残夏

中尾タイチ

プロローグ




 雪が溶け、新芽が待ちくたびれた様子で大地から顔を覗かせ、枯木こぼくは次々と新緑に覆われていく。和やかな陽光に当てられて、人々の生活もどこか微睡まどろむような空気を一変させるように、梅雨がやってくる。




「降ってきちゃったか…。」


 蒼馬そうまは、ついに降って来た雨を睨みつけるように灰色の空を見上げた。街を行く人々は各々持ち歩いていた傘を開き、足早に通り過ぎていく。蒼馬は生憎あいにく傘を持ち合わせていなかった。今朝の天気予報で、液晶に表示された傘と雫を模したマークをしっかりと確認していたはずだが、傘を持ち出す気にはなれなかった。


 傘は嫌いだった。片手がふさがってしまうし、用意したところで雨風を完全にしのげる訳ではない。もろくてすぐに壊れてしまうし、気を抜くとすぐに何処かに忘れてしまう。そんな理由を誰に話すわけでもなく脳裏のうりに浮かべながら、蒼馬はせめてもの抵抗で両手を頭頂部に当て、逃げるように帰路きろを急いだ。



 湿った生暖かい空気と、容赦なく浴びせられる雨粒あまつぶによって、蒼馬はすっかりずぶ濡れになっていた。毛束けたばの先から雫が顔や背中に流れ落ちる。靴の中まで満遍まんべんなく濡れ、歩を進める度にジュクジュクとした音と感触に不快感を覚え、蒼馬は苛立いらだち始めていた。


 いや、この苛立ちはひょっとすると、この雨の所為せいだけではないのかもしれない。沈黙したままなかなか色を変えない歩行者信号の所為かもしれない。目の前を通り過ぎていく自動車の車輪があげる水飛沫みずしぶきの所為かもしれない。終着点のわからないこの梅雨のせいかもしれない。


 いくつかの理由が思い浮かぶが、結局はそのどれもがこの雨に関連するものだろう。

 蒼真はもっと根底的な理由があるのではないかと思い、相変わらず沈黙を続けたままの赤信号を見つめながら思考を巡らせる。



 職場での人間関係に腹を立てている? 毎日耐えることのない陰湿いんしつなニュースに心身が疲れきっている?



──あいつがそばにいないから?



 ─カッコウの規則的な鳴き声が耳に届く。目線を上げると、赤信号は青に変わり、人々が歩き始めていた。蒼真も慌ててその波に紛れる。いつの間にか雨は勢いを無くし、元の曇天の空に戻っていた。



 ─そうだ。あいつと始めて会った日も、確かこんな曇天の空だった。



曇天の空。晴天の空。茹だるような暑さ。揺れる陽炎かげろう。冷房の風。商店街の喧騒けんそう。路地裏の煙の匂い。歩道橋の上。眠れなかった夜。花火の破裂音。コーヒーの苦味。胸の痛み。手の温もり。寂しげな目。静寂せいじゃくの秋。風に揺れる髪。柔軟剤の香り。凍えた冬。あいつがいなくなった春。



──あいつの、名前。




 一昔前のビデオテープを巻き戻したかのように、記憶や映像、匂いや感触までもがフラッシュバックしていく。押し寄せる情報の波に、頭痛と立ちくらみがした。



 忘れていた。記憶の底に押し込めていた。それとも、忘れたふりをしていた───?



 日高ひだか蒼真そうまは、月島つきしま あかりとの出会いと─。




 ─別れを思い出していた。
















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