1. 男が追放されて去り行くまで(後編)
ナトスはさっきからトラキアの話が荒唐無稽なものばかりに聞こえている。バカにするためにさっきから何事かを言い続けており、そもそも、会話をする気があるのかさえ本当に疑わしくなった。
「お前の女、子どもを産んだのにそこそこのいい身体をした美人じゃないか。人妻ってのも面白いしな」
「何を言っているんだ」
「どうせお前はこれからも俺のパーティーにいるなら雑務とかでいろいろと忙しいだろうから、俺がかわいそうな人妻を慰めてやろうって言ってんだよ」
「何を言っているんだよ」
「そうだな、飽きるまでは月に2,3回は相手してやるよ。まあ、俺のこの自慢の剛直と上手さに気付いて、それ以上求められても困るけどな」
残念ながら冗談ではなかったようだ。少なくとも冗談にしても度を超えており、ナトスの心の中に怒りの感情が沸々と沸き上がる。彼の人生の中でこれほど怒りを覚えたことなどないかもしれない。
「トラキア! 本気で言っているのか?」
まだ何とかその怒りを押し殺しているナトスは、若干鼻息を荒くしながら、目の前で狂気の沙汰にいる阿呆を見つめて低くドスの効いた声を出す。
「珍しくおっかない声を出すじゃないか。しかしだな、俺の言っていることが本気かどうかなんてのは、お前なら分かるだろう? 気遣いナトス。天恵という職業適性を持たない能無しナトス。気遣いが天恵かもしれないな、ハッハッハ。で? お前の女を差し出すのか?」
トラキアの再三の提案に、ナトスはついに怒髪天を衝いた。
「ふざけるな!」
ナトスは疲れた体を精一杯に動かして、トラキアに殴り掛かる。しかし、トラキアは椅子から動くこともなく、座ったまま足を高々と振り上げ、ナトスが迫ると同時に彼の左肩に踵を振り下ろした。
「あぐっ!」
ナトスは左肩が脱臼したような痛みを覚える。痛みに思わずうずくまるが、顔を上げて、トラキアを睨み付ける。
4人は一瞬、背筋が凍り、ぞわりとした。それが何なのかは彼らに分からない。今まで感じたこともない恐怖をナトス相手に感じたのだった。
「……無謀なのは感心しませんね。補助役がこれでは仲間を窮地に陥らせる可能性があります」
プリスは冷たい目でナトスを見下ろす。彼の整った顔が苦痛を浮かべているのを見て、先ほどとは違って、ぞくりとした。
「ぷっ。いやいや、トラキアに向かってくるなんて。結構、男気あるじゃん?」
ジーシャは少しばかりすっきりした様子だ。足を下ろしきったトラキアに足を絡め、頬を摺り寄せる。
「雑魚はどんだけがんばっても雑魚さ」
リアは汚物を見るような目つきだ。汚れ切った身体が床に這いつくばっているのを見て、ゴミだと言わんばかりの侮蔑に満ちた表情をする。
「ナトス、さっきの条件が呑めないなら、クビだ。どこへなりとも消えろ。じゃないと、思わずお前を殺してしまうかもしれない。そうなりゃ、俺は勇者とはいえ、評判を落としてしまう」
既に落ち切った評判を気にするあたり、トラキアは承認欲求に飢えているようだ。女を侍らすのも力を見せつけるのも、自分が優れている人間だと示したい、その証左であると見せつけたいだけである。そして、彼にはまだ発露できぬナトスへの負の感情があった。
「ぐっ……なんでだよ、はっ……はぁ……ぐぐっ……5年も一緒にやってきたのに」
ナトスには仲間意識があった。重労働に耐えてきたのは決して給与だけではない。トラキア、プリス、ジーシャ、リアも時には楽しく笑い合えた仲だからこそ、彼は自分のできることをできる限りで尽くしてきたのだ。今、その思い出が溢れてきて、涙が滲み、やがて、一筋、二筋と零れていく。
「はあ? そりゃ、すぐに捨てたら可哀想だろ?」
「……っはあ……はあ……っ……なんだって?」
ナトスの涙が引っ込む。
「能無しだから周りはパーティーに入れてやらない、それでも、ソロでも頑張る頑張り屋ナトス、って評判のお前を、誰かが情けを掛ける前に俺が優しく仲間に迎え入れて、俺のおかげで家族を養えている、給与も俺だからこそ少し多めに払ってやっている、感動的だろ? 俺が伝説になった時の聖人っぷりが完璧じゃないか」
トラキアはジーシャの頭を撫で、リアの腰を掴んで抱き寄せる。
