六話 北の地ノスモル

 エリスが聞いていた通り、シルチから離れてしばらくすると、日中でも寒さを感じるようになってきた。心なしか、太陽が見える時間も短く感じられる。「北の地は、雲に覆われている日が多いのですよ」とゼストは言った。


 太陽が隠れ、北へ進むたびに緑が減っていく景色は、どこか不安を掻き立てる。エリスとロベルトは御者や護衛兵が疲れ、精神が擦り切れないように様々な工夫を凝らした。宿に余裕があれば野営をさせず、大部屋に床を準備して、寒さの厳しい日には火を多く用意し、酒を振舞う。出費が増えることを渋るゼストを何度も説得した。実際エリスが持参していた調度品のいくつかはお金に換えられていたが、未知の場所に士気の低い状態で進む方が、エリスにはよほど危険だと思われた。


 雪が降る日が増え、周りが白一面となった頃、一行はノスモルの手前にたどり着いた。(いよいよね)毛皮をまとい手袋で両手を覆ってもなお、息は白く、頬が冷える。「ここからは雪がもっと深くなるから、進みが遅くなるな」ロベルトが馬の様子を気遣いつつ呟く。「大雪が続けば、街に到達する前に夜になってしまいます。皆さん、急ぎましょう」ゼストが促し、一行はかろうじて見える道を進んでいく。(雪は吹けば飛ぶような軽さなのに、なぜ積もるとこんなに重くなるのだろう)エリスはじっと前方で降りしきる雪を眺めながら、とりとめのないことを考えていた。


 ノスモルは森と雪に閉ざされていて、人の存在が感じられない。後にエリス一行はいくつかの集落に泊まるが、どこも色彩がなく、暮らすためだけの住居と生活があるだけだった。住民もどことなく覇気がなく、エリス達が別の世界から来たように異質に見えた。


「思った以上に、寂しい場所ですね」「冬ということもあると思うけど、娯楽に時間を割けないくらい過酷な場所だということは、わかってきたわ」イズと馬車から代り映えのしない景色を眺めながら、旅は続いた。


 そして遠くに城の影が見えてきた頃だった。その日は雪も降らず、太陽も顔を出している暖かい日だった。「息は白くても、太陽が出ているだけでだいぶ気持ちが変わるもんだな」馬車越しにロベルトと談笑しながら進んでいた時だった。突然茂みから何かが飛び出してきた。


「エリス、窓を閉めろ!」ロベルトは護衛兵たちに命じ、馬車を囲むように並ぶ。大型の狼が牙を剝いていた。この狼が群れの長なのか、後ろには多くの狼が鋭い眼光を向けている。「ゼスト、お前の横についてる兵達と一緒に先に行ってくれ。エリスの馬車が襲われたらまずい」「ロベルト、皆で逃げるべきよ!馬が倒されたら貴方も危険だわ!」「この状態で全員が逃げ切れると思うか?」ロベルトの姿は見えないが、ピリピリとした空気が伝わり、エリスは内側から身体が冷えていく気持ちだった。初めて直面する命の危機だった。


「ゼスト、もたもたするな、早く行け!」狼が襲ってきたのか、外が騒がしくなった。「お嬢様、行きますよ!」ゼストの緊迫した声。「エリス様、大丈夫ですからね。私たちがついていますから」イズがエリスをしっかり抱き締める。獣の断末魔、護衛兵の叫ぶ声が遠ざかりつつあった。


 が、突如馬車ががくんと揺れた。馬が脚に噛みつかれたのか、前足をはね上げた。「!」エリスは頭をぶつけるが、どうにか態勢を保った。「イズ!」「大丈夫ですよ。大丈夫…」イズも声が少し震えている。(あれだけいたら、追ってくる狼もいて当然ね…)馬車が倒されれば、エリスは丸腰で馬車から出なくてはならない。かといって、今の状態でできることはない。じりじりと焦る気持ちに悲鳴を上げたくなるが、ぐっとこらえる。冷静に振舞ってきたエリスが取り乱せば、他の者たちにも伝播するだろう。(私に出来ることは、死ぬまで叫ばないようにすることくらい)隣でエリスを抱き締め続けているイズの早まる鼓動を感じながら、エリスは静かに覚悟を決めていた。


 その時だった。「いたぞ!」「残りはあっちだ、追え!」ドスッという音がして、狼が甲高い悲鳴を上げた。ヒュン、ヒュンと風を切る音が立て続けに響き、ザザザと何かが走り、元来た道へ進んでいく。


 やがて物音がなくなると、馬車をノックする音がした。「お嬢様、危険は去ったようです」ゼストの声だった。そっとイズが馬車の扉を開き、エリスが覗くと、雪が馬車の中に勢いよく吹き込んだ。(さっきまで晴れていたのに…)エリスは慌てて手で顔を覆った。


 ふと見ると、ゼストの横に大柄な男が立っている。強風に煽られた髪はぼさぼさで、伸びた髭が顎を覆っている。よく見ると毛皮をまとった服には返り血がついていて、背中には弓、腰には剣や短刀を差していた。


「…来る前に狩っておこうと思ったのだが、間に合わなかった」「え…?」風でバタバタと暴れまわる髪の隙間から見える瞳が、じっとエリスを見ていた。「ノスモルの領主、フロウ=ドラクセルだ。貴公を迎えに上がった」

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