¿Paranoia?

yokamite

¿Review?

 映像・音楽のストリーミングサービス、ブログ投稿サイト、小説投稿プラットフォーム等々──多岐にわたるSNSの発展と多様化は、我々日本国民に当然に保障されている表現の自由という権利を存分に発揮する機会を与えてくれた。


 一見、大変喜ばしいことであるように感じる風潮だが、誠遺憾ながら、我々表現者にとって矛であり、盾でもある表現の自由という大切な権利は、近頃異なる側面において後退しているように思える。


 その傾向が顕著に現れているのは、表現者の母数が爆発的に増加したことによる、界隈全体の治安の悪化だ。


 ごく最近の話題であるから、具体例には事欠かない。ここ数年間において、若年層を中心に普及している動画配信サービス等の台頭により、誰もが簡単に日常の一幕を不特定多数のネットユーザーへと共有できるようになった。その反面、世間の恐ろしさを知らない無垢な若者を筆頭に、顔や体といった外見的特徴は勿論のこと、個人情報を公開することすら抵抗がなくなり、危機感が薄れてしまったように思える。


 「バカッター」──この言葉を耳にしたことがないという者は、日本広しといえども、もはや存在しないだろう。「バカッター」なる造語は、ツイッターと呼ばれるSNSプラットフォームに犯罪や迷惑行為などの、社会通念上到底許容されない行為を面白可笑しく、あるいは軽々しい気持ちで投稿した結果、それが原因となって、通常の社会的制裁に加え、その投稿を目にした一般人による過激な私的制裁の犠牲になった所謂「馬鹿」と「ツイッター」を組み合わせたところに端を発する。


 「バカッター」の起源は、今からおよそ10年前に遡る。多くは学生による未成年飲酒や、今日「バイトテロ」として知られる職場での悪ふざけといった軽犯罪ないし迷惑行為を、わざわざネットに公開してしまう。当然、投稿者本人は事の重大さに気付いていないため「嬉々として他者に累を及ぼす不届き者」として、社会一般からの印象は極めて悪く、第三者による学校・氏名・住所の特定から投稿元の拡散まで、私人による行き過ぎた制裁行為を受けてしまう。それだけではなく、迷惑行為等により被害を受けた被害者から多額の金銭賠償を受けたり、各種メディアのニュース報道等により社会的信用が失墜したりなど、たった一度の過ちがその後の人生を不可逆的に変えてしまうというケースは、決して珍しくない。


 それにもかかわらず、2023年現在では回転寿司のチェーン店を対象に、店側の衛生管理体制に対する信用を損なわせるような行為を敢えてネット上に公開するといった愚行が後を絶たず、大きな話題を呼んだことは記憶に新しい。では、何故自らの人生が崩壊し得ることを理解していながら、若者たちはこのような常人には理解し難い行動に打って出るのか。


 ──否。一見して、誰よりもSNSを上手に駆使しているように見受けられるZ世代以後の若者たちだが、その実、SNSの危険性というものを正しく理解している者は決して多くないというのが現状だ。


 人には多かれ少なかれ、自尊心とか、自己顕示欲というものがある。他者に自分の存在を誇示することで尊敬されたり、あるいは共感を得たりすることで承認欲求を満たし、さらなる名声を得ようとするあまり、より突飛な行動に出ようとする。時に発想が飛躍して、非行や犯罪に走る自らの姿を自慢気にネット上へと公開するのも、欲望をうまくコントロールできない未熟な若者の心境を鑑みれば、いわば自然な行為なのである。


 予めお断りしておくが、ここでは後先考えず無邪気に迷惑行為等に及ばんとする愚鈍な若者らの肩を持つわけではない。また、このような行為に及ぶ者は若者に多いという傾向があるのは確かだが、必ずしも若年層のみに限った話ではないことも言い添えておこう。そして、そんな彼らの無知に関する責任の一端は、思うに教育現場にあろう。


 指数関数的な情報通信技術の発達とSNSの多様化が際限なく進む反面、あるべき規制は全くと言っていいほど追いついておらず、ユーザー層の多くを占める若者らに対して行われるべき、インターネットリテラシーを涵養する教育プログラムは依然として十分ではない。このような現状に異議を唱える者が圧倒的に少ない現状は一体何なのだろうかと、義憤に駆られる毎日だ。


