第6話 法改正による準備
「真実と事実の違いというと、見た目でリアルなことが事実であり、正しいことや本当のことが真実だという感覚は、本当にそれでいいのかな?」
と、高杉は言った。
「そうね。確かに事実の上に真実は成り立っているというわけではないしね。事実は小説よりも奇なりということわざがあるくらい、事実であっても、容認できないこともあるでしょうし、真実と言っても、事実に基づいているというわけでもないことも多いしね」
と弘子がいうのを聞いて、
「そうだよ。ウソから出た誠という言葉があるように。誠が真実だとすると、事実ではないことからの真実もありえるだろうしね」
という高杉の表現に対して、
「そもそも、事実と真実というのを、同じ次元で見るからややこしいのであって、実は次元が違うだけで、同じ位置にあるのが、理解できないことではないのではないかと思うのは私の勝手な理屈なのかしら?」
というのを聞いて、弘子という女性がさすがに文章を作ることができるだけの才覚を持ち合わせているのだと高杉は感じた。
高杉は絵画、弘子は小説執筆と、それぞれに違った趣味を持っているが、芸術という意味では同じである。だが、見た目はまったく違っているのを考えると、今しがた考えた、
「事実と真実:
というものを、違う次元での発想に置き換えたとすれば、事実と真実を、絵画と小説のように見てみると、実は別々の次元に存在してはいるが、実際には同じ場所にあるものだと考えることもできるのではないだろうか。
絵画というのは、三次元から見ると二次元であり、三次元の立体を平面の二次元として一枚の紙に収めたと考えると、これこそ、違う次元に存在しているだけだと言えるだろう。そして、絵を描くというのは、見た目を写してありのままを描けば、まったく同じ位置にあると言えるが、大胆に省略するところまではないとしても、少しでも違って描いてしまえば、同じ場所に落ち着くことはなく、別の位置として、決して交わることのないものになるだろう。
だから、いくら同じものを描こうとしても、絶対に同じにはならない、そのように描くように仕向けているとすれば、
「二次元と三次元が交わるということはありえない」
という学説を証明していることになるであろう。
そういう意味で、二次元と三次元を別のものだと感じたいということで、
「絵というものは、大胆に省略したい」
という発想になるのだということを、高杉は自分で証明しているようなものだった。
「そのことを、弘子は分かっているのかも知れない」
と感じた。
弘子は絵画ではなく小説であるが、小説は絵のように、形の見えるものではない。真実と事実のどちらからというと、真実の方だろう。
形にして表せる分だけ、絵画は事実に近いものであり、それぞれが、まったく違う次元に存在しているということは、理屈としてあるのかも知れないと、高杉は感じた。
それだけ、人間にとっての現実は、自分たちが作り出す架空の世界とは、一線を画していて、
「侵すことのできない神聖な領域だ」
と言えるのではないだろうか。
事実と真実をここで話をしたというのは、本当にただの偶然であろうか?
小説と絵画というそれぞれの領域を相手に犯されたくないという気持ちがお互いにあって、その領域の中間にいるのが、最初は事実と現実だと思っていたが、正三角形の頂点をそれぞれが描いていて、平等な位置に成り立つことで、それぞれの次元もお互いに見えないように、干渉しあわないようになっているのではないかと思うのだ。
それを、高杉と弘子は、勝手な想像ではあるが考えている。どこまでが真実なのか、事実なのか分からないが、平衡に気づいたということは、何かの力が、二人にそれを気付かせるために働いたということではないか。
高杉は、自分にとてもそんな力があるとは思えないし、弘子にも同じだろう。
「一足す一が三にも四にもなったり、人間の頭が数パーセントしか使われておらず、それ以外の部分が超能力と言われる部分で、誰もが超能力を使うことができる環境にいるという理屈から、二人が偶然に出会ったことで、果てしない力が宿ったのではないかと考えるのは、あまりにも強引であろう。
そういう意味での偶然の出会いというと、これはもちろん、高杉の知るところではなかったが、「さくら」と弘子の出会いであった。
今回の法改正の目玉である、
「セックス同意書制度」
というのは、同性愛には関係していない。
まだ、実際に施行されていない法律であるが、この法律の施行までにはいろいろシステム的な開発が急務であうが、その開発を行うための、設計が大切である。
夫婦間であれば問題はないが、婚約者はどうなる? そのカードを渡すことのできる男女をどの程度までの関係から許すか? という関係性の問題。
さらには、自宅、それ以外のラブホテル、それ以外の場所をどうするか? という場所の問題。それが決まって初めて、法律と平行する施行マニュアルの作成、そして、それび伴ったカードを使う際の、認識できる機械の開発などを、法改正が決まってからになるのだ。
世の中というのは、一つのことを行うには、そのまわりをいかに固めるかということで、時間のかかることはたくさんある。その中でも法改正が伴うと、必ず出てくるのが、法改正に伴う「法の抜け道」の開発であった。
それが詐欺事件であったりするのだが、今回の、
「セックス同意書制度」
というのは、カードを持っていて、そのカードによる認証というのが、肝であった。
認証するということは、そのカードの中には、当然のことながら、個人情報が入っているということである。
この場合の「法の抜け道」あるいは「詐欺」というのは、この個人情報を抜き取ることである。個人情報を抜き取ってしまうと、抜き取った情報をどこかに売りつけることも、自分たちが詐欺として利用することもできるだろう。
そのためにも、カードを発行する前から、決して詐欺グループに情報を抜き取られることのない完璧なカードの作成というのが、必須になる。
もし、それができずに、個人情報を抜き取られてしまうと、何のための法改正なのか、本末転倒になってしまう。
性犯罪の被害者をなるべくなくそうという法改正で、サイバー詐欺被害を増やしてしまったというのであれば、
「本当に何をやっているのか」
と政府は言われても仕方がない。
そのつもりで政府も開発をしていたのだろうが、さすがに最終的な詰めが甘いというのは、政府の今に始まったことではない。せっかくこれまでうまくやってきたのに、たった一つの甘さが命取りになるということを、政府は分からなかった。
だから、法律が制定されるということが決まってから実際に施行されるまでに、結構な年月がかかることになるのだが、法改正が決まったことを、政府が発表し、それをマスゴミが世間に発表したことで、世間は政府が思っていた以上に、混乱していた。
何しろ、性生活という、どちらかというとタブーとされてきた領域に、法律が入り込むのである。
確かに、性犯罪が増えてきたことは、大きな社会問題であった。ただ、性犯罪というのは、昨日今日で始まったものではない。むしろ、昭和、平成と続いてきたこれまでの方が、犯罪としては、エグイものが多かったのかも知れない。
だが、今は昔に比べて、ネットというものがあり、そこからSNSなどという手段を使って、いろいろ情報共有ができるようになった。それに反して、いや、ネットで情報共有ができるからこそ、個人情報の流出が問題となる時代になった。
前述の詐欺についてもそうである。
サイバー詐欺などという手口も生まれ、いろいろな方法で被害者から金をむしり取ろうとする。
警察が警鐘を鳴らして、対策を強化すればするほど、犯行も多様化してくる。
「ここまでやるか?」
と思うようなことが、すぐに日常茶飯事になっていって、誰もが犯罪に対して気に掛けるようになるが、これほど多発してくると、気にはしても、次第に感覚がマヒしてくることもある。
そこで油断のようなものも生まれてきて、自分が詐欺に引っかかっていたとしても、その自覚すらなく、
「俺は大丈夫だ」
という根拠のない自信だけがあるせいで、詐欺に引っかかってしまった後であっても、まだ自分の置かれている立場が分かっていないというような、盲目状態になっているに違いない。
それは、この法律のキーになるものが、カードであるというところから始まっている。
中身の見せないカードだから、余計に盲目になってしまう。
「カードというものは、安全なのだ」
という思い込みが人間の根本にはあるのではないだろうか?
カードによる詐欺がニュースではどんどん叫ばれてきて、実際に起こった事件の記事を目の当たりにするので、
「カードは怖いものだ」
という意識に近づいてきているのは間違いないが、根底には、
「カードは安全」
という安全神話のようなものが存在しているので、最終的に、感覚がマヒしてしまうのであろう。
何しろ、中が見えないのだから、感覚がマヒしても仕方がない。かといって、カードをオープンにするなどありえない。そうなると、法改正自体の意義が失われてしまうからである。
さて、政府の方も、法改正を発表してしまった手前、
「体制が整うまでが時期尚早だったので、決まった法案であるが、延期します」
とは言えなかった。
この政府は、かつてのパンデミックという有事に対して、すべてが後手後手にまわり、最終的に、内閣総辞職という結末を迎えざる負えなくなった政府の後を継いで発足したのだが、そもそも、パンデミックにおいても、本来なら、すぐにでも内閣が崩壊してもよかったのに、それができなかったのは、
「なり手がいない」
ということだった。
当時のような状態であっても、
「なり手がいないので、今の最低の政府でも解散するわけにはいかない」
というのが、政府、国民の大多数であった。
政権交代させるには、あまりにも野党がひどすぎて、それなら、今は最低の内閣でも、存続させるしかなかったのだ。
「どうせ、そんな内閣しか成立させることのできない政府なんて、もうこの国は終わっているな」
という意見が多かったのも事実であるが、さすがに何度も何度も同じ失敗を繰り返し、さらには、何かをやろうとしても、国民にその真意を伝えない政府。マスゴミの取材対して、決して正直には答えない。
まあ、そもそも、まともな質問のできないマスゴミなので、やつらの責任は、政府よりも重大なのは分かっている。
政府の方針は、結局、最低でどうしようもない野党の反対と、それを煽るマスゴミのために、意思もなく、政策をコロコロ変えるのだから、国民に説明せよと言われてできるはずもないのだ。何しろ、ただ言われたからやったというだけのことだからである。
そうなると、失敗しても、自分たちは決して責任を取らない。
「世論が望んだことじゃないか」
と言いたいのだろうが、選挙のために、それは言えない。
だから、結局、政府からは何ら説明もなかったということになるのだ。
政府などというものは、しょせんそんなものである。
特に当時のソーリというのは、まるで壊れたレコードのように、何を訊かれても、同じことしか答えないという、支離滅裂な会見しかできない連中だ。
しかも、記者会見の質疑応答で、挙手していない人を当て、しかも当てられた人は驚きもせずに、普通に質問をしていた。
つまり、当てられた記者がボーっとしていただけで、最初からシナリオありきの、いわゆる「やらせ」であったことは、誰もが認める事実だった。
もっとも、国民は皆それくらいのことは知っている。政府が記者会見を開くというと、昔は緊張が走ったものだが、今はまったく違う。国民は政府が何をいうか、固唾をのんで見守っていた時代から、今は、
「政府がどんな間抜けな返答をするか」
という意味で見ているので、最初から茶番なのは分かっている。
そんな茶番を笑ってやろうという意識でしか、会見を見ていないのだ。テレビのモニターが、そのまま動物園の檻であるかのようではないか。
「世の中、喜劇でできている」
と言った人がいるとかいないとか。
今の世の中、喜劇とは何かと聞かれると、
「無責任な人間が、いかに責任ある立場に固執しようとしているか?」
ということであり、それが政府というものの本質でしかない。
「まったく中身のない」
それが茶番なのである。
そんな世の中を誰が作ったというのだろう?
そもそも、政府はほぼ、
「一党独裁」
という時代をずっと続けてきた。
五十年近くのいわゆる半世紀の期間、一党独裁だった。そのことで、政治は腐敗し、油断と慢心が蔓延してしまい、政府は完全に、ロボットのようになっていたのであろう。
ロボットならロボットらしく、正確なことをするのが最低限であると言ってもいいのだろうが、それすらできなくなっていた。
その決定的なことが、
「年金問題」
だったのではないだろうか。
役所の怠慢により、年金記録を消してしまっていた。それも、その時点から遡って何年にもわたって同じようなことが行われてきたのだから、ザル状態だったのも、仕方のないことであるが、それを誰も何も言わなかったというのがいかれている証拠でもあった。
十年以上も前に問題になったこの話、誰ももう何も言わないが、どこまで復旧できたのか分かったものではない。
そんなことがあって、その内閣が解散し、総選挙を行ったことで、やっと五十年続いた一党独裁が壊れた。
当時野党で最大勢力を持っていたその政党が政府となると、公約を達成するために、いろいろな動きを見せたが。しょせんは付け焼刃なやり方であり、これまでは批判するだけでよかったものが、いざ政権という舞台に立つと、これほどお粗末なことになろうとは、誰もが思っていなかっただろう。
結局、数年で野党政府も瓦解し、そのまま、前の一党独裁状態に戻ってしまった。
「まるで徳川慶喜だな」
という人がいた。
幕末に、徳川将軍の徳川慶喜が、薩長に幕府を滅ぼされる前に行った起死回生の大政奉還。
これには、幕府に対しての武力行使を抑える平和的解決という意味と、もう一つ重要だったのは、
「どうせ、薩長や朝廷には、政治を行うノウハウがあるわけはない」
という考えがあったからで、
「いずれ、政治を投げ出して、再度徳川の天下になるか、あるいは、自分を政府の要人として迎えることになるだろう」
という思いがあったのだ。
だが、時代はあくまでも、幕府滅亡を目指し、鳥羽伏見の戦いを経て、戊辰戦争は幕府の滅亡を招くことになるのだ。
この時、徳川慶喜は失敗したが、政権交代が起こった時には、前政府の目論見通り、野党に政治は無理だった。
結局、政局が戻り、その頃には政府の頂点として君臨できる人間が一人しかいなかったことで、その男のやりたい放題。史上最低の内閣が出来上がってしまったのだが、
「他にできる人がいない」
という理由で、政府はこの内閣を続けるしかなかった。
そのために、死ななくてもいい人が多数死ぬことになったり、自分の味方をしてくれる人を手放したくないというだけの理由で、法律改正までしようとしたのだ。さらにその渦中の人間が、何ともお粗末な不祥事を起こし、辞職に追い込まれるのだから、
「一体、何やってんだ」
と言われても仕方がない。
しかも、その男は、
「責任は自分にあります」
というだけで、決して責任を取ることはしなかった。
「責任を痛感している」
というだけで、痛感すれば、責任を果たしたとでも思っているのか、結局最後は仮病を使うという卑怯なやり方で、肝心な時に政府を投げ出したのだ。
しかも、昔同じことをやっていたというのは、救いようのないことであったが、これも選挙でそんな男を国会議員として選出してしまった国民が悪いとも言える。
そんな政府であったので、一度は地に落ちた政府も、その後の総選挙において、かなりの苦戦をした。
それでも、政権交代が起こらなかったのは、それだけどうしようもない今の政府よりもさらに野党が酷いというだけの、消去法が招いた薄氷の勝利であった。
ただ、これを勝利と言えるのかどうか難しいところで、
「選挙における一票は誰の一票であっても、いつの時代であっても、同じものだ」
と言えるのだろうが、それはあくまでも、理想論であり、実際には違っているのではないかと思う。
「選挙において、投票率が低いと、与党が勝利する」
と言われているが、それはあくまでも、選挙に行く人が、与党の組織票であるということを示しているのだ。
与党は組織票を持っているから強いとも言える。野党にはそんな地盤もないから野党なのだ。
