五話 シルチにて

 ノスモルへの旅は順調だった。エリスに負担をかけないように無理のない旅程を汲んでいるようで、馬車の中で寝泊まりすることもなく、常に近隣の宿屋の一室で疲れた身体を休めることができていた。その日も宿屋でイズと話をしていたが、ふとハナからもらった紅玉のことを思い出した。


「イズ、あの紅玉はあるかしら?」「ええ、ございますとも」紅玉に熱を通せば遠く離れている者と会話ができる。あの日実際に紅玉を炎の上で軽く温めたところ、隣の部屋でもう一つの紅玉(ハナが所持している紅玉で、エリスが受け取ったものより一回り大きく、温める必要はないが、会話を受けることしかできないらしい)を持って待機していたリヴの声が聞こえ、お互いに驚いた。


「これが作られた国は、私たちの想像もつかない場所なんでしょうねえ。どうやって作っているのやら」イズは温めた紅玉を置くための石をテーブルに置く。部屋の明かりに使っていた蠟燭の炎に紅玉を近づける。しばらくすると、紅玉が内側から赤く光りはじめた。「…ハナ、聞こえる?」すると、ざわざわという音がしたと思うと「エリス様!よかった、お話しできて!」ハナの明るい声が聞こえてきた。「…本当に会話ができるのね」「不思議でしょう?私も詳しい仕組みはわからないんですけどね」心なしかハナの声は弾んでいるようだ。


「エリス様、お身体は大丈夫ですか?ロベルトはきちんとお役目を果たしていますか?」「ええ、有難う。ロベルト殿は少しうるさいけど」「彼なりにお役目を果たそうと頑張っているのだと思います」しばし二人で雑談をする。「今いらっしゃるのがシルチであれば、ノスモルまではあと半分といったところなのですね」ハナは地図を広げて調べているようだ。「そうね。この辺りから気候が変わってくると聞いているから、準備は慎重にしてもらうつもり」「そうですね…旅程を持った使者が先行しているので、気候が厳しくなればノスモルから迎えの者が来ると思うのですが」「まあ、なるようになるでしょう」


 エリスは敢えてパリョータのことは聞かないようにしていた。前向きにしようとしている気持ちが揺れ動きそうだったから。ハナもそれを感じているのか、エリスの話を聞くことに専念しているようだった。少しハナの音声が聞き取りにくくなる。紅玉が冷えてきたようだ。


「そろそろおしまいね。楽しい時間だったわ」「こちらこそ!いつでも呼んでください!」「ハナ、パリョータのこと、お願いしますね」ハナの答えを待たず、水差しをゆっくり紅玉にかける。音が小さくなり、冷えた紅玉は静かになった。


 パリョータの屋敷にいて、ハナと話していた夢を見ていた気持ちになる。市場もないこの小さな町は、夜になると皆眠ってしまうのか、人の気配がなくなる。たまに獣の声が聞こえる程度だ。普段は一人で過ごせる夜の静かな時間を愛しているエリスだが、今夜はなぜか人恋しくなって、宿屋の階段を下りていく。


 宿屋の1階は開けていて、宿泊客が談笑したり、酒を持ち込んで飲んだりするための円卓が何組か置いてある。そっと戸を開けると、ロベルトが一人で何やら書き物をしていた。「ん?…あ!」慌てて書き物をしまおうとする。「覗いたりしないわ」少し離れた卓に備えられている椅子に腰かけた。「珍しいな、こういうところには来ないと思ってた」「たまにはいいかと思ったの。お邪魔だったかしら」「いや、むしろ歓迎するよ。エリス殿とお話しできる貴重な機会だ」


 ロベルトは手早く書き物をしまうと、自分の卓の椅子を引き、掛けるように促す。そして宿屋の奥にある厨房から酒器を持って戻ってきた。「酒は飲めるか?」「多少なら」ロベルトは卓にあった酒壺の中身をそっと注いだ。琥珀色の液体からはふんわりと甘い香りがする。「綺麗な色。香りもいいし、気持ちよく酔えそうね」「明日は物資の準備で移動はないから、酔っても安心だもんな」「物資といえば…」


 しばらくは旅程に関する事務的な会話が続いた。物資のこと、衛兵たちの様子、天候のことなど…。ロベルトは酒器を傾けながら、事務的な会話でも楽しげだった。


「じゃあ、旅の件はこんなものかな」「そうね、色々知ることができて私も助かった」「…エリス殿はさ」ロベルトが改まった口調になる。「自分の生まれで、悩んだこととか、ある?」酒で赤らんだ顔を頬杖で支えながら、眠たげに問いかける。「ないわ。悩んでも仕方のないことだもの」「そっか…うん、そうだよな」そむけた端正な横顔が、寂しげに見えた。普段は人の感情を追求しないエリスだが、今夜は何となく聞きたくなる。


「あなたは違うの?」「はは、どうだろうな。誰かに話すと、むしろ俺は恵まれてる、好きなことをやれているんだから感謝しろって言われるけど、他の立場を経験したことないから有難味がわからないんだよな」「感謝を強要されるの?とんだおせっかいね」「そう言い返せばよかったな」(リヴと似たような性格だと思っていたけど…)ロベルトと旅を共にしていて思うのは、彼の言動は明るいがどこか陰があることだった。今見せている横顔のように、冗談めかしていても、ふと寂しい表情が垣間見える。


「貴方も大変ね、ロベルト」「エリス殿に比べたら気楽なもんだよ」「…エリスでいいわ。今は何のしがらみのない、旅の仲間でしょう」ロベルトは驚いたようにエリスを見る。「そんな言葉がもらえるなんて思わなかったな」「私は冷血姫ですものね」「そういうことじゃなくてさ…うまく言えないけど」「お礼がもらえるのかしら?じゃあ、どういたしまして」お互いの顔を見て、思わず笑いだす。「貴女とこんな会話ができる日が来るとは思わなかったよ。役得だな」そういって笑っているロベルトの表情は、さっきより明るかった。

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