「でもな、いい加減に目障りなんだよ。無能のくせに出しゃばりやがって。俺のおかげで評判も上がっているのに、何が頑張り屋ナトスだ。努力の美談にでもしたいのか? お前は人気者にでもなりたいのか!」
トラキアのおかげで評判が上がっているのは間違いない。彼の素行の悪さが目立てば目立つほど、ナトスの紳士然とした優しく丁寧で謙虚な振る舞いは周りから気付かれて評価も上がっていた。実際、昔は仲間にも引き入れようと思わなかった冒険者たちだが、彼の優秀さに気付き始めており、同額の給料で引き抜きを考えているパーティーもいるほどである。
しかしその一方で、冒険者たちはトラキアを恐れて行動に移せていないため、ナトスはまだそれに気付いていない。つまり、彼は自分のいなければいけない場所がここしかないと思い込んでいる。
「わけがわからない」
ナトスは我慢の限界をとっくに超えている。それでも、幾分か戻って来た理性と肩の痛みで意識を冷静に保てている。この均衡は危うく、彼の心の天秤はやじろべえのように激しく両腕を動かしている状態だ。
「あぁっ?」
「そんなに強いのに、何に怯えているんだ、トラキア? お前は力の勇者だろ? それに、勇者は孤独や孤高じゃない。もっと仲間を頼ってくれ」
ナトスは何かを見透かしたかのように諭す。しかし、それはトラキアの逆鱗に触れる以外の何物でもなかった。
「うるせぇ!」
「がっ!」
「もう喋んな!」
「ぐっ! がっ! あがっ!」
トラキアは急に立ち上がり、ナトスの全身をその巨躯で踏みつけていく。無意識に加減はできているようだが、これが続けば、いくら加減をしようと死んでしまう。
「それくらいにしておかないと死んでしまいますよ?」
「ちょっと、血とか床にたくさんついてんじゃん。汚いなあ」
「トラキアや私たちがお前を殺さないのは汚れたくないからだ」
3人はナトスを心配しているわけではなく、自分たちやトラキアの評判ばかり気にしていた。既に彼らはナトスを仲間だと微塵も思っていない。そして、人としても見ているか怪しかった。
「はぁ……はぁ……っ……ぐっ……はっ……」
ナトスの息は荒いが、力強かった。死の際にいるような呼吸ではない。皮肉にもこれまで酷使してきた身体は体力と耐久力を得ているようだ。
「ちっ。もうこの話は終わりだ。早くその金を持って出ていけ。もし女を差し出したくなったらいつでも言え。俺はお前ら夫婦を歓迎してやるよ!」
「……今までありがとう。もう二度と来ない。じゃあな、がんばって魔王を倒してくれ」
ナトスはついに諦めた。妻ニレを差し出すことは絶対にできない。彼女と相談して、何とか生きていく方法を模索しようと考えた。彼の足取りは重いが、確実にトラキア達から離れていった。その距離は心の距離も同様である。
「はっ! お前に言われなくても!」
そのトラキアの言葉を最後に、ナトスは部屋を出て、扉を閉めて宿を出て行った。ナトスは何かを引きずっているように歩いていく。受付はそれを見て、やはり、何も言わなかった。ただ、宿を出ていく際に個人的に彼へ神の加護があることを祈っていた。
「ところでさ、トラキア、んっ」
ジーシャはトラキアの首に両腕を絡ませつつ、キスを迫り、彼はそれに応じる。
「ん……どうした?」
トラキアは口を離してそう問う。その次にプリスと口づけを交わす。
「よくあんなお芝居打てたね」
ジーシャは突然、驚いているかのように目を見開いて、声色は嬉々としている。
「おいおい、俺は劇団俳優志望じゃないぜ? 誠実な対応をしたまでだ」
「誠実か。もう差し出せる女がいないことを分かっているのに、あれだけ言えるのはすごい」
ジーシャの代わりに、リアがそう話す。これから起こる何かを楽しむかのような待ち遠しいといったそのセリフは4人の中で人間の暗い部分を煌々と照らすようだった。
「あはは」
「うふふ」
「ははは」
「ハッハッハ」
4人の笑い声が豪奢な部屋の中でいやらしく響く。
「さて、そのお楽しみは明日以降だが、俺たちは今から4人で楽しもう」
「まだできますか?」
「まだまだこれからさ」
トラキアとプリスのそのセリフとともに、3人の女は自身の服を脱ぎ、彼の服を脱がし、キングサイズのベッドへと歩いていくのだった。
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