第6話 苦い煙




 あかりと会った日から一週間が経った。梅雨ばいう前線も過ぎ去り、蝉時雨せみしぐれの大合唱に耳もすっかり慣れてきた。照りつける日差しはゆらゆらと陽炎かげろうを遊ばせる。世間に夏がいよいよ本格的にやってきた。



 蒼馬そうまは梅雨明け前のあの日から抜け出せぬまま、抜け殻のような日々を送っていた。仕事に打ち込んでいる間はいいのだが、業務を終え、家に帰りつき一人になった時、眠りにつく時、休日でさえも、蒼馬は燈のことを考えていた。燈が蒼馬の中に深く焼き付いたまま離れなかった。


 鮮明に思い出される燈の顔が、声が、風に揺れる髪が、緋色の瞳が、鼻筋が、唇が、柔軟剤の香りが、煙草の煙が、蒼馬の脳内を支配していた。



 燈とはあれからも、時折メッセージのやり取りを続けていた。あの日からの一週間を燈はどのように過ごしただろうか。きっと燈は今、真夏の熱に焼かれているのだろう。対する蒼馬は、未だ雨の中にいた。




─────




 ある日の休日、蒼馬は部屋のカーテンも開かぬまま一人ベッドに身を委ねていた。朝食を摂る気も起きず、身を起こせぬままベッドに横たわる。時刻はそろそろ正午に差し掛かろうとしていた。


「正午…。」


 蒼馬が時計を見てポツリと呟く。一週間前の今頃、駅で燈との待ち合わせをしていた頃だ。そんなことを思いながら流石に昼食を食べようと、ようやくベッドから抜け出した時、蒼馬のスマートフォンに通知が届いた。


通知の主は、淡く期待していた相手ではなく、ここしばらく名前を見ていなかった友人の名前だった。


海凪みなぎ…?」




─────



「おう、ひさしぶり。蒼馬。」


蒼馬が住むアパートの前に停まった真新しい車の運転席から、サングラスをかけた海凪がこちらに向けて手を挙げていた。蒼馬が車を回りこみ、助手席の扉を開き席に座る。よく効いた冷房と芳香剤の香り漂う涼しげな空間に身を置き一息つく。


「全然変わらんなー蒼馬。」


「そっちはすっかり社会人って感じだな。」


「そうかね?あんまり変わらんよ。」


海凪がアクセルを踏む。車は国道の道を走り出した。



 松野まつの海凪みなぎは、小学校からの友人だった。中学と高校はお互い別の所に進学したが、社会人になった今でもこうして時折顔を合わせる仲だった。穏やかな性格で、感情の起伏があまりない飄々ひょうひょうとした性格と、人当たりの良さから誰からも好かれる男で、気のおける友人の一人だった。『昼飯でも行こうぜ。』と突然連絡が来たのは偶然だろうが、今の蒼馬にはその気まぐれがありがたかった。



 車はしばらく国道を走り、郊外にある喫茶店へと停車した。二人は車から降り、冷房のよく効いた店内へと入る。海凪は店員に向けて指を二本立ててみせると、席のことについて何やら話していた。二人が案内され腰掛けたのは、喫煙席だった。


─カチッ。


 珈琲コーヒーと軽い食事の注文を終えると、海凪がライターを取り出し、咥えた煙草に火をつけた。立ち込める煙と、つい最近に見た同じような光景を思い出し、蒼馬は軽く目眩めまいがした。


「…今更だけど、煙草大丈夫だった?」


「別に平気、お前が未成年だってことを除いたら。」


喫煙者というものは皆こうなのだろうか…?蒼馬は海凪が煙草を吸っていることが意外だった。特に優等生というわけでもなければ、不良のようなところもない。まさに名前の通り“なぎさ”のような男だったからだ。それもあって、蒼馬は海凪の傍らに置いてある煙草の箱を凝視していた。燈が吸っていた赤と白の箱とは違う、青と黒の箱。煙の匂いも燈のいかにも煙草の煙といった感じではなく、何かミントのような香りがした。


