第3話 問題点の波及

 こちらの問題の方が意外と結構大変だったりするようで、意外と気付いている人は気付いているという点で、この法律の盲点だったのかも知れない。

 しかも気付いている人は、この法律の問題点に対してはすべてをクリアしている人が多いというのは、皮肉なことだが、考えてみれば当たり前のことでもあった。

 この問題は、どちらかというと、男性側に一番の問題があった。そもそもこの問題があるから、こんな法律を作らなければいけないということでもあり、これこそ、負の無限ループと言ってもいいのかも知れない。

 このことで言えるのは、女性ではなく圧倒的に男性に多い問題だった。それは、男性と女性の性癖の違いであり、風俗が男性には不可欠だということの証明でもあるのではないだろうか。

「同じ人ばかりを相手にしていれば、飽きてしまう」

 ということであった。

「食事だって、毎日同じものを食べていれば、飽きが来るのは当たり前のことだよね」

 ということであり、これは、女性よりも男性に圧倒的にあることであった。

 最近は男性であっても、女性であっても、結婚しない人が多いと言われる。昔のように許嫁の精度のようなものがあったり、子孫繁栄という意味や、

「結婚もできないようじゃあ、立派な大人とは負えない」

 などという凝り固まった思想があったわけではなく、今の世の中は、

「結婚だけがすべてではない」

 と言われるように、自分のやりたいことを生きがいとして選択する人が増えたこともあるだろう。

 もちろんm精神的な面では、それだけ開放的になったというのもあるからなのだろうが、肉体的なもので言っても、結婚しない男女が増えてくるのも理解できる。

 女性の場合は、肉体的ということがすべてではないが、前述のように、

「好きな人とでなければ、セックスができない。彼氏や結婚相手としては選べない」

 という考えが強いからだろう。

 しかし、男性の場合は、飽きっぽいというのも中にはあるだろう。

 好きだと思って、身体の相性もいいと思っていたとしても、何度か性交渉をすれば、飽きがくるというのも、本性としてしょうがないとこともあるのではないかと思う。

 考えてみれば、セックスの後の男と女では、行動が明らかに違う。

 お互いに絶頂を迎えた後の精神状態がまったく違うのだ。

 女性の場合は、

「幸せな気持ちになって、相手の男性にしがみついて眠りたい」

 という人が多いのに対して。男性の場合は、絶頂が訪れると、身体に余韻が残りすぎてしまい、却って身体を重ねるだけでも、こそばゆい感じになって、せっかく女性がしがみついてくれているのに、肌を合わせると、敏感すぎて、身体を話し手しまいたくなるのだ。

 昔のドラマなのでは、女が男の身体にしがみついているところで、男は身体を動かすのが億劫なくせに、とりあえずタバコを咥えて、放心状態の姿があったものだ。

 それは、身体の奥からしみだしてくる気だるさが億劫さを醸し出し、相手がしがみついてくるのを、億劫だと思いながらも、何とか理性で我慢している人もいるだろう。

 本当は触られるのも嫌だと思う人もいるかも知れないが、それだけ、絶頂を迎えた瞬間、脱力感だけが襲ってくるのだ。

 だから、男は一度絶頂に達してしまうと、二度目までにはかなりの時間が掛かるのに対し、女性は何度でも絶頂を迎えられる。それこそ、男女の身体の作りの違いであり。男子は絶頂を一度でも迎えるために、女性を欲するものであり、大きな山が一つあるだけで、その山に達するための欲求が、それだけ強いとも言える。

 男性の性犯罪が多いのは、そういう性的な身体の作りがあるからで、ある意味、どうしようもない部分がある。だから、こんなおかしな法律が真剣に審議され、法案が可決されることになるのだ。

