家であり、お金が貯まったら、もう少し良くしようと思っていたそんな家だ。
「緊張するな……」
彼の独り言から、作戦はこうだった。素直に言う。もはや、作戦などではないが、隠し事をせずに、トラキアに見限られたと伝える。もちろん、ニレがどうこうの話はしない。彼女が万が一でも、自己犠牲のような変な気を起こしてしまったら、彼にとって目も当てられないからだ。彼は、彼女がトラキアと寝るなど想像するだけで吐き気を催してしまいそうだった。
「よし」
それから、これからのことを話そうと彼は決意する。正直に彼女にお願いする場面があるかもしれない。彼女はそれを快諾してくれるだろう。彼女は彼と子どもが宝物と言っていた。もしかしたら、彼と子どもの時間が増えると喜んでくれるかもしれない。一緒に家事でもしてみようか。家事は職業適性などなくても努力次第で何とかなる。もちろん、一流の掃除夫や料理人に敵うわけはないが、生活する程度で困ることはない。
彼の思考はぐるぐると巡る。
彼は、そういえば、しばらくピクニックにも行ってないなと気付いた。安全なルートであれば、近くの山の頂上まで登ることは問題ない。澄んだ空気に洗われることで心機一転、がんばろうかなとも思えるだろうか、などと彼は思案する。
そのような現実の直視と逃避が交互に彼の中で折り重なる末に、ようやく彼は自分の家の異様さに気付く。珍しい。一つも明かりが点いていない。彼が遠征に行ってしまわない限り、彼の帰ってこないうちは、明かりを点けて健気な彼女が眠たそうな眼をこすりながら待っていてくれた。
「疲れることでもあったのかな」
そもそも、まだ夜が始まったばかりだ。この時間であれば、子どもも起きており、楽しそうな妻と子どもの声が聞こえてくる。暗くなる前に食事を済ませ、ナトスの帰りをギリギリまで待つ家族。それが彼らのいつもだった。
そして、なぜ窓は閉まっておらずに開けっ放しなのか。物騒なことこの上ない。誰かが侵入してしまったらどうするのだろうか、これは少し注意しないと、と彼は思う。
「とはいえ、よほど、疲れているのだろう。労わってあげないとな」
その吐いた言葉と裏腹に、彼は何故だか変な想像をしてしまう。彼の鼓動は変に、そして、異様に速くなる。落ち着け、落ち着け、と彼は自分に言い聞かせる。治安が特別良いわけではないが、貧民街の住人からしてもここら一帯は薄利な家ばかりで、狙う価値が非常に低い。
「大丈夫だ、大丈夫だ」
それに彼女は職業適性が魔法料理人と武闘家という非常に稀有なマルチ適性だった。料理人としての腕は中々のものであり、魔力を帯びたステータスアップの料理を作ることができる。さらには、武闘家並みの強さを持つので、彼は悔しいことに一度も勝てたことがないのだ。私が冒険者として養ってあげようか、という言葉がかつて彼の生涯一番の屈辱的な言葉でありつつ、彼女となら何だってできるという確信ができる最高の言葉だった。
ただ、一番の屈辱は先ほどのトラキアとのやり取りで更新されたわけだが、それは些事である。見返す必要もない。勇者とただの冒険者、もしくは元冒険者になるのか。いずれにしても、彼はもう彼らと交わることもないだろうと考えに既に行き着いている。
「……ただいま」
しかし、重要なのは今この瞬間である。ナトスは恐る恐る扉を開いた。途端に何かの異臭が彼の鼻を刺激する。彼がよく嗅いだことのある刺激臭。血の臭いだ。自分が今つけている臭いではない。別の血の臭い。
「……ニレ? レトゥム?」
ナトスは必死に嫌な想像を振り払う。きっと、買った肉の処理でもしたのだろう。しかし、むせ返るような血の臭いが彼をあざ笑うかのように嫌な想像を植え付けていく。暗がりの中、まずは明かりをつけようとテーブルに近付く。引きずった足に何かがぶつかり、彼は耐える力もなく、床へと崩れ落ちる。そして、暗がりに慣れてきた目がぶつかったものを薄らぼんやりと認識する。
それは彼の子どもレトゥムだった。
「レ! レトゥム! すまない、大丈夫か! パパ、気付かなくて」
ナトスは自分のケガや疲れなどすっかり忘れて、レトゥムを抱きしめる。
やけに軽い。やけに小さい。そして、冷たい。冷え切っている。吐息も聞こえない。鼓動もない。反応はない。反応などあるわけがない。
無情にも月明かりがここぞとばかりに彼らを照らす。
「っ!」
レトゥムの身体は既に上半身と下半身で真っ二つになっている。床には血だと思われる黒い染みが広がっている。ナトスは恐ろしくなって抱きしめている彼女の上半身を離しそうになるのと同時に、彼女を決して離してはいけない父親としての感情が綯い交ぜになって、一切動けなくなってしまった。
「ぐっ……ううっ……そんな……嘘だろ……なあ、レトゥム。パパのことを驚かそうとしているのかな?」
ナトスはレトゥムの顔を覗く。苦痛もなかったような両目を閉じきった静かな表情、昼ごはんに食べたのか、乾き切っているソースが口の端にまだこびりついている。彼は自分の服の袖で丁寧に拭う。
彼は自分が発狂しないために、自分を誤魔化すために、彼女の頭を優しく撫でて喋りかける。彼女の柔らかくさらさらしている髪の毛を触るのは、彼の毎日楽しみにしている日課の一つだった。母親譲りの銀髪は、太陽の下で金髪にも負けない煌びやかさがある。そして、こうして彼が髪を触り続けていると、朝なら彼女が起きて寝ぼけ眼で挨拶をしてくる、夜なら妻のニレが触り過ぎて起こさないように注意してくるのが日常だった。
今は夜だ。そろそろ、ニレが注意してくれるんじゃないだろうか、と彼はいつもと違う今も、自分がいつもと同じように振る舞えば、戻ってくるのではないかと思い込む。しかし、レトゥムが起きることもなければ、ニレがこちらに注意しに来ることもない。
「…………」
しばしの沈黙。ナトスはようやく動けるようになったようで、近くに転がっていたレトゥムの下半身も抱き寄せて、2つになったレトゥムを抱え、残る寝室へと向かった。
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