 現代の若者らにとって、人間関係を構築するのにSNSを利用しないというのはあり得ない話だと言い切って良い。これはZ世代を勝手に代表する筆者本人の実体験から言えることだ。新型コロナウイルス感染症による断絶の時期とプラットフォームの拡充は、この傾向に一層拍車をかけてしまった。今や「SNSユーザーであること」とは若者らにとってある種のステータスであり、SNSによるコミュニケーションが取れないことは人間社会からの隔絶を意味していると言っても過言ではない。それなのに、SNSとの適切な付き合い方を十分に教わることなく「バカッター」として人生を棒に振ってしまった若者が後を絶たないということは、ある意味、全て教育者たる大人側の責任であると換言することもできる。


 SNSの発展と弊害について、これまで長々と語ってきた訳だが、本稿のテーマはそこではない。思い出してほしい。冒頭にて提起した問題──表現の自由は、表現者の母数が爆発的に増加したことによる界隈全体の治安の悪化により、退と。


 表現者の母数が増えたことによる弊害は「バカッター」のような愚か者が生まれるだけではない。止めどなく降り注ぐ大雨の如く、動画、イラスト、小説、音楽、その他諸々、姿かたちを変えて世の中に氾濫している表現物──その数だけ、多種多様な意見が生まれるということだ。


 これだけでは分かり難い。無論、少しでも話を呑み込みやすくできるよう具体的な事例を考えてある。例えばそう、僕が書いているこの謎の文章の羅列だが、これは日本国民である僕自身につき、日本国憲法が「表現の自由」というお墨付きを与えてくれているからこそ実現できるものだ。自分に対して保証された物書きとしての権利を主張しているのだから、当然、他者の権利を侵害するような言動は慎まなければならないという制約が伴うことは言わずもがな。ヘイトスピーチだの、誹謗中傷だのは以ての外だ。


 自分の権利が守られるのなら、平等に誰かの権利も守られる──これを表現の世界に当てはめれば、自分の「表現の自由」が守られるなら、誰かの「表現の自由」も守られるということである。


 少々回りくどかったか。要するに、表現者としての矜持を以て、誰かの表現物が自分の思想に反していようと、単純に気に食わなかろうと、そこは尊重していかなくてはならないということだ。うむ、至極真っ当な話である。


 では、ここで読者の皆様方に問いたい。この至極真っ当な表現の大原則を、我々表現者は守れているだろうか。


 ──否。素人ながら物書きの端くれでもある僕から言わせてみれば、この表現の世界における大原則は、日毎に後退していっているのだ。


 例えば、このカクヨムというプラットフォームには「レビュー」なる機能がある。レビューを投稿する直前の画面にて表示される注意表記から、一部文言を抜粋し、引用させて頂く。


【以下引用】


おすすめレビューには、この小説を薦める内容を投稿してください。小説を読んで受けた感動や興奮を共有したり、魅力をすくいあげて表現したり、あなたの言葉で誰かもまた読んでみたくなるような投稿をお待ちしています。


不適切な投稿を控えてください

おすすめレビュー機能が本来の目的を果たすために下記の投稿は控えてください。


作者やユーザーへの誹謗中傷

小説と関係ない内容

誤字や脱字の指摘

小説を読まずに投稿する行為

配慮の無いネタバレ行為


【以上引用】


 ふむ、随分と厄介な制約があるようだ。これこそ、僕が最も懸念している表現の自由の後退であり、その荒波はカクヨムという小説投稿サイトのレビュー欄にまで及んでいるということである。


 レビューというのは、英語の"review"のことで間違いないと思うが、これは主に「批評する」という意味で使用される。「批評」とは、ざっくりと調べたところによれば「物事の是非を指摘して、自分の評価を述べること」であり「事物の価値を判断して、論じること」であると。つまり、一般公開された表現物について「私はこう感じました」ということを、自由に述べてもよいということだ。これがまさに、真の表現の自由ということだろう。