 だが、法案が可決されても、男女の双方での相違がある限り、この法案が完璧になることはない。

 したがって、結構早いうちから法案を水面下で進めていたが、実際に法案が通過しても、さらに法律を補うための、世間の体制を作っていく必要があるのだ。

 できるかどうか分からないが。女性用の性風俗を真剣に政府が考えているというのも、そのあたりからではないだろうか。

 ここに、一人、高杉洋三という三十歳の男性がいて、彼は三十歳になるが、彼女いない歴というのが、年齢と同じだった。だが、彼は童貞というわけではない。好きになった女性がいなかったわけでもない。だが、どうしても男性という体質が影響していてか、

「同じ相手と、セックスをすることができない」

 という体質であった。

 しかし、それは、

「続けて同じ相手とは生理的にできない」

 というだけで、その間に別を人を挟めば、どの問題はなかった。

 だから、大学時代に先輩に連れて行ってもらったソープランドで、

「筆おろし」

 の儀式を終えて、それ以上風俗ばかりを利用するようになった。

 彼は、大学時代から絵を描くのが好きで、絵を描くという趣味を持ちながら、就職してからの仕事も充実していて、傍から見ていると、顔の作りも均整が取れているので、

「彼女がいない歴は、実年齢と同じ」

 というと、

「え~」

 と言って、驚かれる。

 それは男であっても女であっても同じで、それだけ、男からも女からも好かれる要素を持っていたのだ。

 ただ、女性からすると、そんな彼が女性と付き合ったことがないと聞くと、

「ホモではないか?」

 と思われることもあったようだ。

 男性から見ると、彼を見ていて、ホモには見えないので、たぶん、風俗通いをしているのではないかと思うだろう。それはやはり、男性が女性と違って、同じ相手と毎回身体を重ねることで、飽きが来るのではないかという性質が分かっているからであろう。

 だから、男性が見る目は間違っておらず、高杉ははけ口として、性風俗をいつも利用していたのだ。

 だが、彼は風俗を、

「性のはけ口」

 とは思っていない。

 確かに、欲求不満がたまった時は風俗に行くのだが、それはちゃんと楽しみで行くようにしていた。

 他の人は少なからず、ソープで満足した後は、帰りなど、罪悪感とまではいかないが、憔悴感に見舞われてしまい、お金を使ってしまったことを、若干後悔してしまう。それは前述のように、絶頂を迎えるまでと、それ以降での落差の激しさが物語っているように、ほとんどの人は、その日は、憔悴感に浸ってしまうことだろう。

 しかし、高杉の場合はそんなことはなかった。

 風俗で絶頂を迎えると、後悔はない。満足したままの気持ちで帰途につき、その中で、

「今度はどの娘にしよう」

 と、次回を楽しみにしていた。

 楽しみにできる理由の一つとして、彼が趣味や仕事に充実した毎日を過ごしていることで、意外と一日があっという間に過ぎてくれるので、次回までは楽しみなまま過ごせるというのがあった。

 もう一つは、彼は身体と気持ちがある程度一緒になっていた。身体に対してはすぐに飽きが来るのを自分で分かっていて、いや、それを当然だとして割り切れているので、絶頂を迎えた後で、憔悴感を味わうことはないのだ。

 憔悴感が襲ってくるのは、罪悪感や、風俗でお金を使ってしまったことへの自分の正当性が満たされないからだった。だから店に来る前に、自分の中で、

「男の性なんだから、仕方がない」

 という言い訳を保つことで、絶頂を迎えることができるのだが、元々言い訳でここまで来たのだから、憔悴してしまうと、その気持ちに歯止めが利かなくなる。

 しかし、最初から言い訳もなく、憔悴も覚悟できていると、絶頂を迎えた後で、他の人に得ることができない満足感を得ることができるのだ。

「そうなんだ。他の人は満足感が足りないんだ」

 と、どうして皆あんなに店に入る時も、出てからも、一目を気にするようにしているのかという理由が分かると、何が足りないかということで、そこに満足感というものの存在が控えていることを理解できるようになったのだ。

「満足感があるのとないのとが、男女の決定的な性行為での違いなのかも知れない」

 と思った。

 男の場合は、絶頂に至るまでにすでに満足感を味わっているので、絶頂に達した時に、訪れるはずの満足感の代わりに憔悴感が襲ってくるので、どうしても。満足感を感じなかったと思うのも仕方のないことだろう。

 高杉の場合は、風俗の相手であっても、一緒にいる瞬間を、疑似ではあるが、恋愛として感じることができている。これは、他の人が感じている恋愛感情と同じものであるが、まわりの人から見れば、そうは絶対に思えない。しかも、本人である高杉もそこまでは感じていないのだから、高杉にとっては、

「恋愛感情というものを、俺は一生もてないのではないかな?」

 と感じていた。

 確かに高杉という男はおだてに弱いタイプだった。人からおだてられることで、その気になって、やる気を発揮できるというのは、彼の一つの才能だった。趣味にしても仕事にしても、充実した生活を送ることができているのは、その才能が影響しているのだった。

「絵が上手い」

 というのは、自他ともに認めることであった。

 最初は、自分が上手だなどと思ってもいなかったので、絵を描いているということをまわりにひた隠しに隠してきたが、

「もうそろそろこれだけやってきているのだから、恥ずかしいという気持ちでまわりに隠す必要もないな。どちらかというとまわりに見てもらって、それなりの評価を一度くらいしてもらった方がいいかも知れない」

 と感じたことで、みんなに、

「俺、絵を描いてるんだけど、一度見てくれると嬉しいな」

 と、いつも一緒にいる友達に話してみると、

「ほう、そうなんだ、一度見せてもらおう」

 と言われて見せてみると、

「なかなかなクオリティじゃないか。これだけ描けるのに、今まで何も言わなかったというのはどういうことなんだ?」

 と言われて。

「自分の作品がどれほどのものかって比較対象があっても、どうしてもよく見えたとしても、それを贔屓目だと思ってしまうと、却って恥ずかしくなって、誰にも言えないと思ったんだよ。でも、時期がある程度過ぎると、今度は恥ずかしさよりも、まわりの意見を聞いてみたくなったんだ。やっぱり、ある程度まで続けてくると、これから続けていいのかというのを、客観的に見てほしいという気持ちになるからね」

 というと、

「じゃあ、俺が辛辣な意見を言ったら、どうするつもりだったんだい?」

 と言われて、

「その時は、自分に自信が持てようが持てまいが、ウソでもいいから自信がついたと思おうとしたんだよ。もちろん、他の人には黙ってということになるんだけどね」

 というと、

「それは、自分に対しての言い訳になるんだろうな。でも、普通ならそこでやめてしまう人って結構いると思うんだよ。それを辞めずにずっと続けられるということは、それだけで才能だと思うので、そういう意味でも、高杉が絵を上手になれたという理屈が分かってきたような気がするな」

 というのであった。

 それを聞いた時、

「最高の褒め言葉、ありがとう。これからも、どんどん上手になっていけそうな気がするな」

 というと、

「そうそう、その意気だよ。俺が高杉と仲良くなれた理由の一つには。君のその考えが分かっているからなんだろうって思うんだ。高杉は意外と分かりにくい性格をしているので、結構勘違いしている人も多いカモ知れないんだけど、逆に分かっている人も一定数いるだろうから、そこのあたりは、気にしない方がいいと思う」

 と言ってくれた。

 高杉の性癖については、その友達が一番よく分かっている。だから、彼がソープに通うことも、彼女がいないこともよく分かっていて、他の人であれば、彼女がいない友達がいると、

「誰か紹介してやろうか?」

 というくらいのおせっかいであってもよさそうなのだが、

「高杉には、彼女という存在は必要ないんだ」

 と思うことで、彼女を作ることに協力をしたりはしなかった。

 彼の性格からすれば、女の子の友達くらいであれば、作ろうと思えば簡単にできるはずで、却ってその時はまわりがとやかく言わない方がいいと思っているのだ。

 そんな高杉は、風俗嬢との時間を大切にした。だから、疑似恋愛でも楽しい思いができるのであって、同じ疑似恋愛という意味で、アイドルを推している人たちとは違うという意識を持っていた。

 別にアイドルを推している連中を毛嫌いしているわけではないが、どこか受け入れられない気持ちがあった。逆にアイドルを推している連中からすれば、高杉のような考えは、考えにくいものに感じられるのだろう。

 しかし、そのどちらでもない連中から見れば、

「どっちにしたって五十歩百歩。理解や想像の域を完全に超えていて、考えにくいなどという生易しいものではなく。到底考えられないものだ」

 と言えるのではないだろうか。

 高杉にとっての風俗嬢は、癒しに近いものだ。その感覚はアイドルを推している連中と同じだということは分かっているのに、どうしても受け入れられないという思いは、

「風俗嬢とは、肌を通じて気持ちが通じ合っているんだ。決して触れることのできないアイドルとは違う」

 と思っているだろう。

 しかし、アイドル推しの連中からすれば、

「決して個人的な付き合いができないだけに、想像や妄想の中でだけ自分のものになる。逆に言えば、誰のものにもならない相手を、想像の中だけで自分のものいできるのだから、これほどの至高の時間を感じることはできないだろう」

 と思っていた。

 確かにその考えに高杉が至っていれば、彼らと同じ間隔なのではないかと思うのだろうが、風俗嬢と一緒にいる時、

「この子は、自分といる時以外は他の男に癒しを与えている」

 と思わないようにわざと考えているのだから、歩み寄るという気持ちは一切ないと言ってもいいだろう・

 この二つの考え方は、それぞれに相まみえないという結界のようなものが存在している。まるで水と油のように、決して交わらないものがあるのだろう。

 だが、それは、

「決して交わることのない平行線」

 とは違っていて、ひょっとすると交わることがあるかも知れない。

 しかし、その時に、果たして、

「交わっていることに気づいているのに、交わっていないと自分にいい聞かせようとしているのか」

 あるいは、

「交わっていることに、まったく気づいていない」

 というどちらかになるのであろう。

 その時に高杉がその考えにもし至っていたとすれば、前者だったのではないかと思う。高杉は普段から結構頭がよく、発想も的を得ていることが多いくせに。とち狂ったかのような発想に至ることが結構ある。それは、自分でも後から考えて意識できることであり。そのため、前者のように、理屈に合わないことを、強引に思い込ませることで、理不尽なことでも納得させようとするから、余計に無意識であることを意識してしまうようになるに違いない。

 アイドルと性風俗との共通点については分かっているのだから、やはり、交わりそうなことを、交わるわけはないと自分にいい聞かせていると言っていいだろう。

 アイドルというものが別に嫌いだったわけではない。子供の頃はアイドルに憧れてもいた。それよりも、自分がいずれアイドルの知り合いということで、まわりに自慢ができると思い込んでいた時期があった。それが妄想であり、実はそれが、接することのできないアイドルを偶像化してしてしまい、自分の中で勝手に具現化することで、自己満足に浸るということが大人になってくると分かってきた。

 そもそも、高杉という男は、自分以外の人が脚光を浴びるのが、この上なく嫌だったのだ。

 何かの大会で、学校の代表が全国大会に出るからと言って、まわりがちやほやしたり、地元のプロ野球チームが優勝でもして、市内を優勝パレードでもするとなると、まわりは皆選手をヒーローに仕立てて、まわりの連中と一緒に楽しんでいる。高杉はそんな連中の気持ちがまったく分からなかったのだ。

「自分が表彰されるわけでも、まわりからちやほやされるわけでもないのに、どうして他の人をそんなに応援できるのか?」

 と感じるからだった。

 それは嫉妬であることが分かっているが、

「嫉妬があるから、逆に頑張れるのではないか」

 と思うと、ちやほやされている連中をちやほやする心境が、まったく分からないのだ。

 確かに、大学時代から描いている絵も、そういう感覚からだった。

 高校生の時の同級生に、絵画で全国的に有名なコンクールに入賞し、その成果を買われて、絵画雑誌の編集社から出資してもらって、個展を開いたりしていた。プロというわけではなかったが、サインも覚えたり、作品もそれなりに売れたりして、完全にまわりからちやほやされていたのだ。

 高杉は、そんなちやほやされている状況よりも。ちやほやされる原因となったコンクールの入賞が印象的だった。トロフィーを貰って、有頂天になっていた友達が、実に新鮮に見えたのだ。

 確かに、ちやほやされている時のどの友達を見たいとは思わなかったが、自分もそこまではいかなくても、コンクールに入賞できるだけの作品を作れればいいと思ったのだ。

 だが、いつ頃からだろうか、その気持ちが逆になってきた。自分がコンクールで入賞したいというよりも、個展が開けるようになった方がいいと思い始めたのは、自分が生み出す作品を、いかにたくさんの人に見てもらいたいかということに変わっていったからだろう。

 それは、同時に、

「継続は力なり」

 という言葉でもあるかのように、モノを作り出すということの貴重さが身に染みて感じられるようになったからだと思うようになってきた。

 最初の頃、絵を描いていることを他の人に知られたくないのは、恥ずかしいからだというように感じていたのが、どうも違っているような気がしてきた。

 自分の気持ちの中のどこかに、絵を描き始めた本当の理由は、嫉妬であるということを認めたくない自分がいるからだと思ったからだろう。

 自分が始めることになったきっかけを、自分で納得できない状況に、恥ずかしいという思いを言い訳にしていたことが、嫌な感覚だったのだろう。

 だが、そんな思いを抱いている自分が、性風俗の店で女の子に、

「俺は、趣味で絵を描いているんだよ」

 というと、たいていは、

「うわ、すごいじゃないですか? 今度一度見せてくださいね」

 と言ってくれるのが、これほづ嬉しいことはないと思っていた。

 同じ相手と二度以上続けて会うことはないと思っているだけに、金銭的にも一か月に一度くらいのペースで通っているので、早くても、二か月は開いていることになるだろう。

 それでも、指名して再会した時、

「僕のことを覚えている?」

 と聞いたら、

「ええ、絵を描いている人ですよね?」

 と言ってくれると、これほど嬉しいことはない。

 二か月ぶりで、しかも、毎日何人もの男性を相手にしているのに、覚えてくれているというのは本当に嬉しい。

 ひょっとすると、店は会員制なので、会員番号のどの人と、どんな会話をしたのかをメモのようなものに書いている可能性がある。そうでもしないと、二か月も経っていて、覚えているという方がすごいと言えるだろう。

 そのカラクリを分かり、

「なんだ、そういうことか?」

 と思うのか、それとも、

「そこまでして客のことを覚えておいて、喜ばせてあげよう」

 と思っていることが、客として、彼女の健気な努力に感心させられ、却って嬉しく感じるであろうことを、素直に喜べるのであった。

 要するに、

「自分のためを思って、努力をしてくれる人が、俺にとっては嬉しいんだ」

 ということである。

 別にまわりでちやほやされる人は、ちやほやされたからと言って、何ら自分に関係があるわけではない。それだけ、自分にかかわりがあるかということで、自分が喜べる相手なのかということを判断する。

「皆どうして、自分に関係のない人がちやほやされているのを、そんな平気で応援なんかできるな」

 というと、

「なんで、そんな気持ちになれるの? 捻くれているんじゃない?」

 と言われるだろう。

 お互いに、その時の相手の気持ちが、分かっていないのだった。

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