「なに、煙草?」


「…意外だなと思って。」


「付き合いで吸ってるうちに、ね。」


いや、だから未成年じゃん。とは言わない。これもあの時と同じ。



「気になってる?一本やろうか?」



いらない。ついこの間もこう答えた。しかし蒼馬の口から出た言葉は、あの時と違った。



「じゃあ、一本くれ。」




─────



 一本渡された煙草を咥え、恐る恐るライターの火をつけ、細い筒の先に近付ける。何も感じない。


「火あてたら息吸わなきゃつかないよ。あ、もしかしてはじめて?」


海凪の言葉を聞き、蒼馬はもう一度火を煙草の先に当てがい、ゆっくりと息を吸った。煙があがる。口の中にやってきた感じたことのない刺激が喉にあたり、蒼馬は思い切り咳き込んだ。その様子を見た海凪が言わんこっちゃない。という風に口を開く。



「無理して吸わんくてもよかったのに。」


海凪が貰おうか?と手を伸ばす。


「いや、いい。…いいんだ。」


目に涙を浮かべながら、海凪の手を払う。吸い続ける蒼馬に、海凪がカプセルを潰すように言った。言われるがままにフィルターの所にある丸い印を指で潰すと、プチッという音と共に、ミントのような、ベリーのような香りが口の中広がる。


「…こういうのがあるんだ。」


初めよりは刺激にも耐性がつき、蒼馬は煙草を吸い続ける。続けるうちに、こういうもんか。と慣れ始めてきた。そのうち短くなった煙草を灰皿に押し付け、蒼馬は口の中に残る苦味と微かな甘みを流し込むようにコーヒーを飲んだ。



 それからしばらく、蒼馬と海凪は最近の近況や昔話に興じた。一時間と少し経った頃店を後にし、車に乗り込む。蒼馬は海凪に何か言いかけたが口を開くことはなく、車は走り出した。




─────



 車が蒼馬のアパートの前に停まる。喫茶店からここまで、少し遠回りをしながら戻った。海凪と話すことによって、沈んでいた蒼馬の気持ちが少し晴れていた。車を降りようとした時、蒼馬は海凪に先ほど言いかけたことを告げた。



「煙草、少しくれないか。」


海凪は少し後悔するように自身の頭を抑えた。


「…なんか俺今、やっちゃった気持ちでいっぱいだよ。」


ボソリと海凪が呟くと、もう残り少ないから全部やる。と、箱ごと蒼馬に手渡した。



「すまんな、今日は声かけてくれてありがとうな。気分転換になった。」


海凪に礼を述べ蒼馬が車を降りる。すると海凪が運転席の窓越しに蒼馬を呼んだ。




「あんまりハマるなよ。なかなか抜け出せなくなるぞ。」



 海凪が言ったのは煙草のことであったのだろうが、蒼馬は違う意味合いでその言葉を受け止めてしまった。



「…わかってるよ。」


蒼馬が返すと、海凪はもう何も言うまいと前を向いた。


「また連絡する。今度は他の奴らも誘って飲みにでも行こうぜ。」



 だからお前年齢は…と再三言葉が出かけたが、もうそれを言う資格は蒼馬にはなかった。




─────



 海凪と会ってからさらに数日後、蒼馬は自宅アパートの一室で、ある物を目の前にしていた。それは赤と白のカラーリングを施された、小さな箱。──燈が吸っていた煙草。



海凪と別れた後、調べて辿り着いた。マルボロというらしいその煙草の箱を、蒼馬はゆっくりと開封した。箱を開けると、オレンジ色のフィルターがきっちりと箱に収まっていた。蒼馬はそこから一本を取り出し、火をつけ、恐る恐る息を吸う。


 数日前に海凪に貰ったものとは全然違う、より強い刺激と苦味が喉を過ぎて肺を刺す。たまらず蒼馬は咳き込む。ここ数日、海凪に貰った煙草で慣れてきたように思っていたが、その刺激は重くのしかかる。蒼馬はたまらず冷蔵庫へ向かい、中から水を取り出し一気に流し込む。それでようやく落ち着き、そのままベッドに倒れ込んだ。



「苦すぎるだろ…。」



天井の一点を見つめ蒼馬が呟く。すると、傍のスマートフォンが震え、ディスプレイにメッセージの通知が表示される。



『来週空いてる?』



その相手は、紛れもなく、燈からのものだった。






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