四話 旅立ち
北の地に旅立つ日は、清々しいくらいの青空だった。エリスは早くから起き、屋敷の裏口からそっと抜け出て両親の墓を訪れていた。少し冷えた空気がゆらりと白いケープを揺らす。庭に残っていた花を摘み、両親の墓にそっと置き、目を閉じる。
(お父様、お母様、私が至らぬばかりに、この屋敷とパリョータを守ることができなくなりました。…もう、私がここに来ることはないでしょう。私は北の寒さの中で生涯を過ごすことになりました)真新しい父の墓石を撫で、風雨に長年さらされている母の墓石の汚れを軽く拭う。
もうここに来ることはないという事実の重さを今更実感し、ずんと心が重くなる。ただ申し訳なく、悲しかった。この屋敷も庭も墓石も、誰もここに住まなくなれば朽ちていくのだろう。結局買い手はつかなかった。当面は親類に管理を託したものの、いつまで真面目にやってくれるのか怪しいものだった。
風が木々をざわめかせ、エリスの髪をかき上げる。ふと見ると、屋敷の入り口には数台の馬車と、護衛と思われる兵たちが待機している。ゼストも旅装に着替えており、馬車の御者や兵たちと何やら話しているようだ。エリスは足早に屋敷に向かって歩き始めたが、見納めにと振り返ると、庭園と調和した両親の墓が絵画のように存在していた。(お父様、お母様…)突然じわっと涙が出て、慌てて手の甲で拭う。
と、庭園の方から足音がした。現れたのは、胴当てをつけ、剣を帯びた男。「…エリス殿?」茶色いくせ毛がふわりと風になびき、日に焼けた肌によく映える緑色の瞳が、不思議そうにエリスを見ている。クニグリーク家の次男、ロベルトだった。
「貴方はクニグリーク家の代表として、こんな早朝からわざわざ見送りに来てくださったの?」「見送り?むしろ俺は北の地に行く側だよ。」ロベルトはエリスの皮肉をさらりとかわすと、自らの剣を指さす。「今回、お嬢様の護衛隊長を務めることになりました、ロベルト=クニグリークと申します」恭しくお辞儀をしてみせる。「わざわざ貴方が?ご丁寧なことね」「北の地の戦士たちは屈強らしいからな。興味半分、お仕事半分ってことなんで、お気になさらず」「そう」エリスはロベルトに形式的な一礼をすると屋敷に戻っていく。ロベルトの冗談に付き合いたくなかったし、涙を見られたくなかった。
クニグリーク家の次男ロベルトは、幼少の頃から武術に傾倒していた。身体を動かし、汗を流した時の爽快さ、武器を操り相手を打ち負かした時の快感がロベルトのすべてだった。戦乱の時代に生まれていれば、猛将として名を馳せただろうが、今は戦乱のない平和な時代。彼に出来るのはパリョータ近辺で起こる小競り合いを鎮静化することや、武術の大会に出場して形ばかりの名誉を勝ち取るくらいだった。
そんな中での北の地への護衛は、ロベルトにとってはうってつけだった。北の地に住む者たちはかつての戦乱で活躍した戦士たちの末裔で、戦乱の終結に伴い、北へ追いやられたと言われている。今でもその力は健在で、あの厳しい環境で生きられるのは、猛獣を狩り、木々を倒し開拓する膂力があるからだ・・・半ば伝説のような話を弟のカインから聞いた時、ロベルトは心が躍るのを感じた(カインはいい年をして子供のようにはしゃぐロベルトに呆れていた)。
そうして、ほとんどの兵たちが報酬につられてやむを得ず護衛の任に就く中、ロベルトは渋る父親を丸め込んで、強引に護衛隊長に就任したのだった。(冗談でごまかしたの、まずかったかな)エリスの後ろ姿を見て、ロベルトは軽い気持ちで庭園を散歩したことを後悔していた。見たところいつものエリスだったが、明らかに悲しみの雰囲気をまとっていた。彼女の立場を思えば当然のことで、そうなったのは自分たちクニグリーク家が主導した結果だ。
機知に疎いロベルトには、突然目の前に現れたエリスに掛けるべき言葉が浮かばなかった。それ以前に露骨な喜怒哀楽とぶつかるのが苦手で、いつも冗談でうやむやにしてしまい、後悔する。(喜ばれるとは思えないけど、大切なご令嬢をお守りしますと挨拶しておくか)ロベルトは姿勢を整え、墓へ向かっていった。
イズに伴われ、身支度を整えたエリスが屋敷の入り口に現れたのは、陽が昇り、暖かな光が注ぎ始めた頃だった。髪をまとめ、装飾の少ないすっきりとした旅装のエリスは、立ち並ぶ護衛兵たち、馬車の御者たちに丁寧な一礼をすると馬車に乗り込んだ。「さあ、出発ですね」隣に掛けたイズが、エリスの足をひざ掛けで覆った。「ええ」エリスは二度と見ることのない風景を目に焼き付けるように、馬車の外を眺めている。
やがて馬車がゆっくり動き始め、見慣れた景色がゆっくり遠ざかっていく。北の地へ向かうエリス達と護衛兵の一団は、パリョータの人々の関心を集め、多くの人が列を見ようと押し合いへし合いしている。エリスは民衆の好奇の視線を無視して、パリョータの街並みを眺めている。しっかりと区分けされ、建物からすでに威厳が漂う貴族街。様々な土地から商人が集まった結果、統一感のない建築物が立ち並ぶようになった商人街。人々が所狭しと住み、活気にあふれた住民街。そのどれもが今過去になっていく。
「エリス殿」ひょいと窓の端に軍馬にまたがったロベルトが現れる。「見ておきたい場所はないか?」エリスは首を振り、「人が殺到しているので早く出ましょう」とそっけなく答える。そして、自分が暮らしてきた高台の屋敷を最後にじっと見つめ、窓を降ろした。
左右の窓が閉まり、前方の御者だけが見えるようになった車内は薄暗い。「明かりをつけましょうか?」「いいえ、街を出たらまた窓を開けましょう」エリスは背もたれに身体を預ける。全てが片付いて、ようやく自分の心配をする時間ができたと思ったとたん、疲れがどっと溢れた。「少し、休むわ」馬車の規則的な揺れに導かれるように、エリスは眠りに落ちていった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます