第1話 曇天の下で




 六月。テレビのニュースキャスターが梅雨入りを発表してから、一週間が経っていた。梅雨ばいう前線が運び込んできたどんよりとした空気と灰色の雲が、分厚く空を覆う。


 日高ひだか蒼馬そうまは、四月から中小企業で働く新社会人であった。職場の空気と、社会人というこれから長い付き合いになるであろう肩書きに、少しばかり慣れてきたかという頃、今日この日は休日で、友人達と会う約束のためにバスに揺られていた。



 「雨、降りそうだな。」

蒼馬はバスに揺られながら特に何をするでもなく、窓の外に映る変わり映えしない街並みと、ひと雨降りそうななまり色の重たい空を頬杖をつきながら眺めていた。空いている左の手には、バスに乗り込む前に立ち寄ったコンビニで買った。ビニール傘が握られている。


 ─ほどなくして、バスは目的地であるショッピングモール前のバス停に停車した。傘を忘れないように確認し、運賃を清算して降車する。


 バスを降り、地上三十メートル程であろう大型モールの屋上には、建物と同じくらいか、あるいはそれ以上に背の高い観覧車がどっしりとそびえ立っていた。何度も目にしている光景ではあるが、何度見てもなかなか壮観である。


 友人の一人に到着したメッセージを送信すると、メッセージの横にはすぐに既読の文字が現れ、その直後に『もう三階にいる。』と短い文が送られてきた。


 三階のフードコートに到着すると、四人席に一人腰掛ける見慣れた男がこちらに気付き手招きをする。


「お待たせ、まだしんちゃん一人?」


 手招きする男に近付き、椅子を引きながら声を掛ける。椅子の脚とフロアがこすれる音が辺りに響いた。


「ん、わたるは少し遅れるってさ。」


スマートフォンを片手で操作しながら、しんちゃん──楠原くすはらあらたが呟く。


 新は蒼馬よりも二つ歳上の二十歳で、蒼馬と同じく社会人であった。新とは一年程前に、SNSで共通のアニメが好きという話題で盛り上がり、更には住まいもそう遠くないという事がわかり、半年ほど前からよく顔を合わせる仲だった。


 これから合流する道永みちながわたるもまた、新と同じ成り行きで親しくなった。こちらは蒼馬と同級生で、フリーターだった。


「航が遅れるって珍しいね?いつも一番乗りなのに。」


 蒼馬が荷物を席の下に下ろしながら切り出すと、新は思い出したように蒼馬に目線をやった。


「あーなんかね、女友達連れてくるんだって。」


 ─ほう、航が女友達。

言っては悪いがここ半年の間、何度か顔を合わせたり、日頃のSNSの投稿を見る限り、彼に女っ気を感じることは正直なかった。


「─へえ、そりゃなんでまた。」


「何でもバイト先で知り合って、その子もまたアニメ好きなんだと。」


 新はあまり興味がなさそうにスマートフォンをいじり続けていた。彼もまた女っ気は感じられず、いつも何を考えてるかわからない飄々ひょうひょうとした面があった。最も蒼馬は彼のそんな空気感に親しみやすさを感じているのだが。


 ─そして蒼馬はというと…。

もちろん彼もまた女っ気のない、透明な日々を過ごしていた。そもそもSNSから始まったこの三人の集まりは、そんな女っ気も色気もない男達が、持て余した時間をどうにか楽しいものにしようと奮起ふんきする何とももの悲しい集まりなのだ。


 だからこそ蒼馬は、まだ顔も名前もわからない。“女子”の存在にすっかり思考を持っていかれていた。今日会ったら話そうとしていたアニメの話などはとっくに頭の隅だ。


 そうしてしばらく二人の間に沈黙の時間が流れ、そこから五分程経った頃。


「いやぁーすまんな。遅れた遅れた。」


 聞き覚えのある声がしたので振り返ると、急いだのかひたいにうっすらと汗を浮かべた航が現れた。背丈は蒼馬と同じくらい。そしてフレームの太い黒縁眼鏡くろぶちめがねをかけた男が身につけていたのは、アニメキャラを前面的に押し出した黒いTシャツに迷彩柄めいさいがらのハーフパンツ。背負った黒いリュックの袖にはこれまたデカデカと飾られたアニメキャラのストラップ。いつも通りすぎる光景だった。


 世間様に、いわゆる“アニメオタク”である事をできるだけ隠したい蒼馬としては、航の「我、アニメオタク也。」とでも言わんばかりの装いが少し苦手だった。


そんな航が視界に蒼馬を見つけて、

「蒼馬ぁ〜 元気かぁ〜?」と間延びした声掛けをしてくる。。これもいつも通りの光景。



 ただひとつ普段と違ったのは、彼の右後方に、いつもは存在しない“女子”がいた。


 