しかも、野党というのは、政府の批判をすることだけが仕事のようで、代替え案を出してくることはない。
「批判だけで給料がもらえるんだから、税金泥棒と言ってもいいだろう」
と、野党が言われるゆえんである。
この野党第一党というのも、一度は政府となった時期があった。
公約だけは立派だったが、その公約を一体どれだけ果たせたというのか、強引にやって失敗したり、世の中の空気を淀ませることしかしなかった連中のことは、今でも国民は忘れていない。あの頃は、年金を消した恨みから野党が攻勢であったが、今となってみると、それ以上のパンデミックに対してのあれだけのお粗末な政策をやった政府に勝てないのだから最低の野党である。
それこそ批判しかできない政党を誰が指示するというのか、どうしようもない。
そのくせ与党は、連立を組んでいて、第一党は、利権に塗れて、無責任政府だし、連立を組んでいるのは、某カルト宗教の後ろ盾から党を運営している組織だという、こちらも酷い政権である。選挙で過半数を取らなければいけないが、灸をすえるということも必要だ。それが、今回の選挙に繋がったのだろう。
さすがに今までは野党が弱いというだけで、他に政権につく根拠は何もなかったそんな政府だが、今回はお灸が効いたのか、少しは政府も真剣になってきているように見えた。その一つが今回の法改正なのだが、
「本当に的を得ていることなのか?」
という問題になっているのだった。
そもそも、パンデミックの時には、何をやっても茶番であり、しかも、どうしてもやりたいことは、国民に安心安全という根拠のない言葉だけを押し付けて、何が安全なのかを一切言わず、まるで予算や法案を国会で通す時の議長席に皆詰め寄っての強硬採決を見ているようだった。
最近は、そういう光景はあまり見なくなったが、政府の押し付けは相変わらずで、いまさら誰もビックリはしなくなっていた。
「今回の法案は、女性の尊厳を守り、そして、男性側の冤罪を防ぐという観点からの法改正になります。そのためにはデメリットとなる、個人のプライバシー問題や、個人の尊厳をいかに守るかというのが問題になってきます。そして、人間の欲の一つである性欲の制限に繋がるということは、精神的な歪みを生み出さないとも限らないので、万全の状態での施行が義務付けらていると言ってもいい。国会では、法改正のために、どういうものが必要かということを洗い出し、さらにそこから取捨選択したものが、開発班に渡され、いかに有意義なものを完成させることができるかということが問題である」
と、官房長官の発表であった。
記者会見においての記者団からは、
「かなり思い切った政策を打ち出していますが、人権問題、プライバシー保護、さらには、性的欲求に対してなど、憲法上の問題や、医学的な感知で見なければいけないデリケートなものが含まれていると思います。いくら、女性の尊厳や、危険から守るということ主題だとはいえ、どのような法に対しての備えが行われるかが問題ではないかと覆いますが、いかがでしょう?」
と訊かれて、
「それはもちろんそうです。だけど、女性の尊厳、生命の危険というのは、もう待ったなしのところまで来ています。特に最近のネットによる犯罪を抑止することは難しいです。確かにそんなことに引っかかる女性側も問題あるのだと思いますが、境域の徹底はもちろんのことですが、それでは追いつきません。教育と、法改正の側から攻めていかないと、手遅れになってしまうケースが増えてきます。それだけ犯罪も多様化していて、そのうちに警察が一切介入できないという事態になってからでは、もう遅いんです」
と、官房長官は力説した。
今までの官房長官は腑抜けのようなやつが多かったが、今度の官房長官はハッキリとモノをいうという意味で、いい人だということは分かった。これも、この間の選挙での内閣改造が効いているのかも知れない。
ただ、問題はソーリが変わっていないことだった。結局は、
「やれる人がいない」
というだけで、再度大命が下ることになった。
ただそれだけのことだった。
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