 結論から言おう。カクヨムのレビューに関する注意事項は、この表現の自由を侵害している。なぜなら、引用部分に記載したところに書かれているのは「小説を褒めちぎって、まるで単行本の帯のような宣伝文句で埋め尽くしてください」と言っているようなものだからだ。このような書き方をするなら、もはやカクヨム側も「レビュー」という単語の使用は控えるべきだろう。細かいことに思えるかもしれないが、小説という文学を扱うサイトであり、表現の自由の一端を担うプラットフォームである以上、ここは責任感を持って頂きたいと願う。


 このようなことを述べると、一定数の第三者、あるいは表現者自身から「それは誹謗中傷だ!」とのお叱りを受ける。これは本当に度し難い。引用部分をもう一度見てほしい。「おすすめレビュー機能が本来の目的を果たすために下記の投稿は控えてください──作者やユーザーへの誹謗中傷」だと。分かっているだろう。何が「批評」として許容され、何が「誹謗中傷」として淘汰されるのか知れたものではないこのご時世、そのようなことを注意事項に記載されたら、表現者側は恐ろしくて何も書けなくなってしまうことくらい。


 これを表現の自由の「委縮効果」という。その昔、市民の「表現の自由」を守ったアメリカ合衆国の最高裁判例により周知された考え方である。想像してほしい。刑罰の内容が漠然として分かりにくいと、果たしてどのような表現活動をすれば処罰されるか、国民が予測できないという状況を。そうすると、国家の処罰を恐れ、国民は表現行為を自主規制するのは自明だ。この場合、国家はカクヨム運営、国民はユーザーということになる。


 この話を大袈裟に思う読者の方々は、どのくらい居るだろうか。仮に他の表現者への愛とリスペクトを以て「批評」したとしても、それが相手には「誹謗中傷」と受け取られた結果、それが恐ろしくて表現活動が前ほど自由にできなくなるといった経験はないか。僕にはある。だから筆を執ったのだ。


 無論、誰もが不快に思うような悪口や暴言は許容されるべきではない。だが、懇切丁寧な言葉遣いで誰かの作品と真摯に向き合い、誠実に評価した結果、それが表現者にとって気に食わないという理由だけで「誹謗中傷」だと決めつけられては困るのだ。


 冒頭の話を思い出してほしい。人には多かれ少なかれ、自尊心とか、自己顕示欲というものがあると。他者に自分の存在を誇示することで尊敬されたり、あるいは共感を得たりすることで承認欲求を満たしていると。この分析が的を得ているなら、第三者からの正当な評価を「誹謗中傷」だと切り捨てる厄介な「表現の自由の敵」は、自分の生み出したコンテンツを守ろうとするあまり他者に対して攻撃的になろうとする、表現者自身であるということだ。今日もどこかで、表現者が表現者の表現の自由を奪っているのだ。


 このような傾向は、ファンの少ない作品の表現者、ファンの多い作品の表現者によって違いが生じると、僕は考える。前者に関しては、絶滅危惧種で個体数の少ない動物の母親が、自ら産んだ卵を守ろうとあらゆる物に対して攻撃的になるが如く、少しでも「批評」を述べるとその作品の生みの親である表現者自身が反撃してくる。後者に関しては、表現者自身による対抗ではなく、その作品を支持している多くのファンたちが、自らが「価値あるものである」と信じているものについて否定されることが恐ろしく、共感が得られないことで承認欲求が満たされないことが原因で批評者に対して大挙襲来する。なお、以上の持論は全て筆者の実体験に基づくものと理解して頂いて構わない。


 誰もがクリエイティビティを発揮できるようになった昨今における、表現の自由の後退が意味するところ。ご理解頂けただろうか。そもそもの話だが、あらゆる事象が人の目に触れるインターネットに生きる千差万別の人々の中には「批評なんてされたくない」と考える方も居るだろう。余計なお世話だと。それは理解できる。


 だが、残念ながらそう考える貴方が使っているのは「誰もが自分の考え、感じたことを自由に表現できる場所」たるインターネットであるのだ。その恩恵を享受している以上は、誰かの表現を邪魔することはできまい。勿論、インターネット上で一般に公開するWeb小説を筆頭に、得てして全ての創作活動がそうである。


 重ねて強調するが、表現の自由を活用しているならば、誰かの表現の自由を害してはならない。誰かの意見を頭ごなしに「誹謗中傷」だと決めつけて被害妄想に走る前に、その言葉に籠められた真意を汲み取ることができない、自らの創造性の欠如を疑うべきだ。

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