 背丈は百六十センチ程だろうか?女性の中ではやや高い方にあたるのであろう。真っ直ぐと伸びた髪を後ろで結んだ“女子”が、こちらに目線をやり、少し緊張した様子でぺこりと頭を下げる。



「…………ウス。」


 自分でも吃驚びっくりするほど小さな声で蒼馬が会釈をすると、航がこちらを向いてニヤリとしながら言った。


「出た、蒼馬のスーパー人見知り。」


言いながら航が蒼馬の右斜め前方の席に腰を下ろす。すると自然と“女子”は蒼馬の右隣に着席した。右側から少し強めに柔軟剤の香りがした。


「俺らと初めて会った時も酷かったもんなぁ。蒼馬の人見知り。」


先程までスマートフォンをいじっていた新は、いつの間にか三人の方に向き直り、航と共に半年前の蒼馬の失態を振り返る。


「ネットではうるさいだけに余計面白かったんだよな。」


 航が更に追い討ちをかけてくる。

言われている通り、蒼馬は超絶人見知りだった。この性格があだとなり、学生時代はなかなかに悲惨なものであった。


 友人がいなかったわけではない。休み時間には数名の輪の中で話題の中心になる程にはコミュニティを築いていた。“女子”を除いて。



「もうその話は勘弁してくれ…。それより、その…まだこの子の名前とか聞いてない。」


 話題を変えようと蒼馬が切り出す。普通に直接名前を聞くとかできないのだろうか。我ながら呆れたものだ。


右隣に座る“女子”がはっと思い出したように三人に、というよりは蒼馬と新に向き直る。


あかりです。よろしく。」



“女子”改め“燈”が短く答えると、少しの間沈黙が流れる。すると燈は『困った。』と言わんばかりに航を見る。


 もしかして彼女も同族ひとみしりなのだろうか。だとしたら気が楽でいい。


 ─などと確証のない共感シンパシーを身勝手に感じていると、航が切り出した。


「ただ座ってるのも何だし、何か食おーぜ。」


 それもそうだと、各々が散り散りに席を立つ。フードコートでそれぞれが食べたいものを買い、再び元の席に集まったあとは、男三人(+燈の聞き手)によるいつものアニメ談義が始まった。



 燈は、魅力的だった。蒼馬に女性に対する免疫めんえきが欠如している事を加味かみしても確かに魅力的に映った。


 燈は、緊張からかあまり発言することはなく、基本的に三人の話を黙って聞き、うなずいたり、何かを言いかけそうになったりしたがすぐに黙ってしまう。蒼馬は話をしながら時折燈の横顔を横目で覗くと、すっと通った鼻筋と、微笑んだ時の口角が可愛らしかった。その微笑みを正面の席で向けられてしまっていたら、もしかしたら一発で一目惚れしてしまっていたかもしれない。



──危なかったなぁ。



 時間は、あっという間に過ぎていった。普段の三人の集まりよりも、更に早く感じた。気がつくと辺りに大勢いた客の影もまばらになっており、奥にある窓にはすでに夜の気配が漂っていた。


「─そろそろ、帰るべ。」


 新が目一杯伸びをしたあと、荷物を手に取る。


「そうだな、そろそろ帰るか。」


航もそれに賛同し席を立ち、続いて燈も席を立つ。椅子の脚とフロアが擦れる音がガラガラと耳にぶつかる。


 ─久しぶりにすごく楽しかった。心からそう思えた。何故だろうかと考えながら、心のどこかで帰るのを惜しんでいると、その様子を見た航が蒼馬に向かって言った。


「おい蒼馬、せっかくだし燈とアカウント交換したらどうだ?」


 イタズラっぽい表情を浮かべながら航が言う。この男は時折、こちらを見透かしたような発言をする。それが少ししゃくであり──ありがたくもあった。



「え、ん、じゃ、まぁ…はい。」


何とも歯切れの悪い返しをしながらスマートフォンでアカウントのQRコードを表示すると、燈も自身のスマートフォンをかざした。


 ピコン。と短い電子音と共に、画面には『燈』と名前が表示されていた。


追加するボタンを押して、少し急いだ様子で蒼馬がポケットにスマートフォンをしまうと、この場はお開きという形になり、それぞれの帰路についた。




──その日蒼馬は、どこかにビニール傘を置き去りにしてしまった。







「」












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